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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_04:永遠なる秩序の礎石
39/39

LOG_0036:偶然は三度まで

═══════════════════════

LOG_0036-E01:無害な手続き

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月8日(火)10:02

場所:第3調整区画・思想再最適化センター(CRI-III)

監視対象:MeG-18-068


閲覧者よ。

今回は、丁寧な言葉だけで人間が削られていく記録を、お見せする。


先に断っておく。

私は、ただありのままに事実を伝えるだけだ。


この世界では、これから記録するものを「指導」と呼ぶ。

血は流れない。少なくとも、閲覧者が思い浮かべるような形では。

それが何を意味するのかは、読み終えてから、各自で判断してほしい。


---


10:02:14。

MeG-18-068は、二重ハッチの二枚目を抜けた。


第1登録室(Atrium Registrationis)。

緑がかった白い光。低く流れ続けるラテン語。微量の鎮静ミスト。

三月、MoD-30-05が通ったのと同じ部屋だ。

同じ手順が、同じ順序で、彼女にも適用された。


すでに何度も記録した工程なので、要点だけを並べる。


10:04 着衣の除去。制服は焼却処分。灰色のガウンを支給。

10:09 消毒シートによる全身の清拭。

10:15 金属製スキャン椅子(Lectus Examinis)に拘束。七箇所。

10:21 基礎診断プロトコル開始。眼球運動追跡、潜在意識画像刺激、脳波・生体反応解析。


眼鏡だけは、外されなかった。

度数を測られ、金属検査を通され、それでも彼女の顔に残された。丸いレンズが診断用の光を拾って、二度、白く光った。

外させるのは、もっと後のほうが効果的だと、設計者は考えたのだろう。


---


提示された画像は、三つの系統に分けられていた。


破棄体の映像。

幼い子供の映像。

そして、一枚だけ、何も映っていない白紙の画像。


MeG-18-068の脈拍が乱れたのは、白紙の画像の時だった。

四拍ぶん。

E.O.Nはそれを「未知刺激への恐怖」と分類し、次の画像へ進んだ。

分類は、訂正されなかった。


もう一つ、記録しておく。

10:26、E.O.Nは彼女の脳波と呼吸の双方に、規則的な反復を検出している。

八拍周期。

分類は「恐怖反応に伴う呼吸同期」。


私は、その八拍が何なのかを知っている。

E.O.Nは、知らない。


---


10:44。

診断結果が、ホログラムに浮かんだ。


〈診断所見〉

思想的逸脱率    :1.9%(Patroni平均 0.2%)

感情的結びつき過多 :441%

反合理性思考    :67%

備考        :過剰な感情的紐帯の残存(既往)


数値を読む限り、これは彼女を破棄体に送るには足りない。

呼び出すには、足りる。


その程度の数字だった。

その程度の数字で、彼女はここにいる。


---


10:58。

新しい灰色のガウンを着せられ、MeG-18-068は、エレベーターで地下一階へ降りた。


壁面の小さな表示板に、本日の予定が流れていた。

Pecusごとに、一行ずつ。識別番号、処置名、終了予定時刻。


本来、最後の欄には時刻が入る。

彼女の欄は、空白だった。


誰も、その空白を、彼女に説明しなかった。

彼女も、尋ねなかった。

尋ねることが、非効率として加算されることを、知っているからだ。


エレベーターが止まった。

扉が開く。

緑がかった白い廊下の突き当たりに、「対話の間(Camera Dialogica)」と刻まれた、灰色の扉があった。


ここから先は、彼女の視点で記録する。

私はその間、彼女の外側にいる。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :10:21:09 ~ 11:04:40

内容  :基礎診断プロトコル実施(所見確定:10:44)

     脳波・呼吸の反復:八拍周期(分類:呼吸同期)

     処置:B1「対話の間」へ移送

     終了予定時刻:(空欄)

     危険度評価:中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```


═══════════════════════

LOG_0036-E02:模範解答

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月8日(火)11:07

場所:CRI-III 地下1階「対話の間」

監視対象:MeG-18-068


扉が閉まる音は、思っていたよりも小さかった。


対話の間は、狭い部屋だった。

四畳ほど。壁も天井も、緑がかった白い光を吸って、角の輪郭が少しだけ丸く見える。

机が一つ。椅子が二脚。

向かい合う二脚のうち、手前の椅子のほうが、低かった。

脚の根元に、床へ固定するボルトの頭が見えた。


机の上には、水の入ったグラスが一つ。

その向こう、向かいの椅子の真後ろの壁に、目があった。


『父なるE.O.Nの目』


門の上のものより、ずっと小さい。

それでも、向かいに座る人間の頭と、同じ高さに据えられていた。

正面の相手を見ようとすれば、その肩越しに、必ず、あれも視界に入る。


(そういう配置だ)


そう読めてしまう自分を、MeG-18-068は、ほんの少しだけ疎んだ。


---


立ったまま、十秒ほど。

天井から声が降りた。


《着席せよ。担当官は、まもなく到着する》


座った。膝を揃え、両手を腿の上に置く。

丸い眼鏡のレンズに、グラスの水面が小さく映っていた。


水には、手を伸ばさなかった。

許可を、受けていない。


(まもなく)


「まもなく」が、どれほどの長さなのか、彼女には分からなかった。

時計は、無い。

かわりに、低い声が聞こえていた。可聴域のぎりぎりを流れる、ラテン語の復唱。


Gratias CORE pro ordine.

Gratias CORE pro ordine.


一巡が、およそ四十秒。

九回、聞いた。

六分。

その間、誰も来なかった。


待たされることも、手続きのうちなのだと、MeG-18-068は、教わらずに知っていた。

待たされている間に、人間は、勝手に、自分の罪を数え始める。


(……数えている)


診断の間、何度、数えただろう。

スキャン椅子の上で。画像が切り替わるたびに。

一人目。二人目。三人目――。

八人目まで来て、また一人目に戻る。

止められなかった。止めたら、顔が薄れる気がした。


あの数え方が、何かの数値に触れていたら。


脈が、一拍、速くなった。

慌てて、息を整える。整えすぎないように。


(今は、数えない)


そう決めた直後に、もう一人の自分が言った。


(一人だけなら)


一人だけ。


金色の髪の子だけなら。

昨夜、嘔吐の理由として、すでに申告している。思い出すことに、理由がある。


言い訳の準備を、している。

そう気づいても、手放せなかった。

MeG-18-068は、膝の上で指を組み、金色を、一つだけ、そっと思い浮かべた。


その時、扉が開いた。


---


11:13。


入ってきたのは、白衣の男だった。

五十代の半ば。痩せていて、背が高く、髪に灰色が混じっている。

歩き方に、音が無かった。


MeG-18-068は、立ち上がり、頭を下げた。

角度は、深すぎないように。


男は、答えなかった。

向かいの椅子に腰を下ろし、薄い端末を机に置き、画面に目を落とした。

読んでいる。

彼女の、記録を。


沈黙が、始まった。


二十秒。三十秒。

換気の唸りと、ラテン語の復唱。

自分の呼吸の音が、やけに大きかった。


男の肩越しに、壁の目が、こちらを見ていた。

男を見ようとすれば、目と視線が合う。

目を避けようとすれば、男の顔を見るしかない。


視線を、机の上に落とした。

落とした先で、男の指先が、一定の間隔で画面を送っていた。


一分ほどして、男が顔を上げた。

冷たい目だった。冷たいのに、知的で、どこか疲れていた。

医者の目に似ている、と思った。治さなくてよい患者を見る時の、医者の目。


「遠かったろう」


声は、穏やかだった。


「いえ。問題ありません」


「そうか。私は、陳子昂(チン・ツィアン)。心理評価官だ。今日の君の担当になる」


「はい」


「MeG-18-068。AJ08-MeGr-0941118-068。ランク5、Patroni。忠良種」


略称を、識別番号を、区分を、一つずつ置いていくような言い方だった。

置かれるたびに、自分の輪郭が、一つずつ固定されていく気がした。


「君は、市民の模範となるべき個体だ。これが何を意味するか、分かるかね」


「……秩序の、見本であることです」


「そう。見本は、欠けていてはならない」


陳子昂は、ほんの少しだけ、首を傾けた。


「君は、なぜここにいると思う」


用意していた答えを、口にした。


「昨夜の嘔吐と、不要な生体偏差のためです」


「それは、きっかけだ。理由ではない」


「…………」


「理由は、こうだ」


陳子昂は、端末を、机の端へ押しやった。


「ここへ連れてこられた時点で、君には、すでに問題がある。たとえ君が何もしていなかったとしても、だ。分かるかね」


分からなかった。

分からない、とは、言えなかった。


「疑われる、ということ自体が、秩序にとっての負荷なのだよ。模範であるべき者が、疑われた。その事実が、すでに、傷なのだ」


「……ご迷惑を、おかけしました」


「迷惑ではない。負荷だ。言葉は、正確に」


「……負荷を、おかけしました」


「そうだ」


陳子昂は、初めて、うっすらと微笑んだ。

その微笑みが、いちばん、怖かった。


(何もしていなくても、傷)


(なら、何をしたら、傷でなくなるのか)


その問いを、MeG-18-068は、喉の手前で止めた。


---


陳子昂が、指を動かした。

右側の壁が、淡く光る。


日付と時刻が、並んでいた。


〈三月二十七日 16:00 収容区画E-7 静止・無言 4分33秒〉

〈三月二十八日 12:40 入出庫ターミナル二番倉庫 静止・無言 4分58秒〉

〈三月二十九日……〉


十行、あった。

最後の一行は、昨夜だった。


〈四月七日 22:30 収容区画メンテナンス通路 静止・無言 9分07秒〉


「個々の評価は、すべて『低』だ」


陳子昂は、表を見たまま言った。


「問題は、ない。単独であれば。……並べると、模様になる。十回。合計、五十分を超える」


五十二分近く。

MeG-18-068の頭が、勝手に足した。

三十八分と、四分三十三秒と、九分七秒。

足した数が、ほぼ合っていることに、遅れて気づいた。


(足してはいけなかった)


「どうかね。心当たりは」


「……いずれも、韓智宇様のご指示による、業務の一環でございます」


「内容は」


「三月二十七日は、収容区画E-7のメンテナンスハッチの機構と、清掃時の動作確認について、ご指導をいただきました」


「無言だった理由は」


「覚える作業は、声を出さないほうが効率的だと、うかがいました」


「ふむ」


陳子昂は、表の一行を指で拡大した。

行の横に、小さな通知の印が浮かび上がる。


「同じ日の通知だ。韓智宇から君に届いたもの。――『この件は、業務日誌への記載対象外とする』」


壁に、本物の文面が映った。

あの朝、画面の中で読んだ、あの一文。


「この言葉を、君は、どう理解した」


質問の形をした、罠だった。

けれど、この質問に限っては、答えが一つあった。

本当のことを、言えばいい。


「……Dominiには、Dominiの事情があるのだと、理解いたしました」


「疑わなかったのか」


「疑うことは、非効率だと、教わりました」


「模範的だ」


陳子昂は、頷いた。


「では、三月二十八日。二番倉庫。君は、在庫内容と配置図の把握を命じられた。そう、記録にある」


「はい」


「述べなさい」


MeG-18-068は、目を閉じなかった。

閉じると、『目を閉じて思い出す者』になる。

視線を机の木目に置いたまま、答えた。


「入室して、右手に金属棚が四段。上段から、ポッド用の固定バンド四十本。二段目に、予備チューブ二束と――」


覚えていた。

全部。

四畳の部屋の、冷たい金属の匂いも、棚の影の落ち方も。

言いながら、頭の中で、あの部屋を歩いていた。


「――奥の壁際に、廃棄前の資材。折り畳み式の搬送台が、二台」


言い終えた。

陳子昂は、端末を見ていた。在庫データと、突き合わせているのだろう。


数秒。


「一致している」


「ありがとうございます」


「完璧に」


その一語に、嫌な響きが混じった。


「ところで、MeG-18-068。私がこれまで見てきた中で、最も疑わしいのは、どんな人間だと思う」


「……分かりません」


「完璧に答える者だ」


陳子昂は、静かに言った。


「模範解答は、準備された解答によく似ている。呼吸も、そうだ。君の呼吸は、整っている。整いすぎている」


(診断の間の、あの呼吸)


そう思って、背中の内側が冷えた。


(やはり、見られていた)


(どちらでも、疑われる)


完璧でも。崩れても。

正しくても。間違っても。

そう悟った瞬間、不思議と、頭が静かになった。


(なら――崩れる場所を、自分で選ぶ)


「もう一度だけ。奥の壁際の資材を、述べなさい」


答えは、覚えている。

搬送台は、二台。壁に並べて、立てかけてあった。


覚えている。

覚えているから、間違えられる。


「……折り畳み式の搬送台が、一台です」


陳子昂の目が、わずかに細くなった。


「二台だ」


「…………」


「先ほど、君自身が、二台と述べた」


「申し訳、ございません。……今、一台と、記憶していました」


「君は、記憶力が高いと報告されている」


「恐れ入ります」


「誤差が、ある」


「はい」


「誤差のある者は、嘘が下手な者だ」


陳子昂は、ゆっくりと続けた。


「……あるいは、上手な者だ」


返す言葉は、なかった。

ただ、目を伏せた。

伏せ方が、わざとらしくならないように、気をつけて。


(上手に、間違えたい)


そう思っている自分が、いちばん、嘘をつくのが上手な人間のようで、吐き気がした。


---


11:52。


「ログを、確認してくる」


陳子昂が、立ち上がった。


「そのままで」


扉が、閉まった。


一人になった。


天井の声は、何も言わなかった。

ラテン語の復唱だけが、変わらず流れていた。

壁の目は、見ている。

でも、いま見ているのは、あの目だけだった。


(あの男は、いない)


そう思ってから、気づいた。

この部屋には、最初から、誰もいなかった。

陳子昂がいた間でさえ。

いたのは「担当官」で、そして、E.O.Nの目だった。


グラスの水が、目に入った。

ぬるくなっていた。

喉が渇いている。

触らなかった。


四分は、長かった。


その間、MeG-18-068は、秒を数えた。

秒を数えるのは、誰にでもある習慣だ。

そう言い訳できる数え方だけを、選んだ。


数えながら、考えていた。


B列の十七番。

金色の髪の、二秒。


あれは、E.O.Nの視線ログに残る長さだった。

残るように、あの人は、あそこで私を立たせた。

その二秒が、今、この部屋で、私の命綱になっている。


守られた。

使われた。

どちらも、本当だった。

どちらかを、選ぶ必要は、無かった。


今は、生きている。

それだけが、確かだった。


(九分と、七秒)


昨夜の九分七秒が、どう読まれているのか。

考えると、足元が薄くなる。

考えないように、秒を数えた。


二百十。二百二十。二百三十。

二百四十で、扉が開いた。


---


11:56。


陳子昂が、戻ってきた。

手には、先ほどの薄い端末。


「水を、飲みなさい」


初めての許可だった。


「ありがとうございます」


グラスを持つ。手が、震えないように。

ぬるい水は、味がしなかった。

一口だけ飲んで、戻した。


「では、続けよう」


陳子昂は、席についた。


「三月二十七日。E-7。君は、何を指導された」


一度、聞かれた質問だった。

三十分あまり前に。

同じ質問を、同じ声で、同じ間で。


(言葉を、変える)


「ハッチの開閉機構の確認と、清掃手順の動作について、ご指導をいただきました」


中身は、変えない。

文面だけを、変える。


人間は、同じ文を、二度は言えない。

同じ文を、二度言えるのは、暗唱している者だ。


「…………」


陳子昂は、数秒、彼女を見ていた。


「言い回しを、変えるね」


「先ほどは、緊張していたので。今は、少し、落ち着きました」


「落ち着いた」


「はい」


「…………よろしい」


陳子昂は、端末を操作した。

壁の表示が、消えた。


---


「話を、変える」


陳子昂が、端末の画面を切り替えた。


「君は、昨夜、こう申告した。『金色の髪の破棄体が、出産個体の一人に似ていた』。LiA-044の件だ」


「はい」


「記録を確認した。君の第一子は、金髪だった」


「……はい」


「申告は、整合する」


整合する。

その言葉に、安堵してはいけなかった。

安堵した顔を、作らないようにした。


「ところで」


陳子昂は、画面から目を上げた。


「第一子について、君は、どこまで知っている」


「……育成区へ移されたことだけです」


「そうか」


陳子昂は、少しの間、黙った。

ためらっているように見えた。

――見えるように、していた。


「繁殖省は、君には伝えないことを選んだ。伝えるべきではない、と。私は反対した。……伝えるほうが、君のためになると考えた」


「…………」


「第一子は、終了している」


(来た)


予測していた言葉だった。

予測していたのに、聞いた瞬間、体の内側で、何かが落ちた。


知っている。

知っているのに――聞こえた音は、昨夜、初めて見た時と、同じ重さだった。


「……終了、とは」


「命が、終わったということだ」


MeG-18-068は、昨夜の自分を思い出した。

あの画面を、初めて見た時の、自分の顔を。

真似るために、本当に思い出さなければならなかった。


本物の感情を、演技の素材にする。

あの人が、いつもそうしているように。


「……事故、でしょうか。病気、でしょうか」


昨夜、同じ言葉を口にした。

同じ言葉を、もう一度。

初めて聞く母親の声で。


「事故だ」


事故。

その二文字には、味があった。

嘘の味。

事故では、ない。

炎の中で、小さな声が途中で途切れた。レンズの裏に、あの色が、まだ残っている。


「……そう、ですか」


言葉が、喉に引っかかった。


「ご報告、ありがとうございます」


陳子昂の眉が、わずかに動いた。


「礼を言うのかね」


「COREが、ご報告くださいました。知らないままより、効率的です」


「…………なるほど」


陳子昂の視線が、机の下へ落ちた。


「だが、手が、そう言っていない」


見下ろした。

膝の上で、両手が固く握られていた。

関節が、白かった。


「……不合理な反応です。失礼いたしました」


「母体として、正常の範囲だ」


陳子昂は、あっさりと言った。


「認めよう。……感謝は、不要だ。伝えることは、私の判断だった」


優しい声だった。

優しい声で、人は、いちばん深く、刺さる。


その優しさが、手続きの一部であることを、MeG-18-068は知っていた。

知っていて、頭を下げた。


「……恐れ入ります」


---


「では、最後に」


陳子昂が、静かに言った。


「基本教義を、復唱なさい」


MeG-18-068は、背筋を伸ばした。

幼い頃から、何千回も口にしてきた言葉だった。

身体が、先に動いた。


「E.O.Nは、真実である。COREは、秩序である。従順は、幸福である。個は、全のために在る」


一息で、淀みなく。

いつもの通りに。


「E.O.N. te videt.」(E.O.N.が貴方を見ている)

「Veritas te liberat.」(真実は貴方を自由にする)


――半拍。


その半拍は、彼女の中の、どこかで勝手に起きた。

liberat(自由にする)

簡素ラテン語の辞書にある意味と、あの紙の束に書かれていた、消された言葉の本来の意味とが、同じ一語の中で擦れた。


遅れたのは、ほんの、一拍の半分。


それでも、陳子昂の目が止まった。


「今、遅れたね」


「……はい」


「何を、考えた」


喉が、乾いた。

水が、欲しかった。


簡素ラテン語の定義を、思い出した。

liberatio(割り当てられた範囲内での、活動)

――その言葉を、そのまま使えばいい。


「『割り当てられた範囲内』の、その『範囲』を、私は、正確に把握できているのかと、不安になりました」


言い終えて、息を止めた。


陳子昂は、答えなかった。

顎に、指を当てた。

壁の目が、彼の肩越しに、こちらを見ていた。


「範囲を、把握したい、か」


「……はい」


「…………良い不安だ」


陳子昂は、端末に何かを書き込んだ。


矛盾は、見当たらなかったのだろう。

彼の顔が、ほんの少しだけ曇っていた。

見つからないことが、不満であるかのように。


---


12:30。


「結論を、言おう」


陳子昂は、端末を伏せた。


「君は、嘘をついていない。……少なくとも、私が確認できる範囲では」


その言葉に、安堵は来なかった。


「だが、君は、模範であるべきPatroniだ。疑われたこと自体が、すでに問題だ。この点は、不問にはできない」


予想していた言葉だった。


「ゆえに、君には、二つの選択肢を与える」


陳子昂は、指を二本、立てた。


「一つ。人間性スコアを、百、差し引く。君は、明日から、ランク4として生きる。休息は増える。拘束は一切ない。百を差し引いても、ランク4の安定圏に収まる。誰も、君を責めない」


穏やかな声だった。

本当に、魅力的に聞こえた。

――聞こえるように、作られていた。


「ただし、第09施設の総監補佐は、Patroni以上に限られる。ランク4では、任用の基準を満たさない。君は、現配置から外れる。新しい配置は、第09施設の近くとは限らない」


(外れる)


その二文字が、耳の奥で鳴った。

胸の真ん中に、冷たい空洞ができた。


もう二度と、取り戻せない何かを、失う。

言葉にならないまま、そう思った。


「二つ。反省を、証明する」


陳子昂は、二本目の指を折った。


「『誠意の証明(Probatio Sinceritatis)』と呼ぶ。約四十分の、矯正課程。その後、十二時間の静養。食事は、与えられない。これを完遂すれば、スコアの差し引きはない。現配置にも、留まれる」


「…………」


「ただし、課程において、誠意が認められなかった場合、この選択は無効となる。より低いランクへの、再審議だ」


説明は、そこで終わった。


「どちらを、選ぶ」


MeG-18-068は、口を開いた。

考えるより先に。


「二を、お願いいたします」


静寂が、一拍。


「…………即答だな」


陳子昂は、ゆっくりと言った。


「理由を、聞こう」


用意していた言葉は、なかった。

口が、勝手に動いた。


「韓智宇様に、まだ、ご恩を、返せておりませんので」


言ってから、気づいた。

嘘では、なかった。


「恩、か」


陳子昂は、その一語を、端末に打ち込んだ。

指の動きが、ゆっくりだった。


「……承知した」


彼は、立ち上がった。


「ついてきなさい。矯正個室へ」


扉が、開いた。


廊下の冷気が、足首に触れた。

MeG-18-068は、立ち上がろうとして、一瞬、膝の力が抜けるのを感じた。

机の端を掴んで、支えた。


水の入ったグラスが、揺れた。

水面に、丸い眼鏡が二つ、揺れて映った。


(あの人の、傍を)


(私は、自分で、選んだ)


選んだ、と思いたかった。

そのために、二秒も使わなかったことが、怖かった。


選ばされたのかもしれない。

そう考えるには、まだ、時間が必要だった。

彼女は、陳子昂の背中を追った。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :11:07:21 ~ 12:36:05

内容  :B1「対話の間」にて心理評価

     整合性検証:矛盾検出なし

     感情スキャン:中度の動揺(第一子終了通知時:悲嘆反応・正常範囲)

     教義復唱:遅延0.4秒(Veritas te liberat)

     選択:誠意の証明(Probatio Sinceritatis)

     選択所要時間:1.8秒

     処置:B2「矯正個室」へ移送

     危険度評価:中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```


═══════════════════════

LOG_0036-E03:同じ四分間

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月8日(火)11:52

場所:CRI-III 5F 管理者棟

監視対象:アレハンドロ・バルカルセル・コルテス


閲覧者よ。

MeG-18-068が水に触れなかった四分間、五階では、別の会話が行われていた。


先に断っておく。

この男の内側は、私には見えない。

見えるのは、言葉と、仕草だけだ。

以下の記録は、そのつもりで読んでほしい。


---


CRI-III五階。

Domini階級の従業員のみが入れる、管理者棟。


窓がある。

地下には存在しない、本物の光が差し込んでいる。窓の向こうは海だった。四月の海は穏やかで、薄い青をしていた。Pecus区画の誰一人として、この建物の中で、その色を見ることはない。


『父なるE.O.Nの目』は、Magisterが立ち入る階には、一つもない。

最上位の支配者だけが、監視の外にいることを許されている。

私は今日も、換気口の奥に、一機のハエトリグモを置いていた。


観察室の壁面に、大型のモニターが据えられている。

映っているのは、地下一階。対話の間。

一人きりで椅子に座る、丸い眼鏡の女。机の上のグラスには、手を付けていない。


モニターの前の肘掛け椅子に、白いスーツの男が座っていた。

足を組み、片手にミネラルウォーターのグラス。

窓ではなく、画面を見ていた。


アレハンドロ・バルカルセル・コルテス。


彼は、MeG-18-068が部屋に入った瞬間から、全てを見ていた。

陳子昂は、報告に来たのではない。指示を受けに来たのだ。


扉の脇に、もう一人いた。

ドミトリー・ヴォロンツォフ。端末を開いたまま、立っている。

口は、一度も開かなかった。


---


陳子昂は、一礼して入室した。

白衣の袖口を、一度だけ、指で整えた。


付記しておく。

陳子昂の本来の勤務先は、CRI-IIIではない。東京第三地区の、思考矯正センターだ。

その男が今朝、浜松へ呼ばれた。記録上の理由は、心理評価官として最も経験が長い者の一人である、という一点のみ。

呼び出しの決裁者は、アレハンドロ。疑いを向ける相手には、ベテランをあてる。記録に残る配置から読めるのは、そこまでだ。


「整合しています」


アレハンドロの背中に向かって、言った。


「申告、在庫、これまでの応答。いずれも。……完璧すぎるほどに」


「だから、搬送台の数を、間違えさせてみた」


「お見通しでしたか」


「間違えたのは、彼女のほうだ。……間違い方が、上手だった」


アレハンドロは、画面を見たまま言った。


「間違えるべき場所で、間違えている。Patroniが間違えうる程度に。誰かに教わったのか、自分で見つけたのか」


「記録上、彼女は誰にも教わっておりません」


「記録上は、ね」


グラスの氷が、小さく鳴った。


「記憶再構築室を使えば、二時間で全て出ます」


陳子昂が、続けた。声に、わずかな熱があった。


「嘘も、矛盾も。彼女の二十六年分の、あらゆる――」


「出るだろうね。だから、要らない」


「しかし、嘘が残ります」


「嘘は、捕まえた瞬間に、ただの事実になる」


アレハンドロは、ようやく、少しだけ振り向いた。


「泳がせておけば、まだ、嘘のままだ。嘘のまま、情報を運んでくれる」


「……泳がせる、とは。誰を」


アレハンドロは、微笑んだ。


「誰だろうね」


陳子昂は、それ以上、聞かなかった。

聞かなかったのではなく、聞けなかったのだろう。

彼の指が、白衣の袖を、握っていた。


---


「二秒」


アレハンドロが、モニターに視線を戻して言った。


「昨夜の視線ログだ。金髪の個体の前で、二秒。ちょうど、記録に残る長さ」


「申告との整合は、取れています」


「取れすぎている。偶然にしては、親切すぎないか」


「と、仰いますと」


「彼女のために用意された言い訳に見える。それだけだよ」


それだけ、と彼は言った。

それだけの言葉に、陳子昂の顔色が、半分、引いた。


「静止区間を、同じ時間帯の別の人間の記録と重ねたまえ」


陳子昂は、手元の端末を操作した。

数秒。


「……重なっています」


「いくつ」


「十件中、十件」


「偶然の一致は、三度までだ」


アレハンドロは、グラスを口に運んだ。


「それと、昨夜の嘔吐」


「はい」


「吐く、というのは、良い指標だ。嘘をつけない数少ない反応の一つだからね。彼女は、何かを見て、吐いた」


「何を、でしょうか」


「問わなくていい」


アレハンドロは、穏やかに言った。


「何を見せられたかではなく、誰が見せたか。そちらのほうが、面白い」


陳子昂は、黙った。


「それと、九分七秒」


「……はい」


「記録が欠ける方法は、私の知る限り、三つある」


アレハンドロは、窓の外の海へ目を向けた。


「三つとも、我々の側にあるはずなんだがね」


私は、その横顔を記録した。

怒りは、なかった。

焦りも、なかった。

退屈でもない。

あれは――興味のように見えた。


それが何に向けられたものなのかは、私には見えなかった。

ただ、陳子昂の顔にだけ、一瞬、動揺が走ったのを記しておく。

彼は、その「三つ」の中身を、知らないのだろう。


---


「次に、選択だ」


アレハンドロは、指を二本、立てた。

三十分あまり後、陳子昂が地下で、まったく同じ形を作ることになる。


「彼女に、二つ選ばせたまえ。降格か、試練か。降格は、魅力的に見せること。実際、魅力的なのだから」


「彼女は、どちらを」


「試練だ。助手の席を、手放さない」


アレハンドロは、少し考えるように、首を傾けた。


「……いや。手放せない、と言うべきか」


「手放せない、とは」


「手放した瞬間に、彼女が何を失うか。本人が、一番よく分かっているだろう」


陳子昂は、何も答えなかった。


「それから、第一子の件だ」


「第一子……」


「話してやれ。終了した、と。理由は、事故。それだけでいい」


「お言葉ですが。彼女は、すでに知っている可能性が――」


「だから、話すのだよ」


アレハンドロは、穏やかに言った。


「知っていたなら、知らない母親を、どう演じるかが見られる。知らなかったなら、どう壊れるかが見られる。どちらでも、データだ」


「…………」


「君が、伝えるべきだと進言した、ということにするといい。繁殖省は反対した、と」


「優しさ、ですか」


「優しさは、最良の手順だ」


モニターの中で、MeG-18-068は微動だにしなかった。

水には、触れない。

喉が渇いているはずだった。


「許可がないから、触れない」


アレハンドロが、呟いた。


「完璧な躾だ。……完璧な躾は、ときに、躾けた者の影を、映してしまう」


陳子昂が、何かを言いかけて、やめた。

ドミトリーは、端末から視線を上げ、窓の外の海を一瞥し、モニターへ戻した。

その動きの意味は、私には読めなかった。


---


陳子昂が、退室した。

エレベーターの扉が閉まる直前、彼は、白衣の皺をもう一度直した。

この男にも、恐怖という習慣がある。


観察室に、アレハンドロとドミトリーだけが残った。


アレハンドロは、グラスをテーブルに置いた。

音は、しなかった。


「彼女は、試練を選ぶ」


誰に向けた言葉でもなかった。


「予測より速く、口にするだろう。それが、面白い」


その通りになる。

一・八秒だ。

閲覧者は、すでに知っている。


私は、換気口の奥から、確信に満ちたその横顔を、もう一度記録した。

窓の外の海は、穏やかだった。

Pecus区画からは見えない、青をしていた。


```

────────────────────────────────────

内部記録

時刻  :11:52:30 ~ 11:54:41

内容  :対象アレハンドロ・バルカルセルの

     行動・発言記録を完了

     チップ非搭載のため内面観測:不可

     備考:ドミトリー・ヴォロンツォフ

        視線移動(端末→窓外→モニター)1回

        内面観測:不可

        判断:保留

     備考:陳子昂への指示内容は、

        E.O.Nの公式記録に残されていない

────────────────────────────────────

```


LOG_0037へ続く

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