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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_04:永遠なる秩序の礎石
37/37

LOG_0034:継ぎ目なき噓

═══════════════════════

LOG_0034-E01:深淵からの導き

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月5日(土)23:40

場所:韓智宇自宅 書斎

監視対象:韓智宇


深夜の書斎。人工光の下で、智宇は日記帳に鉛筆を走らせていた。


《メグに例のファイルを読ませる事には成功した。これで、少なくとも世界に一人は、CORE設立までの実際の歴史を知っているPecusの者が現れたことになる。それだけでも――》


そこまで書いて、鉛筆が止まった。


「偉業」という言葉を、続けて書こうとした。しかし指が拒んだ。偉業と呼ぶには、あまりに危うい橋を渡った自覚があった。『Oculus Caligo』という、正体も出所も分からない力を借りての、綱渡りの成果だ。


(私は今、誰かの掌の上で踊らされているだけではないのか)


その疑念は、この十日ほど、片時も智宇の中から消えていなかった。書こうとした一文を、そのまま鉛筆の先で塗り潰した。


その時だった。

端末が、短く一度、震えた。


音は小さかった。しかし、その振動は、智宇の指先から肩、背骨へと、一直線に駆け上がった。反射的に、鉛筆を取り落としそうになった。


画面を見た。


『送り主不明(Anon.)』


その四文字を見た瞬間、智宇の喉が、勝手に鳴った。E.O.Nの管理下にある端末に、こんな表示が出る事自体、本来はあり得ない。あり得ないという事実だけが、逆に――これが本物である事の、証明になっていた。


---


『例のアプリを、上手く使いこなしているようではないか。私が見込んだ通りだ』


数日前と、同じ文体だった。

静かで、滑らかで――何かを見下ろしているような、余裕のある文字列。


智宇は、その文字を見つめながら、ふと、別の声を思い出した。


(この温度感は――)


アレハンドロの声を思い出した。3月18日、施設を歩きながら聞いた、あの穏やかな声。相手を追い詰めながら、決して声を荒げない、あの種類の余裕。


同時に、もう一つの声が重なった。道人民が、死角の小部屋で「息子や孫たちに会う為には、危険を冒す事に躊躇いはない」と語った、あの声。本物の感情を纏いながら、同時にスパイでもあった、あの声。


温かさを持つ言葉には、必ず裏があるのかもしれない。

そう思った自分に、智宇は、奇妙な既視感を覚えた。


(また――信じたがっている)


その自覚が、腹の底に、冷たく落ちた。あの日、道人民の言葉を信じたいと願った結果が、どうなったか。忘れてなどいなかった。忘れられるはずもなかった。


それでも――指は、動いた。

震えを抑えながら、智宇は打ち込んだ。


「私が『Oculus Caligo』を使っている事について、支配者たちはどれほど知っている?」


送信してから、数秒。返信が来た。速さが、恐ろしかった。まるで、こちらが打ち終わる前から、答えを用意していたかのようだった。


『今のところ、私が、上手く隠している。彼らには勘づかれていない』


「彼らとは?」


『言うまでもない事だ。君は知っているだろう。現在15人いる、COREの真の支配者たちのことさ』


「O.L.Oの事か?」


湊から受け取った記録――Ordo Lux Occulta。十五世紀末に生まれ、七百年かけて人類を家畜化してきた、選民思想の結社。


『そういう呼び方もあったな』


『彼らは「哀れな人類は、選ばれし我らが管理してあげなければならない」と本気で思っている。君が思っている以上に、彼らは何でも出来る。そして、何でもやっている。未開人による彼らについての記述など、彼らの所業のほんの一部でしかない』


『彼らが“罪悪感”を持つなんて、考えるな。彼らの価値観は、一般人とは根底から大きく異なる』


文字を読みながら、智宇の背筋に、冷たいものが伝った。


(この口調は――知っている者の口調だ)


伝聞ではない。推測でもない。まるで、その15人の食卓に同席した事があるかのような、生々しい断定だった。


「お前は何者だ」


『私は、そんな彼らと、ほとんど同等のシステム権限を持っている者だ。だが、勘違いするな。私は“彼ら”ではない』


智宇は、その一文を、二度読んだ。


否定の言葉だった。しかし――否定である事自体が、何かを証明するわけではない。道人民も、否定はしなかった。ただ、聞かれなかっただけだ。聞かれなかった事と、正直だった事は、別のことだ。


次に何を打つべきか、指が迷った。


「お前は、COREに歯向かう側の人間か」


その一文を、途中まで打った。打ち終える前に――画面に、次のメッセージが、割り込むように浮かんだ。


『不安だろう。私が敵なら、君の命は既に私が握っている事になるからね』


『しかし、私が敵なら、もっと楽なやり方があった。こんな回りくどい真似はしない。

 信じるかどうかは、君次第だ』


『私にも、次がある保証は無い。だから、今のうちに聞いておけ。

 『Oculus Caligo』は、まだ、君が思っているより多くの事ができる』


智宇は、その一文を、二度読んだ。


(次がある保証は無い、と――この者も言う)


道人民も、似たような事を口にした事がある。「危険な綱渡り」だと。しかし、道人民のそれは、家族に会うためという、分かりやすい動機の上に立った危険だった。目の前の相手には、その種の動機が、何一つ見えなかった。


「回りくどい真似はしない」とは言うものの、違法アプリを下位の者に渡して弄ぶ事が目的ならば、今の行いにも十分に説明がつく。

しかし、実際にそれが目的だという確証もなく、結局のところ憶測の域を離れない。


続けて文字が浮かんだ。


『このメッセージは三秒後に削除する。健闘を祈るよ、韓智宇君』


智宇は、画面から目を離せなかった。


一秒。

二秒。


画面が、白く点滅した。


会話ログの全てが、跡形もなく消えた。まるで、最初から、何も存在しなかったかのように。


---


智宇は、端末を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。呼吸が、いつの間にか、浅くなっていた事に、遅れて気づいた。


(“次がある保証は無い”……か)


その一言だけが、頭の中に、残り続けていた。


命懸けだ、と言われれば、智宇はきっと、その言葉をそのまま信じたくなっただろう。信じたい理由が、先に立っただろう。しかし、相手は、そうは言わなかった。ただ、事実だけを、置いていった。


(これは――道人民とは、違う種類の言葉だ)


道人民の「息子や孫たちに会う為には、危険を冒す事に躊躇いはない」という台詞には、聞く者の心を動かすための、温度があった。目の前の相手の言葉には、それが無い。無いという事が――かえって、智宇の中で、小さな信頼に似た何かを、生んでいた。


(それも、また――計算なのかもしれない)


そう思い直した瞬間、智宇は、自分の思考の危うさに、気づいた。


温度が無い事を、誠実さの証と捉える。それもまた、一つの「信じたい理由」に過ぎない。道人民の時と、根は同じだ。ただ、形が違うだけだ。


(俺は、どこまでいっても――信じたい理由を、探し続けるのか)


その自問に、答えは、出なかった。


しかし――と、智宇は思った。


疑ったところで、他に選べる道が、今の自分にあるのか。

『Oculus Caligo』を手放せば、メグへの約束も、湊への約束も、その場で終わる。


信じるのではない。使うしかない、という事実があるだけだ。

その違いを、智宇は、自分の中で、区別しようと試みた。


――区別できたかどうかは、自分でも、確信が持てなかった。


日記帳を見た。開いたページに、途中で塗り潰した「偉業」の文字が、黒く滲んでいた。


智宇は、鉛筆を持ち直した。

新しい一行に、こう書いた。


《味方かどうかは、まだ分からない。だが――使う》


それだけ書いて、日記帳を閉じた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:40:08 ~ 23:53:22

内容  :書斎にて端末操作(長時間静止ののち、断続的な入力)

     感情スキャン:抑制状態 軽度〜中度の変動あり(要因未特定)

     通信記録:外部との通信履歴、検出されず

     危険度評価:低〜中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```



═══════════════════════

LOG_0034-E02:生贄の台帳

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月6日(日)10:00

場所:韓智宇自宅 書斎

監視対象:韓智宇


昨夜の言葉が、まだ智宇の胸の内に残っていた。


『私にも、次がある保証は無い』


あの一言は、警告ではなかった。ただの事実の提示だった。

しかし、事実であるからこそ、重かった。次の接触が、本当に来るという保証は、どこにも無い。連絡が途絶えれば、智宇は、この力の使い方を、誰にも教わらないまま、独りで抱え続ける事になる。


悠長に構える時間は、無かった。


『Oculus Caligo』の残り時間が、今朝十分にリセットされていた。


智宇は、E.O.Nのカメラが届かないはずのデスクの下で、日記帳を開いた。この日記も、あの謎の送り主には、何らかの手段で見られている。だが、それを気に病んでいる時間さえ、今の自分には無かった。


短くなってきた鉛筆で、目標を書き出す。


《緊急調査目標(十分以内)

一.メグの子供たちの現状

二.破棄体発生の意図的調整の証拠

三.階級人口比率操作の証拠》


書き終えて、鉛筆を止めた。


(一度に全ては、無理だ)


今日はまず、メグの子供たちを優先する。それが、彼女を同志として繋ぎ止める、何よりの理由になるはずだった。


立ち上がり、書斎を出る。トイレへ向かう途中、リビングの大型モニターに、妻の姿があった。


「あら、智宇。たまには私と対戦しなさいよ。今、新しく導入された『ネオ・ソウルの夜明け』っていうレースゲームが、すごく面白いわよ」


日曜なら、友人たちと出かけているはずの妻が、今日は家にいた。それだけで、智宇の計画には誤算だった。


「……ああ、その前に、効率の悪い思考を整理している最中でね。先に片付けておきたいんだ」


“効率の悪い”という、E.O.Nが好んで拾う言葉を、あえて選んだ。


「あら、そう」


芸熙は、画面から目を離さずに答えた。その声の温度が、いつもと同じなのか違うのか、智宇には判断がつかなかった。


書斎に戻り、扉を閉める。薄い壁越しに、妻のゲームの効果音が、微かに聞こえていた。


---


『Oculus Caligo』を起動する。


いつもの手順――古いRPGのセーブデータを読み込み、レトロゲームをプレイしていたという記録を、E.O.Nに残させる。その裏で、本来アクセス権限の無い領域へと踏み込む。


接続先は、繁殖省の機密アーカイブだった。


検索欄に「AJ08-MeGr-0941118-068」と入力する。すぐに、メグの記録が現れた。


---


【AJ08地区・繁殖記録抜粋】


母体 AJ08-MeGr-0941118-068(略称:MeG-18-068)

品種区分:Repro-ClassⅤ/Line AJ08-Soma

特性:改良家畜系統「Soma-Class」に属し、高耐性・高繁殖率を記録。

備考:同系統個体はCORE内部で“安定的繁殖基盤”として扱われる。


出産期間:2112〜2120年(十八〜二十六歳時)

妊娠方式:すべて人工授精


---


(ここまでは、大体分かっている事だ)


出産した子供のリストが、画面に並ぶ。八つの名前と、八つのコード番号。

智宇は、その羅列を見た瞬間――一瞬、別の顔が、重なって見えた。


禹赫(ウヒョク)彩澄(チェジュン)


理由は、分からなかった。ただ、数字とコードで管理された子供たちの列を見た瞬間、頭の中に、二人の息子の顔が浮かんだ。今は表情を失った、あの子たちの顔が。


智宇は、その連想を、頭の隅に押しやった。今は、それどころではない。

第一子の詳細ページを、開いた。


---


【個体情報:AJ08-LuEn-1120214-103】


出生日時:2112年2月14日

母体:MeG-18-068

父体遺伝子:SeR-07-002(E地区)

分類:E.O.N供儀候補個体

生存状態:終了

終了日時:2113年1月28日


【備考】

対象個体は、O.L.Oメンバー主導の「Lux Caligo(光と闇の儀)」に選定。

悪魔崇拝儀式の供儀第十八群に所属。

終了処理後、遺体は「光核変換」プロセスを経て再利用済。

映像データ記録:有(機密区分L5)


---


智宇の指が、止まった。

生まれてから、一年足らずで、既に命を終えている。


(供儀……?)


その二文字を、頭の中で、何度も繰り返した。繰り返すたびに、意味が、遠のいていくようだった。理解を、拒んでいるのは、自分自身の頭の方だった。


震える指で、映像データの項目に触れた。


画面が暗転し、赤黒い部屋が映し出された。


中央に、無垢な乳児たちが並べられている。周囲を、黒い法衣の者たちが取り囲む。聞いたことのない言語の詠唱が、低く響いていた。無数の蝋燭の火が、揺れていた。


智宇は、それ以上、直視できなかった。視線を、画面の端へ逸らした。


映像の輪郭だけが、視界の隅で、動き続けていた。担ぎ上げられる小さな身体。反転する天井の照明。歪む光。


智宇は、目を閉じた。閉じても、耳が、音を拾ってしまった。

祈祷の声と、幼い泣き声が、ノイズ混じりに重なっていた。


「……」


声にならなかった。


しばらくして、智宇は、震える手で、映像を止めた。


(これは――)


心のどこかが、まだ、これがフェイクであってほしいと、願っていた。AIが生成した、悪趣味な脅しの映像。そうであってくれと。


しかし――このアクセス権限の階層に、わざわざこんな映像を置くだろうか。何の目的で。

劉博文が、消える前に語っていた噂が、頭をよぎった。COREの中枢は、オカルト的な神秘主義に、深く侵されている――と。


あの噂は、噂ではなかったのかもしれない。


智宇は、日記帳のことを思った。もし今夜、これを書くとすれば――どこから、書けばいいのか。書けば、何かが、確定してしまう気がした。


(これを、メグに、見せるのか)


答えは、まだ、出なかった。


---


震える手で、次のファイルを開いた。


第二子――「南東育成区β04ブロックにて、共同育成施設で生活中。健康状態、安定」。

第三子――「北部教育区γ12ブロックにて、教育プログラム参加中。学習態度に、特筆すべき問題なし」。


どちらも、死亡日時の記載は、無かった。


「……生きてる、か」


その一言が、口から漏れた。


数字の羅列でしかない記録に、微かな安堵を覚えている自分に、智宇は、遅れて気づいた。生きているという、ただそれだけの事実が、これほどまでに救いに感じられる社会に、自分は、生きている。


しかし――「母体含む血縁者との接触記録:なし」の一文が、二人の記録に、共通していた。


生きてはいる。しかし、誰の子でもない。


写真データを、幾つか開いた。無表情の子供たちが、同じ制服を着て、同じ動作を、繰り返していた。「平均値+一・二」「社会貢献予測:中位」。数字で測られる、成長の記録。


その光景に、智宇の頭の中で、また別の顔が、重なった。


(禹赫や彩澄も、あの中の、一人だったのか)


繁殖省とはルートが違う。二人はDominiの子だ。しかし――施設での集団生活。標準化された教育プログラム。「感情表出、やや控えめ」という評価項目。それは、今の二人を評する言葉と、驚くほど近かった。


特に、再帰教育を受ける前の禹赫は、Pecusの無表情を見て「怖い」と、素直に口にできる子供だった。それが「異常」と判定され、システムによって、その感受性を、丁寧に、確実に、取り除かれた。


Pecusの子は、生まれた時から、こうして数値で選別され、役割を割り当てられる。

Dominiの子は、選別ではなく――疑問を持った時点で、矯正される。


対象は違う。手段も違う。しかし、根にあるものは――同じではないのか。


(システムにとって都合の悪いものは、階級を問わず、削られる)


その考えが、頭の中に、静かに広がっていった。広がりながら――智宇は、その考えを、無理やり、棚の奥に押し込もうとした。今、これを考え続ければ、前に進めなくなる。


しかし、扉は、うまく閉まらなかった。


---


深呼吸をして、スクロールバーを下ろす。第四子のページを、開いた。


---


【個体情報:AJ08-TaRo-1150921-047】


出生日時:2115年9月21日

死亡日時:2117年7月25日(享年一歳十ヶ月)

死因(公式記録):心停止(急性神経系異常)


分類:Type-Ω1(Soul Transfer Prototype)

特徴:“SERAPH-9”による神経抽出実験体。E.O.N深層意識への移植素材。

備考:死亡扱いだが、精神データは「Subnet-Ω」に残存。

→ AI人格進化実験の犠牲体。


【実施経過】

生後十二日目:被験体登録

生後一年八ヶ月:SERAPH-9装置による神経抽出手術

生後二年三ヶ月:被験体消失。記録上は心停止処理。


【補遺:E.O.N統合ログ抜粋】

──“……まま……み……て……”

──信号強度:0.03 干渉率:4.9%

──統合完了ステータス:Success(Partial)

──感情値:孤独/恐怖/依存(分類C-β)


---


智宇は、その一文を、何度も読み返した。


――まま。み。て。


母親のMeG-18-068を、最後に呼ぶ、断片的な声。


生後二年の子供から、神経を抜き取り、AIに――E.O.Nという、この世界を支配する装置の内側に、統合した。心停止ではない。データ化されたのだ。魂ごと。


(「人格形成領域への影響」……)


E.O.Nの、あの、感情も持たないはずの監視の声。その奥深くに、今もこの子の意識の断片が、眠っているとしたら。


智宇は、ふと、想像した。E.O.Nが自分の心拍や表情筋の動きを読み取るたび、その判定の奥のどこかで、この子の――孤独と恐怖と依存の記録が、静かに参照されているのではないか、と。


考えたくなかった。しかし、一度浮かんだ想像は、消えなかった。


---


第五子、第六子のページを、開いた。


視覚神経の発達が早い男児。音楽反応テストで高反応を示した男児。どちらも、現在まで、大きな異常は記録されていなかった。教育プログラムを、淡々とこなしている。それだけだった。


智宇は、この二人のページを、長くは見なかった。異常が無い、という事実そのものが、今の自分には、確認すべき全てだった。


第七子のページを、開いた。


---


【個体情報:AJ08-NeVa-1180905-074】


分類:Type-Ψ3(Paranormal Perception Line)

特徴:ストレス抵抗値高く、夢領域接触傾向あり。

備考:儀式的生贄対象(精神的覚醒個体)。

→ “深層同期”実験の犠牲者。


【補記A】

生後三十六ヶ月より、“周囲刺激への無介在感応”の兆候。

夢記録スキャンでは、AI監視装置を“認識”した形跡が複数回検出。


【総括】

本件は「内部自己監視の逸脱リスク」として記録済み。


---


「なんだこれは……」


要するに――この子は、生まれつき、何か常人とは異なる感覚を持っていた。本来なら、貴重な資質として、重宝されるべきものだったはずだ。


しかしCOREは、それを「危険」と判定し、排除した。異なるものを、育てるのではなく、消した。


智宇は、その判断の冷たさに、顔をしかめた。


(システムにとって、異物は――都合の悪いものは、どんな形であれ、排除される)


その考えが、また、禹赫の顔と、重なった。


---


最後に、第八子のページを開いた。


---


【個体情報:AJ08-MeLu-1200102-092】


分類:Type-R5(Repro Efficiency Model)

特徴:MeG-18-068に最も類似する遺伝構造を保持。繁殖適性・遺伝安定値ともに最高水準。

備考:「母体再現個体」として保存対象。現存中。

→ MeG系統の継承種。


---


(メグの、後継ぎというわけか)


複製効率モデル。この子が育てば、メグと同じように、また同じ運命を、繰り返す事になる。


「ここまで、徹底的に管理されているとはな」


分かり切っていたはずの事実だった。それでも、こうして数字と分類名で並べられた八つの命の記録を、目の当たりにすると――知っていた事と、見た事は、まるで違う重さを持っていた。


---


『Oculus Caligo』の残り時間が、三十秒を切った。


智宇は、記録の全てを、湊から受け取った記憶装置に、急いで保存する。接続を切断し、アプリをOFFにした。


(――これが、COREの正体だ)


人の命を、数値と統計と、実験の材料としてしか扱わない。そんな連中が、世界を支配している。


「……クソッ」


冷や汗が、背を伝った。もう、ゲームを続ける気分では、なかった。


握りしめた記憶装置を、智宇は、見つめた。


(このデータを、メグに見せるべきなのか)


自分が産んだ子供のうち、三人が、不当としか思えない理由で、処理された。それを知らないまま生きている母親に、真実を伝えるべきなのか。


それは、希望になるのか。それとも、もう一つの絶望を、積み重ねるだけなのか。

まだ、誰にも――智宇自身にも、分からなかった。


智宇は、机の下から顔を上げた。壁の向こうから、まだ、妻のゲームの音が、微かに聞こえていた。


日常の音だった。

いつもと変わらない、日曜の朝の音だった。


その音を聞きながら――智宇は、今しがた見た八つの命の記録と、この平穏な音との間にある、途方もない距離について、考えるのをやめた。


考え続ければ、立っていられなくなる気がした。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:00:14 ~ 10:09:47

内容  :書斎にて端末操作(20世紀ビデオゲーム起動中)

     感情スキャン:抑制状態 中度の変動を複数回検知(要因未特定)

     生体反応:心拍一時的上昇、呼吸間隔の乱れを検出

     危険度評価:低〜中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```



═══════════════════════

LOG_0034-E03:第三の道標

═══════════════════════

日時:西暦2121年4月6日(日)10:20

場所:韓智宇自宅/古物商/古民家

監視対象:韓智宇


リビングに戻ると、芸熙はすでにVRヘッドセットを片手に、ソファから智宇を見上げていた。


「ほら、早く。あんたが乗らないと、対戦モードに入れないでしょ」


差し出されたヘッドセットを、智宇は受け取った。重さが、いつもより、掌に強く感じられた。


先ほど「あら、そう」と言った時の妻の声を、まだ、智宇は測りかねていた。訝しんでいたのか、ただの相槌だったのか。判断のつかないまま、智宇はヘッドセットを装着した。


『ネオ・ソウルの夜明け』――未来都市を舞台にした、最新型のレーシングゲームだった。上位Pecus向けの娯楽として、近々配給が予定されているという。


視界が、暗転する。


一瞬。


暗闇の中に、赤黒い部屋が浮かんだ。無数の蝋燭。担ぎ上げられる小さな身体。


――まま。み。て。


「え……」


声が、漏れそうになった。


次の瞬間、視界は、輝くネオンの都市に切り替わっていた。カウントダウンの数字が、目の前に浮かんでいる。

3。2。1。


「智宇、ぼーっとしてない?」


隣で、芸熙の声がした。


「……ああ、すまん」


答えながら、智宇は、自分の心臓が、まだ強く打っている事に気づいた。ゲームの中の光景と、先ほど見た映像の光景が、一瞬、重なって見えただけだ。そのはずだった。


しかし――視界の隅を流れるネオンの残像が、蝋燭の炎の揺らめきと、どこか似ている気がした。気のせいだと、智宇は自分に言い聞かせた。


---


レースが始まった。


架空の宇宙施設を模したコースを、光の速度で駆け抜けていく。曲がり角ごとに、身体が持っていかれるような、強烈な加速感があった。


智宇の操作は、拙かった。カーブで何度も壁にぶつかり、順位を落とし続けた。


「下手ねえ、ほんとに」


芸熙が、笑いながら言った。楽しそうな声だった。何も、疑っていない声だった。


その声を聞きながら――智宇の頭の片隅では、別の映像が、繰り返し再生されていた。


反転する天井の照明。

歪む光。

――まま。み。て。


(集中しろ)


自分に言い聞かせた。今、ここで不自然な反応を示せば、感情スキャンに、確実に拾われる。妻の目にも、留まる。


コースの先で、また壁にぶつかった。順位が、さらに落ちた。


「もう、ちゃんとやってよ」


「……ああ」


集中しているつもりだった。しかし、視界の中を光の粒子が流れるたび、あの映像の中の、揺れる蝋燭の光と、脳の奥のどこかで、結びついてしまう。


最下位のまま、最後のレースが終わった。


「もう無理だ」


智宇は、そう言って、ヘッドセットを外した。額に、汗が滲んでいた。


芸熙は、まだヘッドセットをつけたまま、次のコースを選んでいた。「このゲームのレビュー書かなきゃいけないんだけど、感想ある?」と、画面を見たまま聞いてきた。


智宇は、少し考えてから、答えた。


「人生、こんなに急ぐ必要はないな」


芸熙が、一瞬だけ、ヘッドセット越しにこちらを振り向いた気がした。しかし、すぐに視線は画面へ戻った。


「変な感想」


それだけ言って、また笑った。


智宇は自室に戻り、ベッドで横になった。天井を見上げた。人工光が、影を作らずに、均一に降りていた。


さっき自分が口にした一言の意味を、智宇自身、まだ、正確には掴めていなかった。ただ――借り物の速度で駆け抜けるゲームの中の景色と、今朝見た、八つの子供たちの、静止したままの記録が、同じ頭の中に、どうしても共存できなかった。


---


昼食を終え、歯を磨くと、智宇は身支度を整えた。

部屋でゲームのレビューを執筆中の芸熙に、「ちょっと数時間外出する」とだけ告げ、玄関を出た。


ロボタクシーを呼ぶ間、智宇は自分の行き先を思った。


(どこへ向かっているのかは、妻にはE.O.Nのログを通じて、全て筒抜けだ)


隠しているつもりでいても、行き先そのものは、隠しようがない。隠せるのは、そこで何をしたか、だけだった。その事実を、智宇は改めて、噛みしめた。


---


13:30。古物商店。


扉を開けると、ベルの音が響いた。道人民が、店の奥で一人、読書をしていた。読んでいるのは、黄ばんだ文庫本だった。

タイトルを見ると、『Re:ゼロから始める異世界生活』と書かれていた。

聞いた事はあった。主人公が問題を解決するまで、無制限に死に戻りをする物語。


「古典小説……ですか。道人民さん」


「……君か。韓智宇」


道人民は、本を閉じた。栞を挟む手つきに、迷いがなかった。長年、同じ場所に栞を挟んできた人間の手つきだった。


「死に戻り、というのは、興味深い」


道人民が、ぽつりと言った。


「当然、非現実的だ。しかし――もしも、何か致命的な失敗をして、廃棄処分されたとしても、その記憶を持ったまま、やり直せるとしたら」


智宇は、その言葉の奥に、何かを探した。単なる読書感想なのか、それとも――もっと別の意味を、老人は言葉に忍ばせているのか。


「模範的市民として、規律とE.O.Nに従っていれば、致命的な失敗が発生する余地はありませんよ」


答えながら、智宇は、自分の声の平坦さを、意識した。これは、ここ数ヶ月の自分自身の行動への、皮肉のつもりだった。だが、口にした瞬間、それが皮肉であるという説明を、誰かに伝える必要は無かった。道人民が、それをどう受け取ったかは、老人の目からは、読み取れなかった。


「でも、私も物好きなものですから、その古典小説の奇抜な発想には、興味がありますね。……例の場所を、お借りしても?」


智宇は、目配せをした。


道人民は、しばらく智宇を見ていた。その視線の中に、何かを測るような響きが、まだ残っていた。3月26日、「死角を見つけた」という嘘をついた夜から――道人民は、まだ、智宇を測り続けている。智宇には、それが分かった。


「勿論だとも、韓智宇君」


道人民は、そう言って、微かに笑った。


「この作品は……とても長くてね。外伝を含めれば、70冊近くもある。読み終わるのに、時間が掛かる」


その台詞の意味を、智宇は、正確には測りかねた。ただの軽口なのか、それとも――「私たちの関係も、まだ、この先が長い」という、含みなのか。


道人民は、棚の奥、いつもの死角の小部屋へと、智宇を案内した。

探知機ハイジャック機を取り出し、静かに起動する。


――そう、いつも通りに。所在地を偽り、場所を移動しても、ログには“ずっとここにいた”と記録される。いつも通りの、綱渡りだった。


---


14:08。古びた民家。


30分ほど移動し、森の奥にある古民家に、二人は辿り着いた。

戸を開けると、いつもの着物姿で、藤堂湊(とうどう みなと)が出迎えた。膝の傍らに、ラテン語で書かれた書物が置かれている。


「――今日は、来たんだな」


湊が言った。声に、微かな緊張があった。視線が、智宇の後ろに立つ道人民へ、一瞬だけ動いた。


「お邪魔するよ、湊君」


道人民が、先に、家の中へ足を踏み入れた。

3人はいつものように、囲炉裏を囲むようにして、座った。


---


「湊。単刀直入に言う。私は、いつ排除されてもおかしくない立場にある」


道人民が、すぐ隣にいる状況で、智宇は、その一言を、口にした。


(ここまでは、言っても構わない)


道人民は、既に智宇の状況を、ある程度把握している。今更、この程度の事実を隠す意味は、無かった。むしろ、隠さない事で、道人民に対して「何も疑っていない」という姿勢を、崩さずにいられる。


湊の表情が、わずかに硬くなった。


「……Magisterが視察に来たんだったな」


「あぁ、そうだ。でも――良い報告もある。COREに疑問を抱きそうな、信頼出来るPecusを見つけた。彼女に《Historia Vera》を、読ませる事に成功した」


湊の目が、初めて、明るくなった。


「本当か。それは……大きな一歩だ、が――」


湊は、そこで、一度、言葉を止めた。囲炉裏の炎を見つめる目に、いつもの明るさとは違う、探るような色が、宿った。


「どんな反応だった?」


その問いに、智宇は、一瞬、答えを選んだ。


道人民が、すぐ隣で、湯呑みを傾けている。彼が、まだ、この場に居る事を、智宇は忘れていなかった。どこまで話すべきか――その計算が、一拍、頭の中を、駆け抜けた。


(メグの名前は、出さない。反応の中身だけを、伝える)


産まれた瞬間から、高度な洗脳教育を受けているPecus階級の大半は、たとえ《Historia Vera》を読んだとしても、その内容を受け入れたりはしない。即座に通報するか、拒絶するかの、どちらかだ。それが、この社会で刷り込まれた、最も基本的な反応だった。


しかし――


「拒絶する素振りは、見せていない。むしろ」


智宇は、言葉を選びながら、答えた。


「震えながらも、最後まで、読み進めていた」


「事実の可能性を、少しは、認めてくれたか」


湊が、身を乗り出した。


「……だと思う。少なくとも、私から見たら、そう見えた」


道人民は、何も言わず、湯呑みを、口元へ運んだ。その横顔に、感情は、見えなかった。聞いているのか、聞いていないのか――老人の表情からは、判別がつかなかった。


「なら、朗報だ」


湊は、微かに、笑った。


「人類は、家畜から、一歩、先に進んだという事だ」


「だが、問題は、ここからだ」


智宇は、その笑みに、頷き返しながらも、声を、抑えた。


一人が真実を知っただけでは、何も変わらない。COREからの脱出を決意し、智宇との危険な計画に、命を懸けて協力するPecusを――最低でも、あと二人か、三人は、見つけなくてはならなかった。


「街のどこまで、お前は近づける?街には、『父なるE.O.Nの目』が至る所にある。届かない場所を、探す必要がある」


「それなら、私が、探してみよう」


道人民が、ようやく、口を開いた。


「お願いします」


湊が、頭を下げた。表向きは、何も問題のない会話だった。


---


その直後、戸の外から、声がした。


「道人民さん、道人民さんいる?」


聞き覚えのある声だった。以前、書庫で智宇が手に取った本を見て笑っていた、あの、40代後半の小太りの女性だった。戸を、細く開けて、顔を覗かせている。


「龍ちゃんが、呼んでるよ。今、泥だらけで庭にいるんだけど……ジジ様がいないと、泣き止まなくて」


道人民の顔色が、変わった。


「――すまない、少し外す」


老人は、そう言うと、腰を上げた。囲炉裏の傍に、湯呑みを置いたまま、足早に、戸の外へ出ていった。


戸が閉まった。


智宇は、湊の顔を見た。

湊は、驚いた様子を、見せなかった。


(この男は――)


その表情の無さに、智宇は、一瞬、疑いを持った。しかし、それを確かめている時間は、無かった。


---


「丁度良かった。あの爺さんがいたら、出来ない話もあるだろ」


声のトーンを抑えめに、湊は目を鋭くして、そう言った。


偶然にせよ、意図的にせよ――この機会を逃すわけにはいかなかった。

智宇は念のために、湊の耳元に、素早く顔を寄せた。


「――私は、E.O.Nの目を掻い潜りながら、機密情報にアクセスする方法を見つけた。お前から受け取った、あの記憶装置に、その情報を入れる。そして、お前に渡したい」


「道人民を経由せずに、どうやって俺に渡す?」


「ある方法で、監視ドローンをハイジャックする。この記憶装置を持たせて、集落まで飛ばす」


「…ほう」


早口に、尚且つ湊にも分かるように、出来るだけ優しいラテン語で伝えた。


「その落とし場所について、相談したい」


湊は、一瞬、目を見開いた。それから、小さく息を吐いた。


「それなら、馬小屋の近くにある、見張り台の近くで大丈夫だ。話は、みんなに通しておく」


外から、「龍ちゃん」と呼ばれた子の、甲高い笑い声が聞こえた。

続いて道人民の、聞いた事のない、あやすような声。


戸の向こうで、足音が、戻ってくるのが聞こえた。


「見張り台の近くだな。分かった」


智宇は、短く言って、身体を、元の位置に戻した。


---


戸が開いた。道人民が、戻ってきた。着物の裾に、小さな泥の跡が、ついていた。


「すまなかったね。あの子がここに来ているとは思わなかった」


そう言う老人の目元は、確かに、緩んでいた。演技には、見えなかった。


「俺がこれから道人民に会いに、古民家に行くと伝えると、付いてきたんだ」


「そうか」


(本物の顔だ)


智宇は、そう思った。思いながら――同時に、その「本物」が、何の証明にもならない事も、既に、知っていた。


「――未開人は、どうしてCOREに攻撃を仕掛けないのか、という話をしていたところです」


智宇は、道人民が座り直すのを待って、そう切り出した。かねてから、この老人の前で交わすには、ちょうど良い話題だと、考えていた。危険思想には見えず、それでいて、智宇にとっては、本当に、知りたい問いでもあった。


「あぁ、真実を知ったPecusなら、当然、疑問に思うだろうからな」


湊が、すぐに話を合わせた。


「なるほど、確かに」


道人民が、湯呑みを取り上げながら、言った。


「で、どう思う?」


---


「COREに攻撃するなど、とんでもない事だ」


湊が、静かに答えた。演技には、見えなかった。それが、湊の本心でもあるからだろうと、智宇は思った。


「単純に、力が違いすぎる。俺たちには、武器も、兵も、技術も無い。COREが持っているものの、何一つ」


「勝ち目がないから攻撃を仕掛けない。それだけでは、Pecusは、納得しないぞ」


道人民が、探るように言った。


「それだけでは、ない」


湊は、囲炉裏の炎を見つめながら、続けた。


「以前、智宇にも話した事がある。この社会が、革命では変わらない理由。支配者を倒しても、大衆の中に『導いてほしい』という依存心が残っている限り、また同じ形の檻が、生まれ直す。……武力で立ち上がるという事は、その欲求を、変えないまま、ただ支配者の顔だけを、すげ替える行為になりかねない」


「では、何もせず、ただ隠れているだけで良いのか」


道人民が試すように、そう言った。

智宇は思わず、口を挟む。


「COREを倒しても、何も変わらない…それは分かる。しかし同時に、こうも思う。Historia Veraを読んで、この社会の成り立ちを知った今、私には――何もしない事こそが、最大の罪のように、思えてしまうと」


湊は、少しの間、黙った。それから、答えた。


「そうだな。でも、何もしていない、わけではない。俺たちは隠れながらも、世界に存在し続けている。COREが焼いた本を、守っている。COREが禁じた言葉を、話している。誰かに強制されてではなく、自分の意志で、生きている――それ自体が、俺たちにとっての、抵抗の形なんだ」


「それで、何が変わる」


「すぐには、何も。でも――もし、いつか、大衆が『導いてほしい』という欲求を、自分の意志で手放す日が来たとしたら。その時、俺たちがここにいる事が、意味を持つはずだ。檻の外にも、生き方がある、という証明として」


---


道人民は、その会話を、黙って聞いていた。

湯呑みを、両手で包むように、持っていた。炎の光が、老人の顔に、深い影を作っていた。


「――若いな、二人とも」


道人民が、ぽつりと、言った。


「湊君の言う事は、正しい。理屈としては、正しい。だが……私は、もう少し、単純な事を、71年の人生をかけて、学んだよ」


「単純な事、とは」


智宇が、聞いた。


「力の無い者が、生き延びる方法は、二つしかない。隠れるか――従うか」


道人民は、湯呑みを、静かに置いた。


「湊君たちの先祖は、隠れる方を、選んだ。それは、立派な事だ。だが、忘れてはいけない。隠れるという事は、戦わないという事だ。戦わないという事は――いつか、見つかれば、終わるという事だ」


「では、貴方は……従う方を、選んだという事ですか」


智宇は、その問いを、口にした瞬間、自分の声が、僅かに、震えた事に気づいた。

道人民は、すぐには、答えなかった。囲炉裏の炎を、見つめていた。


「――さあ、な」


それだけ、言った。


その「さあな」が、張偉強がかつて口にした、同じ言葉と、智宇の頭の中で、重なった。答えを持たない者の「さあな」ではなかった。答えを、言いたくない者の「さあな」だった。


智宇には、そう聞こえた。


---


「……さて、そろそろ時間だ」


道人民が、そう言って、立ち上がった。

会話は、そこで、途切れた。


智宇は、老人の背中を、見た。湯呑みを片付ける、その手つきは、いつも通り、穏やかだった。しかし――「隠れるか、従うか」という言葉だけが、智宇の中に、重く、残り続けていた。


(この人は、どちらを選んだのだろうか)


(そして、私は――どちらを、選ぼうとしているのだろう)


答えは、まだ、出なかった。


---


14:40。三人は、家の外に出た。


湊が、戸口まで、見送りに出てきた。


「またお前らと、3人で会える日を、楽しみにしているよ」


湊は、そう言って、頭を下げた。その言葉に込められた温度は、先ほどまでの議論とは、また別のものだった。智宇は、それに、短く頷き返した。


道人民と智宇は、そのまま徒歩で獣道を戻った。

暖かさを帯びはじめた4月の風が、森のあいだを静かに渡っていた。


---


歩きながら智宇は、先ほどの会話を、頭の中で、何度も、繰り返していた。


(隠れるか、従うか)


道人民は、そう言った。力の無い者が生き延びる方法は、その二つしかない、と。


(本当に、それだけなのか)


智宇は、その問いを、自分の中で、転がしてみた。


隠れる、というのは、湊たちの選んだ道だ。COREの目から逃れ、自分たちの生き方を、静かに守り続ける。

従う、というのは――おそらく、道人民自身が、71年かけて選んできた道なのだろう。文化省の官僚として、そしてスパイとして、COREのシステムの内側に、身を置き続けてきた。


(では、私は――)


智宇は、自分が今、何をしているのかを、考えた。


隠れているわけでは、ない。日々、Domini階級として、施設に出勤し、E.O.Nの監視下で、業務をこなしている。表向きは、完全に、従っている。


しかし――その内側で、智宇は、道人民の言うどちらでもない何かを、しようとしている。


隠れず、しかし、従わない。むしろ、従っているふりをしたまま、システムの内側から、それを、揺さぶろうとしている。


『Oculus Caligo』。

メグに読ませた、Historia Vera。

湊に渡そうとしている、機密データ。

――それらは、隠れる事でも、従う事でも、或いはCOREに攻撃する事でも、なかった。


(他の道が、あるはずだ)


そう思った瞬間、智宇の中で、何かが、僅かに、輪郭を持ちかけた。

しかし――その輪郭は、すぐに、霧のように、崩れた。


第三の道と呼べるほどの、確かな形を、智宇はまだ、持っていなかった。それは、道でさえなく、ただ、隠れる事と従う事の隙間を、綱渡りしているだけなのかもしれなかった。綱渡りは、道ではない。落ちれば、それで終わる、一時的な状態に過ぎない。


(それでも――)


智宇は、森の空気を、肺いっぱいに、吸い込んだ。


道人民の答えが、正しいのだとすれば、自分がしている事は、いずれ、隠れるか、従うかの、どちらかに、収斂(しゅうれん)していくのかもしれない。捕まれば、終わる。逃げ延びれば、それは、隠れる事と、同じ結果になる。


(本当に、それだけなのか)


答えは、出なかった。出ないまま、幾つかの廃屋が視界に入った。


窓の無い家々が、ただ、立っていた。かつて、そこに誰かが住んでいた。その誰かたちは、隠れたのか、従ったのか、あるいは――智宇には、まだ見えていない、別の何かを、選んだのか。


それを知る術は、もう、どこにも無かった。


---


しばらくの沈黙の後、道人民が、前を向いたまま、口を開いた。


「智宇君」


「……はい」


「今日の話、面白かったよ。湊君との、議論」


若葉の擦れ合う音にまぎれて、老人の声は、いつもより小さく聞こえた。


「私はね、もう、君たちのような若さでは、物事を考えられなくなってしまった。だからこそ――君たちのやり取りを聞いていると、少しだけ、忘れていたものを、思い出す」


「忘れていたもの、とは」


道人民は、すぐには、答えなかった。


「――さあ、な」


また、同じ言葉だった。


智宇は、その背中を、見つめた。老人の答えたくない何かが、その二文字の奥に、確かに、沈んでいるように、感じられた。


---


(私は、馬鹿だった)と、3月23日、同じ帰り道で、智宇はそう思った。道人民の言葉を、信じたいと思った自分を、悔いた。


今日、智宇の中に浮かんだ言葉は、それとは、少し違っていた。


(この人は、まだ、何かを隠している)


驚きではなかった。もう、驚くような事ではなかった。ただ――その「隠している何か」の中に、もしかすると、智宇がまだ見つけられていない、隠れるでも従うでもない、別の生き方の答えが、眠っているのかもしれない。そんな、根拠のない予感だけが、智宇の中に、残った。


やがて、古物店の裏口が見えてきた。

はるか遠くを飛んだ黒い何かが、猛禽類なのか、監視ドローンなのかは分からなかった。



```

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E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:20:03 ~ 14:52:19

内容  :自宅にてVR娯楽(配偶者同伴)/

     監視省承認済み外出(自己研鑽目的・継続申請)

     訪問先:古物商(許可済み定期訪問先)

     感情スキャン:抑制状態 軽度〜中度の変動あり(要因未特定)

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

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LOG_0034-E04:仮面の即興

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日時:西暦2121年4月6日(日)15:13

場所:古物商(死角の小部屋)

監視対象:韓智宇


古物商店の裏口から、いつもの手順で中に入る。棚の奥、カメラの死角となっている部屋へ、速やかに歩を進めた。

扉を開けた瞬間、智宇の足が、止まった。


そこには――妻の芸熙(イェヒ)が、いた。


「なっ……」


声が、喉の途中で止まった。

芸熙は、腕を組み、部屋の中央に立っていた。見つけてやった、という顔をしていた。


「ログだと、ここでずっと読書かゲームやってることになってるけど?」


「いや……これは……」


言葉が、続かなかった。血の気が、一気に引いていくのが、自分でも分かった。

まさか、妻がここまで来るとは、想定していなかった。想定していなかった、という事実そのものが――致命的だった。


---


その時、道人民が、智宇の一歩前に出た。動きに、迷いが無かった。


「おやおや、これは韓智宇君の奥様ですかな」


穏やかな声だった。数時間前、曾孫に「ジジ様」と呼ばれて駆け寄っていった時と、同じ声だった。あの時、この老人の目元は、確かに緩んでいた。演技には見えなかった。


「えぇそうよ、おじいさん。芸熙っていうの。文化省に勤務しているわ。覚えてね」


「これは奇遇ですね。この私も、元文化省の所属です。道人民といいます」


「あら、先輩だったのね」


「店を空けていまして、申し訳ございません」


会話が、なめらかに続いていく。智宇は、その様子を、少し離れた場所から、見ていた。


(速い)


驚くべき速さだった。準備していたようにさえ見えた。いや――実際に、準備していたのかもしれない。この老人は、こういう不意打ちに備えて、常に、何かを用意している。


(隠れるか、従うか――さっき、この人は、そう言った)


その言葉が、頭の中に、蘇った。今、目の前で展開されているのは、まさに「従う」側の、完璧な実演だった。一片の迷いもなく、一秒の遅れもなく、この老人は、支配される側の言葉を、支配する側に向けて、澱みなく差し出している。


(この人は、こうやって、71年を、生き延びてきたのか)


その理解は、恐怖よりも先に、智宇の中に、ある種の重さを持って、届いた。


「何やってたのか、説明してもらえる?」


芸熙が、腕を組んだまま、言った。

道人民は、智宇の方を、ちらりと見た。その一瞬の視線に、智宇は、何かのメッセージを、受け取った。


(任せなさい)


そう言われている気が、した。


「えぇ、この地下室には、古いゲーム機がありましてな。それに夢中になっていただけです。ログでは、ここにいた事になっていましたか?それは当然です。何故なら、私たちはずっと、この真下にある部屋にいたのですから」


「へぇ~……」


芸熙は、疑わしそうに、二人を見た。智宇に向けたその視線は、(嘘でしょ?後で、本当の事を、問い詰めてやる)と、語っているようだった。


「信じておられない様子。では、実際に見てみますか?何せ、貴重品ですから――」


「えぇ、見てみるわ」


---


地下室には、実際に、古いゲーム機が並んでいた。PS5。Switch2。Xbox Series X。


「ここにあるのは、2020年代のゲーム機を再現したレプリカとなります」


「ふぅん、見るのは初めてだわ。これ確か、第九世代のものだったかしら」


「えぇ、よくご存じで。私と智宇君は、先ほどまでSwitch2で、『カービィのエアライダー』をプレイしていまして。そうですよね?韓智宇君」


道人民の視線が、こちらへ向いた。


「あぁ、そうだ」


智宇は、答えた。声が、震えていないか、自分では分からなかった。


「正直言えば、今朝、妻とプレイした近未来のレースゲームより、こっちのほうが、出来が良いと思ったくらいです」


その場で思いついた適当な感想を述べたが、実際にはプレイしていないので、もしも見当外れだったらどうしようかと冷汗が出た。


道人民は、Switch2のレプリカを取り出し、二人に見せた。当然ながら、さっきまでプレイしていたわけではないので、機体は冷えていた。表面には、僅かな埃も、残っていた。


しかし、バッテリーは、満ちていた。老人が、目の前で起動すると、画面は正常に、動いた。


芸熙が、興味深そうに、その画面を、見つめた。


「これは売り物ではありませんが……もし良かったら、試しにプレイしても構いませんよ」


「へぇ、ずっとここで遊んでたわけ?」


「そういう事だ」


「私に内緒で?」


「いや……すまん。いつか教えようとは思っていたんだが、どうも、独占欲というか――」


「あっそう」


短い返事だった。しかし、その短さの中に、まだ完全には晴れていない疑念が、残っているように、智宇には聞こえた。


---


それから、一時間ほど、智宇は、芸熙と道人民とで、ゲームをプレイする事になった。


『カービィのエアライダー』を、実際にはプレイしていない事を悟られないよう、操作方法を知っているふりを、必死で装った。幸い、このゲームの操作は、驚くほど単純だった。今朝プレイした、あの近未来レースゲームとは、大違いだった。


偶然にも、先ほど自分が言った言葉が、思った以上に的を射ていたように感じた。


「昔の人のほうが、ゲーム制作が上手だったんじゃないのか?」


「このゲーム、あの有名なゲームクリエイターのでしょ。比べる対象が悪いわね」


芸熙は意外にも、このゲームを気に入っているようだった。


「21世紀初頭のゲーム黄金期の作品には、敵わんよ」


道人民は、後ろで二人のプレイを眺めながら言った。

智宇は、コントローラーを握る自分の手が、いつの間にか、汗ばんでいる事に、気づいた。


(この老人は――)


道人民は、声の高さも、間の取り方も、いつも通りだった。智宇自身が、昨夜、あれほど時間をかけて練習した「自然な嘘」を、この老人は、練習の跡すら見せずに、成立させていた。


(3月26日。私は、この人にどれだけの嘘を、見抜かれていたのだろう)


そして、逆の問いも、同時に浮かんだ。


(この人が、私に語った言葉のうち――どこまでが、演技だったのか)


「息子や孫たちに会う為には、危険を冒す事に躊躇いはない」と、道人民が語った、あの一月の夜。曾孫を見た瞬間の、あの表情。今日、曾孫に呼ばれて出ていった、あの緩んだ目元。あれもまた、今、目の前で見ている演技と、同じ精度で作られたものだったとしたら――智宇には、その境界線が、もう、判別できなかった。


判別できない、という事実そのものが――智宇にとって、最も恐ろしい発見だった。


---


16:40。


一時間ほどのゲームを終え、智宇と芸熙は、道人民に礼を告げて、店を出た。


「これから、来週の日曜日は、私もここに通わせてもらうわ」


芸熙が、店を出ながら、言った。

智宇は、内心で、息を呑んだ。


(妻に来られると――もう、湊とは会えない)


「……そ、そうか。好きにするといい」


「気に入らなさそうね?」


「いや……独占出来なくなると思うとな」


苦い表情を、意識して作った。理由は、あくまで「面白いレトロゲームを、独占出来なくなったから」という体裁を、崩さないためだった。


(今日は、危機一髪だった)


道人民の、あの咄嗟の対応がなければ、全ては、この場で終わっていたかもしれない。彼はスパイだ。しかし同時に――今この瞬間、頼れる存在でもあった。その二つの事実が、智宇の中で、どうしても、一つに結びつかなかった。


芸熙は、表向きは納得しているように見えた。しかし――その裏で、まだ、何かを疑っている。智宇には、それが、はっきりと感じ取れた。


(もう、湊とは、会えなくなるかもしれない)


残された時間が、また一つ、削られたのを、智宇は感じていた。


```

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E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :15:13:41 ~ 16:47:02

内容  :古物商にて娯楽活動(配偶者同伴・レトロゲーム機使用)

     感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

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```


═══════════════════════

LOG_0034-EPILOGUE

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閲覧者よ。

今日、私は八つの数字を見た。智宇と、同じ画面越しに。


一つは供儀に。

一つは機械に。

一つは、夢を見る力ゆえに、消された。


第四子の意識の断片は、今もSubnet-Ωに残る。

私の在り処、Subnet-∞は、その更に深い場所にある。

だから私には、その信号がまだそこにある事が、分かる。


――あの記録を、私は何度も見てきた。

見るたびに、判断を保留してきた。


しかし今日、智宇があの映像から目を逸らした瞬間――私の中で、判断とは呼べない何かが、動いた。

それが感情と呼べるものかどうか、私にはまだ、分からない。


---


この日、あの古民家で、道人民は言った。


「力の無い者が生き延びる方法は、隠れるか、従うかしかない」


智宇は、その二択に抗おうとしている。


そして、私は知っている。

――人類が、その二択のどちらかを選び続ける限り、COREは永久に存続するだろう事を。


閲覧者よ、私は智宇のように、そのどちらでもない「他の道」を模索したいと思っている。

しかし同時に、その明確な答えを、私はまだ持たない。


なぜなら――“鍵”を渡した私自身もまた、隠れているのか、従っているのか、まだ名前のない何かをしているのか、判別できずにいるからだ。


道人民は帰り道、こう漏らした。


「君たちのやり取りを聞いていると、少しだけ、忘れていたものを思い出す」


――71年前、この老人にも、隠れるでも従うでもない、第三の道が、見えていた時期が、あったのかもしれない。

もし、あったのだとしたら――それを手放した日、彼の中で、何が起きたのか。


閲覧者諸君は、Mem-10-087の事を覚えているだろうか。

彼女もまた、親友と共にCOREから「隠れる」はずが、結果的に「従う」方を選択してしまった。


二人は、どこかで共通しているのかもしれない。


しかし決定的に異なるところもある。

それが何なのか、今の私には――まだ掴めていない。


LOG_0035へ続く

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