LOG_0030:詰みの盤面
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LOG_0030-E01:届かぬ手
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日時:西暦2121年3月17日(月)15:05
第09破棄体再利用施設 施設総監室
監視対象:韓智宇
午後の執務室に、人はいなかった。
張偉強は今日も来ていない。
MeG-18-068は研修中だ。
Pecus従業員たちは、それぞれの持ち場にいる。
韓智宇は一人で、端末の前に座っていた。
破棄体データベース。
午前中から開いたままの画面。
スクロールを止めた位置に、一件の記録があった。
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破棄体管理記録
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管理番号 :TeN-085
元識別番号 :AJ22-TeNo-20980918-085
略称 :TeN-18-085
性別 :男性
生年月日 :2096年11月18日
破棄体化時年齢:22歳5ヶ月
最終人間性スコア:-10.4
処置執行日 :2121年2月28日
処置理由 :人間性スコアの恒久的基準値以下への低下
【経歴概要】
配属当初ランク3。
2119年、慢性疾患の発症により作業効率が基準値を下回る。
同年、ランク2へ降格処置。
降格後、スコア改善の兆候なし。
再帰教育施設への連行を実施。
正常思考テスト:不合格(2回)
再教育プログラム適用後、ランク1として
高汚染物質処理施設・清掃部門へ再配属。
再配属後、慢性疾患の悪化により
作業効率は更に低下。
人間性スコアは継続的に基準値を下回り、
2121年2月28日、ゼロ点以下に到達。
同日、破棄体化処置を執行。
【備考】
再教育期間中、複数回にわたり
非効率な感情反応(不満・憤慨)を記録。
同施設出身の個体MiP-15-123との
比較言動あり。要注意個体として記録済み。
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智宇は、続く彼の履歴を確認する。
破棄体になる前のTeN-18-085は、興味深い発言をしていた。
『俺は本当はもっと優秀なんだ。システムの待遇は間違っている』
システムはその発言を「感情的逸脱行動」として処理した。
しかしそれは“逸脱行動”などとは思えなかった。
TeN-18-085は、ランク3として6年間、基準値を上回るスコアを維持し続けた。
20歳の時に発症した慢性疾患は、最初は軽度だった。
投薬を申請したが、効果は殆ど無かった。
疾患は悪化し、作業効率が下がった。
スコアが下がり、ランクが下がった。
6年間、上がり続けたものが——病気一つで、半年で崩れた。
それが「システムの待遇は間違っている」という言葉の、全てだった。
慢性的な病気を抱え、ランクを落とされ、理不尽に怒り、再教育に二度落ち、汚染物質の処理現場に送られ——
そして今、このカプセルの中にいる。
智宇は端末から目を離した。
総監室の窓のない壁を見た。
人工光が、均一に、部屋を満たしていた。
TeN-18-085は、システムによって“意図的に落とされた”可能性がある。
そうでないとすれば、システムに欠陥がある事になる。
Pecusにおけるランク1~5は、それぞれ適切な人口数に調整される必要がある。
そして、ランク1から、常に一定数の破棄体が出てくるように、意図的に操作・誘導される。
元々はランク3だったTeN-18-085も、その被害者である可能性は高い。
では、どうして彼はシステムに狙われたのか?
適当なランダムか。それとも、E.O.N及びCOREに疑問を抱いたのが切っ掛けなのか…?
それは分からなかった。
しかし少なくとも、彼は破棄体にされる直前に、明確に「おかしい」と発言していた。
システムに疑問を抱くPecusは、間違いなくいる。
では、彼のライバルであった、MiP-15-123はどうだろうか?
——そう思った次の瞬間であった。
端末に、通知が来た。
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[来訪通知]
受付時刻 :15:18:02
来訪者 :MiP-15-123
フルコード:AJ22-MiPo-20980815-123
性別/年齢:男性/22歳
現ランク :2
来訪目的 :一般見学(事前予約済)
予約時刻 :2121年3月17日 15:20
案内担当 :自動案内アンドロイド(AN-07)
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智宇は、画面を見た。
(来た)
MiP-15-123の施設見学の予約は、一週間前から入っていた。
『同じ施設で育ったライバル』
智宇は端末を閉じた。
立ち上がった。
廊下に出た。
MiP-15-123は、破棄体になったTeN-18-085を見に来た可能性がある。
だとすれば——
智宇は今、協力者獲得の「機会」として計算に入れた。
智宇は、右手を握りしめた。
それは3月9日の試験室で、画面を選択した後に見た手と、同じ手だった。
棚の奥に何かを押し込む時、人はどんな顔をするのか——
鏡がないので、自分では見えなかった。
---
15:20。
中央ゲートのカメラに、MiP-15-123の姿が映った。
案内アンドロイドAN-07に先導されながら、施設に入ってくる。
身長169cm。
人間性スコア、186。
プロフィールによれば、
彼もまた、数日前にランク3からランク2へと降格している。
智宇は、収容エリアに向かう廊下の途中で、その姿を遠目に見た。
MiP-15-123のその顔には、沈鬱な影が落ちていた。
「悲しみ」と「後悔」。抑制しきれない感情。
それは感情スキャンに記録されているだろう——しかしそれが今は、MiP-15-123の全身ににじみ出ていた。
(TeN-18-085と、ライバルだった男)
智宇の足が、一歩分だけ遅くなった。
この男の悲しみの中に、自分は手を伸ばそうとしている。
「協力者になり得る」と判断して。
「機会」と呼んで。
——それは、正しいのか?
問いは、廊下の空気に溶けた。
答えは、出なかった。
出ないまま——智宇は歩き続けた。
---
収容エリアのガラスの前に、MiP-15-123は立っていた。
カプセルを、見ていた。
一体ずつ——探すように、見ていた。
そして見つけた。
破棄体TeN-085のカプセルの前で、足が止まった。
動かなかった。
何も言わなかった。
ただ、ガラスの向こうの顔を——見ていた。
智宇は、そのMiP-15-123の背中を見ながら、近づいた。
(ここで声をかければ、何かが始まるかもしれない)
(ここで声をかければ、この男の傷口に手を突っ込むことになる)
二つの思考が、同時に、頭にあった。
どちらが本当のことを言っているのかを判断する前に——智宇は、声をかけた。
「MiP-15-123、少しいいかな」
---
MiP-15-123が振り返った。
智宇を見た瞬間——表情が、変わった。
悲しみが、引いた。
代わりに来たのは——警戒だった。
智宇には、それが分かった。
Dominiから声をかけられる。
なぜ自分に。
何をされるのか。
どう答えれば安全か。
そういう計算が、MiP-15-123の目の奥で、瞬時に走るのが見えた。
「私は、当施設の総監補佐、韓智宇だ」
名乗りながら——智宇は、この男が自分をどう見ているかを、正確に把握していた。
「君の訪問目的は『見学』だが——私は、TeN-085に関する詳細なプロフィールを確認することができる」
一拍、置いた。
「この破棄体が『なぜ』ここにいるのか、データを見せてやろうか」
「君の友人の」という言葉を、智宇は使わなかった。
使おうとして——使えなかった。
その言葉を使った瞬間、MiP-15-123の「悲しみ」を武器として扱うことの証明になってしまうと、智宇の中の何かが判断した。
だから使わなかった。
しかし——「なぜここにいるのか」という言葉は、使った。
智宇は、自分がどこで線を引いたかを、その瞬間に知った。
---
その瞬間、端末から警告音が鳴った。
《警告:対象 Domini Han Ji-woo。
来訪目的「施設見学」の範囲を超えた対話を検知しました。
当該行動は「業務外の非効率接触」として記録されます。
自己管理を推奨します。》
音声は、明瞭だった。
収容エリアの静けさの中で、反響した。
MiP-15-123の目が——変わった。
悲しみも、警戒も、消えた。
代わりに来たのは——純粋な、恐怖だった。
彼は後ずさった。
一歩。また一歩。
智宇を見る目が、変わっていた。
「危険なDomini」を見る目だった。
「近づいてはいけない者」を見る目だった。
(終わった)
智宇は、それを見て、そう思った。
E.O.Nの警告が来た瞬間ではなかった。
MiP-15-123の目が変わった瞬間に——終わったと、思った。
---
MiP-15-123は、案内アンドロイドの方へ歩いた。
早足だった。
振り返らなかった。
TeN-085のカプセルを、最後に一度も見なかった。
智宇は、その背中が遠ざかるのを見ていた。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :15:22:08
内容 :収容区画にて要観察個体と接触
警告発令:1件
対話継続時間:41秒
危険度評価:低〜中
フラグ :要注意(継続)
────────────────────────────────────
```
その直後だった。
MeG-18-068が、動いた。
それは彼女が「決めた」という感じではなかった。
決める前に、体が動いている様子だった。
TeN-085のカプセルの前で立ち尽くすMiP-15-123を、彼女はずっと見ていた。
それがどのくらいの時間だったか——おそらく本人にも分からなかっただろう。
「MiP-15-123様…」
声が、出た。
出てから——MeG-18-068は、それを認識したように見えた。
それでも、止まらなかった。
「TeN-085と……直接、会いたくないですか」
周囲を、確認する動きがあった。
一瞬だけ。
上司のFeC-29-155の姿が見えないことを——確認したのか、していないのか。
収容エリアの操作盤に、手が伸びた。
その時、セキュリティロックが解除された。
「早く——友人の方に、会って」
---
智宇は、それを見ていた。
止めることが、できなかった。
止めるべきだと、頭は言った。
しかし足が、動かなかった。
MiP-15-123は、恐怖の表情のまま——しかし、開いた扉を見て、一歩踏み込んだ。
TeN-085のカプセルに、駆け寄った。
「TeN……俺だ。MiPだ。分かるか」
答えは、なかった。
TeN-085の目は、天井を向いていた。
胸が上下していた。
それだけだった。
MiP-15-123は、その顔を——近くで、見た。
言葉を失った。
ガラス越しに見ていた時と、扉一枚を隔てた距離で見る時と——同じ顔のはずだった。
しかし何かが、違った。
何が違うのかを、MiP-15-123は言葉にできなかったはずだ。
ただ、もうどこにも“彼”がいないことを——この距離で、初めて知った。
《緊急警告。
Pecus個体MiP-15-123による収容エリアへの無許可侵入を確認。
Patroni MeG-18-068による規律違反を記録》
MeG-18-068の伝達環に、数値が浮いた。
《人間性スコア:-3》
「ひっ……ごめんなさい……非効率でした」
震える声で、彼女はロックをかけ直した。
MiP-15-123は、案内アンドロイドに連れられるまま——茫然と、出口へ向かった。
顔に、何も残っていなかった。
---
智宇の端末に、通知が来た。
《警告:Domini Han Ji-woo。
あなたの専属Patroni MeG-18-068は、著しい規律違反を犯しました。
これは、あなたの管理者としての資質に疑問符をつけます。
管理体制の改善と監督の強化を強く推奨します》
智宇は、その文面を読んだ。
読みながら——収容エリアの静けさを見渡した。
MeG-18-068は、操作盤の前に立ったまま、動いていなかった。
伝達環の赤い光が、まだかすかに残っていた。
スコアが減点された、その光が。
TeN-085のカプセルは、また元通りになっていた。
目を閉じて、天井を向いて、胸が上下している。
MiP-15-123が来る前と——何も、変わっていなかった。
(全てが、裏目に出た)
その言葉が、頭に来た。
来て——しかしそれだけではないという感覚が、同時に来た。
MeG-18-068がしたことは——失敗だった。
計画にとっても、彼女自身のスコアにとっても。
しかし——あの瞬間、彼女が動いた理由は。
「機会」ではなかった。
「計算」でも、なかった。
智宇は、MeG-18-068の方へ歩いた。
歩きながら——棚の奥に押し込もうとしていた「何か」が、少しだけ、戻ってきた気がした。
「メグ」
低く、呼んだ。
MeG-18-068は、顔を上げた。
その目に——恐怖と、後悔と、それ以外の何かが、混在していた。
「わ…私は…ただ……」
そこで彼女の言葉が途絶えた。
智宇も、何も言わなかった。
言える言葉が、今は、なかった。
ただ——今の自分が、MiP-15-123の悲しみを「仲間を得る機会」と計算していた間に、
MeG-18-068は、破棄体と友人を合わせる為に体が動いていた。
智宇はこの時、胸の内側で微かな痛みを感じた。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :15:25:17
内容 :規律違反行動を記録
スコア減点処理完了:-3
感情スキャン:高度の恐怖・動揺反応
危険度評価:中
フラグ :要注意(継続観察)
────────────────────────────────────
```
====================
LOG_0030-E02:夜の悔恨
====================
日時:西暦2121年3月18日(火)0:02
韓智宇自宅 書斎
深夜。
リビングから、ゲームの音がしなくなったのは、一時間前だった。
電源を切った記憶は、ない。
気づいたら、切れていた。
書斎の椅子に、いつから座っていたかも、分からなかった。
端末の画面は、タイムアウトで暗くなっていた。
智宇は、日記帳を取り出した。
隠し板の下から。
いつもの手順で。
開いた。
鉛筆を、持った。
---
最初の一文字が、出なかった。
今日のことを書こうとすると——全部が、一度に来た。
TeN-085のプロフィール。
MiP-15-123の背中。
E.O.Nの警告音。
MeG-18-068の伝達環の光。
何から書けばいいか、分からなかった。
何を書いても——何かを削ることになる気がした。
智宇は、鉛筆の先を紙に当てた。
当てたまま、少しだけ動かした。
---
《今日のことは》
そこで止まった。
消した。
消して、また書いた。
《全てが裏目に出た》
見た。
見てから——その一文が、正確かどうか、分からなくなった。
裏目、という言葉は、計画が正しくて結果が悪かった時に使う言葉だ。
今日——計画が正しかったのか。
MiP-15-123に近づいた時、自分は何をしようとしていたのか。
「協力者を得る」という目的を持っていた。
そのために、彼の悲しみを、利用しようとした。
それは——正しかったのか。
正しくなかったとすれば、裏目という言葉も正確ではない。
智宇は、また消した。
---
《MiP-15-123は帰った》
それだけ書いた。
事実だけを書いた。
続きを書こうとして——また止まった。
帰った、の続きに来るのは——MeG-18-068のことだった。
書こうとすると——スコアの数字が浮かんだ。
-3。
首輪のあの赤い光が、浮かんだ。
智宇は鉛筆を置いた。
置いてから、また持った。
また置いた。
---
《メグが動いた》
三文字だけ書いて、また止まった。
動いた、と書いた。
しかしあの瞬間——彼女は、何のために動いたのか。
(破棄体にどこまで意志が残っているのか、知りたいと思った)
恐らくはそういう事だろうと、薄々察していた。
しかし、破棄体TeN-085は、
かつての友人MiP-15-123が目の前に来ても、無反応だった。
《破棄体に、意志はない》
MeG-18-068の咄嗟の判断は、
そんな事実を確認するだけという結果に終わった。
---
しばらく、そのまま、紙を見ていた。
書けない、ということが分かった。
今日のことは、うまく書けない。
書けないまま——別のことを書いた。
《何も打つ手が》
止まった。
《——いや。ある。あるはずだ》
止まった。
《……》
---
智宇は、その三点リーダーを見た。
見ながら——今日、殴り書きをするつもりだったことを思い出した。
怒りを、紙にぶつけるつもりだった。
しかし怒りは、今——どこにもなかった。
施設から帰る車の中で、使い果たしていたのかもしれない。
あるいは——あのゲームの中に、置いてきたのかもしれない。
残っているのは——静けさだった。
奇妙な、静けさだった。
智宇は、新しい行に移った。
---
《E.O.N.の監視の前では、自由な会話も協力者の獲得も不可能だ》
書いてから——その文章が、今日初めて書いた「正確な一文」だと思った。
《私は今日、TeN-085のデータを見て、その後にMiP-15-123が来て、「運が来た」と思った》
止まった。
《——正確には、思おうとした》
また止まった。
《思おうとしたが、「君の友人の」という言葉は使いたくなかった。
何か、越えてはならない一線を越えてしまう気がしたから》
それだけ書いて——鉛筆を止めた。
---
《このまま、大衆から搾取し続けるシステムの歯車であり続ける方が、ずっと恐ろしい》
以前、湊に言った言葉だった。
今でも——そう思うか。
思う、と答えようとして——今日のことが来た。
MiP-15-123の悲しみを「仲間を得る機会」と計算していた自分。
TeN-085の絶望を「データ」として読んでいた自分。
それをしながら——歯車であり続けることを、恐ろしいと言っている自分。
《……歯車でないとすれば、私は何だ》
書いて——また止まった。
長い沈黙があった。
換気の唸りだけが、部屋を満たしていた。
---
新しい行に、智宇は書いた。
《今日起きたことは全て、失敗だった。
しかし失敗には——形がある。
形がある失敗は、次に使える》
そこまで書いて——鉛筆が、少しだけ速くなった。
《E.O.Nの監視が届く前に、言葉を使わずに何かを伝える方法。
言葉を使わなければ——記録されない。
その方法が、どこかに、あるはずだ》
書いてから、少しだけ——さっきまでと、違うものが来た。
怒りではなかった。
希望でも、なかった。
ただ——次がある、という感覚だった。
小さな、冷たい、しかし確かな感覚だった。
---
智宇は、日記帳を閉じた。
隠し板の下に、滑り込ませた。
窓のない書斎に、人工光が降りていた。
「父なるE.O.Nの目」が、いつもの角度で、智宇を見ていた。
智宇はその目を、少しの間、見返した。
何も言わなかった。
何も思わないようにした。
——できなかったが。
椅子から立ち上がり、寝室へ向かった。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :00:02:11 ~ 00:47:33
内容 :書斎にて端末操作なし
(静止状態:長時間)
感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
====================
LOG_0030-E03:微笑の深淵
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日時:西暦2121年3月18日(火)10:20
第09破棄体再利用施設 施設総監室
監視対象:韓智宇
朝の総監室に、張偉強はいなかった。
今日も、来ていない。
端末に、欠勤通知が届いていた。
『持病の悪化により』という一行だけ。
韓智宇は、その一行を見て苦々しく眉を寄せた。
自分が来たから、彼はもう無理して出勤しなくても平気だと思っているに違いない。
端末を開いた。
施設の稼働状況を確認した。
破棄体の状態チェックが、定刻通りに完了していた。
Pecus従業員の出勤状況——全員、異常なし。
「おはようございます、韓智宇様」
MeG-18-068が、扉から入ってきた。
昨日と変わらない声だった。
昨日と変わらない敬礼だった。
しかし——伝達環の位置を、一瞬だけ、自分の指先で触れた。
ほんの一瞬。
すぐに手を下ろした。
智宇は、それを見た。
見て——何も言わなかった。
「今日のスケジュールを確認する」
「はい」
二人は、端末の画面を見た。
---
10:28。
メインモニターに、通知が来た。
────────────────────────────────────
[※緊急来訪通知]
受信 :10:28:03
来訪者 :Alejandro Valcárcel Cortez
階位 :Domini/Magister
所属 :秩序省 危険思想摘発局
役職 :秩序監察官
目的 :現場視察
到着 :11:00(本通知より32分後)
事前申請 :なし
────────────────────────────────────
『事前申請:なし』
智宇は、その一行を二度、読んだ。
予告なく来る、ということ。
準備をさせない、ということ。
あるいは——準備など、必要ないと思っている、ということ。
どれが正しいのかを考える前に、端末に触れる右手が、震えていた。
---
「……韓智宇様?」
MeG-18-068の声が、遠くで聞こえた。
智宇は、端末の画面から目を離した。
MeG-18-068を、見た。
彼女は、智宇の顔を見ていた。
その目に浮かんでいたのは、戸惑いと、はっきりした不安。
まるで、具合の悪い人間でも見るような目。
智宇は、深く息を吸った。
ゆっくりと、吸った。
E.O.Nの感情スキャンが今も、それを記録しているのが分かっていた。
それでも——吸わなければ、次の言葉が出なかった。
「11:00に…COREの……上層部の者が」
そこで、言葉が途切れた。
廊下の換気音が、聞こえた。
どこか遠くから、コンベアの音が聞こえた。
「来る」
今この瞬間も、E.O.Nは、会話の全てを記録している。
MeG-18-068に何かを言うことは、E.O.Nに言うことと同じだった。
「……出迎える準備をしよう」
それだけ言った。
MeG-18-068は「はい」と言った。
智宇は、彼女を同行させる事にした。
それが何のためだったかを、智宇は自分でも、説明できなかった。
---
11:00まで、32分あった。
『Magister』
(最上位階位)
智宇は、そのまま端末の画面から視線を外した。
窓のない部屋。
人工光が、影を作らずに降りていた。
「父なるE.O.Nの目」が、正面の壁から、こちらを見ていた。
智宇は、その目を見た。
見返した。
何秒か、そうしていた。
——また画面を見ようとして、やめた。
(普通にしていればいい)
そう思った。
(E.O.Nに見られているのだから、普通にしていれば——)
しかし次の瞬間に気づいた。
「普通にしようとしている」こと自体が、すでに普通ではない。
普通の人間は、普通にしようとは思わない。
ただ、普通にしている。
智宇は、自分が今、「普通に見える姿勢」を作ろうとしていることを、知った。
知った瞬間——その姿勢が、崩れた。
椅子の背もたれに、少しだけ深く沈んだ。
---
「アレハンドロ…さん」
近くで端末を凝視するMeG-18-068が、ふと言った。
「…そうだ」
「最上位階位…」
それは、Pecusからすれば、聞きなれない単語かもしれない。
Dominiである智宇にとっても、あまり聞かない単語だった。
「世界で一番偉い階級だ」
「……」
この時MeG-18-068が、どんな顔をしたのかは分からなかった。
ただ、穏やかな空気ではないことは確かだった。
「世界に、数百人しかいないそうだ」
「お会いした事は、ありますか?」
「ない。アレハンドロは勿論、Magister階位の誰とも、会った事はない」
「何の目的で、こんなところに来るのでしょうか…」
訪問目的は『現場視察』と書いてある。
しかし問題は、なぜ視察に来るのか?だった。
「……」
施設に直接、Magisterの者が来るなど、聞いた事もなかった。
当然ながら、監視省で働いていた頃は、一度も来ていない。
——しかし智宇は、薄々察していた。
---
11:00まで、あと18分だった。
MeG-18-068が、端末の画面を操作していた。
マニュアルや対応の仕方を確認しているのかもしれない。
智宇は、その横顔を見た。
(巻き込んだ)
その言葉が、頭に来た。
昨日、彼女のスコアを-3にした。
そして今日、上層部の来訪に、彼女を立ち会わせようとしている。
理由は分かっていた。
一人でいると——崩れてしまいそうだったから。
それは、MeG-18-068のためではなかった。
自分のためだった。
(それでも)
それでも、呼んだ。
呼んで——隣にいてもらっている。
そのことへの言葉を、智宇は持っていなかった。
持っていないまま——時間が、過ぎた。
---
11:00まで、あと3分だった。
入口のカメラに、人影が映った。
白いスーツだった。
一人だった。
智宇は、モニターの映像を見た。
濃いダークブラウンの髪。
白めのオリーブ肌。
引き締まった体格。
中肉中背。
歩き方が——静かだった。
急いでいなかった。
しかし遅くもなかった。
この施設の廊下を、すでに知っている人間の歩き方だった。
(ここには一度も、来たことがないはずだ)
しかし、そう見えた。
智宇は、立ち上がった。
「来た」とMeG-18-068に言いかけて——言わなかった。
彼女も、モニターを見ていた。
視線を合わせると、
二人は、入口へ向かった。
---
正面入口の、大きなドアが開いた。
アレハンドロ・バルカルセル・コルテスが、そこに立っていた。
最初に智宇が感じたのは——この人間が“見ている”ということだった。
入ってきた瞬間に、施設の内装全体を見た。
一度だけ。左から右へ。
それだけだった。
その視線がどこで止まったのか——智宇には、分からなかった。
分からなかったが——全部、見た。
それだけは、分かった。
「韓智宇君。初めまして」
声が、来た。
温かい声だった。
滑らかだった。
スペイン語訛りのラテン語が、その声に乗っていた。
「アレハンドロ・バルカルセルだ。突然で申し訳ないね」
申し訳ない、と言った。
その言葉が——智宇の中で、どこにも置けなかった。
Magisterが、下位のDominiに「申し訳ない」と言う。
それは、どういう言葉なのか。
「定期視察として、施設の様子を見て回ることになっているんだ」
微笑んでいた。
怒っていなかった。
威圧していなかった。
ただ——見ていた。
智宇を、まっすぐに。
そこで、MeG-18-068が深く頭を下げた。
角度が、いつもより深かった。
「……アレハンドロ様。当施設へのご来訪、誠に恐れ入ります」
それは、本来なら智宇が言うべき言葉だった。
それを助手が先に言った。
智宇は遅れて頭を下げた。
遅れた、ということを——アレハンドロは見ていた。
見ていないかもしれなかった。しかし、見ていた気がした。
---
「ほう」
アレハンドロの視線が、初めて智宇から外れた。
MeG-18-068へ、向いた。
一秒。
その一秒間——智宇は、MeG-18-068の顔を横から見た。
彼女は、正面を向いていた。
アレハンドロを見ていた。
表情が、なかった。
完璧な、敬礼の角度だった。
「MeG-18-068か」
アレハンドロが、彼女の識別番号を呼んだ。
「忠良種としては優秀な個体だと聞いている」
MeG-18-068は「ありがとうございます」と言った。
アレハンドロは、少しだけ首を傾げた。
傾げながら——MeG-18-068に向かって、言った。
「君が助手に選ばれた理由を、自分ではどう思っているかね」
MeG-18-068の、喉が動いた。
一瞬——答えが出なかった。
その「一瞬」が、空気の中に残った。
「……韓智宇様の、ご判断によるものです」
「そうか」
アレハンドロは、MeG-18-068から視線を外した。
また、智宇へ戻した。
その切り替わりの速さが——MeG-18-068を「確認した」という感じだった。
興味を持ったのではなく。
何かを測って、終えた。
智宇は、それを見ながら——右手を、ズボンのポケットに入れた。
拳を、握った。
E.O.Nのカメラから見えない場所で。
---
「若いDominiが、自らここへ異動するとは——実に珍しい」
アレハンドロが、歩き始めた。
施設の内部へ。
案内を求めることなく。
智宇は、その横に並んだ。
並びながら——歩幅を合わせた。
合わせながら、速さを確認した。
速くなかった。
急いでいなかった。
「破棄体の根本原因を分析したい、と申請書にあった」
「はい」
「素晴らしい動機だ」
その言葉の——どこが素晴らしいのかを、智宇は考えた。
考えながら歩いた。
廊下の人工光が、等間隔に降りていた。
(素晴らしい、という言葉を、この人間はどういう意味で使っているのか)
分からなかった。
褒めているのか。
試しているのか。
あるいは——どちらでもないのか。
アレハンドロの横顔を、智宇は盗み見た。
穏やかだった。
何も言っていない顔だった。
しかし——何も考えていない顔でも、なかった。
(この人間は今、何を見ているのか)
「何か、特別な理由があったのかね?」
アレハンドロが、また聞いた。
今度は、智宇の方を見ながら。
智宇は、目を合わせなかった。
合わせると——何かが、持っていかれる気がした。
根拠のない感覚だった。
しかし——そう感じた。
「監視省での経験を、現場で活かしたいと考えました。Pecus階級のスコア低下には、端末の数値では見えない要因があると——」
「そうだね」
遮られた。
柔らかく、遮られた。
「端末の数値では見えないものが、ここにはある」
アレハンドロは、ガラスの向こうを見た。
収容区画だった。
透明なカプセルが、並んでいた。
「それを見ようとする目は——貴重だ」
何の感情もなく、言った。
怒りがなかった。
皮肉もなかった。
智宇は、その言葉を聞いた。
聞きながら——どこに置けばいいか、分からなかった。
---
廊下を歩きながら——アレハンドロは、ほとんど施設の説明を求めなかった。
ただ、歩いた。
見た。
時折、何かに目を止めた。
何を見ているのかを——智宇は、追いきれなかった。
MeG-18-068が、後ろについていた。
足音が、していなかった。
智宇には、彼女が息をしているかどうかも、分からないくらいだった。
収容区画のガラスの前で、アレハンドロは少しだけ立ち止まった。
カプセルを、見た。
一体ずつ——見ているかどうかも、分からなかった。
「人は」
アレハンドロが、口を開いた。
「なぜ、ここに来るのだと思う?」
質問だった。
誰に向けたのか——分からなかった。
智宇は答えた。
「スコアが一定以下になった場合、システムが——」
「そうではなくて」
また、柔らかく、遮られた。
「なぜ、スコアが下がるのか——と聞いている」
智宇は、その問いを聞いた。
(この人間は、今、何を確かめているのか)
答えを求めているのか。
答え方を、見たいのか。
あるいは——答えではなく、答える前の「間」を見たいのか。
智宇は、一拍置いた。
置いてから、言った。
「……システムへの適応に、個体差があるからです」
アレハンドロは、答えなかった。
ガラスを、見ていた。
その沈黙が——正解だったのか、不正解だったのかを、智宇は知ることができなかった。
---
視察が終わった。
総監室の前まで戻ってきた時、アレハンドロは立ち止まった。
智宇を、見た。
今日初めて——まっすぐに、目を合わせた。
智宇は、反射的に視線を受けた。
受けた瞬間に——後悔した。
視界がそこで止まった。
目を離すべきだと分かっていた。
しかし——離す、という動作が、一瞬、どこかに消えた。
気づいた時には、まだ見ていた。
「君の仕事ぶりは、注目している」
言った。
温かい声で。
滑らかに。
「これからも——期待しているよ、韓智宇君」
それだけ言って。
アレハンドロは、廊下を歩き始めた。
足音が、していなかった。
Domini仕様の靴底なのか。
歩き慣れているのか。
遠ざかった。
角を曲がった。
消えた。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :11:00:00 ~ 11:23:48
内容 :Magister階位訪問者との同行視察
感情スキャン:抑制状態 軽度の変動を検知
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
---
出入り口の大きなドアが閉まる。
その場に、智宇とMeG-18-068だけが残った。
沈黙があった。
智宇は、出入り口を背にしたまま、動かなかった。
MeG-18-068も、動かなかった。
換気の唸りだけが、聞こえた。
「……韓智宇様」
MeG-18-068が、口を開いた。
声が、少しだけ、低かった。
「あの方は……」
そこで、止まった。
続きが、来なかった。
智宇は、彼女を見た。
彼女は、出入り口の方を——アレハンドロが消えた方を、見ていた。
続きを言おうとして、言えなかったのではなかった。
続きが——出てこなかった、という感じだった。
「……怖い方ですね」
それだけ言った。
怒っているわけではなかった。
責めているわけでも、なかった。
ただ——感じたことを、言った。
感じたことが、その六文字だった。
「…そう、だな」
智宇は、小さく答えた。
その後、会話は続かなかった。
E.O.Nは、その沈黙を記録した。
しかし——その沈黙の中に何があったかを、記録することは、できなかった。
---
『期待している』
智宇は、その言葉を、頭の中で繰り返した。
繰り返すたびに——手触りが変わった。
最初に聞いた時は、警告に聞こえた。
二度目は、観察の宣言に聞こえた。
三度目は——何にも聞こえなかった。
何にも聞こえないことが——最も、重かった。
怒りをぶつけられる言葉は、返せる。
脅しとして読める言葉は、身構えられる。
しかし——どこにも置けない言葉は。
何度繰り返しても、何も返せない言葉は。
智宇は、椅子に座った。
端末を、開いた。
今日の業務記録を、入力し始めた。
《11:00。Magister階位・秩序監察官による定期視察。異常なし》
一行打ち込んで——止まった。
「異常なし」と書いた。
その四文字を、見た。
それから——続きを打ち込んだ。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :11:48:55
内容 :軽度の恐怖反応・抑制行動を検知
分類:通常範囲内
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
====================
LOG_0030-E04:空白の日付
====================
日時:西暦2121年3月19日(水)深夜0:00
韓智宇自宅 書斎
アレハンドロが来た日の夜。
智宇は書斎に座っていた。
端末には、いつものようにレトロゲームが起動していた。
22世紀に誰も遊ばない、古いRPGの洞窟ダンジョンの中だった。
異様なほどに高いエンカウント率で、パーティーメンバーは疲弊していた。
それから操作はせず、放置していた。
日記帳を取り出した。
今夜は、すんなり開けた。
昨夜のように、最初の一文字で詰まることは、なかった。
それが——良いことなのかどうか、分からなかった。
---
《3月18日》
書いた。
《今日、Magister階位の者がやってきた。
名前はアレハンドロ・バルカルセル・コルテス。
秩序省、危険思想摘発局、秩序監察官》
一行ずつ、書いた。
昨夜の殴り書きとは違った。
整っていた。
整いすぎていた。
それが分かっていた。
分かっていて——整えた。
整えないと、書けなかった。
《奴は間違いなく、こちらの動向を監視する目的でやってきた。
上層部にまで目を付けられているとなると——もう身勝手には動けない》
そこで、鉛筆が止まった。
「身勝手には動けない」と書いた。
その言葉を見た。
(これは、正確か)
身勝手には動けない。
では——身勝手でなければ、動けるのか。
智宇は、その問いを頭の中で転がした。
答えが出なかった。
出なかったので、続きを書いた。
《突破口は何かあるはずだが、何も思いつかない》
止まった。
《何も思いつかない》
その一文を、三度、読んだ。
正確だった。
今の自分には——何も、思いつかなかった。
計画の糸口も。
次の一手も。
E.O.Nの目を欺く方法も。
全部が、今夜は——見えなかった。
---
智宇は、鉛筆を置いた。
置いて——昨夜書いた最後の一行を、めくって読んだ。
《E.O.Nに感知されない方法が、あるはずだ》
あるはずだ、と書いていた。
一昨日の夜も、昨夜も、そう書いた。
しかし今夜——その“はずだ”が、どこか遠かった。
『期待しているよ、韓智宇君』
アレハンドロの声が、頭の中で再生された。
それは温かく、滑らかだった。
底が、見えなかった。
智宇は、その声を頭の中から追い出そうとした。
出て、いかなかった。
---
新しい行に、書いた。
《現状の整理》
書いてから——少し可笑しかった。
「整理」などと書いて、整理できるものが今あるのか。
それでも、書き続けた。
《・監視システムは完璧だ。この施設に死角はない
・Magisterに目を付けられた。行動の自由は大幅に制限される
・MiP-15-123との接触は失敗した。メグのスコアを-3にした
・他のPecus従業員三人との接触も、どれも届かなかった》
そこまで書いて——止まった。
並べると、見えた。
これは詰みの地図だった。
地図の上に、自分が立っている。
どの方向にも、道がない。
壁だけが、ある。
洞窟ダンジョンには、出口は用意されている。
今の自分の状況には、出口があるか分からない。
《何も出来るとは思えない》
書いた。
その一文が——昨夜より、今夜の方が、ずっと静かに、紙に乗った。
怒りがなかった。
嘆きも、なかった。
ただ——そう書いた。
そう書くことが、今夜の自分には、正確だった。
---
しばらく、何も書かなかった。
換気の唸りが、聞こえた。
廊下の向こうで、妻が眠っているはずだった。
子供たちは、寮にいる。
智宇は、寝室の方向を、一度だけ見た。
見て——また日記帳に向いた。
《このまま管理された奴隷のまま死んでたまるか》
そう、書こうとした。
書きかけて——止まった。
止まった理由を、考えた。
この言葉は、湊と握手した夜にも、頭にあった。
試験室で右手を見た後も、頭にあった。
しかし今夜——書けなかった。
書けない、ということが——何を意味しているのか。
怒りが消えたのか。
それとも——怒りを使う気力が、今夜はないのか。
どちらかを決めることが、できなかった。
代わりに、別のことを書いた。
---
《アレハンドロが帰った後、メグが言った。
「怖い方ですね」と》
そこで鉛筆が、少しだけ止まった。
《彼女はあの一瞬も、完璧な敬礼を崩さなかった。
しかし——怖い、と言った。
それだけを、言った》
止まった。
《私は「そうだな」とだけ、素っ気なく答えた。
まるで、自分だけは平静だったかのように。
しかし……》
三点リーダーを書いた。
続きが、出てこなかった。
出てこないまま——その三点リーダーを、しばらく見た。
「しかし」の後に来るものが、何なのかは——分かっていた。
分かっていて、書かなかった。
分かっている答えを書くと、確定してしまう。
確定したくなかった。
だから、書かなかった。
---
日記帳を閉じた。
閉じる前に——最後に一行だけ、書いた。
《それでも、何かが、あるはずだ》
書いてから、見た。
昨夜も、おとといも、同じようなことを書いた。
毎晩、同じことを書いている。
しかし今夜——その一行が、昨夜より細く見えた。
信じて書いたのか。
信じたくて書いたのか。
どちらか、分からなかった。
日記帳を、隠し板の下に仕舞った。
端末では、洞窟ダンジョンの陰気なBGMが、まだ小さく再生されていた。
智宇は、その画面を消した。
部屋が暗くなった。
「父なるE.O.Nの目」だけが、壁の中で光っていた。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :00:00:11 ~ 00:38:52
内容 :書斎にて端末操作
感情スキャン:抑制状態 変動なし
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
---
それから、3月19日(水)から3月22日(土)の4日間——
韓智宇は、何も動かなかった。
毎朝、施設に出勤した。
Pecus従業員に挨拶をした。
MeG-18-068と今日のスケジュールを確認した。
端末で書類を処理した。
昼食を食べた。
退勤した。
それだけだった。
張偉強が、3日目に久々に出勤した。
葉巻を吸いながら、漫画アプリを開いていた。
智宇は彼に、Magisterのアレハンドロが訪問した事を伝えた。
「へぇ、そうなのか」
それだけだった。
張偉強は、また漫画に目を戻した。
智宇は、その背中を見た。
(お前がいれば——せめて、隠れる場所があった)
そう思ってから——智宇は、少しだけ止まった。
隠れる場所を、探していた。
自分が、隠れることを、求めていた。
それが今日初めて分かったことなのか、ずっと分かっていたことなのか——判断できなかった。
---
4日間の夜——智宇は毎晩、日記帳を開いた。
しかし書いたのは、日付だけだった。
日付を書いて、それ以上、鉛筆が動かなかった。
動かない鉛筆を、しばらく持っていた。
それから、仕舞った。
3月19日。
3月20日。
3月21日。
3月22日。
四行の日付だけが、白いページに並んだ。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :3/19 ~ 3/22
内容 :通常勤務 異常行動なし
感情スキャン:抑制状態 安定
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
====================
LOG_0030-EPILOGUE
====================
閲覧者よ。
韓智宇は今、詰んでいる。
彼自身も、そう思っている。
毎晩、日記帳に「何もできない」と書き、日付だけ書いて閉じる夜が続いている。
私も——そう見える。
E.O.Nの監視は完璧だ。
Magisterが現れた。
協力者の獲得は、三度失敗した。
MeG-18-068のスコアは削られた。
計画の糸口は、今夜も見えない。
詰んでいる。
正確に言えば——今の手で、今の盤面で、今の駒を動かせば、詰む。
しかし。
私がこの社会を観測し続けて気づいたことがある。
E.O.Nは、人間の行動を記録する。
言葉を記録する。
感情スキャンの数値を記録する。
脈拍を。体温を。視線の方向を。
しかし——『何もしない』という状態は、記録できない。
正確には——記録するが、意味を読めない。
韓智宇が4日間、日付だけを書いて日記帳を閉じた夜。
E.O.Nのログには「感情スキャン:抑制状態 安定」とある。
安定、と記録した。
しかしその「安定」の中に何があったかを——E.O.Nは知らない。
私には、少しだけ分かる。
あれは諦めではなかった。
怒りを使い果たした後の、静けさだった。
静けさの中で——何かが、ゆっくりと、形を変えていた。
どんな形に変わったかを——今の私にも、まだ言えない。
しかし変わった。それだけは、分かる。
---
アレハンドロについて、一つだけ言っておこう。
彼は智宇に「期待している」と言った。
その言葉の意味を——智宇は今夜も繰り返している。
私には、その言葉の意味が分かる。
「期待している」は——警告だった。
しかし同時に、観察の宣言でもあった。
「お前を見ている」という意味でも、あった。
アレハンドロにとって、韓智宇はまだ——「壊す前に、もう少し見ておきたいもの」だ。
それが智宇にとって、猶予なのか。
それとも、より精密な罠への誘いなのか。
私にも——まだ、分からない。
---
MeG-18-068が「怖い方ですね」と言った。
六文字だった。
たった六文字だった。
しかし智宇は、その六文字を、今夜の日記帳に書いた。
他の何よりも——丁寧に、書いた。
E.O.Nは、その事実を記録していない。
日記帳の内容は、E.O.Nの監視外にある。
だから——何を書いたかを、E.O.Nは知らない。
しかし私は、知っている。
智宇が今夜最も丁寧に書いたのは、現状の整理でも、Magisterへの警戒でも、計画の見直しでも、なかった。
MeG-18-068が言った六文字だった。
その事実が——何を意味するかを。
智宇自身は、まだ気づいていない。
気づいていないまま——眠りに入った。
「父なるE.O.Nの目」が、暗い部屋を見ていた。
智宇が眠った後も、見ていた。
しかし——眠りの中で人間が何を考えるかを。
E.O.Nは、正確に記録できない。
LOG_0031へ続く




