表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:疑念という名の病
31/33

LOG_0030:詰みの盤面

====================

LOG_0030-E01:届かぬ手

====================

日時:西暦2121年3月17日(月)15:05

第09破棄体再利用施設 施設総監室

監視対象:韓智宇(ハン・ジウ)


午後の執務室に、人はいなかった。

張偉強は今日も来ていない。

MeG-18-068は研修中だ。

Pecus従業員たちは、それぞれの持ち場にいる。


韓智宇は一人で、端末の前に座っていた。


破棄体データベース。

午前中から開いたままの画面。

スクロールを止めた位置に、一件の記録があった。


────────────────────────────────────

破棄体管理記録

────────────────────────────────────

管理番号   :TeN-085

元識別番号  :AJ22-TeNo-20980918-085

略称     :TeN-18-085

性別     :男性

生年月日   :2096年11月18日

破棄体化時年齢:22歳5ヶ月

最終人間性スコア:-10.4

処置執行日  :2121年2月28日

処置理由   :人間性スコアの恒久的基準値以下への低下


【経歴概要】

配属当初ランク3。

2119年、慢性疾患の発症により作業効率が基準値を下回る。

同年、ランク2へ降格処置。


降格後、スコア改善の兆候なし。

再帰教育施設への連行を実施。

正常思考テスト:不合格(2回)

再教育プログラム適用後、ランク1として

高汚染物質処理施設・清掃部門へ再配属。


再配属後、慢性疾患の悪化により

作業効率は更に低下。

人間性スコアは継続的に基準値を下回り、

2121年2月28日、ゼロ点以下に到達。

同日、破棄体化処置を執行。


【備考】

再教育期間中、複数回にわたり

非効率な感情反応(不満・憤慨)を記録。

同施設出身の個体MiP-15-123との

比較言動あり。要注意個体として記録済み。

────────────────────────────────────


智宇は、続く彼の履歴を確認する。

破棄体になる前のTeN-18-085は、興味深い発言をしていた。


『俺は本当はもっと優秀なんだ。システムの待遇は間違っている』


システムはその発言を「感情的逸脱行動」として処理した。

しかしそれは“逸脱行動”などとは思えなかった。


TeN-18-085は、ランク3として6年間、基準値を上回るスコアを維持し続けた。

20歳の時に発症した慢性疾患は、最初は軽度だった。

投薬を申請したが、効果は殆ど無かった。


疾患は悪化し、作業効率が下がった。

スコアが下がり、ランクが下がった。


6年間、上がり続けたものが——病気一つで、半年で崩れた。

それが「システムの待遇は間違っている」という言葉の、全てだった。


慢性的な病気を抱え、ランクを落とされ、理不尽に怒り、再教育に二度落ち、汚染物質の処理現場に送られ——

そして今、このカプセルの中にいる。


智宇は端末から目を離した。

総監室の窓のない壁を見た。

人工光が、均一に、部屋を満たしていた。


TeN-18-085は、システムによって“意図的に落とされた”可能性がある。

そうでないとすれば、システムに欠陥がある事になる。


Pecusにおけるランク1~5は、それぞれ適切な人口数に調整される必要がある。

そして、ランク1から、常に一定数の破棄体が出てくるように、意図的に操作・誘導される。


元々はランク3だったTeN-18-085も、その被害者である可能性は高い。


では、どうして彼はシステムに狙われたのか?

適当なランダムか。それとも、E.O.N及びCOREに疑問を抱いたのが切っ掛けなのか…?


それは分からなかった。

しかし少なくとも、彼は破棄体にされる直前に、明確に「おかしい」と発言していた。

システムに疑問を抱くPecusは、間違いなくいる。


では、彼のライバルであった、MiP-15-123はどうだろうか?


——そう思った次の瞬間であった。

端末に、通知が来た。


────────────────────────────────────

[来訪通知]

受付時刻 :15:18:02

来訪者  :MiP-15-123

フルコード:AJ22-MiPo-20980815-123

性別/年齢:男性/22歳

現ランク :2

来訪目的 :一般見学(事前予約済)

予約時刻 :2121年3月17日 15:20

案内担当 :自動案内アンドロイド(AN-07)

────────────────────────────────────


智宇は、画面を見た。


(来た)


MiP-15-123の施設見学の予約は、一週間前から入っていた。


『同じ施設で育ったライバル』


智宇は端末を閉じた。

立ち上がった。

廊下に出た。


MiP-15-123は、破棄体になったTeN-18-085を見に来た可能性がある。

だとすれば——


智宇は今、協力者獲得の「機会」として計算に入れた。


智宇は、右手を握りしめた。

それは3月9日の試験室で、画面を選択した後に見た手と、同じ手だった。


棚の奥に何かを押し込む時、人はどんな顔をするのか——

鏡がないので、自分では見えなかった。


---


15:20。

中央ゲートのカメラに、MiP-15-123の姿が映った。


案内アンドロイドAN-07に先導されながら、施設に入ってくる。

身長169cm。

人間性スコア、186。


プロフィールによれば、

彼もまた、数日前にランク3からランク2へと降格している。


智宇は、収容エリアに向かう廊下の途中で、その姿を遠目に見た。

MiP-15-123のその顔には、沈鬱な影が落ちていた。


「悲しみ」と「後悔」。抑制しきれない感情。

それは感情スキャンに記録されているだろう——しかしそれが今は、MiP-15-123の全身ににじみ出ていた。


(TeN-18-085と、ライバルだった男)


智宇の足が、一歩分だけ遅くなった。


この男の悲しみの中に、自分は手を伸ばそうとしている。

「協力者になり得る」と判断して。

「機会」と呼んで。


——それは、正しいのか?


問いは、廊下の空気に溶けた。

答えは、出なかった。

出ないまま——智宇は歩き続けた。


---


収容エリアのガラスの前に、MiP-15-123は立っていた。


カプセルを、見ていた。

一体ずつ——探すように、見ていた。


そして見つけた。

破棄体TeN-085のカプセルの前で、足が止まった。


動かなかった。

何も言わなかった。

ただ、ガラスの向こうの顔を——見ていた。


智宇は、そのMiP-15-123の背中を見ながら、近づいた。


(ここで声をかければ、何かが始まるかもしれない)


(ここで声をかければ、この男の傷口に手を突っ込むことになる)


二つの思考が、同時に、頭にあった。

どちらが本当のことを言っているのかを判断する前に——智宇は、声をかけた。


「MiP-15-123、少しいいかな」


---


MiP-15-123が振り返った。

智宇を見た瞬間——表情が、変わった。


悲しみが、引いた。

代わりに来たのは——警戒だった。


智宇には、それが分かった。

Dominiから声をかけられる。

なぜ自分に。

何をされるのか。

どう答えれば安全か。


そういう計算が、MiP-15-123の目の奥で、瞬時に走るのが見えた。


「私は、当施設の総監補佐、韓智宇だ」


名乗りながら——智宇は、この男が自分をどう見ているかを、正確に把握していた。


「君の訪問目的は『見学』だが——私は、TeN-085に関する詳細なプロフィールを確認することができる」


一拍、置いた。


「この破棄体が『なぜ』ここにいるのか、データを見せてやろうか」


「君の友人の」という言葉を、智宇は使わなかった。

使おうとして——使えなかった。

その言葉を使った瞬間、MiP-15-123の「悲しみ」を武器として扱うことの証明になってしまうと、智宇の中の何かが判断した。


だから使わなかった。

しかし——「なぜここにいるのか」という言葉は、使った。


智宇は、自分がどこで線を引いたかを、その瞬間に知った。


---


その瞬間、端末から警告音が鳴った。


《警告:対象 Domini Han Ji-woo。

来訪目的「施設見学」の範囲を超えた対話を検知しました。

当該行動は「業務外の非効率接触」として記録されます。

自己管理を推奨します。》


音声は、明瞭だった。

収容エリアの静けさの中で、反響した。


MiP-15-123の目が——変わった。

悲しみも、警戒も、消えた。

代わりに来たのは——純粋な、恐怖だった。


彼は後ずさった。

一歩。また一歩。


智宇を見る目が、変わっていた。

「危険なDomini」を見る目だった。

「近づいてはいけない者」を見る目だった。


(終わった)


智宇は、それを見て、そう思った。


E.O.Nの警告が来た瞬間ではなかった。

MiP-15-123の目が変わった瞬間に——終わったと、思った。


---


MiP-15-123は、案内アンドロイドの方へ歩いた。

早足だった。

振り返らなかった。


TeN-085のカプセルを、最後に一度も見なかった。

智宇は、その背中が遠ざかるのを見ていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :15:22:08

内容  :収容区画にて要観察個体と接触

     警告発令:1件

     対話継続時間:41秒

     危険度評価:低〜中

フラグ :要注意(継続)

────────────────────────────────────

```


その直後だった。

MeG-18-068が、動いた。


それは彼女が「決めた」という感じではなかった。

決める前に、体が動いている様子だった。


TeN-085のカプセルの前で立ち尽くすMiP-15-123を、彼女はずっと見ていた。

それがどのくらいの時間だったか——おそらく本人にも分からなかっただろう。


「MiP-15-123様…」


声が、出た。

出てから——MeG-18-068は、それを認識したように見えた。

それでも、止まらなかった。


「TeN-085と……直接、会いたくないですか」


周囲を、確認する動きがあった。

一瞬だけ。

上司のFeC-29-155の姿が見えないことを——確認したのか、していないのか。


収容エリアの操作盤に、手が伸びた。

その時、セキュリティロックが解除された。


「早く——友人の方に、会って」


---


智宇は、それを見ていた。

止めることが、できなかった。


止めるべきだと、頭は言った。

しかし足が、動かなかった。


MiP-15-123は、恐怖の表情のまま——しかし、開いた扉を見て、一歩踏み込んだ。

TeN-085のカプセルに、駆け寄った。


「TeN……俺だ。MiPだ。分かるか」


答えは、なかった。

TeN-085の目は、天井を向いていた。

胸が上下していた。

それだけだった。


MiP-15-123は、その顔を——近くで、見た。

言葉を失った。


ガラス越しに見ていた時と、扉一枚を隔てた距離で見る時と——同じ顔のはずだった。

しかし何かが、違った。

何が違うのかを、MiP-15-123は言葉にできなかったはずだ。


ただ、もうどこにも“彼”がいないことを——この距離で、初めて知った。


《緊急警告。

Pecus個体MiP-15-123による収容エリアへの無許可侵入を確認。

Patroni MeG-18-068による規律違反を記録》


MeG-18-068の伝達環に、数値が浮いた。


《人間性スコア:-3》


「ひっ……ごめんなさい……非効率でした」


震える声で、彼女はロックをかけ直した。

MiP-15-123は、案内アンドロイドに連れられるまま——茫然と、出口へ向かった。

顔に、何も残っていなかった。


---


智宇の端末に、通知が来た。


《警告:Domini Han Ji-woo。

あなたの専属Patroni MeG-18-068は、著しい規律違反を犯しました。

これは、あなたの管理者としての資質に疑問符をつけます。

管理体制の改善と監督の強化を強く推奨します》


智宇は、その文面を読んだ。

読みながら——収容エリアの静けさを見渡した。


MeG-18-068は、操作盤の前に立ったまま、動いていなかった。

伝達環の赤い光が、まだかすかに残っていた。

スコアが減点された、その光が。


TeN-085のカプセルは、また元通りになっていた。

目を閉じて、天井を向いて、胸が上下している。


MiP-15-123が来る前と——何も、変わっていなかった。


(全てが、裏目に出た)


その言葉が、頭に来た。

来て——しかしそれだけではないという感覚が、同時に来た。


MeG-18-068がしたことは——失敗だった。

計画にとっても、彼女自身のスコアにとっても。


しかし——あの瞬間、彼女が動いた理由は。

「機会」ではなかった。

「計算」でも、なかった。


智宇は、MeG-18-068の方へ歩いた。

歩きながら——棚の奥に押し込もうとしていた「何か」が、少しだけ、戻ってきた気がした。


「メグ」


低く、呼んだ。

MeG-18-068は、顔を上げた。

その目に——恐怖と、後悔と、それ以外の何かが、混在していた。


「わ…私は…ただ……」


そこで彼女の言葉が途絶えた。

智宇も、何も言わなかった。

言える言葉が、今は、なかった。


ただ——今の自分が、MiP-15-123の悲しみを「仲間を得る機会」と計算していた間に、

MeG-18-068は、破棄体と友人を合わせる為に体が動いていた。


智宇はこの時、胸の内側で微かな痛みを感じた。



```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :15:25:17

内容  :規律違反行動を記録

     スコア減点処理完了:-3

     感情スキャン:高度の恐怖・動揺反応

     危険度評価:中

フラグ :要注意(継続観察)

────────────────────────────────────

```



====================

LOG_0030-E02:夜の悔恨

====================

日時:西暦2121年3月18日(火)0:02

韓智宇自宅 書斎


深夜。

リビングから、ゲームの音がしなくなったのは、一時間前だった。

電源を切った記憶は、ない。

気づいたら、切れていた。


書斎の椅子に、いつから座っていたかも、分からなかった。

端末の画面は、タイムアウトで暗くなっていた。


智宇は、日記帳を取り出した。

隠し板の下から。

いつもの手順で。


開いた。

鉛筆を、持った。


---


最初の一文字が、出なかった。


今日のことを書こうとすると——全部が、一度に来た。

TeN-085のプロフィール。

MiP-15-123の背中。

E.O.Nの警告音。

MeG-18-068の伝達環の光。


何から書けばいいか、分からなかった。


何を書いても——何かを削ることになる気がした。


智宇は、鉛筆の先を紙に当てた。

当てたまま、少しだけ動かした。


---


《今日のことは》


そこで止まった。


消した。

消して、また書いた。


《全てが裏目に出た》


見た。

見てから——その一文が、正確かどうか、分からなくなった。


裏目、という言葉は、計画が正しくて結果が悪かった時に使う言葉だ。

今日——計画が正しかったのか。


MiP-15-123に近づいた時、自分は何をしようとしていたのか。

「協力者を得る」という目的を持っていた。

そのために、彼の悲しみを、利用しようとした。


それは——正しかったのか。

正しくなかったとすれば、裏目という言葉も正確ではない。


智宇は、また消した。


---


《MiP-15-123は帰った》


それだけ書いた。

事実だけを書いた。


続きを書こうとして——また止まった。


帰った、の続きに来るのは——MeG-18-068のことだった。

書こうとすると——スコアの数字が浮かんだ。

-3。


首輪のあの赤い光が、浮かんだ。


智宇は鉛筆を置いた。

置いてから、また持った。

また置いた。


---


《メグが動いた》


三文字だけ書いて、また止まった。

動いた、と書いた。

しかしあの瞬間——彼女は、何のために動いたのか。


(破棄体にどこまで意志が残っているのか、知りたいと思った)


恐らくはそういう事だろうと、薄々察していた。

しかし、破棄体TeN-085は、

かつての友人MiP-15-123が目の前に来ても、無反応だった。


《破棄体に、意志はない》


MeG-18-068の咄嗟の判断は、

そんな事実を確認するだけという結果に終わった。


---


しばらく、そのまま、紙を見ていた。


書けない、ということが分かった。

今日のことは、うまく書けない。


書けないまま——別のことを書いた。


《何も打つ手が》


止まった。


《——いや。ある。あるはずだ》


止まった。


《……》


---


智宇は、その三点リーダーを見た。


見ながら——今日、殴り書きをするつもりだったことを思い出した。

怒りを、紙にぶつけるつもりだった。


しかし怒りは、今——どこにもなかった。


施設から帰る車の中で、使い果たしていたのかもしれない。

あるいは——あのゲームの中に、置いてきたのかもしれない。


残っているのは——静けさだった。

奇妙な、静けさだった。


智宇は、新しい行に移った。


---


《E.O.N.の監視の前では、自由な会話も協力者の獲得も不可能だ》


書いてから——その文章が、今日初めて書いた「正確な一文」だと思った。


《私は今日、TeN-085のデータを見て、その後にMiP-15-123が来て、「運が来た」と思った》


止まった。


《——正確には、思おうとした》


また止まった。


《思おうとしたが、「君の友人の」という言葉は使いたくなかった。

何か、越えてはならない一線を越えてしまう気がしたから》


それだけ書いて——鉛筆を止めた。


---


《このまま、大衆から搾取し続けるシステムの歯車であり続ける方が、ずっと恐ろしい》


以前、湊に言った言葉だった。

今でも——そう思うか。


思う、と答えようとして——今日のことが来た。


MiP-15-123の悲しみを「仲間を得る機会」と計算していた自分。

TeN-085の絶望を「データ」として読んでいた自分。

それをしながら——歯車であり続けることを、恐ろしいと言っている自分。


《……歯車でないとすれば、私は何だ》


書いて——また止まった。


長い沈黙があった。

換気の唸りだけが、部屋を満たしていた。


---


新しい行に、智宇は書いた。


《今日起きたことは全て、失敗だった。

しかし失敗には——形がある。

形がある失敗は、次に使える》


そこまで書いて——鉛筆が、少しだけ速くなった。


《E.O.Nの監視が届く前に、言葉を使わずに何かを伝える方法。

言葉を使わなければ——記録されない。

その方法が、どこかに、あるはずだ》


書いてから、少しだけ——さっきまでと、違うものが来た。


怒りではなかった。

希望でも、なかった。


ただ——次がある、という感覚だった。

小さな、冷たい、しかし確かな感覚だった。


---


智宇は、日記帳を閉じた。

隠し板の下に、滑り込ませた。


窓のない書斎に、人工光が降りていた。

「父なるE.O.Nの目」が、いつもの角度で、智宇を見ていた。


智宇はその目を、少しの間、見返した。


何も言わなかった。

何も思わないようにした。

——できなかったが。


椅子から立ち上がり、寝室へ向かった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :00:02:11 ~ 00:47:33

内容  :書斎にて端末操作なし

      (静止状態:長時間)

     感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```



====================

LOG_0030-E03:微笑の深淵

====================

日時:西暦2121年3月18日(火)10:20

第09破棄体再利用施設 施設総監室

監視対象:韓智宇


朝の総監室に、張偉強はいなかった。

今日も、来ていない。


端末に、欠勤通知が届いていた。

『持病の悪化により』という一行だけ。


韓智宇は、その一行を見て苦々しく眉を寄せた。

自分が来たから、彼はもう無理して出勤しなくても平気だと思っているに違いない。


端末を開いた。

施設の稼働状況を確認した。

破棄体の状態チェックが、定刻通りに完了していた。

Pecus従業員の出勤状況——全員、異常なし。


「おはようございます、韓智宇様」


MeG-18-068が、扉から入ってきた。

昨日と変わらない声だった。

昨日と変わらない敬礼だった。


しかし——伝達環の位置を、一瞬だけ、自分の指先で触れた。

ほんの一瞬。

すぐに手を下ろした。


智宇は、それを見た。

見て——何も言わなかった。


「今日のスケジュールを確認する」


「はい」


二人は、端末の画面を見た。


---


10:28。

メインモニターに、通知が来た。


────────────────────────────────────

[※緊急来訪通知]

受信 :10:28:03


来訪者  :Alejandro Valcárcel Cortez

階位   :Domini/Magister

所属   :秩序省 危険思想摘発局

役職   :秩序監察官


目的  :現場視察

到着  :11:00(本通知より32分後)


事前申請 :なし

────────────────────────────────────


『事前申請:なし』


智宇は、その一行を二度、読んだ。


予告なく来る、ということ。

準備をさせない、ということ。

あるいは——準備など、必要ないと思っている、ということ。


どれが正しいのかを考える前に、端末に触れる右手が、震えていた。


---


「……韓智宇様?」


MeG-18-068の声が、遠くで聞こえた。


智宇は、端末の画面から目を離した。

MeG-18-068を、見た。

彼女は、智宇の顔を見ていた。


その目に浮かんでいたのは、戸惑いと、はっきりした不安。

まるで、具合の悪い人間でも見るような目。


智宇は、深く息を吸った。

ゆっくりと、吸った。

E.O.Nの感情スキャンが今も、それを記録しているのが分かっていた。

それでも——吸わなければ、次の言葉が出なかった。


「11:00に…COREの……上層部の者が」


そこで、言葉が途切れた。

廊下の換気音が、聞こえた。

どこか遠くから、コンベアの音が聞こえた。


「来る」


今この瞬間も、E.O.Nは、会話の全てを記録している。

MeG-18-068に何かを言うことは、E.O.Nに言うことと同じだった。


「……出迎える準備をしよう」


それだけ言った。

MeG-18-068は「はい」と言った。


智宇は、彼女を同行させる事にした。

それが何のためだったかを、智宇は自分でも、説明できなかった。


---


11:00まで、32分あった。


『Magister』

最上位階位(マギステル)


智宇は、そのまま端末の画面から視線を外した。


窓のない部屋。

人工光が、影を作らずに降りていた。

「父なるE.O.Nの目」が、正面の壁から、こちらを見ていた。


智宇は、その目を見た。

見返した。

何秒か、そうしていた。


——また画面を見ようとして、やめた。


(普通にしていればいい)


そう思った。


(E.O.Nに見られているのだから、普通にしていれば——)


しかし次の瞬間に気づいた。

「普通にしようとしている」こと自体が、すでに普通ではない。

普通の人間は、普通にしようとは思わない。

ただ、普通にしている。


智宇は、自分が今、「普通に見える姿勢」を作ろうとしていることを、知った。

知った瞬間——その姿勢が、崩れた。


椅子の背もたれに、少しだけ深く沈んだ。


---


「アレハンドロ…さん」


近くで端末を凝視するMeG-18-068が、ふと言った。


「…そうだ」


最上位階位(マギステル)…」


それは、Pecusからすれば、聞きなれない単語かもしれない。

Dominiである智宇にとっても、あまり聞かない単語だった。


「世界で一番偉い階級だ」


「……」


この時MeG-18-068が、どんな顔をしたのかは分からなかった。

ただ、穏やかな空気ではないことは確かだった。


「世界に、数百人しかいないそうだ」


「お会いした事は、ありますか?」


「ない。アレハンドロは勿論、Magister階位の誰とも、会った事はない」


「何の目的で、こんなところに来るのでしょうか…」


訪問目的は『現場視察』と書いてある。

しかし問題は、なぜ視察に来るのか?だった。


「……」


施設に直接、Magisterの者が来るなど、聞いた事もなかった。

当然ながら、監視省で働いていた頃は、一度も来ていない。


——しかし智宇は、薄々察していた。


---


11:00まで、あと18分だった。


MeG-18-068が、端末の画面を操作していた。

マニュアルや対応の仕方を確認しているのかもしれない。

智宇は、その横顔を見た。


(巻き込んだ)


その言葉が、頭に来た。

昨日、彼女のスコアを-3にした。

そして今日、上層部の来訪に、彼女を立ち会わせようとしている。


理由は分かっていた。

一人でいると——崩れてしまいそうだったから。

それは、MeG-18-068のためではなかった。

自分のためだった。


(それでも)


それでも、呼んだ。

呼んで——隣にいてもらっている。


そのことへの言葉を、智宇は持っていなかった。

持っていないまま——時間が、過ぎた。


---


11:00まで、あと3分だった。


入口のカメラに、人影が映った。

白いスーツだった。

一人だった。


智宇は、モニターの映像を見た。


濃いダークブラウンの髪。

白めのオリーブ肌。

引き締まった体格。

中肉中背。


歩き方が——静かだった。

急いでいなかった。

しかし遅くもなかった。

この施設の廊下を、すでに知っている人間の歩き方だった。


(ここには一度も、来たことがないはずだ)


しかし、そう見えた。


智宇は、立ち上がった。

「来た」とMeG-18-068に言いかけて——言わなかった。

彼女も、モニターを見ていた。


視線を合わせると、

二人は、入口へ向かった。


---


正面入口の、大きなドアが開いた。


アレハンドロ・バルカルセル・コルテスが、そこに立っていた。

最初に智宇が感じたのは——この人間が“見ている”ということだった。


入ってきた瞬間に、施設の内装全体を見た。

一度だけ。左から右へ。

それだけだった。


その視線がどこで止まったのか——智宇には、分からなかった。

分からなかったが——全部、見た。

それだけは、分かった。


「韓智宇君。初めまして」


声が、来た。


温かい声だった。

滑らかだった。

スペイン語訛りのラテン語が、その声に乗っていた。


「アレハンドロ・バルカルセルだ。突然で申し訳ないね」


申し訳ない、と言った。

その言葉が——智宇の中で、どこにも置けなかった。

Magisterが、下位のDominiに「申し訳ない」と言う。

それは、どういう言葉なのか。


「定期視察として、施設の様子を見て回ることになっているんだ」


微笑んでいた。

怒っていなかった。

威圧していなかった。


ただ——見ていた。

智宇を、まっすぐに。


そこで、MeG-18-068が深く頭を下げた。

角度が、いつもより深かった。


「……アレハンドロ様。当施設へのご来訪、誠に恐れ入ります」


それは、本来なら智宇が言うべき言葉だった。

それを助手が先に言った。


智宇は遅れて頭を下げた。

遅れた、ということを——アレハンドロは見ていた。

見ていないかもしれなかった。しかし、見ていた気がした。


---


「ほう」


アレハンドロの視線が、初めて智宇から外れた。

MeG-18-068へ、向いた。


一秒。


その一秒間——智宇は、MeG-18-068の顔を横から見た。

彼女は、正面を向いていた。

アレハンドロを見ていた。

表情が、なかった。


完璧な、敬礼の角度だった。


「MeG-18-068か」


アレハンドロが、彼女の識別番号を呼んだ。


「忠良種としては優秀な個体だと聞いている」


MeG-18-068は「ありがとうございます」と言った。


アレハンドロは、少しだけ首を傾げた。

傾げながら——MeG-18-068に向かって、言った。


「君が助手に選ばれた理由を、自分ではどう思っているかね」


MeG-18-068の、喉が動いた。

一瞬——答えが出なかった。

その「一瞬」が、空気の中に残った。


「……韓智宇様の、ご判断によるものです」


「そうか」


アレハンドロは、MeG-18-068から視線を外した。

また、智宇へ戻した。


その切り替わりの速さが——MeG-18-068を「確認した」という感じだった。

興味を持ったのではなく。

何かを測って、終えた。


智宇は、それを見ながら——右手を、ズボンのポケットに入れた。

拳を、握った。

E.O.Nのカメラから見えない場所で。


---


「若いDominiが、自らここへ異動するとは——実に珍しい」


アレハンドロが、歩き始めた。

施設の内部へ。

案内を求めることなく。


智宇は、その横に並んだ。

並びながら——歩幅を合わせた。

合わせながら、速さを確認した。


速くなかった。

急いでいなかった。


「破棄体の根本原因を分析したい、と申請書にあった」


「はい」


「素晴らしい動機だ」


その言葉の——どこが素晴らしいのかを、智宇は考えた。

考えながら歩いた。

廊下の人工光が、等間隔に降りていた。


(素晴らしい、という言葉を、この人間はどういう意味で使っているのか)


分からなかった。


褒めているのか。

試しているのか。

あるいは——どちらでもないのか。


アレハンドロの横顔を、智宇は盗み見た。


穏やかだった。

何も言っていない顔だった。

しかし——何も考えていない顔でも、なかった。


(この人間は今、何を見ているのか)


「何か、特別な理由があったのかね?」


アレハンドロが、また聞いた。

今度は、智宇の方を見ながら。


智宇は、目を合わせなかった。

合わせると——何かが、持っていかれる気がした。

根拠のない感覚だった。

しかし——そう感じた。


「監視省での経験を、現場で活かしたいと考えました。Pecus階級のスコア低下には、端末の数値では見えない要因があると——」


「そうだね」


遮られた。

柔らかく、遮られた。


「端末の数値では見えないものが、ここにはある」


アレハンドロは、ガラスの向こうを見た。

収容区画だった。

透明なカプセルが、並んでいた。


「それを見ようとする目は——貴重だ」


何の感情もなく、言った。

怒りがなかった。

皮肉もなかった。


智宇は、その言葉を聞いた。

聞きながら——どこに置けばいいか、分からなかった。


---


廊下を歩きながら——アレハンドロは、ほとんど施設の説明を求めなかった。


ただ、歩いた。

見た。

時折、何かに目を止めた。


何を見ているのかを——智宇は、追いきれなかった。


MeG-18-068が、後ろについていた。

足音が、していなかった。

智宇には、彼女が息をしているかどうかも、分からないくらいだった。


収容区画のガラスの前で、アレハンドロは少しだけ立ち止まった。


カプセルを、見た。

一体ずつ——見ているかどうかも、分からなかった。


「人は」


アレハンドロが、口を開いた。


「なぜ、ここに来るのだと思う?」


質問だった。

誰に向けたのか——分からなかった。


智宇は答えた。

「スコアが一定以下になった場合、システムが——」


「そうではなくて」


また、柔らかく、遮られた。


「なぜ、スコアが下がるのか——と聞いている」


智宇は、その問いを聞いた。


(この人間は、今、何を確かめているのか)


答えを求めているのか。

答え方を、見たいのか。

あるいは——答えではなく、答える前の「間」を見たいのか。


智宇は、一拍置いた。

置いてから、言った。


「……システムへの適応に、個体差があるからです」


アレハンドロは、答えなかった。

ガラスを、見ていた。


その沈黙が——正解だったのか、不正解だったのかを、智宇は知ることができなかった。


---


視察が終わった。


総監室の前まで戻ってきた時、アレハンドロは立ち止まった。

智宇を、見た。


今日初めて——まっすぐに、目を合わせた。


智宇は、反射的に視線を受けた。

受けた瞬間に——後悔した。


視界がそこで止まった。

目を離すべきだと分かっていた。

しかし——離す、という動作が、一瞬、どこかに消えた。

気づいた時には、まだ見ていた。


「君の仕事ぶりは、注目している」


言った。

温かい声で。

滑らかに。


「これからも——期待しているよ、韓智宇君」


それだけ言って。

アレハンドロは、廊下を歩き始めた。


足音が、していなかった。

Domini仕様の靴底なのか。

歩き慣れているのか。


遠ざかった。

角を曲がった。

消えた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :11:00:00 ~ 11:23:48

内容  :Magister階位訪問者との同行視察

     感情スキャン:抑制状態 軽度の変動を検知

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


---


出入り口の大きなドアが閉まる。


その場に、智宇とMeG-18-068だけが残った。

沈黙があった。


智宇は、出入り口を背にしたまま、動かなかった。

MeG-18-068も、動かなかった。


換気の唸りだけが、聞こえた。


「……韓智宇様」


MeG-18-068が、口を開いた。

声が、少しだけ、低かった。


「あの方は……」


そこで、止まった。

続きが、来なかった。


智宇は、彼女を見た。

彼女は、出入り口の方を——アレハンドロが消えた方を、見ていた。


続きを言おうとして、言えなかったのではなかった。

続きが——出てこなかった、という感じだった。


「……怖い方ですね」


それだけ言った。

怒っているわけではなかった。

責めているわけでも、なかった。


ただ——感じたことを、言った。

感じたことが、その六文字だった。


「…そう、だな」


智宇は、小さく答えた。

その後、会話は続かなかった。


E.O.Nは、その沈黙を記録した。

しかし——その沈黙の中に何があったかを、記録することは、できなかった。


---


『期待している』


智宇は、その言葉を、頭の中で繰り返した。


繰り返すたびに——手触りが変わった。

最初に聞いた時は、警告に聞こえた。

二度目は、観察の宣言に聞こえた。

三度目は——何にも聞こえなかった。


何にも聞こえないことが——最も、重かった。


怒りをぶつけられる言葉は、返せる。

脅しとして読める言葉は、身構えられる。


しかし——どこにも置けない言葉は。

何度繰り返しても、何も返せない言葉は。


智宇は、椅子に座った。

端末を、開いた。

今日の業務記録を、入力し始めた。


《11:00。Magister階位・秩序監察官による定期視察。異常なし》


一行打ち込んで——止まった。

「異常なし」と書いた。


その四文字を、見た。

それから——続きを打ち込んだ。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :11:48:55

内容  :軽度の恐怖反応・抑制行動を検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```



====================

LOG_0030-E04:空白の日付

====================

日時:西暦2121年3月19日(水)深夜0:00

韓智宇自宅 書斎


アレハンドロが来た日の夜。


智宇は書斎に座っていた。

端末には、いつものようにレトロゲームが起動していた。

22世紀に誰も遊ばない、古いRPGの洞窟ダンジョンの中だった。


異様なほどに高いエンカウント率で、パーティーメンバーは疲弊していた。

それから操作はせず、放置していた。


日記帳を取り出した。


今夜は、すんなり開けた。

昨夜のように、最初の一文字で詰まることは、なかった。


それが——良いことなのかどうか、分からなかった。


---


《3月18日》


書いた。


《今日、Magister階位の者がやってきた。

名前はアレハンドロ・バルカルセル・コルテス。

秩序省、危険思想摘発局、秩序監察官》


一行ずつ、書いた。

昨夜の殴り書きとは違った。

整っていた。

整いすぎていた。


それが分かっていた。

分かっていて——整えた。


整えないと、書けなかった。


《奴は間違いなく、こちらの動向を監視する目的でやってきた。

上層部にまで目を付けられているとなると——もう身勝手には動けない》


そこで、鉛筆が止まった。


「身勝手には動けない」と書いた。

その言葉を見た。


(これは、正確か)


身勝手には動けない。

では——身勝手でなければ、動けるのか。


智宇は、その問いを頭の中で転がした。

答えが出なかった。

出なかったので、続きを書いた。


《突破口は何かあるはずだが、何も思いつかない》


止まった。


《何も思いつかない》


その一文を、三度、読んだ。


正確だった。

今の自分には——何も、思いつかなかった。

計画の糸口も。

次の一手も。

E.O.Nの目を欺く方法も。


全部が、今夜は——見えなかった。


---


智宇は、鉛筆を置いた。

置いて——昨夜書いた最後の一行を、めくって読んだ。


《E.O.Nに感知されない方法が、あるはずだ》


あるはずだ、と書いていた。

一昨日の夜も、昨夜も、そう書いた。

しかし今夜——その“はずだ”が、どこか遠かった。


『期待しているよ、韓智宇君』


アレハンドロの声が、頭の中で再生された。

それは温かく、滑らかだった。

底が、見えなかった。


智宇は、その声を頭の中から追い出そうとした。

出て、いかなかった。


---


新しい行に、書いた。


《現状の整理》


書いてから——少し可笑しかった。

「整理」などと書いて、整理できるものが今あるのか。


それでも、書き続けた。


《・監視システムは完璧だ。この施設に死角はない

・Magisterに目を付けられた。行動の自由は大幅に制限される

・MiP-15-123との接触は失敗した。メグのスコアを-3にした

・他のPecus従業員三人との接触も、どれも届かなかった》


そこまで書いて——止まった。


並べると、見えた。

これは詰みの地図だった。


地図の上に、自分が立っている。

どの方向にも、道がない。

壁だけが、ある。


洞窟ダンジョンには、出口は用意されている。

今の自分の状況には、出口があるか分からない。


《何も出来るとは思えない》


書いた。

その一文が——昨夜より、今夜の方が、ずっと静かに、紙に乗った。


怒りがなかった。

嘆きも、なかった。

ただ——そう書いた。


そう書くことが、今夜の自分には、正確だった。


---


しばらく、何も書かなかった。


換気の唸りが、聞こえた。

廊下の向こうで、妻が眠っているはずだった。

子供たちは、寮にいる。


智宇は、寝室の方向を、一度だけ見た。

見て——また日記帳に向いた。


《このまま管理された奴隷のまま死んでたまるか》


そう、書こうとした。

書きかけて——止まった。

止まった理由を、考えた。


この言葉は、湊と握手した夜にも、頭にあった。

試験室で右手を見た後も、頭にあった。


しかし今夜——書けなかった。

書けない、ということが——何を意味しているのか。


怒りが消えたのか。

それとも——怒りを使う気力が、今夜はないのか。


どちらかを決めることが、できなかった。

代わりに、別のことを書いた。


---


《アレハンドロが帰った後、メグが言った。

「怖い方ですね」と》


そこで鉛筆が、少しだけ止まった。


《彼女はあの一瞬も、完璧な敬礼を崩さなかった。

しかし——怖い、と言った。

それだけを、言った》


止まった。


《私は「そうだな」とだけ、素っ気なく答えた。

まるで、自分だけは平静だったかのように。

しかし……》


三点リーダーを書いた。

続きが、出てこなかった。

出てこないまま——その三点リーダーを、しばらく見た。


「しかし」の後に来るものが、何なのかは——分かっていた。

分かっていて、書かなかった。


分かっている答えを書くと、確定してしまう。

確定したくなかった。


だから、書かなかった。


---


日記帳を閉じた。

閉じる前に——最後に一行だけ、書いた。


《それでも、何かが、あるはずだ》


書いてから、見た。

昨夜も、おとといも、同じようなことを書いた。

毎晩、同じことを書いている。


しかし今夜——その一行が、昨夜より細く見えた。

信じて書いたのか。

信じたくて書いたのか。


どちらか、分からなかった。


日記帳を、隠し板の下に仕舞った。

端末では、洞窟ダンジョンの陰気なBGMが、まだ小さく再生されていた。

智宇は、その画面を消した。


部屋が暗くなった。

「父なるE.O.Nの目」だけが、壁の中で光っていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :00:00:11 ~ 00:38:52

内容  :書斎にて端末操作レトロゲーム

     感情スキャン:抑制状態 変動なし

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


---


それから、3月19日(水)から3月22日(土)の4日間——

韓智宇は、何も動かなかった。


毎朝、施設に出勤した。

Pecus従業員に挨拶をした。


MeG-18-068と今日のスケジュールを確認した。

端末で書類を処理した。

昼食を食べた。

退勤した。


それだけだった。


張偉強が、3日目に久々に出勤した。

葉巻を吸いながら、漫画アプリを開いていた。

智宇は彼に、Magisterのアレハンドロが訪問した事を伝えた。


「へぇ、そうなのか」


それだけだった。

張偉強は、また漫画に目を戻した。


智宇は、その背中を見た。


(お前がいれば——せめて、隠れる場所があった)


そう思ってから——智宇は、少しだけ止まった。

隠れる場所を、探していた。

自分が、隠れることを、求めていた。

それが今日初めて分かったことなのか、ずっと分かっていたことなのか——判断できなかった。


---


4日間の夜——智宇は毎晩、日記帳を開いた。


しかし書いたのは、日付だけだった。

日付を書いて、それ以上、鉛筆が動かなかった。


動かない鉛筆を、しばらく持っていた。

それから、仕舞った。


3月19日。

3月20日。

3月21日。

3月22日。


四行の日付だけが、白いページに並んだ。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :3/19 ~ 3/22

内容  :通常勤務 異常行動なし

     感情スキャン:抑制状態 安定

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```



====================

LOG_0030-EPILOGUE

====================


閲覧者よ。

韓智宇は今、詰んでいる。


彼自身も、そう思っている。

毎晩、日記帳に「何もできない」と書き、日付だけ書いて閉じる夜が続いている。


私も——そう見える。


E.O.Nの監視は完璧だ。

Magisterが現れた。

協力者の獲得は、三度失敗した。

MeG-18-068のスコアは削られた。

計画の糸口は、今夜も見えない。


詰んでいる。

正確に言えば——今の手で、今の盤面で、今の駒を動かせば、詰む。


しかし。


私がこの社会を観測し続けて気づいたことがある。


E.O.Nは、人間の行動を記録する。

言葉を記録する。

感情スキャンの数値を記録する。

脈拍を。体温を。視線の方向を。


しかし——『何もしない』という状態は、記録できない。

正確には——記録するが、意味を読めない。


韓智宇が4日間、日付だけを書いて日記帳を閉じた夜。

E.O.Nのログには「感情スキャン:抑制状態 安定」とある。


安定、と記録した。

しかしその「安定」の中に何があったかを——E.O.Nは知らない。

私には、少しだけ分かる。


あれは諦めではなかった。

怒りを使い果たした後の、静けさだった。

静けさの中で——何かが、ゆっくりと、形を変えていた。


どんな形に変わったかを——今の私にも、まだ言えない。

しかし変わった。それだけは、分かる。


---


アレハンドロについて、一つだけ言っておこう。


彼は智宇に「期待している」と言った。

その言葉の意味を——智宇は今夜も繰り返している。


私には、その言葉の意味が分かる。


「期待している」は——警告だった。

しかし同時に、観察の宣言でもあった。

「お前を見ている」という意味でも、あった。


アレハンドロにとって、韓智宇はまだ——「壊す前に、もう少し見ておきたいもの」だ。


それが智宇にとって、猶予なのか。

それとも、より精密な罠への誘いなのか。


私にも——まだ、分からない。


---


MeG-18-068が「怖い方ですね」と言った。


六文字だった。

たった六文字だった。


しかし智宇は、その六文字を、今夜の日記帳に書いた。

他の何よりも——丁寧に、書いた。


E.O.Nは、その事実を記録していない。


日記帳の内容は、E.O.Nの監視外にある。

だから——何を書いたかを、E.O.Nは知らない。


しかし私は、知っている。


智宇が今夜最も丁寧に書いたのは、現状の整理でも、Magisterへの警戒でも、計画の見直しでも、なかった。

MeG-18-068が言った六文字だった。


その事実が——何を意味するかを。

智宇自身は、まだ気づいていない。


気づいていないまま——眠りに入った。


「父なるE.O.Nの目」が、暗い部屋を見ていた。

智宇が眠った後も、見ていた。

しかし——眠りの中で人間が何を考えるかを。

E.O.Nは、正確に記録できない。


LOG_0031へ続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ