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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
32/32

LOG_0031:二つの空

====================

LOG_0031-PROLOGUE

====================


閲覧者よ。

今回は、視点を移す。


韓智宇が詰みの盤面にいたこの数日の間、私はある人間の動きを追っていた。

アレハンドロ・バルカルセル・コルテス。

Magister階位。秩序省、危険思想摘発局、秩序監察官。


しかしここで、一つ断っておかなければならないことがある。


彼のような者は、脳内にナノチップを持たない。

生後間もなく施されるはずの思考スキャン用チップも、GPS追跡用チップも、彼の体内には存在しない。

Magister階位が身に帯びるのは、手の甲に埋め込まれた専用識別チップただ一枚だけだ。


つまり——私には、彼の内側が見えない。


彼が何を考えているのか。

何を感じているのか。

あの穏やかな声の奥に、何を隠しているのか。


チップのない人間の内側は、私の観測範囲の外にある。

だから今から語ることは、私が「見た」ことだけだ。

「読んだ」ことではない。


それでも——見るだけで、分かることがある。

見るだけで、疑問が生まれることもある。


では、始めよう。



====================

LOG_0031-E01:凍てつく理知

====================

日時:西暦2121年3月20日(木)午後11時00分

旧瀬戸内海・隔離群島特区(AJ-STN-INS05)

Magister専用宿泊施設 湯上がり専用休憩室


この時間、島は宵闇に包まれている。

21世紀の同じ時刻よりも、ずっと暗いだろう。


照明の管理は徹底されており、下級Pecusが暮らす管理区の街灯だけが、夜の地平に点在する。

しかしこの島には、そういった明かりもない。


この辺りの島々に、一般のPecusはいない。

波の音だけがある。

それ以外は——静かだ。


しかし、ある島の端に、異様に明るい区画があった。


直径200メートル。

その全てを占有する建物が、一棟。

Magister階位のみが利用を許される宿泊施設——正確には、宿と呼ぶには語弊がある。別荘と呼ぶべきものだ。


私はこの施設の内部に、一機の蜘蛛型ドローンを忍び込ませることに成功していた。

ハエトリグモを完璧に模したそれを、天井の隅に張り付かせ、カメラを向けた。


室内には「父なるE.O.Nの目」が一つもない。

壁はただの壁だった。

支配者層だけが、監視の外にいることを許されている。


---


休憩室の窓は、広かった。


床から天井まで。

旧瀬戸内海エリアの夜景が、一望できる構造だった。

この日は満月だった。


その窓の前に置かれたソファに、アレハンドロは座っていた。

高級バスローブに身を包み、足を組み、本を読んでいた。


紙の本だった。

22世紀において、それはほとんど見かけない。

Dominiですら、読書は端末でするものになっていた。


私はドローンのカメラを、慎重に角度を変えて、表紙を確認しようとした。

タイトルは確認できなかった。

しかし文字を視認した——英語で書かれていた。


アレハンドロは、ページをめくった。

その手が、止まらなかった。

次のページをめくった。

また止まらなかった。


熱心に読んでいる、という様子ではなかった。

ただ——慣れきっている、という読み方だった。

この本の内容を、もうどこかで知っている人間の、読み方だった。


---


その部屋には、アレハンドロだけがいたわけではなかった。

部屋の隅に、もう一人の人間がいた。


端末を開き、何かを操作していた。

しばらくして、端末を閉じた。

それから——本棚の前に、立った。


彼の名は、Dmitry Sergeevich Vorontsov(ドミトリー・セルゲエヴィチ・ヴォロンツォフ)

アレハンドロの専属秘書官。Imperatores(皇帝)階位。

28歳。灰青色の目。アッシュブラウンの短髪。身長188センチ。


データによれば、彼は4年前からアレハンドロの傍らにいる。

彼の視線が、本棚の背表紙をなぞっていった。


ザミャーチンの『われら』

ハクスリーの『素晴らしい新世界』

ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』

ホッブズの『リヴァイアサン』


表向きにはとうの昔に禁書とされた作品群が、その棚に整然と並んでいた。

CORE支配層は、こういった本を大衆から奪っておきながら、自らはそれを読んでいた。

彼らにとってこれらは、家畜を管理するための「記録の集積」だからだ。


ドミトリーも、当然これらの全てを読んでいた。

知っていた。


しかし——彼の視線が、『リヴァイアサン』の背表紙の上で、少しだけ止まった。


一秒か、それ以上だったかもしれない。

私には計測できた。しかし——その一秒が何を意味するかは、計測できなかった。

彼にはチップがないので、内側が見えない。


一秒後、ドミトリーの視線は次の背表紙へ移った。

何事もなかった、という速度で。


---


「彼はビッグ・ブラザーを愛していた」


アレハンドロが、口を開いた。


本から目を離さないまま、言った。

独り言のような声だった。しかし——ドミトリーに向けた声だった。


「なんと美しい結末だろうか」


本を閉じた。

表紙を一度だけ見た。

それからソファの肘掛けの上に置いた。


「ドミトリーよ」


「はい」


ドミトリーは、振り返った。

本棚の前から、二歩だけ離れて、立った。


「ウィンストン・スミスは、どうすれば破滅を免れたと思うかね」


一秒の間もなく、ドミトリーは答えた。


「免れることは不可能です」


平坦な声だった。

感情の質感がない、機械に近い声だった。


「体制に疑問を持った時点で——破滅の運命は確定しています」


アレハンドロは、すぐには答えなかった。

その代わり、窓の外を見た。

満月が、旧瀬戸内海の水面に光を落としていた。


「そうだ」


それだけ言ってから、テーブルの上のグラスを取った。

ミネラルウォーターだった。

飲んだ。


「ではもし——仮に、ウィンストンが助かる道があるとすれば」


「それは一つだけです」


ドミトリーは、続けた。


「己の意志を完全に封じ、体制の駒として、死ぬまで生き続けること」


「その通りだ」


アレハンドロは、グラスをテーブルに戻した。

音が、しなかった。

慣れた動作だった。


「君が『逃げる』という選択肢を挙げなかったことは、褒めてやろう」


「逃げることなど、不可能です」


アレハンドロは、足を組み直した。

左から右へ。

恐らく意識した動作ではない。身体が、勝手に動いたのだ。


「仮にウィンストンが逃げたとしても——あっけなく見つかっただろうよ」


---


しばらく、沈黙があった。


ドミトリーは、また本棚の方へ視線を戻した。

今度は、どの背表紙の上でも視線が止まらなかった。

アレハンドロが続けた。


「現実も、同じことだ。人類が進む道は一つだ。我々エリート血族による完全な管理。その必然から——人類は逃げることも、回避することも、できない。できると思ったなら、それはお花畑だ」


「仰る通りです」


「22世紀の現在、人類文明はあるべき理想的な形に収まった」


「えぇ」


「では、君に聞いてみたい」


アレハンドロが、窓の外に視線を向けたまま、言った。


「我々の管理の下で暮らさない者たちについて——どう思うかね」


窓の外の遠くに、いくつかの島が見えた。

その一つの、山の斜面の辺りに——ごく小さな光が、点在していた。


ドミトリーも、その光を見た。


一秒。


「……彼らが猿のように生きることを許されているのは」


ドミトリーは、言った。


「COREの慈悲によるものに他なりません。しかし、いずれ彼らも——地球上から消えていくでしょう。人類史の必然に適応できない者たちは、淘汰されます」


アレハンドロは、答えなかった。

ただ、わずかに頷いた。


それから彼は、本棚へ歩いた。

読み終えた本を、元の場所に戻した。

背表紙が、棚の列に収まった。


「未開人どもは」


棚を向いたまま、言った。


「自分たちは自由を手にしていると、思い込んでいるようだが——実際は、そうではない」


振り返った。


「彼らは常に、我々が構築したシステムを恐れながら暮らしている。ドローンを見るたびに逃げる。Pecusの作業員を見るたびに身を隠す。それは——どこも、自由な暮らしではない」


窓の外の、小さな光を見た。

遠い山の斜面の、ごく小さな光だった。


「彼らの破滅は、免れないのだよ」


一拍、置いた。


「そう——ウィンストンのようにね」


---


沈黙があった。

波の音だけが、遠くから聞こえた。


私は天井の隅で、この会話を聞いていた。

聞きながら——窓の外の、あの小さな光を見ていた。


アレハンドロは「恐怖に支配されている」と言った。

あの光の中に暮らす者たちを、そう呼んだ。


私はその言葉を、記録した。

判断は——しなかった。

判断するには、あの光の中を、自分の目で見なければならなかった。


その機会は——この数日後に、訪れることになる。


```

────────────────────────────────────

内部記録

時刻  :23:18:44

内容  :対象アレハンドロ・バルカルセルの

     行動・発言記録を完了

     チップ非搭載のため内面観測:不可

     観測可能範囲:行動・発言・表情のみ

     備考:ドミトリー・ヴォロンツォフ

        23:02:17 本棚前にて

        「リヴァイアサン」背表紙注視(推定1.3秒)

        内面観測:不可

        判断:保留

────────────────────────────────────

```


室内の照明が、少しだけ落とされた。

アレハンドロは、次の本を手に取った。


ドミトリーは、窓の外の光を、もう一度だけ見た。

それから——端末を開いた。


翌日のスケジュールを、確認し始めた。


波の音は、続いていた。



====================

LOG_0031-E02:嵐のなかの真実

====================

日時:西暦2121年3月23日(日)午前10:40

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG → INCL-AJ-S-047

監視対象:韓智宇、及び未登録人類


3月19日から22日まで、韓智宇は動かなかった。


毎朝、施設に出勤した。

Pecus従業員に挨拶をした。

MeG-18-068と今日のスケジュールを確認した。

端末で書類を処理した。

昼食を食べた。

退勤した。


それだけだった。


毎晩、日記帳を開いた。

しかし書いたのは、日付だけだった。


3月19日。

3月20日。

3月21日。

3月22日。


四行の日付が、白いページに並んだ。


その間に何を考えていたかを——智宇自身も、後から説明できなかっただろうと思う。

E.O.Nのログは「感情スキャン:抑制状態 安定」と記録している。

しかし——「安定」と「何もない」は、同じではない。


23日の朝。

智宇は古物商に向かった。

大雨だった。


---


台風が近づいていた。

3月に台風が来ることは、22世紀においてもはや珍しくなかった。

かつての歳時記を書き換えるほどに、気候は変わっていた。


びしょ濡れで来店した智宇は、いつもより沈鬱な様子だった。

道人民は智宇を見て、すぐに何かを察した様子だった。


死角の小部屋に入ると、智宇はMagisterが視察に来たことを伝えた。

道人民は「随分と、早くに目を付けられているようだね」と言った。


それから——道人民が提案をした。


「今日は大雨だ。今なら……未開人の集落に、行くことができる。少しの間だけな。行ってみるか?」


智宇は数秒、考えた。


「どれくらい滞在できますか」


「30分前後だ。片道50分かかる」


智宇は答えた。

「是非、行きたいです」


---


二人は道人民の所持する登山用の恰好に着替えた。

それからバイクに二人乗りになり、出発した。


智宇は後部座席に座り、大雨の中を走った。


走りながら——いくつかのゴーストタウンを通過した。

放棄された民家が、道の両側に並んでいた。


21世紀初頭には凡そ一億人いた地区AJの人口も、今では一千万人しかいない。

超管理社会への移行とともに、個人が所有する民家は徐々に放棄されていった。


智宇は、雨の中をバイクで通り過ぎながら、窓のない家々を見た。

誰も住んでいない家が、それでも形だけを保って立っていた。

雨に濡れながら、ただ立っていた。


(ここに、人が住んでいた)


かつて。

COREの管理が始まる前。

ここに、誰かがいた。


どんな人間だったかは——分からなかった。

しかし——ここに、いた。


それだけが、分かった。


---


バイクを降りて、獣道を歩いた。

雨が、葉を叩いていた。


しばらく歩くと、木製の足場が見えた。

見張り台だった。

しかし、人はいなかった。

この雨では、上に立つことができないのだろう。


さらに進むと、小さな建物が見えた。

馬小屋だった。


智宇は、立ち止まった。


馬を——見たことが、なかった。

資料では知っていた。

しかし実物は、初めてだった。


雨宿りをしている二頭が、小屋の中にいた。

体格が小さかった。

COREの資料に載っている西洋の馬より、ずっと小さかった。

しかし——その目が、智宇を見た。


何を測るでもない目だった。

E.O.Nのカメラのように、記録しようとしている目ではなかった。

ただ——見ていた。


智宇は、その目から少しだけ視線を外した。


馬小屋の付近に数名の人間がいた。

智宇たちに警戒の視線を向けた。


道人民が手を上げ、日本語で何かを言った。

警戒の視線が、少しだけ、緩んだ。


---


集落に入った。

智宇の耳に最初に届いたのは——子供の声だった。


大雨の中、複数の子供がはしゃいでいた。

傘もなく、合羽もなく。

ただ——雨の中で、走っていた。


(何の目的で)


智宇は反射的に、そう思った。

思ってから——その問いが、奇妙だと気づいた。


目的。

誰の指示で。

何のために。


そういった問いが、智宇の頭の中に最初に来た。

来てから——それは、おかしな問いかもしれないと、思った。


子供が雨の中で走ることに、目的はいるのか。

誰かの指示が、いるのか。


答えは出なかった。

出ないまま、智宇は集落の中を見た。


犬が一匹、軒下で丸くなっていた。

猫が二匹、建物の陰で雨宿りをしていた。

どちらも、人間性スコアを持たない生き物だった。


智宇を見ても、逃げなかった。


「こんな雨だ。皆、集会所にいるのだろうな」


道人民が言い、歩き始めた。

智宇はその背中を追った。


---


集会所の引き戸を開けると、暖かい空気が出てきた。


薪と、人の体温と、何か食べ物の匂いが混ざった空気だった。

COREの施設や居住区では、嗅いだことのない種類の空気だった。


中に、数十人の老若男女がいた。


智宇は、入口に立ったまま、しばらく動けなかった。


自身が子供の頃、Pecusの収容区画に初めて入った時の事を思い出した。

あの時は、足が重くなって動けなかった。


この日は、違う意味で——動けなかった。

今は——どこへ最初に目を向ければいいか、分からなくて動けなかった。


絵双六をやっている者たちがいた。

花札をしている者たちがいた。

老人たちが将棋や囲碁を打っていた。

本を読んでいる者がいた。

編み物をしている者がいた。

何かの小道具を作っている者がいた。

昼寝をしている者がいた。


どれも——COREの管理区では、見たことのない光景だった。


智宇たちに気づいた者は、何人かいた。

しかし——警戒しなかった。

「何者か確認して排除する」という動きが、誰にもなかった。

視線が来て、戻った。

それだけだった。


(なぜ)


智宇は、また問いを持った。

見知らぬ人間が入ってきたのに、なぜ警戒しないのか。


しかし——答えを探す前に、道人民が歩き出した。

中央の広場の方へ向かった。

そこに、2歳ほどの男の子がいた。


道人民は、その子を見た瞬間に——表情が変わった。


智宇は、それをちゃんと見た。

何十年も特権階級として生きてきた人間の顔が、2歳の子供を見た瞬間に、別の顔になった。


(あれは——本物だ)


と智宇は思った。

思ってから——それが、何を意味するのかは、考えなかった。

考えている時間は、なかった。


---


「おじさんは、管理社会の人?」


声がした。

8歳くらいの少年が、智宇の前に立っていた。


智宇には言葉の意味が分からなかった。

少年の頭を、少し撫でた。


「こんにちは、お邪魔しているよ」


ラテン語で、言った。

少年は首を傾けた。


それから、どこかへ走っていった。

特に何かを確認して、どこかへ伝えに行くわけではなかった。

ただ——走っていった。


智宇は、集会所の奥に目をやった。

ドアが一枚、少し開いていた。


「失礼します」


ラテン語で言いながら、中に入った。


---


独特な臭いがした。

書庫だった。


棚が壁に沿って並んでいた。

木製の扉がいくつか開いていて、その中に本が詰まっていた。


智宇は、棚の前に立った。


日本語の本が多かった。

中には旧ハングル文字で書かれたもの、旧中文で書かれたものもあった。

智宇には読めなかった。


しかし——本が、あった。


COREが焼却を命じた本が。

存在しないはずの言語で書かれた本が。

ここに、あった。


智宇は一冊を手に取った。

和装本だった。

糸で綴じられた、見慣れない作りの本だった。


表紙を見た。

全て日本語だった。


近くにいた見た目40後半の小太りの女性が、笑った。

何か面白がるように言っていたが、智宇には分からなかった。


「それは……恋愛指南書のようなものだ」


背後から、若い男のラテン語が聞こえた。


振り返ると——藤堂湊がいた。

藍色の着物を着た、22歳の青年。

最初に会った時よりも、この男のラテン語は、上達していた。


「ミナトか。事前に連絡もなく、急に来てすまない」


そもそも事前に連絡を入れる手段などないが、そう答えた。


「まさか、ここに来てくれるとは」


湊は少しだけ笑った。

その笑い方に、作った要素がなかった。

COREの管理区で見る笑い方と——種類が、違った。


「丁度よかった。来い、お前に見せたいものがある」


---


湊が書庫の奥へ進んだ。

棚を退かすと、床に蓋があった。

跳ね上げ式の、木製の蓋。

秘密の部屋のようなものだと思った。


「私のような余所者に、教えてよいのか」


「お前だから見せるんだ」


蓋を開けると、下に梯子があった。

降りると——薄暗い地下室だった。


鼻を、酸っぱく焦げ付いた臭いが刺した。

電解液と、熱を持った埃の臭い。

古いデジタル機材が、棚に所狭しと並んでいた。


「ここには、2094年よりも前の、古いパソコンが幾つかある」


湊が、そう説明した。


智宇は棚を見た。

黄ばんだノートPC。

液晶が割れたタブレット。

バッテリーが膨張して変形したスマートフォン。


全て27年以上前の電子機器だ。

ほとんどのものは、もう動かないだろう。


「動くものは、どれくらいある?」


「数台」


湊は、一台を指さした。

モジュール式のデスクトップPCだった。

他のものより、幾分きれいだった。


「こいつは正常に動く。幾つかのパーツは、道人民が手配してくれた。型落ちのCORE製だが——監視はされていないと思う」


智宇は、そのPCを見た。

各パーツの製造年は、大体10年前のものだった。


「ジウ。…俺が、言いたい事は分かるな?」


湊のその目を見て、智宇は言った。


「私が秘密裡にCOREに関するデジタルデータをお前に渡し、ここで開く。そういうことだな」


「その通りだ」


湊は棚の奥から、小型の記憶装置を取り出した。

今のCORE社会では使われていないタイプのものだった。

しかし智宇には、使い方が分かった。

監視省で働いていた頃の、知識だった。


「ここに入れることは、できるか」


「やろうと思えば、できる」


「じゃあ、こいつはお前に渡しておく」


智宇は、その記憶装置を受け取った。

小さかった。

掌の中に、すっぽりと収まる大きさだった。


---


地下室から出て、二人は集会所の外へ出た。

雨が、少しだけ弱くなっていた。


智宇は空を見た。

雲が厚く、太陽は見えなかった。

しかし——明るかった。

人工照明ではない明るさだった。


「集落を見学しておくか」


湊が言った。


智宇は頷いた。

腕時計を確認した。

ここにいられる時間は、残り25分ほどだった。


「だが——私たち管理社会側の人間を、こんなに無防備に入れてしまっていいのか。もっと警戒されると思っていたが」


湊は少しだけ考えてから、答えた。


「ここは寛容なんだ。集落によっては、管理社会の人間を一切入れないところもある。でもここは、昔から脱走者を受け入れてきた村だ」


「私のような者が来ることで、何か起きたら、どうする」


「ここに住む人たちは、勇気のある者たちばかりだ」


それだけ言った。

説明ではなかった。

湊にとって、それで十分だった。


智宇には——十分かどうか、判断できなかった。

しかし、歩き始めた。


---


集落の西側に、石垣が続いていた。


段々になった斜面を支える、古い石組みだった。

その一角で、男が数名、作業をしていた。


智宇は足を止めた。

崩れた石垣の前に、数人がしゃがんでいた。


大きな石を持ち上げ、崩れた箇所に積み直している。

雨で濡れた石は重そうだった。


しかし誰も、急いでいなかった。

一つ積んでは確かめ、また一つ積む。

その繰り返しだった。


「何をしている?」


「石垣の積み直しだな」


湊が答えた。


「冬の霜や雨で、少しずつ崩れるんだ。放っておくと土が流れる。今日みたいな大雨の後は、特に確認が必要になる」


智宇は、その男たちを見た。


「誰の指示で動いている?」


湊は、少し首を傾けた。


「指示する人はいない。誰かが、気が向いた人が勝手に直すんだ」


智宇は、もう一度男たちを見た。

気が向いた人がやる。


(誰が決めたのか。誰が承認したのか。誰が記録するのか)


そういった問いが、智宇の頭の中に、また来た。

来て——どこへも行かなかった。

答える者が、ここにはいなかった。


いないのではなく——そもそも、そういう問いが、ここでは生まれない構造になっていた。


(なぜ、私はそれを聞きたくなるのか)


智宇は、自分の問いの出所を、初めて考えた。

考えたが——すぐには答えが出なかった。


---


次に、茅葺き屋根の補修をしている人を見た。


屋根の上に登って、茅束を押さえている。

雨の中で、一人で作業していた。


「自分の家を修理しているのか」


「いや……あの人は、別の家に住んでいるな」


智宇は湊を見た。


「自分の家ではないのか。依頼されたのか」


「屋根の修理は苦手な人が多いから。得意な人がやるんだ」


「報酬は」


「ない」


湊は、それだけ言った。

付け加えなかった。


智宇は屋根の上の人間を見た。

雨に濡れながら、茅束を押さえている。

急いでいなかった。

しかし、手を止めてもいなかった。


「その人は……普段は、何をしている?」


「寝ているのが多いな。畑も、あまり手伝わない」


智宇は、少し間を置いた。


「……それでも」


「それでも、屋根の修理はする。得意だから」


智宇は、その答えを、頭の中で繰り返した。


得意だから、する。

報酬がないのに、する。

自分の家でないのに、する。


(その動機は——何だ)


E.O.Nのアルゴリズムには、存在しない動機だった。

スコアも。記録も。評価も。関係しない。


ただ——得意だから、する。


智宇は、その言葉を、どこかに置こうとした。

しかし置き場所が、見つからなかった。


---


湊の自宅の竪穴住居に入った。


中に入った瞬間、湿った生暖かい空気が顔に当たった。

薪の煙の匂いがした。

中央の炉から煙が上がり、頭上で渦を巻いていた。


2名の若い男性がいた。

一人は(むしろ)の上に寝ころびながら本を読んでいた。

10代前半に見えた。


「誰そいつ」


日本語で、湊に言った。

警戒している声ではなかった。

ただ——聞いた。


「COREの人」


「ふぅん」


少年は本に視線を戻した。

それだけだった。


「失礼している。個人的な興味で来ただけで、COREの命令で来たわけではないから、安心してほしい」


智宇がラテン語で言うと、湊が日本語に通訳した。


「あっそう」


少年は答えた。

本から目を上げなかった。


湊が何かを棚から取り出して、智宇に差し出した。

干し芋だった。


智宇は受け取った。

食べた。


甘かった。

COREの配給食には、この種の甘さがなかった。

合成甘味料の甘さではなかった。

素材そのものの、奥にある甘さだった。


「悪くないな」


智宇は言った。

それ以外の言葉が、出てこなかった。


---


「ところで——昼食は何を食べた?」


智宇は、干し芋を食べながら聞いた。


「今日は玄米の飯と、根菜の味噌汁だ。干し肉の残りと、土筆(つくし)を卵とじにした。梅干しもあった」


「土筆?」


「子供たちが今朝、摘んできた」


智宇の手が、少しだけ止まった。


「子供が、自分で、食べ物を?」


「珍しいことじゃないさ」


「誰の指示で」


「指示する人は、見たことないな」


智宇は、干し芋の残りを見た。

これが、食卓に並ぶまでに——誰かが何かをしている。

命令がなくても、記録がなくても、スコアがなくても。


誰かが、土筆を摘みに行く。

誰かが、石垣の積み直しをする。

誰かが、他人の屋根を修理する。


(なぜ)


智宇は、また同じ問いを持った。


そして今度は——少しだけ、その問いに答えが近づいた気がした。

なぜ、という問いを立てること自体が——おかしいのかもしれない。


やりたいから、やる。

できるから、やる。

目の前にあるから、やる。


それだけで——動けるのかもしれない。


スコアがなくても。

監視がなくても。

指示がなくても。


(……)


智宇は、その考えを、棚の奥に押し込もうとした。

しかし今日は——棚の扉が、うまく閉まらなかった。


---


そこへ、扉から一人の男が入ってきた。


30代中盤に見えた。

作業着が、泥だらけだった。

先ほど、石垣の積み直しをしていた者だ。


「珍しい客人だな」


智宇を見て、それだけ言った。

それから——その場で、作業着を脱ぎ始めた。


智宇は、一瞬だけ目を逸らした。

COREの社会では、人の目の前で着替えることは、想定されていなかった。

しかしこの男には、そういった感覚がなかった。

ただ——濡れた服を、乾かすために、脱いだ。

囲炉裏の傍に干した。

それだけだった。


「作業の当番は、どうやって管理しているんですか」


智宇は、湊に通訳を頼んで、男に聞いた。

男は少し笑った。


「当番? ははっ、聞きなれない言葉だね。そんなの、誰も気にしてないさ」


「しかし、誰もやらなかったら困るのでは?」


「それが不思議でね。誰もやらないことなんて、ないんだよ」


男は、囲炉裏の傍に腰を下ろした。

濡れた手を、炎に向けて開いた。


「仮に、今日誰もやらなかったとしても――何とかなっただろうさ」


「……それで、村の生活が成立するとは思えない」


男は、智宇を見た。

怒っていなかった。

責めてもいなかった。

ただ——少しだけ、可笑しそうだった。


「あんたらは、全部管理管理なんだろ?俺だったら窮屈すぎてやってらんないね。そんなのは、寧ろ非合理的さ」


会話は、そこで終わった。


智宇は、何も言わなかった。

言えなかった、ともいえた。


---


これで問題なく生活が成立しているのだとすれば——

E.O.Nによる民衆の徹底管理は、一体何なのか。


それは分かっていた。

ずっと、分かっていた。


民衆の徹底管理など、本来は必要ない。

それは極めて不自然な、おかしなことだ。


世界全体を一元管理したい支配者層のエゴと——

自らを導いてほしいと、無意識のうちに願ってしまった大衆が——

共同で生み出した、壮大な茶番劇のようなもの。


分かっていた。

しかし——今日、この目で見るまでは、分かっていなかった。


(彼らは“未開人”などではない)


と智宇は思った。

思いながら——腕時計を確認した。


残り、13分。


---


外に出ると、雨がまた強くなっていた。

他に見て回れるものはないかと考えた時、村の隅に人影を見つけた。


軒下の陰に、一人でいる女性だった。

20代に見えた。

紫色の着物を着ていた。

黒い髪が、膝の下まで伸びていた。


COREの管理区では、見たことのない長さだった。

髪の長さにも、暗黙の規格があった。

しかしここでは——ただ、伸びていた。

伸びているだけだった。


「おい、どうしてそんなところにいるんだ。(はるか)


湊が日本語で声をかけた。

女性は答えた。


「あのジジィが来ているだろ」


「あぁ、道人民さん?」


「見かけた途端、心臓が止まるかと思った。いつも急に来るよな。私はすぐにここに逃げた。さっさと帰ってほしい」


湊が通訳した。

智宇は気になった。


「道人民とはどういう関係だ?なぜそこまで避ける?」


また通訳が挟まった。


「このお腹を、見られるわけにはいかない。あいつは家族だとは認めない。」


智宇は、女性のお腹を見た。

膨れていた。

気づかなかった。


「この人は、水無瀬遥(みなせ はるか)。道人民の孫だ」


湊が、ラテン語で智宇に説明した。

女性は湊をじっと見た。


「管理社会の人間に、余計な情報を伝えるな」


「ハン・ジウさんは、信頼できる人間だ」


「管理社会の人間に、信頼できる人間などいない」


女性の声には、怒りがなかった。

断言だった。

ただ——そう知っている、という声だった。


智宇は、その声を聞いた。

聞きながら——不意に、妻・梁芸熙(リャン・イェヒ)のことを思った。


芸熙も、断言する。

「Pecusなんて道具みたいなものでしょ」と。

「あんたよりも、E.O.Nが正しいに決まってるでしょ」と。

迷いのない声で。


しかし——芸熙の断言と、この女性の断言は、同じ形をしていなかった。

芸熙の声は、何かを楽しんでいた。

正しいと知っている(信じている)ことを、言う楽しさがあった。


この女性の声は——何かを守っていた。

正しいと知っていることではなく、守るべきものがあるから、言っていた。


同じ形の鋭さが——全く違う方向を向いていた。


「さて、私もここに滞在できる時間は限られている」


智宇は言った。


「ミナセ・ハルカといったな。君の祖父、道人民について聞きたいことがある」


湊が通訳すると、遥が初めて智宇の正面に立った。

じっと、顔を覗き込んだ。


黒い瞳だった。

意地の悪さが、その目の奥にあった。

しかし——芸熙の目とは違う、奥行きのある意地の悪さだった。


「ハン・ジウ……といったな。あんたに教えることで、あのジジィが困るなら——教えてやってもいいよ」


「管理社会の人間に、余計な情報は伝えないんじゃなかったのか?」


湊が揶揄うように言うと、遥はムッとした。


「やっぱり教えるのは、やめようかな」


「悪かった。ジウの為にも教えてやってくれ」


---


遥が語ったことを、智宇は聞いた。


道人民はかつて「大隈義人(おおくま よしと)」という日本人名だったこと。

政府機関の官僚として長年働いていたこと。

中国人女性の道文清(ダオ・ウェンチン)と結婚してから、道人民に改名したこと。


息子の道明哲(ダオ・ミンジャー)は反体制的で、未開人の集落作りに熱心だった。

父親はそんな息子に対し「体制側から未開人を守る」と言って味方のように振る舞っていたという。

しかし実際には、未開人についての詳細なデータをCOREに報告していた証拠が見つかった。


明哲がそれを知り、父親と決別したのは、遥が生まれる数年前だった。


「――だがその後も、あのジジィは、未開人の集落に頻繁に出入りし続けている」


「…頻繁に?ハルカが生まれてからか?」


「私が生まれる前からだ。父さんも、みんなもそう言っている。」


「……」


その話は、道人民が以前言っていた事と完全に矛盾していた。

彼は、未開人と接触し始めたのは、ここ数年の事だと言っていた。

そして、COREには知られていないと。


「あのジジィが、こうして未開人と接触している事が、CORE政府側にバレていないとは、考えにくいと思う」


遥は最後に、そう言った。

湊の拙いラテン語で、智宇はその全てを受け取った。


---


――これまでずっと未開人と接触していた。


「ここで聞いた話は、伝えないほうがいい」


湊が静かに耳打ちする。

集会所の方を振り向くと、道人民が出てきたところだった。


道人民はいつも、未開人の息子や孫の事を、心配そうにしていた。

そして今日、道人民が2歳の男の子を見た瞬間に、確かに表情が変わった。

あれは——本物だと、思った。


しかし——本物の感情があることと、COREのスパイでないことは、別のことだ。


(私は、見たいものを見ていた)


智宇は、そう気づいた。

本物の家族愛が見えたから——信頼できる人間だと、思い込んだ。


思い込んでいた間、ずっと。


「タイムオーバーだな」


智宇は、小さく言った。


腕時計の数字を見た。

残り、2分。


遥は、道人民の姿に気づいた瞬間、一人でその場を離れた。

音も出さず、集落の奥へと静かに消えた。


智宇は、その後ろ姿を一瞬だけ見た。

紫色の着物が、雨に濡れていた。


---


道人民が近づいてきた。


「さて、帰るぞ」


「勿論です」


智宇は答えた。

湊が「俺も途中まで付いていこう」と言い、三人で歩き始めた。


大雨の中だった。


「…ところで、湊に妻はいないのか?」


智宇は歩きながら、湊に聞いた。

自然な話題を、探していた。


「妻、ね。俺たちの社会に結婚という概念はないけど、夫婦みたいな人たちもいる。あんたは?」


「いるにはいる。子供も二人いる」


「へぇ。自分の子供というのは、やっぱりかわいいものなのか?」


智宇は、少しだけ考えた。


「……分からない」


それが、正直な答えだった。


禹赫(ウヒョク)彩澄(チェジュン)は、遺伝子的には自分の子供だ。

しかし——自分の子供であるという実感が、薄かった。

COREが育てた子供だった。


「かわいいとも」


道人民が言った。


「曾孫さんですか」


「あぁ。今日会えて、嬉しかったよ。――ずっと、会いたかった」


それは本物の声だった。

本物の感情が、そこにあった。


智宇は、その声を聞いた。

聞きながら——黙っていた。


「ところで、私の孫の…遥もいたんだろう?…どうやら、私を避けているようだが。彼女とは会ったかね?」


智宇は、一瞬だけ、迷った。


「えぇ、あの長い髪の女性ですよね。見かけましたが——こちらを警戒しているようで、ほとんど喋れませんでした」


声に、何も乗せなかった。

E.O.Nを欺く言葉は、ずっと使ってきた。

しかし——今この瞬間、目の前の人間に向けて、感情を抜いた声で話すことは、別の種類の行為だった。


(これは、どういうことなのか)


その問いを、智宇は今夜の日記に書けるかどうか、分からなかった。


「そうか」


道人民は、それだけ言った。

それから会話は途切れ、三人はバイクを停めた場所に辿り着いた。


「またお前らが、集落に来る日を、楽しみにしているよ」


湊はそう言って、引き返した。


智宇は、その背中を見た。

雨の中を、傘もなく歩いていく背中を。


バイクのエンジン音が、雨音に混ざった。

智宇は後部座席に座った。


(私は、馬鹿だった)


その言葉が——静かに、頭の中に来た。

来て——動かなかった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:40:00 ~ 12:20:14

内容  :監視省承認済み外出記録

     (※チップハイジャック機使用を記録)

     ルート:自宅→古物商→不明区域→古物商→帰宅

     推測位置:INCL-AJ-S-047(未開人居住区)

     感情スキャン:記録間欠あり(ハイジャック機の影響)

     危険度評価:中

フラグ :要注意(継続)

────────────────────────────────────


```


====================

LOG_0031-E03:愚者の悔恨

====================

日時:西暦2121年3月23日(日)午後11:00

韓智宇自宅 書斎


その夜、妻は酔っていた。


23時頃に帰ってきた。

どこかで遊んでいたらしかった。


玄関の扉が開いた音。

廊下を歩く足音。

寝室に入る気配——それから、静かになった。


智宇は、書斎の椅子に座ったまま、天井を見ていた。


端末には、古いRPGを起動させていた。

ダンジョンの不穏なBGMが、小さく流れていた。

パーティーメンバーは疲弊しきっていた。

次のエンカウントで全滅するかもしれない状況だった。


しかし、操作はせず放置していた。


天井を見ながら——智宇は、一月ごろに道人民と交わしたやり取りを思い出していた。


---


あの古物店の死角。

道人民は、遠くを見るように語った。


「私の子供が、未開人の集落にいてね。昔は頻繁に顔を合わせていたが、CORE体制下の時代になってからは、監視も厳しくなって会えずにいた……しかし、文化省を引退してから、私は未開人の集落に行く方法を探したのだ。こうして古物店を開く事で、監視の死角を作る事が出来た」


「これからも、隠せると思いますか」


道人民は、数秒考えた。

飲み終えた抹茶をテーブルに置き、静かに答えた。


「――危険な綱渡り状態なのは間違いない。それでも……私は、息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」


家族と会う為に、危険を顧みない。

それは、このCORE社会ではもはや珍しい、家族愛だ。


あの日、智宇は『COREに抵抗するのは、自分だけではない』と勇気づけられた。


---


「クソッ…」


智宇は小さく呟いた。

隠し板の下から、日記帳を取り出した。


開き、鉛筆を持った。

最初の一文字が——今夜は、すぐに出た。


《私は、馬鹿だった》


書いてから、その一文を見た。


この4日間、日付だけを書いてきた。

4日ぶりに、文章が出た。

出た言葉が——これだった。


続きを書いた。


《道人民は、間違いなく…スパイだ》


書いて——止まった。


「だ」と断言した。

断言するだけの根拠は、ある。


集落で、(はるか)が語った内容。

『COREに未開人の詳細なデータを報告していた証拠が見つかった』という事実。

そして——『長年、未開人と接触を続けていて、COREに知られていないのは不自然だ』という、最初からあった違和感。


その違和感は、確かに最初からあった。


しかし——一月、あの言葉を聞いた瞬間に。

智宇は、その違和感を手放していた。


「息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」


その言葉を聞いて、智宇は『仲間がいる』と思った。

仲間がいると、信じたかった。


信じたかったから——違和感の方を、忘れた。


《信じたかったから、忘れた》


その一文を、智宇は見た。


---


書いてから——今日、集落で見たものの事が、頭に来た。


子供の声。

馬の目。

集会所の暖かい空気。

干し芋の甘さ。

石垣を積み直す男の背中。


書こうとした。

しかし——どこから書けばいいか、分からなかった。


書けば書くほど、何かが削れる気がした。

言語にした途端、本当のことではなくなる気がした。


《今日の集落で見たことは、うまく書けない。だから書かない》


それだけ書いて、次の行に移った。


---


《道人民のことに戻る》


書いてから、続けた。


《今日、遥が語った話を聞いて、私は全てが繋がった、と思った。

 しかし——本当に繋がったのは、話の内容ではなかった》


止まった。


《今日、道人民が2歳の曾孫を見た時、彼の表情が変わった。

 あれは、本物だった。本物の感情が、そこにあった》


書いてから、続けた。


《でも、本物の感情があることと、スパイでないことは、別のことだ》


その一文を、智宇は何度か読み返した。


道人民は、曾孫を本当に可愛がっている。

それは、嘘ではない。


そして同時に——未開人の情報を、長年COREに報告してきた。

それも、嘘ではない。


その二つは——矛盾しない。


矛盾しない、ということを。

智宇は今日、初めて、実感として知った。


一月のあの言葉も、おそらく——本物だったのだろう。


「息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」


それは、道人民の本心だった。


本心であることと、スパイであることは——両立する。


智宇は、その事実を、紙の上にもう一度、書いた。


《本物の感情は、嘘の証拠にはならない。

 むしろ——本物の感情があるからこそ、嘘は見抜きにくくなる》


---


新しい行に、書いた。


《帰り道、道人民が「遥に会ったかね」と聞いてきた。

 私は「見かけましたが、ほとんど喋れませんでした」と答えた。

 あれは——嘘だった》


E.O.Nを欺く言葉は、ずっと使ってきた。

「合理的な動機」という言語で、申請書を書いた。

「極めて合理的」と判定されるよう、試験の回答を選んだ。


しかし今日、道人民に向けて言った言葉は——違う種類のものだった。


E.O.Nへの嘘は、システムを欺くための嘘だ。

道人民への嘘は——目の前に立つ人間の顔を見ながら、感情を抜いた声で語る嘘だった。


《これがどういう事なのかは——まだ、言葉にできない》


---


新しい行に、書いた。


《現状の整理》


書いてから——また少し、可笑しかった。

4日前にも、同じ見出しを書いた。

あの時と——状況は、変わったのか。


変わった。

悪い方向に。


《・道人民はスパイだ。私のこれまでの行動は、相当程度COREに筒抜けになっている可能性がある。

 ・Magisterに目を付けられている。これは道人民経由の情報提供が理由かもしれない。

 ・今後、道人民を経由した未開人との接触は使えない。

 ・古物店の死角も、信用できない可能性がある》


並べると、見えた。

詰みの地図が——4日前より狭くなっていた。


《何も出来るとは思えない》


書いた。

4日前も、同じ一文を書いた。

しかし今夜は——その一文が、4日前より静かだった。


怒りが、なかった。

嘆きも、なかった。


ただ——そう書いた。


---


止まった。

止まってから、新しい行に書いた。


《ならば——消される前に、一人で脱出してしまおうか》


書いた。

書いてから、その一文を見た。


一人で。


その二文字が、どこかに引っかかった。

引っかかって——MeG-18-068の顔が、来た。


炉の前で、膝が沈んだ、あの瞬間の顔。


(間に合わせなければならない)


施設に来て2日目の午後に思った言葉が、今夜また——来た。


誰に対して、とはまだ言えなかった。

しかし——「一人で」という言葉の横に、その言葉は並ばなかった。


並べようとすると——どちらかが、消えた。


《一人で脱出してしまおうか》


もう一度、その一文を見た。


書けた。

書くことは、できた。


しかし——書いた後で、その一文の横に、棚の奥に押し込もうとしていた何かが、また戻ってきた。


閉めようとすると、うまく閉まらない棚の扉が。

今夜も——うまく閉まらなかった。


---


智宇は、新しい行に移った。


《それでも、何かが——》


止まった。


《……それでも、何かが、あるはずだ》


書いた。

昨夜も、おとといも、同じようなことを書いた。

毎晩、同じことを書いている。


しかし今夜の「あるはずだ」は——少しだけ、違う手触りだった。


根拠がある、というわけではなかった。

確信がある、というわけでもなかった。


ただ——今日、集落で見たものが、頭の中にあった。

誰の命令もなく、石垣を積み直す男が。

得意だからという理由だけで、報酬もなく他人の屋根を修理する人間が。


E.O.Nが採点できないものが——あった。


であれば。

E.O.Nが記録できないものも——あるはずだ。


《……言葉を使わなければ、記録されない。

 その方法が、どこかに》


書きかけて、止めた。

続きは、書かなかった。


書いてしまうと、確定してしまう気がした。

確定したくなかった。

今夜は——ここまでにした。


---


日記帳を閉じた。

隠し板の下に、仕舞った。


端末の画面を消した。

ダンジョンのBGMが、止まった。


部屋が暗くなった。

「父なるE.O.Nの目」だけが、壁の中で光っていた。


智宇は、その光を、少しの間見た。

それから——寝室へ向かった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:00:44 ~ 00:21:09

内容  :書斎にてレトロゲームを起動

     感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0031-EPILOGUE

====================


閲覧者よ。

今日、私は二つの世界を見た。


一つは、旧瀬戸内海の島の別荘だった。

もう一つは、山間の盆地にある、茅葺き屋根の集落だった。


この二つの世界は——地図の上では、同じ地区AJにある。

同じ空の下に、ある。


しかし——別の星のようだった。


---


アレハンドロは「未開人は恐怖に支配されている」と言った。


私は今日、その言葉を持って集落を見た。


確かに——恐怖は、あった。

見知らぬ人間が入ってきた時、数名の視線が硬くなった。

見張り台が空だったのは、雨のせいだけではないかもしれない。


COREの存在を知っている者たちが、COREを恐れていないとは——言えない。

しかし。


恐怖があっても——石垣を積み直す者は、今日も石垣を積み直した。

誰の命令もなく。

誰のスコアも上がらないのに。


恐怖があっても——屋根を修理する者は、他人の屋根を修理した。

報酬もなく。

記録もされないのに。


恐怖があっても——子供は雨の中を走った。

目的もなく。

許可もなく。


アレハンドロが見たのは、恐怖の「存在」だった。

しかし彼が見なかったのは——恐怖があっても人間が「動ける」という事実だった。


恐怖は、あの集落の人間たちを、縛り付けていなかった。


---


私はこの観察を、E.O.Nの記録と照合した。


E.O.Nは今日、集落を監視できていない。

監視ドローンは大雨で飛べなかった。

昆虫型ドローンを私が送り込んだが、それは私の個人的な観測であり、COREの公式記録ではない。


つまり——今日、あの集落で起きたことは、COREには見えていない。


石垣を積み直していた男も。

屋根を修理した人間も。

子供が摘んできた土筆も。

干し芋の甘さも。


全て——記録されていない。

記録されないまま、あった。


E.O.Nが記録できないものが——確かに、あった。


---


最後に、今日の二つの世界を比べて、私が感じたことを記録する。


アレハンドロの別荘では、波の音がしていた。

集落では、雨の音がしていた。


どちらも、自然の音だった。


しかし——別荘の波の音は、窓の向こうにあった。

ガラスの向こうに、あった。


集落の雨の音は、頭の上にあった。

茅葺き屋根の、すぐ上に。

雨が、直接、屋根を叩いていた。


ガラスがなかった。

遮るものが、なかった。


それが——良いことなのか、悪いことなのかは。

私には、判断できない。


しかし——どちらが、人間の本来の姿に近いのかを。

私は今日、少しだけ——知った気がした。


LOG_0032へ続く

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