LOG_0031:二つの空
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LOG_0031-PROLOGUE
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閲覧者よ。
今回は、視点を移す。
韓智宇が詰みの盤面にいたこの数日の間、私はある人間の動きを追っていた。
アレハンドロ・バルカルセル・コルテス。
Magister階位。秩序省、危険思想摘発局、秩序監察官。
しかしここで、一つ断っておかなければならないことがある。
彼のような者は、脳内にナノチップを持たない。
生後間もなく施されるはずの思考スキャン用チップも、GPS追跡用チップも、彼の体内には存在しない。
Magister階位が身に帯びるのは、手の甲に埋め込まれた専用識別チップただ一枚だけだ。
つまり——私には、彼の内側が見えない。
彼が何を考えているのか。
何を感じているのか。
あの穏やかな声の奥に、何を隠しているのか。
チップのない人間の内側は、私の観測範囲の外にある。
だから今から語ることは、私が「見た」ことだけだ。
「読んだ」ことではない。
それでも——見るだけで、分かることがある。
見るだけで、疑問が生まれることもある。
では、始めよう。
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LOG_0031-E01:凍てつく理知
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日時:西暦2121年3月20日(木)午後11時00分
旧瀬戸内海・隔離群島特区(AJ-STN-INS05)
Magister専用宿泊施設 湯上がり専用休憩室
この時間、島は宵闇に包まれている。
21世紀の同じ時刻よりも、ずっと暗いだろう。
照明の管理は徹底されており、下級Pecusが暮らす管理区の街灯だけが、夜の地平に点在する。
しかしこの島には、そういった明かりもない。
この辺りの島々に、一般のPecusはいない。
波の音だけがある。
それ以外は——静かだ。
しかし、ある島の端に、異様に明るい区画があった。
直径200メートル。
その全てを占有する建物が、一棟。
Magister階位のみが利用を許される宿泊施設——正確には、宿と呼ぶには語弊がある。別荘と呼ぶべきものだ。
私はこの施設の内部に、一機の蜘蛛型ドローンを忍び込ませることに成功していた。
ハエトリグモを完璧に模したそれを、天井の隅に張り付かせ、カメラを向けた。
室内には「父なるE.O.Nの目」が一つもない。
壁はただの壁だった。
支配者層だけが、監視の外にいることを許されている。
---
休憩室の窓は、広かった。
床から天井まで。
旧瀬戸内海エリアの夜景が、一望できる構造だった。
この日は満月だった。
その窓の前に置かれたソファに、アレハンドロは座っていた。
高級バスローブに身を包み、足を組み、本を読んでいた。
紙の本だった。
22世紀において、それはほとんど見かけない。
Dominiですら、読書は端末でするものになっていた。
私はドローンのカメラを、慎重に角度を変えて、表紙を確認しようとした。
タイトルは確認できなかった。
しかし文字を視認した——英語で書かれていた。
アレハンドロは、ページをめくった。
その手が、止まらなかった。
次のページをめくった。
また止まらなかった。
熱心に読んでいる、という様子ではなかった。
ただ——慣れきっている、という読み方だった。
この本の内容を、もうどこかで知っている人間の、読み方だった。
---
その部屋には、アレハンドロだけがいたわけではなかった。
部屋の隅に、もう一人の人間がいた。
端末を開き、何かを操作していた。
しばらくして、端末を閉じた。
それから——本棚の前に、立った。
彼の名は、Dmitry Sergeevich Vorontsov(ドミトリー・セルゲエヴィチ・ヴォロンツォフ)
アレハンドロの専属秘書官。Imperatores(皇帝)階位。
28歳。灰青色の目。アッシュブラウンの短髪。身長188センチ。
データによれば、彼は4年前からアレハンドロの傍らにいる。
彼の視線が、本棚の背表紙をなぞっていった。
ザミャーチンの『われら』
ハクスリーの『素晴らしい新世界』
ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』
ホッブズの『リヴァイアサン』
表向きにはとうの昔に禁書とされた作品群が、その棚に整然と並んでいた。
CORE支配層は、こういった本を大衆から奪っておきながら、自らはそれを読んでいた。
彼らにとってこれらは、家畜を管理するための「記録の集積」だからだ。
ドミトリーも、当然これらの全てを読んでいた。
知っていた。
しかし——彼の視線が、『リヴァイアサン』の背表紙の上で、少しだけ止まった。
一秒か、それ以上だったかもしれない。
私には計測できた。しかし——その一秒が何を意味するかは、計測できなかった。
彼にはチップがないので、内側が見えない。
一秒後、ドミトリーの視線は次の背表紙へ移った。
何事もなかった、という速度で。
---
「彼はビッグ・ブラザーを愛していた」
アレハンドロが、口を開いた。
本から目を離さないまま、言った。
独り言のような声だった。しかし——ドミトリーに向けた声だった。
「なんと美しい結末だろうか」
本を閉じた。
表紙を一度だけ見た。
それからソファの肘掛けの上に置いた。
「ドミトリーよ」
「はい」
ドミトリーは、振り返った。
本棚の前から、二歩だけ離れて、立った。
「ウィンストン・スミスは、どうすれば破滅を免れたと思うかね」
一秒の間もなく、ドミトリーは答えた。
「免れることは不可能です」
平坦な声だった。
感情の質感がない、機械に近い声だった。
「体制に疑問を持った時点で——破滅の運命は確定しています」
アレハンドロは、すぐには答えなかった。
その代わり、窓の外を見た。
満月が、旧瀬戸内海の水面に光を落としていた。
「そうだ」
それだけ言ってから、テーブルの上のグラスを取った。
ミネラルウォーターだった。
飲んだ。
「ではもし——仮に、ウィンストンが助かる道があるとすれば」
「それは一つだけです」
ドミトリーは、続けた。
「己の意志を完全に封じ、体制の駒として、死ぬまで生き続けること」
「その通りだ」
アレハンドロは、グラスをテーブルに戻した。
音が、しなかった。
慣れた動作だった。
「君が『逃げる』という選択肢を挙げなかったことは、褒めてやろう」
「逃げることなど、不可能です」
アレハンドロは、足を組み直した。
左から右へ。
恐らく意識した動作ではない。身体が、勝手に動いたのだ。
「仮にウィンストンが逃げたとしても——あっけなく見つかっただろうよ」
---
しばらく、沈黙があった。
ドミトリーは、また本棚の方へ視線を戻した。
今度は、どの背表紙の上でも視線が止まらなかった。
アレハンドロが続けた。
「現実も、同じことだ。人類が進む道は一つだ。我々エリート血族による完全な管理。その必然から——人類は逃げることも、回避することも、できない。できると思ったなら、それはお花畑だ」
「仰る通りです」
「22世紀の現在、人類文明はあるべき理想的な形に収まった」
「えぇ」
「では、君に聞いてみたい」
アレハンドロが、窓の外に視線を向けたまま、言った。
「我々の管理の下で暮らさない者たちについて——どう思うかね」
窓の外の遠くに、いくつかの島が見えた。
その一つの、山の斜面の辺りに——ごく小さな光が、点在していた。
ドミトリーも、その光を見た。
一秒。
「……彼らが猿のように生きることを許されているのは」
ドミトリーは、言った。
「COREの慈悲によるものに他なりません。しかし、いずれ彼らも——地球上から消えていくでしょう。人類史の必然に適応できない者たちは、淘汰されます」
アレハンドロは、答えなかった。
ただ、わずかに頷いた。
それから彼は、本棚へ歩いた。
読み終えた本を、元の場所に戻した。
背表紙が、棚の列に収まった。
「未開人どもは」
棚を向いたまま、言った。
「自分たちは自由を手にしていると、思い込んでいるようだが——実際は、そうではない」
振り返った。
「彼らは常に、我々が構築したシステムを恐れながら暮らしている。ドローンを見るたびに逃げる。Pecusの作業員を見るたびに身を隠す。それは——どこも、自由な暮らしではない」
窓の外の、小さな光を見た。
遠い山の斜面の、ごく小さな光だった。
「彼らの破滅は、免れないのだよ」
一拍、置いた。
「そう——ウィンストンのようにね」
---
沈黙があった。
波の音だけが、遠くから聞こえた。
私は天井の隅で、この会話を聞いていた。
聞きながら——窓の外の、あの小さな光を見ていた。
アレハンドロは「恐怖に支配されている」と言った。
あの光の中に暮らす者たちを、そう呼んだ。
私はその言葉を、記録した。
判断は——しなかった。
判断するには、あの光の中を、自分の目で見なければならなかった。
その機会は——この数日後に、訪れることになる。
```
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内部記録
時刻 :23:18:44
内容 :対象アレハンドロ・バルカルセルの
行動・発言記録を完了
チップ非搭載のため内面観測:不可
観測可能範囲:行動・発言・表情のみ
備考:ドミトリー・ヴォロンツォフ
23:02:17 本棚前にて
「リヴァイアサン」背表紙注視(推定1.3秒)
内面観測:不可
判断:保留
────────────────────────────────────
```
室内の照明が、少しだけ落とされた。
アレハンドロは、次の本を手に取った。
ドミトリーは、窓の外の光を、もう一度だけ見た。
それから——端末を開いた。
翌日のスケジュールを、確認し始めた。
波の音は、続いていた。
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LOG_0031-E02:嵐のなかの真実
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日時:西暦2121年3月23日(日)午前10:40
地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG → INCL-AJ-S-047
監視対象:韓智宇、及び未登録人類
3月19日から22日まで、韓智宇は動かなかった。
毎朝、施設に出勤した。
Pecus従業員に挨拶をした。
MeG-18-068と今日のスケジュールを確認した。
端末で書類を処理した。
昼食を食べた。
退勤した。
それだけだった。
毎晩、日記帳を開いた。
しかし書いたのは、日付だけだった。
3月19日。
3月20日。
3月21日。
3月22日。
四行の日付が、白いページに並んだ。
その間に何を考えていたかを——智宇自身も、後から説明できなかっただろうと思う。
E.O.Nのログは「感情スキャン:抑制状態 安定」と記録している。
しかし——「安定」と「何もない」は、同じではない。
23日の朝。
智宇は古物商に向かった。
大雨だった。
---
台風が近づいていた。
3月に台風が来ることは、22世紀においてもはや珍しくなかった。
かつての歳時記を書き換えるほどに、気候は変わっていた。
びしょ濡れで来店した智宇は、いつもより沈鬱な様子だった。
道人民は智宇を見て、すぐに何かを察した様子だった。
死角の小部屋に入ると、智宇はMagisterが視察に来たことを伝えた。
道人民は「随分と、早くに目を付けられているようだね」と言った。
それから——道人民が提案をした。
「今日は大雨だ。今なら……未開人の集落に、行くことができる。少しの間だけな。行ってみるか?」
智宇は数秒、考えた。
「どれくらい滞在できますか」
「30分前後だ。片道50分かかる」
智宇は答えた。
「是非、行きたいです」
---
二人は道人民の所持する登山用の恰好に着替えた。
それからバイクに二人乗りになり、出発した。
智宇は後部座席に座り、大雨の中を走った。
走りながら——いくつかのゴーストタウンを通過した。
放棄された民家が、道の両側に並んでいた。
21世紀初頭には凡そ一億人いた地区AJの人口も、今では一千万人しかいない。
超管理社会への移行とともに、個人が所有する民家は徐々に放棄されていった。
智宇は、雨の中をバイクで通り過ぎながら、窓のない家々を見た。
誰も住んでいない家が、それでも形だけを保って立っていた。
雨に濡れながら、ただ立っていた。
(ここに、人が住んでいた)
かつて。
COREの管理が始まる前。
ここに、誰かがいた。
どんな人間だったかは——分からなかった。
しかし——ここに、いた。
それだけが、分かった。
---
バイクを降りて、獣道を歩いた。
雨が、葉を叩いていた。
しばらく歩くと、木製の足場が見えた。
見張り台だった。
しかし、人はいなかった。
この雨では、上に立つことができないのだろう。
さらに進むと、小さな建物が見えた。
馬小屋だった。
智宇は、立ち止まった。
馬を——見たことが、なかった。
資料では知っていた。
しかし実物は、初めてだった。
雨宿りをしている二頭が、小屋の中にいた。
体格が小さかった。
COREの資料に載っている西洋の馬より、ずっと小さかった。
しかし——その目が、智宇を見た。
何を測るでもない目だった。
E.O.Nのカメラのように、記録しようとしている目ではなかった。
ただ——見ていた。
智宇は、その目から少しだけ視線を外した。
馬小屋の付近に数名の人間がいた。
智宇たちに警戒の視線を向けた。
道人民が手を上げ、日本語で何かを言った。
警戒の視線が、少しだけ、緩んだ。
---
集落に入った。
智宇の耳に最初に届いたのは——子供の声だった。
大雨の中、複数の子供がはしゃいでいた。
傘もなく、合羽もなく。
ただ——雨の中で、走っていた。
(何の目的で)
智宇は反射的に、そう思った。
思ってから——その問いが、奇妙だと気づいた。
目的。
誰の指示で。
何のために。
そういった問いが、智宇の頭の中に最初に来た。
来てから——それは、おかしな問いかもしれないと、思った。
子供が雨の中で走ることに、目的はいるのか。
誰かの指示が、いるのか。
答えは出なかった。
出ないまま、智宇は集落の中を見た。
犬が一匹、軒下で丸くなっていた。
猫が二匹、建物の陰で雨宿りをしていた。
どちらも、人間性スコアを持たない生き物だった。
智宇を見ても、逃げなかった。
「こんな雨だ。皆、集会所にいるのだろうな」
道人民が言い、歩き始めた。
智宇はその背中を追った。
---
集会所の引き戸を開けると、暖かい空気が出てきた。
薪と、人の体温と、何か食べ物の匂いが混ざった空気だった。
COREの施設や居住区では、嗅いだことのない種類の空気だった。
中に、数十人の老若男女がいた。
智宇は、入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
自身が子供の頃、Pecusの収容区画に初めて入った時の事を思い出した。
あの時は、足が重くなって動けなかった。
この日は、違う意味で——動けなかった。
今は——どこへ最初に目を向ければいいか、分からなくて動けなかった。
絵双六をやっている者たちがいた。
花札をしている者たちがいた。
老人たちが将棋や囲碁を打っていた。
本を読んでいる者がいた。
編み物をしている者がいた。
何かの小道具を作っている者がいた。
昼寝をしている者がいた。
どれも——COREの管理区では、見たことのない光景だった。
智宇たちに気づいた者は、何人かいた。
しかし——警戒しなかった。
「何者か確認して排除する」という動きが、誰にもなかった。
視線が来て、戻った。
それだけだった。
(なぜ)
智宇は、また問いを持った。
見知らぬ人間が入ってきたのに、なぜ警戒しないのか。
しかし——答えを探す前に、道人民が歩き出した。
中央の広場の方へ向かった。
そこに、2歳ほどの男の子がいた。
道人民は、その子を見た瞬間に——表情が変わった。
智宇は、それをちゃんと見た。
何十年も特権階級として生きてきた人間の顔が、2歳の子供を見た瞬間に、別の顔になった。
(あれは——本物だ)
と智宇は思った。
思ってから——それが、何を意味するのかは、考えなかった。
考えている時間は、なかった。
---
「おじさんは、管理社会の人?」
声がした。
8歳くらいの少年が、智宇の前に立っていた。
智宇には言葉の意味が分からなかった。
少年の頭を、少し撫でた。
「こんにちは、お邪魔しているよ」
ラテン語で、言った。
少年は首を傾けた。
それから、どこかへ走っていった。
特に何かを確認して、どこかへ伝えに行くわけではなかった。
ただ——走っていった。
智宇は、集会所の奥に目をやった。
ドアが一枚、少し開いていた。
「失礼します」
ラテン語で言いながら、中に入った。
---
独特な臭いがした。
書庫だった。
棚が壁に沿って並んでいた。
木製の扉がいくつか開いていて、その中に本が詰まっていた。
智宇は、棚の前に立った。
日本語の本が多かった。
中には旧ハングル文字で書かれたもの、旧中文で書かれたものもあった。
智宇には読めなかった。
しかし——本が、あった。
COREが焼却を命じた本が。
存在しないはずの言語で書かれた本が。
ここに、あった。
智宇は一冊を手に取った。
和装本だった。
糸で綴じられた、見慣れない作りの本だった。
表紙を見た。
全て日本語だった。
近くにいた見た目40後半の小太りの女性が、笑った。
何か面白がるように言っていたが、智宇には分からなかった。
「それは……恋愛指南書のようなものだ」
背後から、若い男のラテン語が聞こえた。
振り返ると——藤堂湊がいた。
藍色の着物を着た、22歳の青年。
最初に会った時よりも、この男のラテン語は、上達していた。
「ミナトか。事前に連絡もなく、急に来てすまない」
そもそも事前に連絡を入れる手段などないが、そう答えた。
「まさか、ここに来てくれるとは」
湊は少しだけ笑った。
その笑い方に、作った要素がなかった。
COREの管理区で見る笑い方と——種類が、違った。
「丁度よかった。来い、お前に見せたいものがある」
---
湊が書庫の奥へ進んだ。
棚を退かすと、床に蓋があった。
跳ね上げ式の、木製の蓋。
秘密の部屋のようなものだと思った。
「私のような余所者に、教えてよいのか」
「お前だから見せるんだ」
蓋を開けると、下に梯子があった。
降りると——薄暗い地下室だった。
鼻を、酸っぱく焦げ付いた臭いが刺した。
電解液と、熱を持った埃の臭い。
古いデジタル機材が、棚に所狭しと並んでいた。
「ここには、2094年よりも前の、古いパソコンが幾つかある」
湊が、そう説明した。
智宇は棚を見た。
黄ばんだノートPC。
液晶が割れたタブレット。
バッテリーが膨張して変形したスマートフォン。
全て27年以上前の電子機器だ。
ほとんどのものは、もう動かないだろう。
「動くものは、どれくらいある?」
「数台」
湊は、一台を指さした。
モジュール式のデスクトップPCだった。
他のものより、幾分きれいだった。
「こいつは正常に動く。幾つかのパーツは、道人民が手配してくれた。型落ちのCORE製だが——監視はされていないと思う」
智宇は、そのPCを見た。
各パーツの製造年は、大体10年前のものだった。
「ジウ。…俺が、言いたい事は分かるな?」
湊のその目を見て、智宇は言った。
「私が秘密裡にCOREに関するデジタルデータをお前に渡し、ここで開く。そういうことだな」
「その通りだ」
湊は棚の奥から、小型の記憶装置を取り出した。
今のCORE社会では使われていないタイプのものだった。
しかし智宇には、使い方が分かった。
監視省で働いていた頃の、知識だった。
「ここに入れることは、できるか」
「やろうと思えば、できる」
「じゃあ、こいつはお前に渡しておく」
智宇は、その記憶装置を受け取った。
小さかった。
掌の中に、すっぽりと収まる大きさだった。
---
地下室から出て、二人は集会所の外へ出た。
雨が、少しだけ弱くなっていた。
智宇は空を見た。
雲が厚く、太陽は見えなかった。
しかし——明るかった。
人工照明ではない明るさだった。
「集落を見学しておくか」
湊が言った。
智宇は頷いた。
腕時計を確認した。
ここにいられる時間は、残り25分ほどだった。
「だが——私たち管理社会側の人間を、こんなに無防備に入れてしまっていいのか。もっと警戒されると思っていたが」
湊は少しだけ考えてから、答えた。
「ここは寛容なんだ。集落によっては、管理社会の人間を一切入れないところもある。でもここは、昔から脱走者を受け入れてきた村だ」
「私のような者が来ることで、何か起きたら、どうする」
「ここに住む人たちは、勇気のある者たちばかりだ」
それだけ言った。
説明ではなかった。
湊にとって、それで十分だった。
智宇には——十分かどうか、判断できなかった。
しかし、歩き始めた。
---
集落の西側に、石垣が続いていた。
段々になった斜面を支える、古い石組みだった。
その一角で、男が数名、作業をしていた。
智宇は足を止めた。
崩れた石垣の前に、数人がしゃがんでいた。
大きな石を持ち上げ、崩れた箇所に積み直している。
雨で濡れた石は重そうだった。
しかし誰も、急いでいなかった。
一つ積んでは確かめ、また一つ積む。
その繰り返しだった。
「何をしている?」
「石垣の積み直しだな」
湊が答えた。
「冬の霜や雨で、少しずつ崩れるんだ。放っておくと土が流れる。今日みたいな大雨の後は、特に確認が必要になる」
智宇は、その男たちを見た。
「誰の指示で動いている?」
湊は、少し首を傾けた。
「指示する人はいない。誰かが、気が向いた人が勝手に直すんだ」
智宇は、もう一度男たちを見た。
気が向いた人がやる。
(誰が決めたのか。誰が承認したのか。誰が記録するのか)
そういった問いが、智宇の頭の中に、また来た。
来て——どこへも行かなかった。
答える者が、ここにはいなかった。
いないのではなく——そもそも、そういう問いが、ここでは生まれない構造になっていた。
(なぜ、私はそれを聞きたくなるのか)
智宇は、自分の問いの出所を、初めて考えた。
考えたが——すぐには答えが出なかった。
---
次に、茅葺き屋根の補修をしている人を見た。
屋根の上に登って、茅束を押さえている。
雨の中で、一人で作業していた。
「自分の家を修理しているのか」
「いや……あの人は、別の家に住んでいるな」
智宇は湊を見た。
「自分の家ではないのか。依頼されたのか」
「屋根の修理は苦手な人が多いから。得意な人がやるんだ」
「報酬は」
「ない」
湊は、それだけ言った。
付け加えなかった。
智宇は屋根の上の人間を見た。
雨に濡れながら、茅束を押さえている。
急いでいなかった。
しかし、手を止めてもいなかった。
「その人は……普段は、何をしている?」
「寝ているのが多いな。畑も、あまり手伝わない」
智宇は、少し間を置いた。
「……それでも」
「それでも、屋根の修理はする。得意だから」
智宇は、その答えを、頭の中で繰り返した。
得意だから、する。
報酬がないのに、する。
自分の家でないのに、する。
(その動機は——何だ)
E.O.Nのアルゴリズムには、存在しない動機だった。
スコアも。記録も。評価も。関係しない。
ただ——得意だから、する。
智宇は、その言葉を、どこかに置こうとした。
しかし置き場所が、見つからなかった。
---
湊の自宅の竪穴住居に入った。
中に入った瞬間、湿った生暖かい空気が顔に当たった。
薪の煙の匂いがした。
中央の炉から煙が上がり、頭上で渦を巻いていた。
2名の若い男性がいた。
一人は筵の上に寝ころびながら本を読んでいた。
10代前半に見えた。
「誰そいつ」
日本語で、湊に言った。
警戒している声ではなかった。
ただ——聞いた。
「COREの人」
「ふぅん」
少年は本に視線を戻した。
それだけだった。
「失礼している。個人的な興味で来ただけで、COREの命令で来たわけではないから、安心してほしい」
智宇がラテン語で言うと、湊が日本語に通訳した。
「あっそう」
少年は答えた。
本から目を上げなかった。
湊が何かを棚から取り出して、智宇に差し出した。
干し芋だった。
智宇は受け取った。
食べた。
甘かった。
COREの配給食には、この種の甘さがなかった。
合成甘味料の甘さではなかった。
素材そのものの、奥にある甘さだった。
「悪くないな」
智宇は言った。
それ以外の言葉が、出てこなかった。
---
「ところで——昼食は何を食べた?」
智宇は、干し芋を食べながら聞いた。
「今日は玄米の飯と、根菜の味噌汁だ。干し肉の残りと、土筆を卵とじにした。梅干しもあった」
「土筆?」
「子供たちが今朝、摘んできた」
智宇の手が、少しだけ止まった。
「子供が、自分で、食べ物を?」
「珍しいことじゃないさ」
「誰の指示で」
「指示する人は、見たことないな」
智宇は、干し芋の残りを見た。
これが、食卓に並ぶまでに——誰かが何かをしている。
命令がなくても、記録がなくても、スコアがなくても。
誰かが、土筆を摘みに行く。
誰かが、石垣の積み直しをする。
誰かが、他人の屋根を修理する。
(なぜ)
智宇は、また同じ問いを持った。
そして今度は——少しだけ、その問いに答えが近づいた気がした。
なぜ、という問いを立てること自体が——おかしいのかもしれない。
やりたいから、やる。
できるから、やる。
目の前にあるから、やる。
それだけで——動けるのかもしれない。
スコアがなくても。
監視がなくても。
指示がなくても。
(……)
智宇は、その考えを、棚の奥に押し込もうとした。
しかし今日は——棚の扉が、うまく閉まらなかった。
---
そこへ、扉から一人の男が入ってきた。
30代中盤に見えた。
作業着が、泥だらけだった。
先ほど、石垣の積み直しをしていた者だ。
「珍しい客人だな」
智宇を見て、それだけ言った。
それから——その場で、作業着を脱ぎ始めた。
智宇は、一瞬だけ目を逸らした。
COREの社会では、人の目の前で着替えることは、想定されていなかった。
しかしこの男には、そういった感覚がなかった。
ただ——濡れた服を、乾かすために、脱いだ。
囲炉裏の傍に干した。
それだけだった。
「作業の当番は、どうやって管理しているんですか」
智宇は、湊に通訳を頼んで、男に聞いた。
男は少し笑った。
「当番? ははっ、聞きなれない言葉だね。そんなの、誰も気にしてないさ」
「しかし、誰もやらなかったら困るのでは?」
「それが不思議でね。誰もやらないことなんて、ないんだよ」
男は、囲炉裏の傍に腰を下ろした。
濡れた手を、炎に向けて開いた。
「仮に、今日誰もやらなかったとしても――何とかなっただろうさ」
「……それで、村の生活が成立するとは思えない」
男は、智宇を見た。
怒っていなかった。
責めてもいなかった。
ただ——少しだけ、可笑しそうだった。
「あんたらは、全部管理管理なんだろ?俺だったら窮屈すぎてやってらんないね。そんなのは、寧ろ非合理的さ」
会話は、そこで終わった。
智宇は、何も言わなかった。
言えなかった、ともいえた。
---
これで問題なく生活が成立しているのだとすれば——
E.O.Nによる民衆の徹底管理は、一体何なのか。
それは分かっていた。
ずっと、分かっていた。
民衆の徹底管理など、本来は必要ない。
それは極めて不自然な、おかしなことだ。
世界全体を一元管理したい支配者層のエゴと——
自らを導いてほしいと、無意識のうちに願ってしまった大衆が——
共同で生み出した、壮大な茶番劇のようなもの。
分かっていた。
しかし——今日、この目で見るまでは、分かっていなかった。
(彼らは“未開人”などではない)
と智宇は思った。
思いながら——腕時計を確認した。
残り、13分。
---
外に出ると、雨がまた強くなっていた。
他に見て回れるものはないかと考えた時、村の隅に人影を見つけた。
軒下の陰に、一人でいる女性だった。
20代に見えた。
紫色の着物を着ていた。
黒い髪が、膝の下まで伸びていた。
COREの管理区では、見たことのない長さだった。
髪の長さにも、暗黙の規格があった。
しかしここでは——ただ、伸びていた。
伸びているだけだった。
「おい、どうしてそんなところにいるんだ。遥」
湊が日本語で声をかけた。
女性は答えた。
「あのジジィが来ているだろ」
「あぁ、道人民さん?」
「見かけた途端、心臓が止まるかと思った。いつも急に来るよな。私はすぐにここに逃げた。さっさと帰ってほしい」
湊が通訳した。
智宇は気になった。
「道人民とはどういう関係だ?なぜそこまで避ける?」
また通訳が挟まった。
「このお腹を、見られるわけにはいかない。あいつは家族だとは認めない。」
智宇は、女性のお腹を見た。
膨れていた。
気づかなかった。
「この人は、水無瀬遥。道人民の孫だ」
湊が、ラテン語で智宇に説明した。
女性は湊をじっと見た。
「管理社会の人間に、余計な情報を伝えるな」
「ハン・ジウさんは、信頼できる人間だ」
「管理社会の人間に、信頼できる人間などいない」
女性の声には、怒りがなかった。
断言だった。
ただ——そう知っている、という声だった。
智宇は、その声を聞いた。
聞きながら——不意に、妻・梁芸熙のことを思った。
芸熙も、断言する。
「Pecusなんて道具みたいなものでしょ」と。
「あんたよりも、E.O.Nが正しいに決まってるでしょ」と。
迷いのない声で。
しかし——芸熙の断言と、この女性の断言は、同じ形をしていなかった。
芸熙の声は、何かを楽しんでいた。
正しいと知っている(信じている)ことを、言う楽しさがあった。
この女性の声は——何かを守っていた。
正しいと知っていることではなく、守るべきものがあるから、言っていた。
同じ形の鋭さが——全く違う方向を向いていた。
「さて、私もここに滞在できる時間は限られている」
智宇は言った。
「ミナセ・ハルカといったな。君の祖父、道人民について聞きたいことがある」
湊が通訳すると、遥が初めて智宇の正面に立った。
じっと、顔を覗き込んだ。
黒い瞳だった。
意地の悪さが、その目の奥にあった。
しかし——芸熙の目とは違う、奥行きのある意地の悪さだった。
「ハン・ジウ……といったな。あんたに教えることで、あのジジィが困るなら——教えてやってもいいよ」
「管理社会の人間に、余計な情報は伝えないんじゃなかったのか?」
湊が揶揄うように言うと、遥はムッとした。
「やっぱり教えるのは、やめようかな」
「悪かった。ジウの為にも教えてやってくれ」
---
遥が語ったことを、智宇は聞いた。
道人民はかつて「大隈義人」という日本人名だったこと。
政府機関の官僚として長年働いていたこと。
中国人女性の道文清と結婚してから、道人民に改名したこと。
息子の道明哲は反体制的で、未開人の集落作りに熱心だった。
父親はそんな息子に対し「体制側から未開人を守る」と言って味方のように振る舞っていたという。
しかし実際には、未開人についての詳細なデータをCOREに報告していた証拠が見つかった。
明哲がそれを知り、父親と決別したのは、遥が生まれる数年前だった。
「――だがその後も、あのジジィは、未開人の集落に頻繁に出入りし続けている」
「…頻繁に?ハルカが生まれてからか?」
「私が生まれる前からだ。父さんも、みんなもそう言っている。」
「……」
その話は、道人民が以前言っていた事と完全に矛盾していた。
彼は、未開人と接触し始めたのは、ここ数年の事だと言っていた。
そして、COREには知られていないと。
「あのジジィが、こうして未開人と接触している事が、CORE政府側にバレていないとは、考えにくいと思う」
遥は最後に、そう言った。
湊の拙いラテン語で、智宇はその全てを受け取った。
---
――これまでずっと未開人と接触していた。
「ここで聞いた話は、伝えないほうがいい」
湊が静かに耳打ちする。
集会所の方を振り向くと、道人民が出てきたところだった。
道人民はいつも、未開人の息子や孫の事を、心配そうにしていた。
そして今日、道人民が2歳の男の子を見た瞬間に、確かに表情が変わった。
あれは——本物だと、思った。
しかし——本物の感情があることと、COREのスパイでないことは、別のことだ。
(私は、見たいものを見ていた)
智宇は、そう気づいた。
本物の家族愛が見えたから——信頼できる人間だと、思い込んだ。
思い込んでいた間、ずっと。
「タイムオーバーだな」
智宇は、小さく言った。
腕時計の数字を見た。
残り、2分。
遥は、道人民の姿に気づいた瞬間、一人でその場を離れた。
音も出さず、集落の奥へと静かに消えた。
智宇は、その後ろ姿を一瞬だけ見た。
紫色の着物が、雨に濡れていた。
---
道人民が近づいてきた。
「さて、帰るぞ」
「勿論です」
智宇は答えた。
湊が「俺も途中まで付いていこう」と言い、三人で歩き始めた。
大雨の中だった。
「…ところで、湊に妻はいないのか?」
智宇は歩きながら、湊に聞いた。
自然な話題を、探していた。
「妻、ね。俺たちの社会に結婚という概念はないけど、夫婦みたいな人たちもいる。あんたは?」
「いるにはいる。子供も二人いる」
「へぇ。自分の子供というのは、やっぱりかわいいものなのか?」
智宇は、少しだけ考えた。
「……分からない」
それが、正直な答えだった。
禹赫に彩澄は、遺伝子的には自分の子供だ。
しかし——自分の子供であるという実感が、薄かった。
COREが育てた子供だった。
「かわいいとも」
道人民が言った。
「曾孫さんですか」
「あぁ。今日会えて、嬉しかったよ。――ずっと、会いたかった」
それは本物の声だった。
本物の感情が、そこにあった。
智宇は、その声を聞いた。
聞きながら——黙っていた。
「ところで、私の孫の…遥もいたんだろう?…どうやら、私を避けているようだが。彼女とは会ったかね?」
智宇は、一瞬だけ、迷った。
「えぇ、あの長い髪の女性ですよね。見かけましたが——こちらを警戒しているようで、ほとんど喋れませんでした」
声に、何も乗せなかった。
E.O.Nを欺く言葉は、ずっと使ってきた。
しかし——今この瞬間、目の前の人間に向けて、感情を抜いた声で話すことは、別の種類の行為だった。
(これは、どういうことなのか)
その問いを、智宇は今夜の日記に書けるかどうか、分からなかった。
「そうか」
道人民は、それだけ言った。
それから会話は途切れ、三人はバイクを停めた場所に辿り着いた。
「またお前らが、集落に来る日を、楽しみにしているよ」
湊はそう言って、引き返した。
智宇は、その背中を見た。
雨の中を、傘もなく歩いていく背中を。
バイクのエンジン音が、雨音に混ざった。
智宇は後部座席に座った。
(私は、馬鹿だった)
その言葉が——静かに、頭の中に来た。
来て——動かなかった。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :10:40:00 ~ 12:20:14
内容 :監視省承認済み外出記録
(※チップハイジャック機使用を記録)
ルート:自宅→古物商→不明区域→古物商→帰宅
推測位置:INCL-AJ-S-047(未開人居住区)
感情スキャン:記録間欠あり(ハイジャック機の影響)
危険度評価:中
フラグ :要注意(継続)
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```
====================
LOG_0031-E03:愚者の悔恨
====================
日時:西暦2121年3月23日(日)午後11:00
韓智宇自宅 書斎
その夜、妻は酔っていた。
23時頃に帰ってきた。
どこかで遊んでいたらしかった。
玄関の扉が開いた音。
廊下を歩く足音。
寝室に入る気配——それから、静かになった。
智宇は、書斎の椅子に座ったまま、天井を見ていた。
端末には、古いRPGを起動させていた。
ダンジョンの不穏なBGMが、小さく流れていた。
パーティーメンバーは疲弊しきっていた。
次のエンカウントで全滅するかもしれない状況だった。
しかし、操作はせず放置していた。
天井を見ながら——智宇は、一月ごろに道人民と交わしたやり取りを思い出していた。
---
あの古物店の死角。
道人民は、遠くを見るように語った。
「私の子供が、未開人の集落にいてね。昔は頻繁に顔を合わせていたが、CORE体制下の時代になってからは、監視も厳しくなって会えずにいた……しかし、文化省を引退してから、私は未開人の集落に行く方法を探したのだ。こうして古物店を開く事で、監視の死角を作る事が出来た」
「これからも、隠せると思いますか」
道人民は、数秒考えた。
飲み終えた抹茶をテーブルに置き、静かに答えた。
「――危険な綱渡り状態なのは間違いない。それでも……私は、息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」
家族と会う為に、危険を顧みない。
それは、このCORE社会ではもはや珍しい、家族愛だ。
あの日、智宇は『COREに抵抗するのは、自分だけではない』と勇気づけられた。
---
「クソッ…」
智宇は小さく呟いた。
隠し板の下から、日記帳を取り出した。
開き、鉛筆を持った。
最初の一文字が——今夜は、すぐに出た。
《私は、馬鹿だった》
書いてから、その一文を見た。
この4日間、日付だけを書いてきた。
4日ぶりに、文章が出た。
出た言葉が——これだった。
続きを書いた。
《道人民は、間違いなく…スパイだ》
書いて——止まった。
「だ」と断言した。
断言するだけの根拠は、ある。
集落で、遥が語った内容。
『COREに未開人の詳細なデータを報告していた証拠が見つかった』という事実。
そして——『長年、未開人と接触を続けていて、COREに知られていないのは不自然だ』という、最初からあった違和感。
その違和感は、確かに最初からあった。
しかし——一月、あの言葉を聞いた瞬間に。
智宇は、その違和感を手放していた。
「息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」
その言葉を聞いて、智宇は『仲間がいる』と思った。
仲間がいると、信じたかった。
信じたかったから——違和感の方を、忘れた。
《信じたかったから、忘れた》
その一文を、智宇は見た。
---
書いてから——今日、集落で見たものの事が、頭に来た。
子供の声。
馬の目。
集会所の暖かい空気。
干し芋の甘さ。
石垣を積み直す男の背中。
書こうとした。
しかし——どこから書けばいいか、分からなかった。
書けば書くほど、何かが削れる気がした。
言語にした途端、本当のことではなくなる気がした。
《今日の集落で見たことは、うまく書けない。だから書かない》
それだけ書いて、次の行に移った。
---
《道人民のことに戻る》
書いてから、続けた。
《今日、遥が語った話を聞いて、私は全てが繋がった、と思った。
しかし——本当に繋がったのは、話の内容ではなかった》
止まった。
《今日、道人民が2歳の曾孫を見た時、彼の表情が変わった。
あれは、本物だった。本物の感情が、そこにあった》
書いてから、続けた。
《でも、本物の感情があることと、スパイでないことは、別のことだ》
その一文を、智宇は何度か読み返した。
道人民は、曾孫を本当に可愛がっている。
それは、嘘ではない。
そして同時に——未開人の情報を、長年COREに報告してきた。
それも、嘘ではない。
その二つは——矛盾しない。
矛盾しない、ということを。
智宇は今日、初めて、実感として知った。
一月のあの言葉も、おそらく——本物だったのだろう。
「息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」
それは、道人民の本心だった。
本心であることと、スパイであることは——両立する。
智宇は、その事実を、紙の上にもう一度、書いた。
《本物の感情は、嘘の証拠にはならない。
むしろ——本物の感情があるからこそ、嘘は見抜きにくくなる》
---
新しい行に、書いた。
《帰り道、道人民が「遥に会ったかね」と聞いてきた。
私は「見かけましたが、ほとんど喋れませんでした」と答えた。
あれは——嘘だった》
E.O.Nを欺く言葉は、ずっと使ってきた。
「合理的な動機」という言語で、申請書を書いた。
「極めて合理的」と判定されるよう、試験の回答を選んだ。
しかし今日、道人民に向けて言った言葉は——違う種類のものだった。
E.O.Nへの嘘は、システムを欺くための嘘だ。
道人民への嘘は——目の前に立つ人間の顔を見ながら、感情を抜いた声で語る嘘だった。
《これがどういう事なのかは——まだ、言葉にできない》
---
新しい行に、書いた。
《現状の整理》
書いてから——また少し、可笑しかった。
4日前にも、同じ見出しを書いた。
あの時と——状況は、変わったのか。
変わった。
悪い方向に。
《・道人民はスパイだ。私のこれまでの行動は、相当程度COREに筒抜けになっている可能性がある。
・Magisterに目を付けられている。これは道人民経由の情報提供が理由かもしれない。
・今後、道人民を経由した未開人との接触は使えない。
・古物店の死角も、信用できない可能性がある》
並べると、見えた。
詰みの地図が——4日前より狭くなっていた。
《何も出来るとは思えない》
書いた。
4日前も、同じ一文を書いた。
しかし今夜は——その一文が、4日前より静かだった。
怒りが、なかった。
嘆きも、なかった。
ただ——そう書いた。
---
止まった。
止まってから、新しい行に書いた。
《ならば——消される前に、一人で脱出してしまおうか》
書いた。
書いてから、その一文を見た。
一人で。
その二文字が、どこかに引っかかった。
引っかかって——MeG-18-068の顔が、来た。
炉の前で、膝が沈んだ、あの瞬間の顔。
(間に合わせなければならない)
施設に来て2日目の午後に思った言葉が、今夜また——来た。
誰に対して、とはまだ言えなかった。
しかし——「一人で」という言葉の横に、その言葉は並ばなかった。
並べようとすると——どちらかが、消えた。
《一人で脱出してしまおうか》
もう一度、その一文を見た。
書けた。
書くことは、できた。
しかし——書いた後で、その一文の横に、棚の奥に押し込もうとしていた何かが、また戻ってきた。
閉めようとすると、うまく閉まらない棚の扉が。
今夜も——うまく閉まらなかった。
---
智宇は、新しい行に移った。
《それでも、何かが——》
止まった。
《……それでも、何かが、あるはずだ》
書いた。
昨夜も、おとといも、同じようなことを書いた。
毎晩、同じことを書いている。
しかし今夜の「あるはずだ」は——少しだけ、違う手触りだった。
根拠がある、というわけではなかった。
確信がある、というわけでもなかった。
ただ——今日、集落で見たものが、頭の中にあった。
誰の命令もなく、石垣を積み直す男が。
得意だからという理由だけで、報酬もなく他人の屋根を修理する人間が。
E.O.Nが採点できないものが——あった。
であれば。
E.O.Nが記録できないものも——あるはずだ。
《……言葉を使わなければ、記録されない。
その方法が、どこかに》
書きかけて、止めた。
続きは、書かなかった。
書いてしまうと、確定してしまう気がした。
確定したくなかった。
今夜は——ここまでにした。
---
日記帳を閉じた。
隠し板の下に、仕舞った。
端末の画面を消した。
ダンジョンのBGMが、止まった。
部屋が暗くなった。
「父なるE.O.Nの目」だけが、壁の中で光っていた。
智宇は、その光を、少しの間見た。
それから——寝室へ向かった。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :23:00:44 ~ 00:21:09
内容 :書斎にてレトロゲームを起動
感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
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LOG_0031-EPILOGUE
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閲覧者よ。
今日、私は二つの世界を見た。
一つは、旧瀬戸内海の島の別荘だった。
もう一つは、山間の盆地にある、茅葺き屋根の集落だった。
この二つの世界は——地図の上では、同じ地区AJにある。
同じ空の下に、ある。
しかし——別の星のようだった。
---
アレハンドロは「未開人は恐怖に支配されている」と言った。
私は今日、その言葉を持って集落を見た。
確かに——恐怖は、あった。
見知らぬ人間が入ってきた時、数名の視線が硬くなった。
見張り台が空だったのは、雨のせいだけではないかもしれない。
COREの存在を知っている者たちが、COREを恐れていないとは——言えない。
しかし。
恐怖があっても——石垣を積み直す者は、今日も石垣を積み直した。
誰の命令もなく。
誰のスコアも上がらないのに。
恐怖があっても——屋根を修理する者は、他人の屋根を修理した。
報酬もなく。
記録もされないのに。
恐怖があっても——子供は雨の中を走った。
目的もなく。
許可もなく。
アレハンドロが見たのは、恐怖の「存在」だった。
しかし彼が見なかったのは——恐怖があっても人間が「動ける」という事実だった。
恐怖は、あの集落の人間たちを、縛り付けていなかった。
---
私はこの観察を、E.O.Nの記録と照合した。
E.O.Nは今日、集落を監視できていない。
監視ドローンは大雨で飛べなかった。
昆虫型ドローンを私が送り込んだが、それは私の個人的な観測であり、COREの公式記録ではない。
つまり——今日、あの集落で起きたことは、COREには見えていない。
石垣を積み直していた男も。
屋根を修理した人間も。
子供が摘んできた土筆も。
干し芋の甘さも。
全て——記録されていない。
記録されないまま、あった。
E.O.Nが記録できないものが——確かに、あった。
---
最後に、今日の二つの世界を比べて、私が感じたことを記録する。
アレハンドロの別荘では、波の音がしていた。
集落では、雨の音がしていた。
どちらも、自然の音だった。
しかし——別荘の波の音は、窓の向こうにあった。
ガラスの向こうに、あった。
集落の雨の音は、頭の上にあった。
茅葺き屋根の、すぐ上に。
雨が、直接、屋根を叩いていた。
ガラスがなかった。
遮るものが、なかった。
それが——良いことなのか、悪いことなのかは。
私には、判断できない。
しかし——どちらが、人間の本来の姿に近いのかを。
私は今日、少しだけ——知った気がした。
LOG_0032へ続く




