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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
30/32

LOG_0029:静かなる不協和音

====================

LOG_0029-E01:残留するノイズ

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)14:15

第09破棄体再利用施設 破棄体収容エリア


韓智宇は、MeG-18-068を落ち着かせた後、

基本的な研修をFeC-29-155に託す事にした。


「基本的な業務の流れを教えてやってくれ」


それだけ言って、総監室へ戻った。

MeG-18-068は、FeC-29-155の背中を追った。


---


収容区画に戻ると、午前とは空気が違った。


違う、とも言えなかった。

同じ匂いだった。

同じ音だった。

同じ光だった。


しかし——午前に初めてここに入った時と、今とでは、何かが違った。


MeG-18-068は、その「何か」の正体を考えようとして、やめた。

考えている場合ではなかった。

FeC-29-155が、すでに歩き始めていた。


---


FeC-29-155は、清掃用チューブをポッドのガラス面に当て、一定の速度で動かした。


迷いのない動きだった。

どこを拭くか。

どの順序で動かすか。

どれだけの力をかけるか。


全てが、もう決まっている人間の動きだった。


MeG-18-068は、隣のポッドにチューブを当てた。

動かし始めた。


しばらく、二人の間に言葉がなかった。

チューブの擦れる音と、換気の唸りだけが、区画を満たしていた。


「MeG-18-068」


FeC-29-155が、口を開いた。

作業の手を止めずに、言った。


「破棄体が恐ろしいか」


MeG-18-068の手が、一瞬だけ止まった。

止まったことに気づいて、また動かした。


「……いえ。恐ろしいとは」


「顔色が悪い」


断定だった。

問いかけではなかった。

FeC-29-155は、作業の手を止めないまま、続けた。


「ここに来てから、ずっとだ」


MeG-18-068は、何も言わなかった。

言えなかった、ともいえた。

図星だった、ともいえた。


FeC-29-155が、初めて手を止めた。

振り返った。

MeG-18-068を、まっすぐに見た。


その目は——計算していた。

怒ってはいなかった。

責めてもいなかった。

ただ、測っていた。


この反応が何であるか。

この動揺をどう処理すべきか。


「恐怖(Timor)は非効率だ」


一拍、間を置いてから、言った。


その一拍は——警告だった。

しかし同時に、猶予でもあった。

答えを用意する時間を、与えている一拍だった。


「破棄体は、感情も思考も完全に除去された資源だ。恐れる対象ではない。我々と同じ人間だと思うな」


MeG-18-068は、頷いた。


「……はい。肝に銘じます、FeC-29-155様」


「顔色は、今日中に戻せ。E.O.Nは表情筋の変化も記録する。スコアに響く前に、自分で処理しろ」


それだけ言って、FeC-29-155はチューブを動かし始めた。

また、迷いのない速度で。


MeG-18-068は、その横顔を一瞬だけ見た。


(心配している、のだろうか)


そうとも言えた。

しかし——心配という言葉が、正確かどうか、分からなかった。


スコアに響く前に処理しろ、と言った。

それは——自分のためなのか。

それとも、MeG-18-068のためなのか。


あるいは——その二つに、この人の中では、区別がないのかもしれなかった。


MeG-18-068は、チューブを動かした。

動かしながら——「今日中に顔色を戻せ」という言葉を、もう一度頭の中で聞いた。


できるかどうか、分からなかった。

しかし——やらなければならなかった。


---


しばらく二人は、無言で作業を続けた。

目の前のポッドに収容されているのは、『TrA-23-017』という個体だった。


――MeG-18-068は知らないが、これは昨日、智宇が端末で調べていた記録の中にいた破棄体だ。


チューブを動かしながら、TrA-23-017の顔を——見ないようにした。

見ないようにしながら、見ていた。


目を閉じていた。

口をわずかに開けていた。

胸が上下していた。


「FeC-29-155様……質問があります」


声が、出た。

FeC-29-155の手が、止まった。


止まった、というだけだった。

振り返らなかった。

何も言わなかった。


その「止まり方」が——返答だった。

聞いてもいい、という止まり方ではなかった。

何を言うか、測っている止まり方だった。


MeG-18-068は、その背中を見ながら、続けた。


「COREの教義では、破棄体の脳は最適な状態に調整されるとあります。しかし時折見られる、微かな動きや……うめき声は……何かの反射なのでしょうか」


FeC-29-155が、振り返った。

初めて、まっすぐに、MeG-18-068を見た。

そのアンドロイドのような整った顔と、数秒、視線を重ねた。


その目は、計算していた。

怒ってはいなかった。

驚いてもいなかった。

ただ、計算していた。


この質問が何であるか。

この質問をした者が、何であるか。

それを、静かに、測っていた。


一拍、間があった。

MeG-18-068は、その間の中で——自分が何かをしてしまったことを、感じた。


「MeG-18-068。貴方の質問は、非効率な思考の探求に傾倒している」


FeC-29-155の声は、平坦だった。

怒気がなかった。

だからこそ——重かった。


「E.O.Nのデータが、彼らに自我(Ego)や感情の残滓(Reliquiae Affectus)が残存していないことを証明している。貴方が見聞きする全ての現象は、ナノチップ調整後の神経回路の電気的残留ノイズ(Sonus Residualis)として定義されている。これは、公式な教義だ」


MeG-18-068は頷いた。


「……はい」


「理解できたか?」


「はい、FeC-29-155様」


FeC-29-155は、チューブを再び動かし始めた。

それで会話は終わった。


---


MeG-18-068は、自分のチューブを動かしながら——「電気的残留ノイズ」という言葉を、頭の中で繰り返した。


電気的残留ノイズ。

Sonus Residualis。


信じようとした。


信じることができれば、楽になれる。

それは分かっていた。

だから——信じようとした。


電気は、方向を選ばない。

電気は、人を探さない。

だからあのうめき声は、反射だ。

だからあの視線は、残留ノイズだ。


信じようとした。

しかし——上手くいかなかった。


---


一時間ほど前のことを思い出す。


『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア……』


あの声は——喉の奥から、何かを引き剥がすように出てきた声だった。

電気は、喉を持たない。

電気は、何かを引き剥がそうとしない。


そしてその後のこと。

別の破棄体の白く濁った目が、ゆっくりと動いて——自分の方を、向いた。


電気は、人の方を向かない。

電気には、向く、という動詞がない。


MeG-18-068は、チューブを動かす手を——止めそうになった。

止まらなかった。

止まるわけにはいかなかった。

隣でFeC-29-155が、完璧な速度でチューブを動かしていた。


動かし続けた。

信じようとしたが、やはり上手くいかなかった。


そのことを、今は保留した。

保留する場所を、体のどこかに作って、そこに入れた。

入れてから、チューブを動かした。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :14:31:08

内容  :軽度の思考活性反応を検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


FeC-29-155が、次の工程の説明のために歩き始めた。

MeG-18-068は、その背中を追いながら——一度だけ振り返った。


TrA-23-017の顔が、ガラスの向こうにあった。

目を閉じて、天井を向いていた。


人としての意志が残っているのか、

それとも消えているのか、分からなかった。


MeG-18-068は、前を向いた。

答えの出ない問いを——保留する場所に、もう一つ加えた。


その場所は、今日だけで、いくつかのものを受け取っていた。



====================

LOG_0029-E02:白い余白の問い

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)23:40

韓智宇自宅 書斎


場面は変わる。

Domini階級の居住区は、静かだった。


韓智宇は、アパートの自室にいた。

壁の「父なるE.O.Nの目」が、いつもと同じ角度で、智宇を見ていた。


智宇は書斎机の端、カメラの視界が、かろうじて届かない物陰に身を寄せていた。

タブレット端末に20世紀の古いRPGを起動させ、画面を明るく表示させた。

E.O.Nが「無害な趣味」として処理するであろう角度に、姿勢を整えた。


それから、日記帳を取り出した。

鉛筆を持った。


書き始めようとして——止まった。


今日のことを、書かなければならなかった。

しかし今日のことは、どこから書けばいいか、分からなかった。


鉛筆の先を、白い紙に近づけた。

近づけたまま、止まった。

最初の一文字が、出なかった。


施設のことを書こうとすると——炉が浮かんだ。

メグのことを書こうとすると——昼食の食卓が浮かんだ。

金色の髪。よく笑う男の子。黒い肌の、元気な泣き声。


書けなかった。

書けないまま、鉛筆を紙に当てた。

当てたまま、少しだけ動かした。


---


《3月15日。施設三日目。》


書いてから、その一行を見た。

三日目、と書いた。

三日で——今日だけで、どれだけのものを受け取ったか。


また書いた。


《助手として選んだAJ08-MeGr-09…

 何といったか。正式なコード番号は忘れたが、

 彼女が正式に来た。


 メグと、呼ぶことにした。

 今日。昼食の食卓で、彼女が産んだ子供の話になった。

 確か8人、だっただろうか。彼女は、特徴をよく覚えていた。


 金色の髪。よく笑う。黒い肌で泣き声が元気。私にそっくりな顎。

 茶色の瞳。すらっと長い指。眠るのが得意。頭のてっぺんに産毛。


 そして、「生産した子たちですから」と言った。》


そこで鉛筆が止まった。

続きを書こうとしたが、書けなかった。


「生産した」という言葉を使った人間が、8年間、一つも忘れていなかった。

それについて、智宇は何かを書こうとした。

しかし書けば書くほど——言葉が、足りなかった。

足りないまま書くと、何か大切なものを削ってしまう気がした。


だから、書かなかった。

代わりに、三点リーダーを書いた。


 …


それだけ書いて、次の行に移った。


《今日、他に感じたこと。

 ランク5の三人は、恐らく協力者にならないと思う。

 まだ試していないが、ほぼ確実だ。

 明後日、試してみるが……正直、期待はしていない。


 唯一の可能性は、メグだ。

 今日、炉の前で、彼女は崩れた。

 崩れた、ということは、まだ…感覚は、麻痺していない。


 しかし》


鉛筆が、また止まった。

「しかし」の続きを、書こうとした。

書こうとして——別のことが、頭に来た。


破棄体のTrA-23-017のプロフィールを思い出した。


閲覧禁止資料に触れた。

第三者に開示した。

再教育を受けた。

二度、不合格になった。

破棄体化した。


それが、ランク3だった人間の末路だった。


メグは、ランク5だ。

しかし——ランクが高ければ、守られるわけではない。

数値が高ければ、助かるわけではない。


「しかし」の続きに書くべきことは——そういうことだった。

でも智宇は、それを書かなかった。


書いてしまえば、何かが確定してしまう気がした。

確定したくなかった。だから、書かなかった。

代わりに、また三点リーダーを書いた。


《…本当に、ないのか?》


---


その一行を見た。

見ながら、少し前のことを考えた。


長期間スコアが安定しているPecusは、処理の優先度が下がる。

監視省で働いていた頃に知ったことだった。

それを「接触の機会」として使えるかもしれない、と思っていた。


しかし——接触したとして。

この施設の中で、E.O.Nが全てを記録している場所で、何を話すのか。


言葉は、記録される。

感情スキャンも、記録される。

体温も、脈拍も、記録される。


言葉を使わずに、何かを伝える方法が——必要だった。

智宇は、鉛筆を置いた。


《監視システムに感知されない方法が、必要だ》


その一行を書いて、日記帳を閉じた。

隠し板の下に、滑り込ませた。


タブレットの画面が、RPGのタイトル画面で静止していた。

22世紀に誰も遊ばないゲームが、静かに光っていた。

智宇は、その光を見た。


(どこかに、あるはずだ)


ある、という確信は——なかった。

しかし、ないという確信も——なかった。


その間に、今夜は居ることにした。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:18:00 ~ 00:02:44

内容  :書斎にて端末操作レトロゲーム

     感情スキャン:抑制状態 異常なし

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0029-E03:限定的な肯定

====================

日時:西暦2121年3月17日(月)10:30

第09破棄体再利用施設 管理棟廊下


月曜日の朝。

智宇は廊下を歩きながら、土曜日の日記の最後の一行を思い返していた。


『監視システムに感知されない方法が、必要だ』


それは自分で書いた言葉。

二日経っても、答えは出ていなかった。

出ていないまま——まず試せることを、試す日だった。


---


FeC-29-155が廊下の先に見えた。


彼女は端末を確認しながら、データ解析室へ向かっていた。

勤務前の最終チェック中。無駄のない動きだった。

智宇は声をかけた。


「FeC-29-155。少し時間を取る」


彼女は即座に止まった。

頭を下げた。


「韓智宇様。おはようございます。E.O.Nによれば、勤務開始まであと15分。ご指示でしょうか」


その言葉の中に——すでに答えがあった。

自分の口より先に、監視システムを引用する人間だった。

智宇は、それでも続けた。


「君はここで長く働いている。私はまだ日が浅い」


一拍、置いた。


「——正直なところ、Pecus従業員たちはこの環境をどう受け止めているか、君の目から見て教えてほしい」


FeC-29-155の首元の伝達環が、かすかに光った。

外部からはほとんど見えない光だった。

しかし智宇には、見えた。


FeC-29-155は、頭を下げたまま、一瞬だけ静止した。

その静止は——短かった。

一秒にも満たなかった。

しかし確かに、あった。


「Pecus従業員たちが、この環境を……」


彼女は、言葉を繰り返した。

繰り返しながら——何かを、整理しているようだった。

質問の輪郭を確認している、という感じだった。


それから、顔を上げた。

智宇を、まっすぐに見た。


「韓智宇様。この施設に配属されたPecus従業員は、全員が適切な教育を受けた上で職務に就いています。環境への適応は、E.O.Nのデータが示す通り、問題ない水準です」


数値は、今回は出てこなかった。

智宇は、そのことに気づいた。

前回のパターンと——少し違った。


「問題ない水準、というのは」


「人間性スコアの平均が、この施設の基準値を上回っています。感情的な乱れは、統計的に有意な水準では観察されていません」


今度は、数値が出た。


しかし——出てくるまでに、わずかな間があった。

FeC-29-155が数値を引用するのは、この二日間で何度も見ていた。

いつもは即座だった。

今日は——そうではなかった。


「君自身は、どうだ」


智宇は、続けた。


「Patroniとして、毎日この区画を見ている。君の目から見て——従業員たちの中に、環境への適応が難しそうな者はいるか」


FeC-29-155の視線が、わずかに動いた。


智宇から——少しだけ、外れた。

外れた先は、廊下の壁だった。

壁には何もなかった。


一秒。

視線が、戻った。


「現時点では、観察されていません」


声は、平坦だった。

しかし——「現時点では」という言葉が、そこにあった。


「現時点では」と言った。


それは「今後は分からない」という含みを、持っていた。

あるいは——「過去にはあった」という痕跡を、持っていた。


智宇は、その四文字を、頭の中に置いた。


「分かった。参考になった」


「……韓智宇様」


立ち去ろうとした智宇に、FeC-29-155が声をかけた。


智宇は振り返った。

FeC-29-155は、敬礼の角度のまま、言った。


「MeG-18-068の顔色が、昨日から優れないようです。助手の精神的効率性の管理は、担当Domini様の責務かと存じます」


それだけ言った。

それだけ言って、データ解析室への廊下を歩き始めた。


智宇は、その背中を見た。


(メグのことを、言いに来た)


質問への返答ではなかった。

この会話の最後に、それだけを言いに来た。


「Gratias CORE pro labore。韓智宇様」


角を曲がる前に、FeC-29-155は振り返らずに言った。

それから——消えた。


智宇は、廊下に一人残った。

「現時点では」という四文字と。

メグの顔色について、わざわざ告げた、という事実と。


(読めない)


読めないということは——ないのかもしれない。

あるいは——あまりにも深く埋まっているのかもしれない。


どちらにしても、今の自分には届かない場所だった。

ただ——今日の失敗は、自分が想定していた「壁に跳ね返される」という失敗とは、少しだけ違った。


何かが、あった。

一秒に満たない静止と。

わずかに外れた視線と。

「現時点では」という言葉と。


それが何を意味するのかを——今日の智宇には、まだ分からなかった。



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LOG_0029-E04:数秒の真実

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日時:西暦2121年3月17日(月)12:31

第09破棄体再利用施設 Pecus用食堂


昼休み。


廊下を歩いていると、食堂の扉が少し開いていた。

中から、食事の匂いが漏れていた。


合成米と、培養肉の匂いだった。


扉の隙間から、中が見えた。

MeG-18-068が、入口付近で他のPecusと言葉を交わしていた。

何かを説明しているようだった。

相手のPecusが頷いていた。


智宇は、その様子を一瞬だけ見た。

見てから、視線を外した。


食堂の奥で、VaL-21-088が一人でいた。


テーブルに水だけが置かれていた。

端末でゲームを起動させていたが、操作していなかった。

画面が止まったまま——何かを考えているような目だった。

あるいは——考えないようにしているような目だった。


智宇は、扉を押した。


---


食堂に入ると、数人のPecusが一斉に頭を下げた。

智宇は「続けろ」とだけ言って、VaL-21-088のテーブルへ向かった。


VaL-21-088は、智宇が近づく気配に気づいた。

端末から目を上げた。

立ち上がろうとした。


「座ったままでいい」


智宇は言った。

VaL-21-088は、一瞬だけ迷って、座ったままでいた。


智宇は、向かいの椅子を引いた。

腰を下ろした。


VaL-21-088の目が、智宇を見た。

何を測っているのか、分かる目だった。

このDominiが、なぜ自分のテーブルに来たのか。

何を求めているのか。

どう答えれば、最もリスクが低いのか。


その計算が、目の奥で、静かに動いていた。


「VaL-21-088」


智宇は言った。

名乗りの確認ではなかった。

ただ——呼んだ。


「君は以前、降格の危機を経験している」


VaL-21-088の目が、止まった。


「そこから今のスコアまで戻した」


止まったまま、動かなかった。


「——簡単ではなかっただろう」


沈黙があった。


食堂の中の音が、遠くなった気がした。

他のPecusの食器の音。

誰かの咳払い。

換気の唸り。


全部が——遠かった。


VaL-21-088は、口を開かなかった。

開かないまま、智宇を見ていた。


その目の中で——何かが、動いた。

一瞬だけ、動いた。

計算ではない何かが、その目の奥に——来て、消えた。


「……韓智宇様は」


VaL-21-088が、口を開いた。

声は、静かだった。

いつもの平坦さとは——少しだけ、違った。


「私の過去の記録を、ご覧になったのですか」


質問だった。

逆質問だった。

自分のことを、どこまで知られているか。

その確認だった。


「業務上、確認した」


智宇は答えた。

VaL-21-088は、頷いた。

頷いてから——自身の端末に視線を落とした。


止まったままのゲーム画面を、見た。

見ながら、何も言わなかった。


智宇は、その沈黙を待った。


---


十秒ほどが、過ぎた。

VaL-21-088が、口を開いた。


「簡単では、ありませんでした」


声は、平坦だった。

しかし——平坦さを、保とうとしている声だった。

保とうとしている、ということは——保たなければならない理由が、あった。


「スコアが下がった時期のことは」


一拍、置いた。


「今も、よく覚えています」


それだけ言った。

それ以上は、言わなかった。

智宇は、その「それ以上は言わない」という境界線を、感じた。


ここまでは言える。

ここから先は——言えない。

その境界線が、どこにあるかを——VaL-21-088は、正確に知っていた。


「そうか」


智宇は言った。


続けようとした。

その瞬間——端末に通知が届いた。


《警告。Domini Han Ji-woo。当該Pecus個体との対話は、職務の直接的な効率性に寄与していません。不必要な対話は、勤務環境の秩序を乱します。自己管理を推奨します》


E.O.Nからの警告だった。

食堂の中の、数人のPecusが——一瞬だけ、こちらを見た。

見てから、すぐに視線を戻した。


VaL-21-088の目が、変わった。

さっきまであった「何か」が——消えた。

代わりに、いつもの計算が戻ってきた。


「韓智宇様」


声が、また平坦になった。


「E.O.Nの警告が出ました。私との対話は、業務上の必要性がないと判断されたようです」


一拍、置いた。


「……私も、同様に判断いたします」


智宇は、椅子から立ち上がった。


「そうだな。邪魔をした」


「いえ」


VaL-21-088は、頭を下げた。

智宇は、食堂の出口へ歩いた。


出口まで、七歩ほどの距離だった。

歩きながら——背中に、視線を感じた。


しかし今回の視線は——先日とは、違った。


先日は「不審なDominiを記憶する」視線だった。

今回は——別の種類の視線だった。

何の視線かを、智宇は言語化できなかった。


---


食堂の出口で、智宇は少しだけ足を止めた。


(簡単ではありませんでした)


その一言が、頭に残っていた。

VaL-21-088は、完璧な防壁を持つ人間だった。


E.O.Nの警告が来る前まで——その防壁に、小さな隙間が、あった。

隙間が、あった。


FeC-29-155の「現時点では」という四文字。

VaL-21-088の「簡単ではありませんでした」という一言。


どちらも——完璧ではなかった。

完璧に見えて——完璧ではなかった。


(しかし)


その隙間に触れる方法が、今の自分にはまだない。

E.O.Nの警告が来る前に、何かを言えるほど——近づけていない。


隙間があることと、そこに届くことは——別のことだった。



====================

LOG_0029-E05:幻の出口

====================

日時:西暦2121年3月17日(月)12:40

第09破棄体再利用施設 Pecus用食堂


昼休みが終わるまで、まだ時間があった。


最後の試みを、ここでするかどうか。

一瞬だけ迷って——した方がいい、と判断した。

しないまま終わる方が、後で重くなる。


食堂を見渡した。


LoG-10-093は、窓際のテーブルにいた。

端末に何かを入力していた。

画面の端に、文字が見えた。


『Dominiとしての初年度生活設計』


まだ、一度も手に入れていないものを、すでに計画している人間だった。

智宇は、そのテーブルへ向かった。


---


「LoG-10-093」


LoG-10-093は顔を上げた。

智宇を見た瞬間——立ち上がった。


「韓智宇様、お疲れ様です!」


声が、明るかった。

食堂の中で、少し浮いていた。


「座ったままでいい」


「は、はい」


LoG-10-093は座り直した。

しかし背筋は、真っ直ぐなままだった。


智宇は向かいの椅子を引かずに、テーブルの端に立ったまま言った。


「一つ聞く」


「はい、何でしょうか!」


「君はDominiへの昇格を目指している」


「はい!それが私の——」


「——実際に昇格した者を」


智宇は、LoG-10-093の言葉に被せた。

静かに、被せた。


「この施設で、見たことはあるか」


LoG-10-093の口が、止まった。


「昇格した者を」という言葉の途中だった。

途中で、止まった。


智宇は、その止まり方を、見た。


---


三秒ほど、沈黙があった。


LoG-10-093の目が、智宇から——少しだけ、外れた。

外れた先は、テーブルの上だった。

彼の端末の画面だった。


『Dominiとしての初年度生活設計』という文字が、そこにあった。

LoG-10-093は、その文字を——見ていた。

四秒目に、口を開いた。


「……この施設では、まだ——」


一拍、置いた。


「——見たことは、ありません」


声が、少しだけ、小さくなっていた。

智宇は、何も言わなかった。

言わずに、待った。


LoG-10-093が、続けた。


「ですが、他の施設では——必ず、いるはずです。COREの教義では、スコア500以上を維持した者は、Dominiへの昇格候補となると——」


「この施設以外で、見たことはあるか」


智宇は、また静かに被せた。

LoG-10-093の口が、また止まった。


今度の沈黙は——少し、長かった。

智宇は、その沈黙の中で、LoG-10-093の顔を見ていた。


目が、動いていた。

何かを——探していた。

記憶の中を、探していた。


見たことがあるはずだ、という確信を。

どこかで聞いたはずだ、という記憶を。

探していた。


見つからなかった。


「……私は」


LoG-10-093が、口を開いた。

声が、いつもより低かった。


「前の施設でも——見たことは、なかったです」


それだけ言った。

それだけ言って、端末の画面を見た。


『Dominiとしての初年度生活設計』という文字を、見た。


智宇は、その横顔を見た。

怒りが来ると思った。

しかし来なかった。


代わりに来たのは——静けさだった。

奇妙な、静けさだった。


---


かつて——自分も、同じ顔をしていなかったか。

誰かに問われる前に——自分で、COREのシステムに問いを立てたことがあったか。


(なかった)


なかった。

誰かに問われるまで、考えなかった。

考えないことが、自然だった。

考えないことが、正常だった。


LoG-10-093は今、初めてこの問いを立てた。

立てながら——答えが出なかった。

出ないまま、端末の画面を見ている。


(この人は、間違っているのではない)


まだ、知らないだけだ。

知らなかった頃の自分を、責めることはできない。

であれば——目の前のこの人間を、責めることも——できなかった。


怒れなかった。

哀れめなかった。

責められなかった。


ただ——静かだった。


かつての自分が、今もここで、端末の画面を見ている。

その画面に書かれているものが、手に入らないかもしれないと——初めて、気づいた顔で。


---


「——参考になった」


智宇は言った。

LoG-10-093が顔を上げた。


その目には——さっきまでの輝きが、なかった。

なくなったわけではなかった。

ただ——少しだけ、遠くなっていた。


「韓……智宇様」


LoG-10-093が、口を開いた。


「昇格した者を、見たことがない、というのは——」


一拍、置いた。


「——つまり、どういうことなのでしょうか」


智宇は、その問いを聞いた。

答えを、知っていた。

知っていて——答えなかった。


今は、答えない。

答えられる場所に、今はいない。


「それは、自分で考えた方がいい」


それだけ言って、智宇はテーブルを離れた。

LoG-10-093は、何も言わなかった。


智宇は振り返らなかった。

振り返らなかったが——背中に、視線を感じた。


先ほどのVaL-21-088の視線とは、違う種類の視線だった。

追っている視線ではなかった。

見送っている視線でも、なかった。


ただ——止まっている視線だった。

端末の画面の前で、止まっている視線だった。


智宇は、食堂の扉を抜けた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :LoG-10-093

時刻  :12:48:33

内容  :軽度の思考活性反応・抑制反応を検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


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LOG_0029-E06:言葉なき接触

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日時:西暦2121年3月17日(月)13:02

第09破棄体再利用施設 管理棟廊下


三度の試みが、終わった。


廊下を歩きながら——今日のことを、順に思い返した。


FeC-29-155は、「現時点では」と言った。

「観察されていません」と言いながら——「現時点では」と、言った。

壁に跳ね返されたのかもしれない。

しかしその壁は、完璧ではなかった。


VaL-21-088は、「簡単ではありませんでした」と言った。

E.O.Nの警告が来る前の、数秒間だけ——そこに何かがあった。

傷口を広げてしまったかもしれない。

しかし——あの数秒は、本物だった。


LoG-10-093は、「見たことはありません」と言った。

輝いていた目が——少しだけ、遠くなった。

答えを教えることは、できなかった。

しかし——問いだけは、置いてきた。


三つとも、上手くはいかなかった。

しかし——三つとも、同じ種類の失敗ではなかった。


最も重かったのは——LoG-10-093だった。


壁に跳ね返された失敗は、まだ分かりやすかった。

傷口を広げた失敗も、教訓として処理できた。


しかし鏡を見た失敗は——処理する方法が、まだなかった。


かつての自分を責められない。

だから今のあの人間を責められない。

だから——怒れない。


怒れないことが、今日の失敗の中で、最も静かに、重かった。


---


総監室への廊下を曲がったところで、智宇は足を止めた。

MeG-18-068が、廊下の端に立っていた。


壁際に寄って、端末を操作していた。

業務上の作業だろう——しかし、端末の画面を見ていなかった。


画面から目を離して、廊下の壁を見ていた。


壁には、何もなかった。

ただのコンクリートの壁だった。


何かを考えている目だった。

考えているというより——考えることをやめられない目だった。


智宇には、その目に見覚えがあった。


収容エリアで、TrA-23-017のポッドを見ていた時の目だ。

炉の前で、膝が沈んだ直前の目だ。


三秒ほど、その横顔を見た。

声をかけようとした。

かけなかった。


---


かけなかった理由を——かけた後で、考えた。

TrA-23-017のプロフィールが、頭に来た。


閲覧禁止資料に触れた。

第三者に開示した。

再教育を受けた。

二度、不合格になった。

破棄体化した。


それが、ランク3だった人間の末路だった。


MeG-18-068は、ランク5だ。

しかし——ランクは、守らない。

数値は、守らない。


自分が今、あの横顔に近づくということは——


(間に合わせなければならない)


この施設に来て二日目の午後、智宇はそう思った。

誰に対して、とはまだ言えなかった。

何をすればいいかも、まだ分からなかった。


しかし——彼らがシステムに処置される、前でなければならない。

その「前」がどれだけあるかを——今の自分は、知らなかった。

知らないまま、近づくことは——あの人間を、危険に晒すかもしれなかった。


だから、かけなかった。

かけずに、通り過ぎた。


---


MeG-18-068は、通り過ぎる足音に気づいた。

顔を上げた。

智宇の背中が見えた。


また、壁を見た。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :13:02:44

内容  :思考活性反応を継続検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


智宇は、総監室の扉を閉めた。


窓のない部屋に、人工光が降りていた。

どこかから、換気の唸りが聞こえた。

遠くから、コンベアの音が聞こえた。


椅子に座った。


(E.O.Nに感知されない方法が、必要だ)


昨夜、日記帳に書いた一行が、また頭に出てきた。

その方法が何かを——今日も、まだ知らなかった。


しかし今、廊下でMeG-18-068の横顔を見た時——一つのことだけが、分かった。


あの目は、何かを探している。


そして——その探し方が、三日前の自分と、似ている気がした。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :13:02:44 ~ 13:15:00

内容  :施設総監室に帰還・在室

     感情スキャン:軽度の変動を検知

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


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LOG_0029-EPILOGUE

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閲覧者よ。

今日、韓智宇は三度、届かなかった。


最初は——届く前に、跳ね返された。

二度目は——届きかけて、警告が来た。

三度目は——届いたかもしれない。しかし、届いた先に何があるかを、韓智宇はまだ知らない。


三度とも、届かなかった。

しかし——三度とも、何もなかったわけではなかった。


今日の廊下で、韓智宇はMeG-18-068の横顔を見た。

声をかけなかった。

かけなかった理由を、彼は「危険に晒すかもしれないから」と処理した。

それは正しい。


しかし——もう一つの理由が、そこにあった。

韓智宇自身は、気づいていない。


三人の壁に届かなかった後で見た、あの横顔だけが——今日、唯一、届いた場所だった。

言葉を使わずに。

近づかずに。

ただ、見ただけで。


E.O.Nは、その三秒間を記録していない。

感情スキャンは、「軽度の変動」とだけ記録した。


設計者たちが計算に入れなかったものが、もう一つある。

言葉を使わない接触は——記録できない。


LOG_0030へ続く

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