LOG_0028:灰色の洗礼
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LOG_0028-PROLOGUE
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閲覧者よ。
MeG-18-068という個体が、今日から韓智宇の助手として、この施設に来た。
彼女について、一つだけ確認しておこう。
今日が、彼女にとって生まれて初めての「職場」だ。
18歳から26歳まで、彼女がいた場所には名前がなかった。
正式名称はある。「終期妊娠の家(Domus Gestationis Terminalis)」という。
しかしそこは職場ではなかった。
学校でもなかった。
家でも、なかった。
そこでは、ただ一つのことだけが彼女の時間だった。
産むこと。
8年間。8人。
彼女は「産む」以外の理由で、どこかへ呼ばれたことが一度もなかった。
今日、初めて——別の理由で、呼ばれた。
別の名前で、別の場所に、立つことになった。
その場所が——ここだった。
第09破棄体再利用施設。
灰色のコンクリートの塊。
窓のない廊下。
影を作らない人工光。
どこからか聞こえる、低い換気の唸り。
今回のログでは、彼女を中心に追ってみるとしよう。
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LOG_0028-E01:完璧な歯車
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日時:西暦2121年3月15日(土)12:30
地区コード:Aj-22-HM01-HMNA-HSZA(旧名:静岡県浜松市浜名区細江町)
第09破棄体再利用施設
監視対象:MeG-18-068、韓智宇
食事が終わると、局長の李秀栄が立ち上がる。
「では、私はこれで帰るとしよう。韓智宇君、これからも期待しているよ」
Domini専用休憩室の一同が挨拶し、彼女の背中が扉の向こうに消えた。
その瞬間、部屋の空気が——変わった、とも言えない。
何かが、抜けた。
扉の向こうに、一緒に持っていかれた。
張偉強がソファに深く沈み直し、葉巻に火をつける音がした。
漫画アプリの起動音がした。
「では、行くぞ」
智宇が言った。
MeG-18-068は「はい」と言った。
廊下に出た。
---
靴底のゴム音が、灰色の通路に響いた。
MeG-18-068には、自分の足音が、必要以上に大きく聞こえた。
廊下は静かだった。
静かな廊下に、自分だけが音を立てているような気がした。
前を歩く智宇の足音は、聞こえなかった。
Domini仕様の靴底は、音を吸う素材でできているのかもしれなかった。
あるいは——歩き慣れているということかもしれなかった。
MeG-18-068は、少しだけ足音を殺そうとした。
殺そうとすると、歩き方がおかしくなった。
おかしな歩き方になっていることに気づいて、また元に戻した。
廊下の左右に、窓はなかった。
彼女がこれまで過ごした繁殖省の施設にも、窓はなかった。
しかしそこの光と、ここの光は——何かが、違う。
何が違うのか、言葉にはできなかった。
あそこの光には、まだ何かがあった気がした。
ここの光には——何もなかった。
最初から、何もないものとして、設計されている種類の光だった。
---
データ解析室の扉が開いた。
青白いホログラムモニターの光が、部屋を満たしていた。
その中で、数人のPecusが一斉に立ち上がった。
完璧な敬礼だった。
角度も、速度も、腕の位置も——全員が同じだった。
MeG-18-068は、その一斉の動きを見て、一瞬だけ足が止まりそうになった。
止まらなかった。
止まるわけにはいかなかった。
智宇が紹介した。
今日から専属助手であること。
以後、彼女を通じて指示が出ることも多くなること。
その言葉が終わる前に——一人が、前に出た。
ランク5の女性。FeC-29-155。
28歳。長い黒髪。白い肌に整った顔立ち。
施設内のPecusを統括する監督者。
「FeC-29-155です。MeG-18-068様のご着任、歓迎いたします。施設の効率的な運営のため、今後ともご指示をいただければ幸いです」
声に、感情の振れ幅がなかった。
アンドロイドのような、無表情のままだった。
完璧だった。
それが分かった。
何もかもが——完璧だった。
(どうすれば、あんな風になれるのだろう)
MeG-18-068はそう思った。
思いながら——何かが、ひっかかった。
何がひっかかったのかは、分からなかった。
次に名乗ったのは、26歳の男性だった。
VaL-21-088。やや高身長。褐色肌。
「VaL-21-088。破棄体のデータ監視と報告を担当しております」
それだけ言って、視線を床に戻した。
MeG-18-068の方を、一瞬だけ見た。
見た、というよりも——確認した、という感じだった。
それから素早く、目線を外した。
(何を、確認したのだろう)
分からなかった。
分からないまま、次の人間が名乗った。
ランク5の男性。23歳。
LoG-10-093。茶髪。少し背は低い。
「LoG-10-093です!この施設での生活は素晴らしく効率的です。MeG-18-068さん、もし何かCOREの指示とは別に私的な——」
そこで、彼の首元の伝達環がかすかに光った。
MeG-18-068には、その光が見えた。
見えた瞬間、LoG-10-093の言葉が、途中で折れた。
「——あ、いえ、E.O.Nに聞くのが最も効率的で、私の介入は非効率です」
敬礼の角度に、戻った。
MeG-18-068は、その「折れた」場所を、しばらく見ていた。
折れる前に、何があったのかを——考えようとして、やめた。
今は、考えない。
「MeG-18-068です。皆様、効率的な協働を——お願いいたします」
自分の声が出た。
出てから、少しだけ遅れて、気づいた。
今日初めて、この言葉を使った。
「効率的な協働」。
繁殖省の施設では、この言葉を使う必要がなかった。
あそこでは別の言葉が必要だった。
別の言葉を——何年も、使い続けた。
この言葉は、今日が初めてだった。
なのに——すらすらと、出た。
(いつ、覚えたのだろう)
覚えた記憶が、なかった。
しかし出た。
自分の口から、出た。
---
ランク5のメンバーは、今の3人のみ。
続いて、ランク4以下の数名のPecus従業員が、また敬礼をした。
一斉に。
完璧な角度で。
MeG-18-068は、その一斉の動きをもう一度見た。
さっき感じた、「ひっかかり」の正体が——少しだけ、近づいた気がした。
それは完璧すぎる、ということだった。
全員が、同じ速度で動いていた。
同じ角度で、同じ表情で。
(繁殖省にも、こんな人たちはいた)
いた。
慣れると、ああなる、と言われていた。
慣れると、こうなる。
ここでも、そういうことなのだろう。
(なら、私も)
MeG-18-068は、その考えを、途中でやめた。
智宇が歩き始めた。
「次に破棄体収容エリアを案内する」
MeG-18-068は「はい」と言って、その後をついていった。
数人のPecus従業員が、智宇の背中が見えなくなるまで、敬礼を続けていた。
MeG-18-068は振り返らなかった。
振り返らなかったが——背中に、複数の視線を感じた。
どんな視線かは、分からなかった。
分からないまま、廊下を進んだ。
```
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E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :12:31:44 ~ 12:47:00
内容 :軽度の緊張反応・思考活性反応を検知
分類:通常範囲内
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
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廊下を進みながら、MeG-18-068は壁を見た。
壁には、何もなかった。
均一なコンクリートが続いていた。
「父なるE.O.Nの目」が、等間隔で設置されていた。
繁殖省の廊下にも、
子供時代を過ごした市民育成センターにも、
同じ目があった。
MeG-18-068は、その目に見られながら、これまでの人生を過ごした。
見られていることには、慣れていた。
しかし。
(さっきの三人の目も、あの目と似ていた)
FeC-29-155。
VaL-21-088。
LoG-10-093の、言葉が折れる前の目。
三人とも、E.O.Nの目とは違う。
人間の目だ。
しかし——何かが、似ていた。
何が似ているのかを、考えようとして、また途中でやめた。
今は、この施設について学ぶ時。
「着いた」
智宇が言った。
MeG-18-068は顔を上げた。
重い扉が、目の前にあった。
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LOG_0028-E02:沈黙の呼吸
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日時:西暦2121年3月15日(土)13:00
破棄体収容・管理エリア(Sector Mutati)
扉が開いた。
最初に彼女が感じ取ったのは、匂いだった。
廊下の消毒臭とは違う種類の匂いだった。
湿度が高く、金属と、何か有機的なものが混ざっていた。
MeG-18-068は、その匂いの正体を考えようとして——やめた。
その答えは、考えるまでもなかった。
「ここが、破棄体の収容区画(Contentiones)だ」
智宇の声が、広い空間に吸い込まれた。
MeG-18-068は、前を見た。
広かった。
天井が高く、奥まで続いていた。
そしてその空間を——カプセルが、埋め尽くしていた。
透明な、カプセル状の収容ポッド。
整然と、等間隔に、並んでいた。
ひとつひとつに——人が、いた。
目を閉じていた。
口を、わずかに開けていた。
胸が上下していた。
それだけだった。
動かなかった。
声を出さなかった。
表情が、なかった。
MeG-18-068は、一番手前のポッドを見た。
その中の人間を見た。
年齢は——分からなかった。
男か女かも——遠目には判別できなかった。
ただ、そこに、いた。
(生きている)
そのことだけが、確かだった。
---
区画の中を、数名のPecus従業員が動いていた。
防護服に近い作業着を着て、端末を片手に巡回していた。
一人が、ポッドのガラス面を静かに叩いた。
反応を確認するように。
反応がないことを確認して、また歩いた。
別の一人が、清掃用のチューブをポッドの表面に当て、一定の速度で動かしていた。
迷いのない動きだった。
どこを拭くか、どの順序で動かすか——全てが、もう決まっている人間の動きだった。
彼らは、智宇とMeG-18-068が入ってきたことに気づいた。
しかし過剰な反応をしなかった。
軽く頭を下げて、また作業に戻った。
MeG-18-068には、その「戻り方」が——少し、気になった。
何に戻ったのか。
何かから離れて、何かに戻った。
そこに漠然とした違和感を抱いた。
「ここでの主な仕事は、破棄体の状態チェック、ポッドの清掃、そして労働現場への輸送準備だ」
智宇が説明した。
MeG-18-068は「はい」と言いながら歩いた。
歩きながら、左右のポッドを見た。
一体ずつ、見た。
みんな、同じだった。
目を閉じていた。
口を開けていた。
胸が上下していた。
それだけだった。
---
その時だった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア……」
低く、絞り出すような音が——奥のポッドから、聞こえた。
MeG-18-068の足が、止まった。
音ではなかった、と思った。
声だった。
人間の、声だった。
喉の奥から、何かを引き剥がすように出てきた声だった。
長く、続いた。
続きながら——周囲の静けさの中で、際限なく広がった。
区画内のPecus従業員が、一斉に動きを止めた。
ランク4の男性が、すぐに端末を操作した。
数秒後——声が、止まった。
静寂が、戻った。
元の静寂と——同じ静寂だった。
何もなかったかのような、静寂だった。
```
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E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :13:04:17
内容 :嫌悪反応を検知
分類:通常範囲内(未習熟環境への反応)
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
MeG-18-068は、声が止んだ後も、その場所を見ていた。
止んだ、ということ。
端末を操作して、止めた、ということ。
その「止め方」が——止んだ後になって、MeG-18-068の中に届いた。
「あ、あれは……?」
声が、出た。
「稀にある。ナノチップの調整に、脳が抵抗する際の、非効率な反射だ」
智宇が答えた。
反射。MeG-18-068は、その言葉を聞いた。
聞きながら——「反射」というものが、どんなものかを、考えた。
膝を叩くと、足が跳ね上がる。
目に光が入ると、瞳孔が縮む。
熱いものに触れると、手を引っ込める。
それが、反射だ。
COREの教義でそう習った。
しかしあの声は——
MeG-18-068は、ひとまず頭の隅に追いやろうとした。
しかし、それは出来なかった。
---
区画内のPecus従業員たちは、もう作業に戻っていた。
あの声を聞いた後と、聞く前とで——何も変わっていなかった。
表情が変わらなかった。
動きが変わらなかった。
ただ、作業に戻った。
MeG-18-068は、その「戻り方」を見た。
さっきも思った。
何かから離れて、何かに戻る。
その「何か」が——今度は、少しだけ分かった気がした。
彼らは今、戻りたかったのだ。
あの声を聞く前の場所に。
作業という、安全な場所に。
(それは)
説明しにくい居心地の悪さ。
それについて考える前に、智宇が歩き始めた。
MeG-18-068は後をついた。
---
少し進んだところで、MeG-18-068は足を緩めた。
一体のポッドの前で、止まった。
その中の破棄体は——他と違っていた。
目が、わずかに開いていた。
天井を向いていた目が——ゆっくりと、動いた。
MeG-18-068の方を、向いた。
息が、止まった。
ガラス越しに、その目と——目が合った。
白く、濁った目だった。
焦点が、合っているのか、合っていないのか、分からなかった。
しかし、その目は——こちらを、向いていた。
(見ている)
そう思った瞬間、MeG-18-068は後ずさった。
一歩だけ。
「……ひ」
声にならない声が、出た。
智宇が振り返った。
その破棄体を見た。
次の瞬間には、その目は天井に戻っていた。
何事もなかったかのように。
「……彼らに『見る』というような高度な意識は残されていない。さあ、進むぞ」
智宇の声は、静かだった。
MeG-18-068は、頷いた。
頷きながら——一歩踏み出した。
踏み出しながら——さっきの目のことを、考えないようにした。
道具や機械は、方向を選ばない。
道具や機械は、人を探さない。
だから——あれは、反射だ。
MeG-18-068は、そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら——うまく聞けなかった。
```
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E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :13:09:33
内容 :嫌悪・恐怖反応を検知
分類:通常範囲内
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
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LOG_0028-E03:機械仕掛けの群像
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日時:西暦2121年3月15日(土)13:20
単純労働工場(Laboratorium Simplex)
次の扉を抜けた時、音が変わった。
換気の唸りではなかった。
もっと規則的な音だった。
金属が、一定のリズムで、打たれる音。
ベルトコンベアの、単調なモーター音。
廊下の左手に、ガラス張りの壁が現れた。
MeG-18-068は、そこを見た。
工場だった。
広い空間に、作業台が整然と並んでいた。
ベルトコンベアが、等間隔に走っていた。
そして——各作業台に、人が、いた。
立っていた。
コンベアに向かって、立っていた。
流れてくる部品を、手に取った。
組み立てた。
置いた。
また、手を出した。
同じ動作を、繰り返していた。
目線は、コンベアの上だけを向いていた。
左右を見なかった。
上を見なかった。
表情が——なかった。
LABOR OMNIA VINCIT
労働は全てに勝利する
壁に大きく刻まれた文字が、工場の上部から見下ろしていた。
---
「ここが、破棄体が資源として労働を行う場所だ」
智宇が言った。
MeG-18-068は、ガラス越しに工場を見た。
一人ずつ、見た。
ゆっくりと。
みんな、同じだった。
同じ速度で、同じ動作を、繰り返していた。
誰一人、隣を見なかった。
誰一人、前を見なかった。
コンベアだけを、見ていた。
「彼らは……疲労を感じないのでしょうか」
声が、出た。
出てから——MeG-18-068は少し驚いた。
自分が声を出したことに。
智宇が答えた。
「疲労か。少なくとも、精神的な疲労については、そもそも精神がないのだから、あり得ないだろうな」
「ですよね」
MeG-18-068は、頷いた。
頷きながら——ガラスから、目を離せなかった。
精神が、ない。
その言葉が——体のどこかに、刺さった。
刺さったまま、抜けなかった。
---
工場の奥の方で、一体の破棄体が動作を止めた。
止まった、と思った次の瞬間、ランク4の従業員が端末を操作した。
破棄体の動作が再開した。
また、同じ動作を繰り返し始めた。
MeG-18-068は、それを見ていた。
(何が、起きたのだろう)
止まった理由は、分からなかった。
再開した理由も、分からなかった。
ただ——止まって、また動いた。
MeG-18-068は、ガラスに少しだけ近づいた。
近づきながら、一番手前の作業台を見た。
その破棄体の手を、見た。
動いていた。
部品を取る。
組み立てる。
置く。
また取る。
その手の動きに——迷いがなかった。
躊躇がなかった。
止まらなかった。
(ずっと、続けているから)
そう思った瞬間——別の何かが、頭をよぎった。
8年間。
8人。
産む。
また産む。
また産む。
MeG-18-068は、ガラスから目を外した。
外しながら——自分が何を考えていたかを、すぐに忘れることにした。
忘れることにした。
そうしないと——立っていられない気がした。
「次に、この施設の最も重要なセクションへ案内する」
智宇が歩き始めた。
MeG-18-068は、後をついた。
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LOG_0028-E04:灰の残り香
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日時:西暦2121年3月15日(土)13:40
最終処分炉(Furnus Finalis)周辺通路
金属の打刻音が、遠ざかった。
代わりに——熱が、近づいてきた。
廊下の空気が、少しずつ変わった。
乾いてきた。
匂いが、変わった。
何かが燃えている匂いではなかった。
燃えた後の匂いだった。
MeG-18-068は、その匂いを吸い込んだ。
吸い込んでから、口で呼吸するようにした。
「あそこが、最終処分炉(Furnus Finalis)だ」
ガラスの向こうに、巨大な炉が見えた。
大きかった。
想像よりも、大きかった。
人間が、何人も、入る大きさだった。
今は、稼働していなかった。
静かだった。
しかしその静けさは——何かを待っている種類の静けさだった。
「労働効率が下がった破棄体は、ここで焼却処理される。COREの資源再利用計画では、破棄体の肉体も、効率的に分解され、エネルギーとして還元される」
智宇の声が、聞こえた。
MeG-18-068の耳には、届いた。
しかし、頭には——入らなかった。
炉だけを、見ていた。
廊下で聞いた声が——戻ってきた。
李秀栄の声だった。
「生贄の炎は、秩序の光なのだよ」
あの時——端末を、落とした。
今——膝が、沈んだ。
「メグ、落ち着け」
智宇の声が、近くで聞こえた。
腕を、掴まれた。
MeG-18-068は、その手の感触で——少しだけ、戻ってきた。
「す……すみません……」
「これは単なる資源循環システムだ。立て」
体制の言葉だった。
MeG-18-068には、それが分かった。
分かったが——智宇が彼女を腕を掴む手は、離れなかった。
その手が、離れないままでいることが——体制の言語より、先に届いた。
「私は……この職務は……効率的にこなせる自信が……」
声が、震えた。
「無理は非効率だ」
智宇が言った。
MeG-18-068は、その言葉を聞いた。
(非効率)
その言葉が——今この瞬間、妙に遠かった。
炉の前に立って、膝が沈んで、誰かに腕を掴まれていて。
その状態で——非効率という言葉が、どこか別の場所から聞こえてくる感じがした。
「わかりました……最善を尽くします」
頭を下げた。
深く、下げた。
下げた角度のまま——炉が視界から消えた。
床だけが、見えた。
灰色の、均一な床だった。
MeG-18-068は、その床を見ながら——息を、一度だけ、深く吸った。
```
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E.O.N 感情スキャン記録
対象者 :MeG-18-068
時刻 :13:42:07
内容 :高度の嫌悪・恐怖反応を検知
抑制行動を確認
分類:要注意
危険度評価:低〜中
(忠良種・高スコア個体のため
即時対応の優先度:低)
フラグ :継続観察
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```
頭を上げると、智宇が前を向いていた。
炉を見ていた。
どんな顔で見ているか——MeG-18-068には見えなかった。
横顔だけが、見えた。
その横顔は——何も言わなかった。
しかし、何かが——あった。
(この人も)
智宇が歩き始めた。
「戻るぞ」
「はい」
二人は、廊下を引き返した。
MeG-18-068は、歩きながら——一度だけ振り返った。
炉が、ガラスの向こうに見えた。
静かだった。
何も待っていないかのように、静かだった。
MeG-18-068は、前を向いた。
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LOG_0028-EPILOGUE
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非効率(Inutilis)
智宇はその言葉を使いながら——その言葉の空洞が、胸の中で響いていた。
それは、今より数日前、3月9日。
彼が入局資格試験を受けた時、自分の右手を見つめたあの感覚と、同じ種類の何かだった。
この施設で長く働くPecus従業員たちは、炉を見ても動じない。
それは強さではない。
何かが、死んだ結果だ。
MeG-18-068は今日、動じた。
膝が、沈んだ。
COREが市民に望む反応は二種類だ。
一つは、動じない者。麻痺した者。
もう一つは、恐怖して、より従順になる者。
MeG-18-068の反応は——どちらでもなかった。
恐怖した。
しかし恐怖の中に、問いが生まれた。
なぜ、この炉は存在しなければならないのか。
なぜ、あの声は止められなければならなかったのか。
なぜ、あの目は——天井を向いていなければならなかったのか。
E.O.Nは、その問いを記録していない。
感情スキャンには、恐怖反応しか映らない。
問いは——映らない。
管理システムの設計者たちは、人間が問いを持ち続けることを、計算に入れていなかった。
恐怖すれば従順になる。
麻痺すれば使える。
その二択しか、設計図に書かれていなかった。
第三の反応——恐怖しながら、問いを立てること——は、この設計の外側にある。
MeG-18-068は今日、その外側に、一歩だけ踏み出した。
本人は、気づいていない。
しかし——踏み出した。
それだけが、この時、設計の外側で起きたことだ。
LOG_0029へ続く




