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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
29/32

LOG_0028:灰色の洗礼

====================

LOG_0028-PROLOGUE

====================


閲覧者よ。

MeG-18-068という個体が、今日から韓智宇の助手として、この施設に来た。


彼女について、一つだけ確認しておこう。

今日が、彼女にとって生まれて初めての「職場」だ。


18歳から26歳まで、彼女がいた場所には名前がなかった。

正式名称はある。「終期妊娠の家(Domus Gestationis Terminalis)」という。

しかしそこは職場ではなかった。

学校でもなかった。

家でも、なかった。


そこでは、ただ一つのことだけが彼女の時間だった。

産むこと。


8年間。8人。

彼女は「産む」以外の理由で、どこかへ呼ばれたことが一度もなかった。


今日、初めて——別の理由で、呼ばれた。

別の名前で、別の場所に、立つことになった。


その場所が——ここだった。


第09破棄体再利用施設。

灰色のコンクリートの塊。

窓のない廊下。

影を作らない人工光。

どこからか聞こえる、低い換気の唸り。


今回のログでは、彼女を中心に追ってみるとしよう。



====================

LOG_0028-E01:完璧な歯車

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)12:30

地区コード:Aj-22-HM01-HMNA-HSZA(旧名:静岡県浜松市浜名区細江町)

第09破棄体再利用施設

監視対象:MeG-18-068、韓智宇(ハン・ジウ )


食事が終わると、局長の李秀栄(リ・シュウエイ)が立ち上がる。

「では、私はこれで帰るとしよう。韓智宇君、これからも期待しているよ」


Domini専用休憩室の一同が挨拶し、彼女の背中が扉の向こうに消えた。

その瞬間、部屋の空気が——変わった、とも言えない。

何かが、抜けた。

扉の向こうに、一緒に持っていかれた。


張偉強(チャン・ウェイチャン)がソファに深く沈み直し、葉巻に火をつける音がした。

漫画アプリの起動音がした。


「では、行くぞ」


智宇が言った。

MeG-18-068は「はい」と言った。

廊下に出た。


---


靴底のゴム音が、灰色の通路に響いた。


MeG-18-068には、自分の足音が、必要以上に大きく聞こえた。

廊下は静かだった。

静かな廊下に、自分だけが音を立てているような気がした。


前を歩く智宇の足音は、聞こえなかった。

Domini仕様の靴底は、音を吸う素材でできているのかもしれなかった。

あるいは——歩き慣れているということかもしれなかった。


MeG-18-068は、少しだけ足音を殺そうとした。

殺そうとすると、歩き方がおかしくなった。

おかしな歩き方になっていることに気づいて、また元に戻した。


廊下の左右に、窓はなかった。

彼女がこれまで過ごした繁殖省の施設にも、窓はなかった。

しかしそこの光と、ここの光は——何かが、違う。


何が違うのか、言葉にはできなかった。

あそこの光には、まだ何かがあった気がした。

ここの光には——何もなかった。

最初から、何もないものとして、設計されている種類の光だった。


---


データ解析室の扉が開いた。


青白いホログラムモニターの光が、部屋を満たしていた。

その中で、数人のPecusが一斉に立ち上がった。


完璧な敬礼だった。

角度も、速度も、腕の位置も——全員が同じだった。


MeG-18-068は、その一斉の動きを見て、一瞬だけ足が止まりそうになった。

止まらなかった。

止まるわけにはいかなかった。


智宇が紹介した。

今日から専属助手であること。

以後、彼女を通じて指示が出ることも多くなること。


その言葉が終わる前に——一人が、前に出た。


ランク5の女性。FeC-29-155。

28歳。長い黒髪。白い肌に整った顔立ち。

施設内のPecusを統括する監督者。


「FeC-29-155です。MeG-18-068様のご着任、歓迎いたします。施設の効率的な運営のため、今後ともご指示をいただければ幸いです」


声に、感情の振れ幅がなかった。

アンドロイドのような、無表情のままだった。


完璧だった。

それが分かった。

何もかもが——完璧だった。


(どうすれば、あんな風になれるのだろう)


MeG-18-068はそう思った。

思いながら——何かが、ひっかかった。

何がひっかかったのかは、分からなかった。


次に名乗ったのは、26歳の男性だった。

VaL-21-088。やや高身長。褐色肌。


「VaL-21-088。破棄体のデータ監視と報告を担当しております」


それだけ言って、視線を床に戻した。

MeG-18-068の方を、一瞬だけ見た。

見た、というよりも——確認した、という感じだった。

それから素早く、目線を外した。


(何を、確認したのだろう)


分からなかった。

分からないまま、次の人間が名乗った。


ランク5の男性。23歳。

LoG-10-093。茶髪。少し背は低い。


「LoG-10-093です!この施設での生活は素晴らしく効率的です。MeG-18-068さん、もし何かCOREの指示とは別に私的な——」


そこで、彼の首元の伝達環がかすかに光った。

MeG-18-068には、その光が見えた。

見えた瞬間、LoG-10-093の言葉が、途中で折れた。


「——あ、いえ、E.O.Nに聞くのが最も効率的で、私の介入は非効率です」


敬礼の角度に、戻った。

MeG-18-068は、その「折れた」場所を、しばらく見ていた。

折れる前に、何があったのかを——考えようとして、やめた。

今は、考えない。


「MeG-18-068です。皆様、効率的な協働を——お願いいたします」


自分の声が出た。

出てから、少しだけ遅れて、気づいた。


今日初めて、この言葉を使った。

「効率的な協働」。

繁殖省の施設では、この言葉を使う必要がなかった。

あそこでは別の言葉が必要だった。

別の言葉を——何年も、使い続けた。


この言葉は、今日が初めてだった。

なのに——すらすらと、出た。


(いつ、覚えたのだろう)


覚えた記憶が、なかった。

しかし出た。

自分の口から、出た。


---


ランク5のメンバーは、今の3人のみ。

続いて、ランク4以下の数名のPecus従業員が、また敬礼をした。

一斉に。

完璧な角度で。


MeG-18-068は、その一斉の動きをもう一度見た。

さっき感じた、「ひっかかり」の正体が——少しだけ、近づいた気がした。


それは完璧すぎる、ということだった。

全員が、同じ速度で動いていた。

同じ角度で、同じ表情で。


(繁殖省にも、こんな人たちはいた)


いた。

慣れると、ああなる、と言われていた。

慣れると、こうなる。

ここでも、そういうことなのだろう。


(なら、私も)


MeG-18-068は、その考えを、途中でやめた。


智宇が歩き始めた。

「次に破棄体収容エリアを案内する」

MeG-18-068は「はい」と言って、その後をついていった。


数人のPecus従業員が、智宇の背中が見えなくなるまで、敬礼を続けていた。

MeG-18-068は振り返らなかった。

振り返らなかったが——背中に、複数の視線を感じた。


どんな視線かは、分からなかった。

分からないまま、廊下を進んだ。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :12:31:44 ~ 12:47:00

内容  :軽度の緊張反応・思考活性反応を検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


---


廊下を進みながら、MeG-18-068は壁を見た。


壁には、何もなかった。

均一なコンクリートが続いていた。

「父なるE.O.Nの目」が、等間隔で設置されていた。


繁殖省の廊下にも、

子供時代を過ごした市民育成センターにも、

同じ目があった。

MeG-18-068は、その目に見られながら、これまでの人生を過ごした。

見られていることには、慣れていた。

しかし。


(さっきの三人の目も、あの目と似ていた)


FeC-29-155。

VaL-21-088。

LoG-10-093の、言葉が折れる前の目。


三人とも、E.O.Nの目とは違う。

人間の目だ。

しかし——何かが、似ていた。


何が似ているのかを、考えようとして、また途中でやめた。

今は、この施設について学ぶ時。


「着いた」


智宇が言った。

MeG-18-068は顔を上げた。

重い扉が、目の前にあった。



====================

LOG_0028-E02:沈黙の呼吸

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)13:00

破棄体収容・管理エリア(Sector Mutati)


扉が開いた。

最初に彼女が感じ取ったのは、匂いだった。


廊下の消毒臭とは違う種類の匂いだった。

湿度が高く、金属と、何か有機的なものが混ざっていた。

MeG-18-068は、その匂いの正体を考えようとして——やめた。

その答えは、考えるまでもなかった。


「ここが、破棄体の収容区画(Contentiones)だ」


智宇の声が、広い空間に吸い込まれた。

MeG-18-068は、前を見た。


広かった。

天井が高く、奥まで続いていた。

そしてその空間を——カプセルが、埋め尽くしていた。


透明な、カプセル状の収容ポッド。

整然と、等間隔に、並んでいた。

ひとつひとつに——人が、いた。


目を閉じていた。

口を、わずかに開けていた。

胸が上下していた。

それだけだった。


動かなかった。

声を出さなかった。

表情が、なかった。


MeG-18-068は、一番手前のポッドを見た。

その中の人間を見た。

年齢は——分からなかった。

男か女かも——遠目には判別できなかった。

ただ、そこに、いた。


(生きている)


そのことだけが、確かだった。


---


区画の中を、数名のPecus従業員が動いていた。

防護服に近い作業着を着て、端末を片手に巡回していた。

一人が、ポッドのガラス面を静かに叩いた。

反応を確認するように。

反応がないことを確認して、また歩いた。


別の一人が、清掃用のチューブをポッドの表面に当て、一定の速度で動かしていた。

迷いのない動きだった。

どこを拭くか、どの順序で動かすか——全てが、もう決まっている人間の動きだった。


彼らは、智宇とMeG-18-068が入ってきたことに気づいた。

しかし過剰な反応をしなかった。

軽く頭を下げて、また作業に戻った。


MeG-18-068には、その「戻り方」が——少し、気になった。

何に戻ったのか。

何かから離れて、何かに戻った。

そこに漠然とした違和感を抱いた。


「ここでの主な仕事は、破棄体の状態チェック、ポッドの清掃、そして労働現場への輸送準備だ」


智宇が説明した。

MeG-18-068は「はい」と言いながら歩いた。

歩きながら、左右のポッドを見た。


一体ずつ、見た。


みんな、同じだった。

目を閉じていた。

口を開けていた。

胸が上下していた。

それだけだった。


---


その時だった。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア……」


低く、絞り出すような音が——奥のポッドから、聞こえた。

MeG-18-068の足が、止まった。


音ではなかった、と思った。

声だった。

人間の、声だった。


喉の奥から、何かを引き剥がすように出てきた声だった。

長く、続いた。

続きながら——周囲の静けさの中で、際限なく広がった。


区画内のPecus従業員が、一斉に動きを止めた。

ランク4の男性が、すぐに端末を操作した。

数秒後——声が、止まった。


静寂が、戻った。


元の静寂と——同じ静寂だった。

何もなかったかのような、静寂だった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :13:04:17

内容  :嫌悪反応を検知

     分類:通常範囲内(未習熟環境への反応)

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


MeG-18-068は、声が止んだ後も、その場所を見ていた。


止んだ、ということ。

端末を操作して、止めた、ということ。

その「止め方」が——止んだ後になって、MeG-18-068の中に届いた。


「あ、あれは……?」


声が、出た。


「稀にある。ナノチップの調整に、脳が抵抗する際の、非効率な反射だ」


智宇が答えた。

反射。MeG-18-068は、その言葉を聞いた。

聞きながら——「反射」というものが、どんなものかを、考えた。


膝を叩くと、足が跳ね上がる。

目に光が入ると、瞳孔が縮む。

熱いものに触れると、手を引っ込める。


それが、反射だ。

COREの教義でそう習った。


しかしあの声は——

MeG-18-068は、ひとまず頭の隅に追いやろうとした。

しかし、それは出来なかった。


---


区画内のPecus従業員たちは、もう作業に戻っていた。


あの声を聞いた後と、聞く前とで——何も変わっていなかった。

表情が変わらなかった。

動きが変わらなかった。

ただ、作業に戻った。


MeG-18-068は、その「戻り方」を見た。


さっきも思った。

何かから離れて、何かに戻る。

その「何か」が——今度は、少しだけ分かった気がした。


彼らは今、戻りたかったのだ。

あの声を聞く前の場所に。

作業という、安全な場所に。


(それは)


説明しにくい居心地の悪さ。

それについて考える前に、智宇が歩き始めた。

MeG-18-068は後をついた。


---


少し進んだところで、MeG-18-068は足を緩めた。

一体のポッドの前で、止まった。


その中の破棄体は——他と違っていた。

目が、わずかに開いていた。

天井を向いていた目が——ゆっくりと、動いた。


MeG-18-068の方を、向いた。

息が、止まった。


ガラス越しに、その目と——目が合った。

白く、濁った目だった。

焦点が、合っているのか、合っていないのか、分からなかった。


しかし、その目は——こちらを、向いていた。


(見ている)


そう思った瞬間、MeG-18-068は後ずさった。

一歩だけ。


「……ひ」


声にならない声が、出た。


智宇が振り返った。

その破棄体を見た。

次の瞬間には、その目は天井に戻っていた。

何事もなかったかのように。


「……彼らに『見る』というような高度な意識は残されていない。さあ、進むぞ」


智宇の声は、静かだった。

MeG-18-068は、頷いた。

頷きながら——一歩踏み出した。

踏み出しながら——さっきの目のことを、考えないようにした。


道具や機械は、方向を選ばない。

道具や機械は、人を探さない。

だから——あれは、反射だ。


MeG-18-068は、そう自分に言い聞かせた。

言い聞かせながら——うまく聞けなかった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :13:09:33

内容  :嫌悪・恐怖反応を検知

     分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0028-E03:機械仕掛けの群像

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)13:20

単純労働工場(Laboratorium Simplex)


次の扉を抜けた時、音が変わった。


換気の唸りではなかった。

もっと規則的な音だった。

金属が、一定のリズムで、打たれる音。

ベルトコンベアの、単調なモーター音。


廊下の左手に、ガラス張りの壁が現れた。

MeG-18-068は、そこを見た。


工場だった。


広い空間に、作業台が整然と並んでいた。

ベルトコンベアが、等間隔に走っていた。

そして——各作業台に、人が、いた。


立っていた。

コンベアに向かって、立っていた。

流れてくる部品を、手に取った。

組み立てた。

置いた。

また、手を出した。


同じ動作を、繰り返していた。


目線は、コンベアの上だけを向いていた。

左右を見なかった。

上を見なかった。

表情が——なかった。


LABOR OMNIA VINCIT

労働は全てに勝利する


壁に大きく刻まれた文字が、工場の上部から見下ろしていた。


---


「ここが、破棄体が資源として労働を行う場所だ」


智宇が言った。

MeG-18-068は、ガラス越しに工場を見た。

一人ずつ、見た。

ゆっくりと。


みんな、同じだった。

同じ速度で、同じ動作を、繰り返していた。

誰一人、隣を見なかった。

誰一人、前を見なかった。

コンベアだけを、見ていた。


「彼らは……疲労を感じないのでしょうか」


声が、出た。

出てから——MeG-18-068は少し驚いた。

自分が声を出したことに。


智宇が答えた。

「疲労か。少なくとも、精神的な疲労については、そもそも精神がないのだから、あり得ないだろうな」


「ですよね」


MeG-18-068は、頷いた。

頷きながら——ガラスから、目を離せなかった。


精神が、ない。


その言葉が——体のどこかに、刺さった。

刺さったまま、抜けなかった。


---


工場の奥の方で、一体の破棄体が動作を止めた。

止まった、と思った次の瞬間、ランク4の従業員が端末を操作した。

破棄体の動作が再開した。

また、同じ動作を繰り返し始めた。


MeG-18-068は、それを見ていた。


(何が、起きたのだろう)


止まった理由は、分からなかった。

再開した理由も、分からなかった。

ただ——止まって、また動いた。


MeG-18-068は、ガラスに少しだけ近づいた。

近づきながら、一番手前の作業台を見た。

その破棄体の手を、見た。


動いていた。

部品を取る。

組み立てる。

置く。

また取る。


その手の動きに——迷いがなかった。

躊躇がなかった。

止まらなかった。


(ずっと、続けているから)


そう思った瞬間——別の何かが、頭をよぎった。


8年間。

8人。


産む。

また産む。

また産む。


MeG-18-068は、ガラスから目を外した。

外しながら——自分が何を考えていたかを、すぐに忘れることにした。


忘れることにした。

そうしないと——立っていられない気がした。


「次に、この施設の最も重要なセクションへ案内する」


智宇が歩き始めた。

MeG-18-068は、後をついた。



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LOG_0028-E04:灰の残り香

====================

日時:西暦2121年3月15日(土)13:40

最終処分炉(Furnus Finalis)周辺通路


金属の打刻音が、遠ざかった。

代わりに——熱が、近づいてきた。


廊下の空気が、少しずつ変わった。

乾いてきた。

匂いが、変わった。

何かが燃えている匂いではなかった。

燃えた後の匂いだった。


MeG-18-068は、その匂いを吸い込んだ。

吸い込んでから、口で呼吸するようにした。


「あそこが、最終処分炉(Furnus Finalis)だ」


ガラスの向こうに、巨大な炉が見えた。

大きかった。

想像よりも、大きかった。

人間が、何人も、入る大きさだった。


今は、稼働していなかった。

静かだった。

しかしその静けさは——何かを待っている種類の静けさだった。


「労働効率が下がった破棄体は、ここで焼却処理される。COREの資源再利用計画では、破棄体の肉体も、効率的に分解され、エネルギーとして還元される」


智宇の声が、聞こえた。

MeG-18-068の耳には、届いた。

しかし、頭には——入らなかった。


炉だけを、見ていた。

廊下で聞いた声が——戻ってきた。

李秀栄の声だった。


「生贄の炎は、秩序の光なのだよ」


あの時——端末を、落とした。

今——膝が、沈んだ。


「メグ、落ち着け」


智宇の声が、近くで聞こえた。

腕を、掴まれた。

MeG-18-068は、その手の感触で——少しだけ、戻ってきた。


「す……すみません……」


「これは単なる資源循環システムだ。立て」


体制の言葉だった。

MeG-18-068には、それが分かった。

分かったが——智宇が彼女を腕を掴む手は、離れなかった。


その手が、離れないままでいることが——体制の言語より、先に届いた。


「私は……この職務は……効率的にこなせる自信が……」


声が、震えた。


「無理は非効率だ」


智宇が言った。

MeG-18-068は、その言葉を聞いた。


(非効率)


その言葉が——今この瞬間、妙に遠かった。

炉の前に立って、膝が沈んで、誰かに腕を掴まれていて。

その状態で——非効率という言葉が、どこか別の場所から聞こえてくる感じがした。


「わかりました……最善を尽くします」


頭を下げた。

深く、下げた。


下げた角度のまま——炉が視界から消えた。

床だけが、見えた。

灰色の、均一な床だった。


MeG-18-068は、その床を見ながら——息を、一度だけ、深く吸った。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :MeG-18-068

時刻  :13:42:07

内容  :高度の嫌悪・恐怖反応を検知

     抑制行動を確認

     分類:要注意

     危険度評価:低〜中

           (忠良種・高スコア個体のため

            即時対応の優先度:低)

フラグ :継続観察

────────────────────────────────────

```


頭を上げると、智宇が前を向いていた。

炉を見ていた。


どんな顔で見ているか——MeG-18-068には見えなかった。

横顔だけが、見えた。

その横顔は——何も言わなかった。

しかし、何かが——あった。


(この人も)


智宇が歩き始めた。

「戻るぞ」

「はい」


二人は、廊下を引き返した。


MeG-18-068は、歩きながら——一度だけ振り返った。

炉が、ガラスの向こうに見えた。

静かだった。

何も待っていないかのように、静かだった。


MeG-18-068は、前を向いた。



====================

LOG_0028-EPILOGUE

====================


非効率(Inutilis)


智宇はその言葉を使いながら——その言葉の空洞が、胸の中で響いていた。

それは、今より数日前、3月9日。

彼が入局資格試験を受けた時、自分の右手を見つめたあの感覚と、同じ種類の何かだった。


この施設で長く働くPecus従業員たちは、炉を見ても動じない。

それは強さではない。

何かが、死んだ結果だ。


MeG-18-068は今日、動じた。

膝が、沈んだ。


COREが市民に望む反応は二種類だ。

一つは、動じない者。麻痺した者。

もう一つは、恐怖して、より従順になる者。


MeG-18-068の反応は——どちらでもなかった。


恐怖した。

しかし恐怖の中に、問いが生まれた。


なぜ、この炉は存在しなければならないのか。

なぜ、あの声は止められなければならなかったのか。

なぜ、あの目は——天井を向いていなければならなかったのか。


E.O.Nは、その問いを記録していない。

感情スキャンには、恐怖反応しか映らない。

問いは——映らない。


管理システムの設計者たちは、人間が問いを持ち続けることを、計算に入れていなかった。

恐怖すれば従順になる。

麻痺すれば使える。

その二択しか、設計図に書かれていなかった。


第三の反応——恐怖しながら、問いを立てること——は、この設計の外側にある。


MeG-18-068は今日、その外側に、一歩だけ踏み出した。

本人は、気づいていない。

しかし——踏み出した。


それだけが、この時、設計の外側で起きたことだ。


LOG_0029へ続く

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