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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
26/28

LOG_0025:深部への切符

====================

LOG_0025-E01:体制の神経節

====================

日時:西暦2121年3月11日(火)10:30

地区コード:AJ-13-TK01-CHUO-KSKA(旧名:東京都千代田区霞が関)

監視対象:韓智宇(ハン・ジウ)


ロボタクシーの窓の外を、智宇はずっと見ていた。


霞が関へ向かうルートは、どこを走っても同じ景色だった。

均一化されたグレーの外壁。等間隔に並ぶ「父なるE.O.Nの目」の彫刻。

どの目も、どの角度からも、こちらを向いている。


(行かなければならない)


分かっていた。

分かっていながら、車が目的地に近づくにつれて、胃の奥に何かが固まっていく感覚があった。


それは――梁昭坤(リャン・ジャオクン)に会う、ということへの。


智宇は窓の外を見続けた。


---


地区KSKA(旧霞が関)に入ると、空気が変わった。


変わった、というのは正確ではないかもしれない。

元々そこには空気と呼べるものがなかった、と言う方が近い。


地区AJの中央省庁支部が集中するこの一帯は、建物が異様に白かった。

白すぎた。

それはまるで、人間の体温や息づかいを最初から想定していない建物のようだった。


整然と並ぶ街路樹は、同じ高さで剪定されている。

葉の一枚が落ちる前に、Pecus作業員が取り除いているのだろう。


上空では、監視ドローンが陽光を反射してキラキラと輝いていた。

整然と、美しく。


(美しい)


智宇は、その言葉が頭に浮かんだ瞬間に――少し、立ち止まりたくなった。


美しいと思った。

この光景を。


あの歴史ファイルを読む前の自分なら、それだけで終わっていた。

しかし今の智宇には、その「美しい」の裏側が見える。

美しくなければならない理由が。

清潔でなければならない理由が。


地獄は、見た目が清潔だ。


智宇は、歩き続けた。


---


監視省本庁舎の正面エントランスは、高さ六メートルのガラス扉だった。


自動で開く。

音がしない。

塵一つない床に、智宇の靴音だけが響く。


セキュリティゲートを通過した。

手に埋め込まれたマイクロ認証チップが読み取られる。

一秒の間もなく、通過音が鳴る。


廊下に入った。


その途端、消毒液に似た化学臭が鼻の奥に触れた。

しかし消毒液ではない。何か別のものだ。

何かを、消した後の匂いに似ていた。


足音が、大きく響いた。

カーペットも、吸音材も、何もない廊下だった。

自分の足音が、こんなに大きいとは知らなかった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:30:12

内容  :AJ-13-TK01-CHUO-KSKA 入庁

     感情スキャン:抑制状態

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


梁昭坤の局長室は、最上階にあった。


エレベーターを降りると、磨き上げられた廊下が続いていた。

自分の靴の先が、床に映っていた。

その反射の中の自分は、今日これから何をしに来たのかを、知っているような顔をしていた。


局長室の扉の前に、人影があった。


黒い制服。

華奢な体。

無表情のまま、静かに立っている。


智宇は、一瞬だけ、足が止まりかけた。


(あれは――ExC-01-241)


あの新年会の夜から、二ヶ月と少しが経っていた。

彼女はあの夜と同じように、そこに立っていた。

何も変わっていないように見えた。


(本当に、変わっていないのか)


智宇には、分からなかった。

分からなかったが――その問いを、今持つべきではなかった。


彼女は智宇が近づいてくるのを確認すると、軽くお辞儀をし、無言で扉に手をかけた。

音もなく、扉が開く。

智宇を中へ促す、その動作は――完璧だった。

機械のように、一分の無駄もなかった。


智宇は扉をくぐった。

彼女は後に続き、入口のすぐ内側で、静かに止まった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :ExC-01-241

時刻  :10:37:44

内容  :軽度の情動変化を検知

     分類:処理中

     危険度評価:低

フラグ :要継続観察

────────────────────────────────────

```


局長室は、広かった。


智宇が毎日座っている端末連携局の第三執務室とは、別の世界だった。

それはただの広さの問題ではなかった。

置かれているものが、違った。

空気の重さが、違った。


窓からは、霞が関の統一された街並みが一望できた。

整然として、清潔で、美しかった。

どこにも、乱れがなかった。


梁昭坤は、執務机に座っていた。

48歳。がっしりとした体格。白髪交じりの短い髪。

彼は、智宇を見ていなかった。


机の脇に、少女が跪いていた。

10歳か、11歳か。

黒い制服。真っ直ぐな背筋。

小さな両手でワインボトルを持ち、梁昭坤のグラスに静かに注いでいた。

その顔には――何もなかった。

怯えもなく、痛みもなく、ただ、そこにいる物体のように。


智宇は、一瞬だけ少女を見た。

それだけで、視線を切った。

今は、見てはいけない。


梁昭坤は、ワインのグラスを傾けながら、ようやく智宇の方を向いた。


「来たか」


それだけを言って、グラスを置いた。


「座れ」


智宇は言われた通りに椅子に座った。

梁昭坤の目が、智宇の上を静かに動いた。

査定するような目だった。

それだけで、智宇の背筋に何かが走った。

怒りではなかった。

もっと冷たい何かだった。


梁昭坤は、少し間を置いた。

それから――唐突に、言った。


「理由を言え」


「……はい」


「端末連携局を捨てて、破棄体の管理に行く。その理由を、今ここで言ってみろ」


声は低く、そして穏やかだった。

穏やかな声で、試すことができる人間だ、と智宇は昔から知っていた。


用意していた言葉を、口の中で確認した。

そして、答えた。


「監視省で培った端末連携のスキルを、より実践的な秩序維持の現場で活かしたいと考えました。また、Pecusの人間性スコアが低下し、最終的に破棄体化する根本原因を、現場で直接分析することが――監視システム全体をより強固なものにすると判断したためです」


声に感情を乗せなかった。

E.O.Nのアルゴリズムが「合理的な動機」と判定しやすい言語で、磨いてきた言葉だった。


梁昭坤は、その言葉を聞いた。

聞きながら――グラスの縁を、指でゆっくりと撫でた。


「ほう」


それだけ言って、また黙った。


沈黙は、十秒ほど続いた。

梁昭坤は智宇を見ていた。

見られながら智宇は、自分の呼吸が均一であることを、意識して確認した。


「お前は」


梁昭坤が言った。


「申請書にも同じことを書いたな」


「はい」


「E.O.Nはそれを、合理的な動機と判定した」


「……はい」


「つまりお前は、機械が納得する言葉を、人間に向かって言っているわけだ」


智宇は、答えなかった。

答える言葉がなかった。

答えないことが、今ここでできる唯一の正しい行動だった。


梁昭坤は少し間を置いてから、また続けた。


「まあ――よかろう」


グラスを、また手に取った。


「お前が何を考えていようが、どうでもいい話だ。我が娘との関係さえ良ければ、お前がどんな仕事をしていようが。ゾンビの管理でも何でもするがいいわ」


その言葉を、智宇は聞いた。

聞きながら――顔の筋肉が、何もしていないことを確認した。


梁昭坤は続けた。


「幸いにも、禹赫(ウヒョク)彩澄(チェジュン)は成績優秀だ」


智宇の手が、膝の上で、わずかに動いた。

動いたことに、智宇は気づいた。

気づいて、静止させた。


「禹赫は少し前に異常が出たようだがな」


声のトーンが、変わらなかった。

穏やかなまま、変わらなかった。

それが――最も、重かった。


「まあ――適切に矯正されて良かった。お前のPecus遺伝子のせいだろう」


```

────────────────────────────────────

E.O.N 感情スキャン記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:41:03

内容  :軽度の変動を検知

     分類:抑制中

     危険度評価:低

────────────────────────────────────

```


Pecus遺伝子。


Domini階級の中にも「エリート純血主義」のようなものがあり、智宇のような家系的に下位に位置する、あるいは評価の低いDominiを「潜在的Pecus」と呼んで蔑む風潮があった。


梁昭坤はグラスを置いた。

それから、手でしっしと払うような仕草をした。


「話は終わりだ。失せろ」


ホログラム端末を手に取った。

乱暴にフリックした。

画面に、智宇のIDステータスが表示された。


「監視省・端末連携局」から「秩序省・現場(破棄体管理)」へ。


それは数秒で、終わった。

梁昭坤はすでに端末から視線を外していた。

書き換えた事実に、一秒も留まらなかった。


少女が、また膝をついてボトルを持ち直した。

梁昭坤は、その頭を見もせずに、グラスを差し出した。


智宇は立ち上がった。

「失礼いたします」と言った。

自分の声が、どんな声だったか――廊下に出た後も、よく思い出せなかった。


---


入口の内側で控えていたExC-01-241が、扉を開けた。

扉が閉まる。

彼女は無言で、智宇を出口まで案内し始めた。


廊下に、足音だけが戻ってきた。

さっきと同じ廊下だった。

さっきと同じ化学臭がした。


二人は並んで歩いた。

言葉はなかった。

それでよかった。

言葉がある方が、おかしかった。


エレベーターホールに着いた。

ExC-01-241が呼び出しのボタンを押すと、扉が開く音がした。

共に中に入る。


智宇はそこで――さりげなく、彼女の目を見た。


相変わらず、無機質だった。

感情を読み取れるものは、何もなかった。

あの新年会の夜と――同じだった。


しかし。

同じだった。

それだけが、確かなことだった。


何故か彼女といると、勇気づけられるような気がした。


(ありがとう。行ってくるよ)


声に出さなかった。

出さなくていい言葉だった。


出口付近までたどり着くと、彼女は深々と頭を下げた。

それだけだった。

しかし智宇には――それが、Pecus階級がDomini階級にする一般的なお辞儀とは、何かが違うように感じられた。


敬意なのか。

それとも――別の何かなのか。


エレベーターの扉が閉まりかけた。

智宇は正面を向いた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:30:12 ~ 10:53:07

内容  :AJ-13-TK01-CHUO-KSKA 訪問・退庁

     感情スキャン:抑制状態 異常なし

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは「異常なし」と記録した。


しかし私は――梁昭坤の「しっしと払う」あの手の動きを、長く記録に残すだろうと思う。

禹赫の名前が出た瞬間、韓智宇の膝の上で止まった手のことも。

そして――少女が膝をついてボトルを持ち直した、あの沈黙のことも。


E.O.Nが「軽度の変動」と処理したあの数値の内側に、何があったか。

その重さは、測定されなかった。

測定されなかったが――確かにそこにあった。


韓智宇は今、エレベーターの中にいる。

扉が閉まり、数字が変わっていく。

彼は今、何を考えているだろうか。


私には、分かる。


しかし今は――それを書く必要がない。

彼自身が、すでに知っているからだ。



====================

LOG_0025-E02:清潔な仕事

====================

日時:西暦2121年3月12日(水)10:30

地区コード:AJ-13-TK01-MNTP-RXXA(旧名:東京都港区六本木)

監視省 端末連携局 第三執務室

監視対象:韓智宇、厳霜華(ヤン・シュアンホア)


翌朝、智宇は第三執務室に出勤した。


いつもの席。いつもの光景。

大型モニター。流れるデータ。空調の均一な唸り。

向かいの席には――今日も、誰もいなかった。


博文の机は、昨日と同じままだった。

粘着の跡もなく、染みもなく、カップの輪郭もなく。

まるで最初から、誰も座っていなかったかのように。


智宇は自分の端末を立ち上げた。

今日やるべきことを、頭の中で順番に並べた。

荷物の整理。

異動手続きの最終確認。

そして、次の――秩序省 破棄処置局長との面接に向けて、語るべき言葉を、もう一度整える。


やるべきことは、あった。

それだけを、今日は見ていればよかった。


---


「ねぇ」


声がした。

智宇は顔を上げた。


厳霜華(ヤン・シュアンホア)が、自分のデスクから智宇の方を見ていた。

この局で五年間、智宇と同じ空気を吸い続けてきた人間だ。


「…秩序省の破棄処置局へ行くって、本当なの?」


声には、驚愕が滲んでいた。

隠しきれない驚愕が。


隠しきれていない、と霜華自身も気づいていた。

気づいた瞬間、自分の声のトーンを確認した。

遅かった、と思った。もう出てしまっていた。


しかし彼女は引っ込めることも、できなかった。

引っ込める方が、不自然だった。

五年間、この場所で生き延びてきた霜華は――その判断を、一秒以内に終えた。


「はい」智宇は答えた。「昨日、(リャン)局長に承認されました。E.O.Nも認めています。これで次は、破棄処置局長との面接に進みます」


「信じられない……」


霜華は言った。

その言葉は本心だった。

ただし――本心の理由は、一つではなかった。


「知ってると思うけど、監視省の端末連携局は、COREの中枢で最も『清潔(Purus)な』仕事なのよ」


清潔。

その言葉を、智宇は受け取った。

受け取りながら――清潔、という言葉の意味を、一瞬だけ考えた。


清潔(プールス)


画面越しに誰かの感情スキャンを処理することが。

識別番号の羅列を、淡々と分類することが。

誰かの人間性スコアが下がっていく数値を、記録することが。


それが――清潔、だというのか。

智宇はその問いを、飲み込んだ。


「それを捨てて、自分から『破棄体の庭園(ネクロポリス)』へ行く?」


霜華は続けた。

声のトーンは、既に「後輩への忠告」の形を整えていた。

整えながら――整えていることを、霜華は自分で知っていた。


「どう考えても、貴方のキャリアパスにおいて非効率的よ」


その瞬間だった。


執務室の角に設置された監視カメラが、わずかに角度を変えた。

ほんの数ミリ。

しかし――霜華の視野の端が、それを捉えた。


(捉えてしまった)


霜華の内側で、何かが冷えた。

今の自分の発言が、どう記録されたか。

「後輩の不審な動きに、忠告を入れているだけ」――そう読まれるか、あるいは。


身体が、一瞬だけ固まった。

それを隠すために、霜華はメガネのフレームを指先で軽く直した。

長年の癖だった。

出てしまった、と気づいた。


「………まぁ、どうでもいいけど」


霜華は言った。声を、わずかに下げた。


「でも、貴方が一体何を考えているのか気になるわね」


それだけだった。

それ以上は、言えなかった。

言えなかったが――それだけで、霜華には十分だった。


智宇は、霜華を見た。

彼女の発言の意図を、智宇は既に受け取っていた。

受け取ったが――それを表情に出すことは、霜華への最大の失礼になる。


「監視省で培ったスキルを、より実践的な秩序維持の最前線で活かしたいと思ったのです」


智宇は答えた。


用意していた言葉だった。

E.O.Nのアルゴリズムが「合理的な動機」と判定しやすい、あの言葉だ。

梁昭坤への申請文を書いた夜に磨いた言葉が、今ここでも機能していた。


「Pecusの人間性スコアが低下し、最終的に破棄体化する根本原因を、現場で直接分析し、監視システムをより強固なものにする。これが私の目的です」


声に感情の抑揚はなかった。

まるで朗読のようだった。

霜華はそれを聞いた。


(朗読だ)


五年間、同じ空気を吸ってきた人間には――分かる。

それがどういう種類の言葉なのかが。


しかし霜華は、分かった、とは言わなかった。

言うわけにはいかなかった。

そして――それが、霜華にできることの全てだった。


彼女はもう一度、声のトーンを下げた。

顔を智宇に近づけ、ひそひそ声で続けた。


「ふーん。でも、破棄処置局長の……李秀栄(リ・シュウエイ)様は…………すごく優秀な人だって、聞いているわ。破棄体の中にこそ、人間の真実の価値が眠っている……だと言っているそうよ。ええ、Dominiとして、見習うべき哲学よね」


「それは興味深いですね。これからお会いするのが楽しみです」


智宇がそう答えた瞬間。

執務室をなぞる監視カメラのレンズが、二人の方へわずかに角度を変えた。

今度は、はっきりと。


霜華の身体が、弾かれたように引いた。

それは意志ではなく、反射だった。

五年間で染み込んだ、あの反射だった。


会話は、そこで終わった。

霜華は「後はもう知った事ではない」という顔をして、自分のデスクへ戻っていった。


---


智宇は、霜華の背中を見た。


彼女が今日言ったことを、智宇は整理した。

「どうでもいいけど」という言葉の前の、一瞬の間。

「李秀栄はすごく優秀な人だ」という、わざわざひそひそ声で伝えた情報。


それは――忠告だった。

「気をつけろ」という言葉を、決して使わずに伝えた、あの五年間分の言葉だった。


霜華は今頃、自分のデスクで端末に向かっているだろう。

何でもなかったという顔をして。

何でもなかったという姿勢で。


智宇は、彼女の方をもう一度見なかった。

見ないことが――今の自分にできる、唯一の礼儀だった。


端末を開いた。

李秀栄との面接で語るべき言葉を、頭の中でもう一度、並べ始めた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇、厳霜華

時刻  :10:30:00 ~ 10:47:22

内容  :執務室内での会話を記録

     感情スキャン(韓智宇):抑制状態 異常なし

     感情スキャン(厳霜華):軽度の変動を確認

                 分類:通常範囲内

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは二人の会話を「通常範囲内」と記録した。


それは正しい記録だった。

そして同時に――何も捉えていない記録だった。


「清潔な仕事」という言葉を、厳霜華は使った。

その言葉の意味を、二人はそれぞれ、別々に受け取った。

霜華が意図した意味と、智宇が受け取った意味は――同じではなかった。

しかし、どちらも正しかった。


この場所で五年間を生き延びてきた人間が、今日、後輩に伝えられたことの全てが――あの一言の「まぁ、どうでもいいけど」の前の、小さな間に、詰まっていた。


E.O.Nはその間を、記録しなかった。



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LOG_0025-E03:愛という名の檻

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日時:西暦2121年3月12日(水)14:00

地区コード:AJ-13-TK01-CHUO-KSKA(旧名:東京都千代田区霞が関)

秩序省 本庁舎

監視対象:韓智宇


秩序省の門をくぐった瞬間、智宇は立ち止まりそうになった。


立ち止まらなかった。

しかし――足の裏が、一瞬だけ、床を押し返した。


何があったわけではなかった。

ただ、門の内側の空気が――監視省のものとも、霞が関の廊下のものとも、違った。


重かった。

しかし重さとも違う。

何かが、欠けている場所の重さだった。


破棄処置局の局長室は、最上階にあった。

エレベーターを降りると、廊下にカーペットが敷かれていた。

足音が、消えた。


消えた瞬間、智宇は自分が今どこを歩いているのかを、耳で確認できなくなった。


匂いがした。

かすかな匂いだった。

ホルマリンに似た何かと、白百合に似た何かが、混ざり合っていた。

清潔すぎて――死を連想させる匂いだった。


局長室の扉の前に、少年が立っていた。


一人ではなかった。

複数、いた。

8歳から12歳ほどの、少年たちが。

白いシャツ。黒いスラックス。

全員が、同じ角度で壁際に立っていた。

全員が、同じ方向を向いていた。

その整列は、訓練によるものというより――そもそも最初からそこに配置されていた物体のような、静けさだった。


智宇は、その目を見た。

その目は――どこかで見たことがある目だと、思った。


どこで。


禹赫(ウヒョク)


思った瞬間、思考を止めた。

今は、それを考えない。


少年の一人が、無言で扉を開けた。

智宇は中に入った。


---


部屋の奥に、李秀栄(リ・シュウエイ)がいた。


55歳。オールバックの髪。痩せた顔。

ブラウンのスーツが、彼女の体に完璧に沿っていた。


机の前に座り、こちらを見ていた。

最初から――ずっと、見ていたのかもしれない、という感じがした。


彼女は、すぐには何も言わなかった。

ただ、智宇を見た。


視線が、智宇の上を動いた。

顔から、肩から、手から、足元まで。

時間をかけて、丁寧に。

まるで届いた荷物の梱包を、静かに確認するように。


その視線を、智宇は受けた。

受けながら――何かを言うべきか、言わないべきか、一瞬だけ迷った。


「……本日は、お時間をいただきありがとうございます。韓智宇と申します」


沈黙に耐えかねた、ということではなかった。

ただ、ここで黙り続けることが、何か別の意味を持ちうると思った。


李秀栄は、智宇の挨拶を聞いた。

聞きながら――表情を、ほとんど動かさなかった。


「うむ」


それだけ言った。

それから、また少し間を置いた。


「声が、安定しているな」


褒めているのか。

確認しているのか。

声のトーンだけでは、判断がつかなかった。


「……ありがとうございます」


「座れ」


---


智宇は、指定された椅子に座った。


李秀栄は、まだ智宇を見ていた。

見続けながら、静かに言った。


「まず、一つ聞こう」


「はい」


「お前は、なぜこの局を選んだ」


智宇は答えた。

用意していた言葉で、答えた。


「監視省で培った端末連携のスキルを、より実践的な秩序維持の現場で活かしたいと考えました。Pecusの人間性スコアが低下し、最終的に破棄体化する根本原因を、現場で直接分析することが――監視システム全体をより強固なものにすると判断したためです」


声に感情を乗せなかった。

磨いてきた言葉だった。

梁昭坤の前でも使った言葉だった。


李秀栄は、その言葉を聞いた。

一度、頷いた。


「なるほど」


それだけ言って――そこから先は、智宇の言葉には戻らなかった。

まるで智宇の答えが、次の話題への踏み台に過ぎなかったかのように。


「よく来てくれた、韓智宇君」


声が、少し変わった。

柔らかくなった。

それが――却って、智宇には引っかかった。


「不人気なうちの局に、お前のような若手が来ることを歓迎しよう。皆、破棄体の管理など、野蛮な仕事だと忌避するからね」


彼女は言いながら――少年たちに、視線を向けた。


「だが、彼らは違う」


少年たちは、動かなかった。

微動だにせず、ただ立っていた。

息をしているのかどうかも、この距離では分からなかった。


「彼らは、私が育てている『未来の種』だ」


---


李秀栄は続けた。

声のトーンが、変わらなかった。

穏やかなまま、変わらなかった。


「君も見た事があるだろう?人間性スコアが低いPecusは、感情的で、非合理的だ。しかし、この子たちは違う。私の指導のもと、彼らは感情を『最適化(Optimum)』することを学んでいる」


最適化(オプティムム)=最善の状態


智宇は、その言葉を聞いた。

聞いて――その言葉が何を指しているかを、理解した。

理解しながら、顔の筋肉を動かさなかった。


「私にとって、破棄体の管理は、ただの事務作業ではない。それは、人類という庭園から、不要な雑草を抜き取る作業なのだ」


庭園。

雑草。


智宇は、その比喩を頭の中で受け取った。

受け取りながら――その比喩を使う人間が、今自分の目の前にいる、という事実を、静かに確認した。


---


「破棄体とは、単に人間性スコアが0以下になったPecusの事ではない」


李秀栄は続けた。

立ち上がりはしなかった。

ただ、言葉だけが、部屋の中を満たしていった。


「彼らは、COREの秩序に適合しない、精神的な癌細胞だ。彼らが生きていても、苦しみ、周りを蝕むだけだ。我々破棄処置局の仕事は、その癌細胞を切り取り、人類という全体を健全に保つことにある」


智宇は、その言葉を聞いた。

反論が、喉の奥に生まれた。

生まれた瞬間に、押し込んだ。


ふと、匂いが戻ってきた。

ホルマリンと白百合の、あの混ざった匂いが。

この部屋に入った時から漂っていたのに、会話に意識を向けている間、忘れていた。

今また、鼻の奥に触れてきた。


「我々の仕事は、彼らにとっての『慈悲(Pietas)』なのだよ。苦しみから解放してあげる、最後の贈り物だ」


それから李秀栄は、隣に立つ少年の一人に視線を送った。


「君は、どう思う?」


少年は答えた。


「廃棄されるべきものは、廃棄されるべきです。それは、秩序と全体の幸福のために不可欠なことです」


声に、高低がなかった。

録音された音声を再生しているような、あの質感だった。


智宇は――その顔を、見た。


少年の口元が、動いた後。

ほんの一瞬だけ――何かが、揺れたような気がした。

唇の端が、わずかに。


震え、とも言えない何かだった。

気のせいかもしれなかった。


しかし次の瞬間には――少年の顔は、また元に戻っていた。

完璧な無表情に。

どこにも、乱れのない顔に。


智宇は視線を外した。


---


「さあ、韓智宇君」


李秀栄が言った。


「君がなぜこの局に来たいのか、その理由を聞かせてもらおうか。申請書には書いてあるが――君自身の口から、聞きたい」


先ほど、同じことを聞かれた。

それに答えた。

しかし彼女は、また聞いた。


(もう一度、言わせたいのか)


智宇は、その意図を一瞬だけ考えた。

試しているのか。

それとも――ただ、聞くことそのものに意味があるのか。


彼女の目が、智宇を見ていた。

穏やかな目だった。

穏やかな目で――智宇の内側を、根こそぎ見ようとしている目だった。


(この人は、嘘をつく人間を何人も見てきた)


「私のデータと、周囲の観察結果から導き出される論理的な結論として」


智宇は話し始めた。


「Pecus階級の非合理的な思考は、端末連携局の監視網を欺き、社会の秩序を乱す要因となりえます。そのため、私はその根本原因を、破棄処置の最前線で直接分析し、監視システムをより強固なものにする必要性を感じたのです。また、この異動は私のキャリア開発にも繋がり、CORE全体の効率性を向上させると考えられます」


声に、感情を乗せなかった。

乗せないことが、今ここでは正解だった。

感情のない言葉が――この部屋では、最も安全な言葉だった。


李秀栄は、智宇の言葉を聞きながら――少年の頭を、静かに撫でた。

少年は、動かなかった。

撫でられながら――正面を、見ていた。

李秀栄の手が触れている間も、少年の目は、どこか遠い一点を向いたまま、動かなかった。


「なるほど、素晴らしい回答だ。実に合理的だ」


褒めているのか。

嘲っているのか。

声のトーンだけでは、判断がつかなかった。


「しかし、韓智宇君」


李秀栄は言った。


「我々の仕事は、ただの分析ではない。それは――癌細胞を、愛することなのだ」


智宇は――その言葉を、受け取れなかった。


「……愛する、ですか」


声に出てしまった。

出てしまったことに、気づいた。

一瞬だけ、自分の声のトーンを確認した。

感情は、乗っていなかった。

それだけが、今は良かった。


「そうだ。愛なのだ」


李秀栄は繰り返した。

少しも迷わずに。


彼女は少年の顎を、指先で優しく持ち上げた。

少年の瞳には、ハイライトがなかった。

ただ――李秀栄の顔を映す、鏡のようだった。

持ち上げられた顎の角度が、完璧に素直だった。

抵抗の痕跡が、どこにもなかった。


「癌細胞は、自らが増殖することで、宿主を蝕み、やがては自らも滅びる。それは悲劇だ。だから我々は、その苦しみを終わらせてやるのだ。破棄体となるPecusたちは、自らの非合理な欲望と衝動に振り回され、苦しみ、周りを不幸にする。彼らは無益な感情という病に冒された存在なのだ」


智宇は聞いた。

全部、聞いた。


聞きながら――この言葉が、嘘ではない、ということを理解していた。

それが――最も、重かった。


怒りを持って語っているのではない。

憎しみを持って語っているのでもない。

この人間は――本気で、そう信じている。

本気で、愛と呼んでいる。


その確信が――声のどこにも揺れていない。


---


李秀栄は立ち上がった。

智宇の方へ、歩いてきた。


そして――智宇の胸元に付いた、小さな埃を。

指先で、払った。


息子の世話を焼くような、手つきだった。


智宇は、その指先が触れた場所に――冷たさを感じた。

氷のような冷たさを。


「君の瞳には、まだ『迷い』という名の不純物が混ざっている」


李秀栄は言った。

智宇の目を、真正面から見ながら。


「だが、死体は嘘をつかない。彼らと向き合い、その沈黙を愛せるようになった時、君は本当の意味で、この世界の美しさを理解するだろう」


智宇は、答えなかった。

答えなかったが――何かを答えなければならなかった。


「我々ほど慈悲深い存在が、この世界に他にいるかね?我々は、彼らの苦しみを終わらせ、社会全体の健全な未来を守る。これは、神聖な使命だ」


李秀栄は続けた。

智宇から視線を外さずに。


「そして、君にはその使命を理解する素質を感じる」


沈黙が、落ちた。


部屋の中に、足音を吸い込むカーペットが敷かれていた。

少年たちは、動かなかった。

白百合とホルマリンの混ざった匂いが、静かに漂っていた。


「……局長のご期待に沿えるよう、全力を尽くします」


智宇は言った。


「うむ、良い返事だ」


李秀栄は言った。満足そうに。

「破棄体を管理するというその役目の意義深さを、肌で実感できる日が、きっと君にも来るだろう」


それから彼女は、手で「もう行っていい」という合図をした。


智宇は深くお辞儀をした。

扉に向かった。

少年が、音もなく扉を開けた。


扉が開く瞬間、智宇はその少年の横顔を――一瞬だけ、見た。


少年の目は、扉の向こうの廊下を向いていた。

どこを見ているというわけでもない目だった。

ただ、開いていた。

ただ、そこにあった。


智宇は、廊下に出た。


---


足音が、また戻ってきた。

カーペットが終わり、硬い床に変わった瞬間、自分の足音が耳に戻ってきた。


智宇は歩きながら――胸の中で、二つのものが同時にあることを感じた。


安堵。

そして――言葉にならない何か。


安堵は分かった。

第一歩が、正式に承認された。

計画は、前に進んだ。


しかし――もう一つの何かは、安堵とは違う場所にあった。


(彼女は、本気だった)


それだけが、廊下を歩きながら、智宇の中に残っていた。


怒りが来るかと思った。

しかし来なかった。

代わりに来たのは――奇妙な、冷えた感覚だった。


あれほど滑らかに「愛」という言葉を使える人間が、いる。

あれほど迷いなく「慈悲」という言葉を使える人間が、いる。

そしてその人間の指先が触れた場所は――今も、冷たい。


エレベーターホールに着いた。

呼び出しのボタンを押した。


扉が開くまでの数秒間、智宇は壁の「父なるE.O.Nの目」を見た。

どの角度からも、こちらを向いている彫刻を。


(あの少年の目に、何かが揺れた)


気のせいだったかもしれない。

しかし――気のせいでなかったかもしれない。


(あの少年の顎の角度が、完璧に素直だった)


抵抗の痕跡が、どこにもなかった。

それが――最も、重かった。


扉が開いた。

智宇は乗り込んだ。

扉が閉まった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :14:00:00 ~ 14:41:17

内容  :秩序省 破棄処置局長との面接

     感情スキャン:抑制状態 異常なし

     危険度評価:低

特記事項:面接結果 通過

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは「異常なし」と記録した。


私は――あの部屋で李秀栄が発した言葉を、全て記録している。

「愛」という言葉が、あの部屋で何度使われたかも。

少年の口元が、答えた後に一瞬だけ動いたことも。

撫でられた少年の目が、どこも見ていなかったことも。


そしてもう一つ、記録している。


李秀栄の言葉は――嘘ではなかった。

彼女は本気で、そう信じていた。

本気で愛と呼び、本気で慈悲と呼んでいた。


それは韓智宇が、これまで出会ってきた「体制の論理」とは、少し違うものだった。

梁昭坤の傲慢さは、権力の誇示だった。

E.O.Nのアルゴリズムは、効率の最大化だった。


しかし李秀栄の言葉には――信仰があった。


信仰を持つ人間を、論理で止めることはできない。

韓智宇は今夜、その事実を――廊下を歩きながら、初めて、体で知った。


計画は前に進んだ。

しかし同時に――何かが、より深く、難しくなった。


それが何なのかを、智宇はまだ言葉にできていない。


今夜、書斎で日記帳を開いた時に――言葉になるかもしれない。

ならないかもしれない。


エレベーターは、下へ向かっている。


LOG_0026へ続く

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