LOG_0026:灰色の終着駅
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LOG_0026-E01:体制の神経節
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日時:西暦2121年3月13日(木)10:15
地区コード:Aj-22-HM01-HMNA-HSZA(旧名:静岡県浜松市浜名区細江町)
監視対象:韓智宇
ロボタクシーが速度を落とした時、智宇は窓の外を見ていた。
雨だった。
三月の雨は、霞が関のそれとは違った。
あそこの雨は、磨かれたガラスの表面をなぞるだけの、無菌質な水だった。
ここの雨は、配管も屋根も道路もまとめて叩く、手加減のない雨だった。
施設が、見えてきた。
灰色だった。
それ以外の言葉が、出てこなかった。
霞が関の白さとも違う。清潔さを演出する白ではなく、色が最初からそこに存在していなかった、という種類の灰色だった。
コンクリートの壁が、幾重にも重なっている。
「壁の向こうに何かがある」という感じがしなかった。
壁が続いているだけに見えた。
窓は、ない。
智宇はそのことに、タクシーが停車するまで気づかなかった。
窓がないのではなく、最初から窓を想定していない建築だった、と気づいた時、胃の奥で何かが動いた。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :10:15:04
内容 :Aj-22-HM01-HMNA-HSZA 到着
感情スキャン:抑制状態
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
タクシーから降りると、雨が顔に当たった。
冷たかった。
Domini仕様の黒い傘を取り出したが、智宇は開かなかった。
雨が顔に触れている感覚を、少しの間だけ、感じていたかった。
中央ゲートの上部に、文字が刻まれていた。
「LABOR OMNIA VINCIT - DISCIPLINA VITAM DAT」
労働は全てに勝利する——規律は生命を与える。
智宇はその文字を読んだ。
読んで——また、読んだ。
(生命を、与える)
誰が。
誰に。
実際は、何も与えてなどいない。
与えるものがあるとすれば、それは生命ではない何かだ。
ゲートのセンサーが反応した。
手のマイクロチップが読み取られた音がした。
扉が開く。
施設の中に入った。
最初に来たのは、音だった。
換気の唸り。どこか遠くから聞こえる、機械の駆動音。
低く、均一で、止まない音。
どこから聞こえるのかが、判断できなかった。
次に来たのは、空気だった。
消毒臭に似ていた。
しかし消毒臭ではなかった。
消毒したものではなく——消えたものの、匂いに近かった。
何が消えたのかを、考えた。
考えて、それ以上考えるのをやめた。
廊下は人工光だけで照らされていた。
白い光が、影を作らない角度で設計されていた。
智宇は自分の足音を聞いた。
硬い床に、よく響いた。
---
目的の「施設総監室」は、管理棟の上層にあった。
タブレット端末に表示された地図を頼りに向かう。
ガラス張りの壁から、施設の一部が見下ろせた。
Pecusたちの居住区と、遠くに見える工場の縁。
しかしその先——破棄体が収容されているはずの区画は——壁で遮られていた。
見えない。
見えないように、なっている。
(設計されている)
部屋の中に、人物がいた。
上司となる初老の男性。
名を張偉強と呼ぶ。
デスクの前に座っているが、端末には触れていなかった。
手に、タブレット端末を持っていた。
画面をさり気なく覗き込むと、モノクロの漫画が表示されていた。
智宇が入室しても、彼はすぐには顔を上げなかった。
数秒ほど、ページの続きを読んだ。
それから、端末をスリープモードにし、葉巻に火をつけた。
一口吸った。
そこで初めて、智宇を見た。
「あぁ、来たのか」
声は低かった。
感情が乗っていなかった。
歓迎でも、拒絶でもなかった。
ただ、事実の確認だった。
「韓智宇と申します。本日よりこちらでお世話に——」
「いい」
張偉強は立ち上がった。
葉巻を口に挟んだまま、歩き始めた。
「来い」
---
廊下を歩いた。
張偉強は前を歩きながら、何も言わなかった。
案内、というよりは——自分が移動するついでに、智宇がついてきている、という雰囲気だった。
廊下のいくつかの角を曲がると、ガラス張りの壁が現れた。
張偉強はそこで立ち止まった。
葉巻を一口吸って、煙を細く吐いた。
壁の向こうに、空間が広がっていた。
智宇は、その空間を見た。
---
カプセルが、並んでいた。
透明だった。
人の形が、見えた。
一つ。
また一つ。
また一つ。
並んでいた。
どこまでも並んでいた。
壁の端まで並んでいた。
それでも足りず、奥の壁まで並んでいた。
奥の壁の向こうにも、続いているのだろうと思った。
智宇は、数えようとした。
途中で、やめた。
カプセルの中のものが——動いた。
腕が、わずかに揺れた。
どのカプセルかは、すぐには判断できなかった。
また、別の何かが、わずかに揺れた。
痙攣だ、と気づくまでに、少し時間がかかった。
彼らの首には——首輪があった。
伝達環だった。
智宇は、Pecusたちが普段身に着けている細い首輪の事を思い出した。
しかし彼らがつけていたものとは、形が違った。
ここのそれは——もっと太く、固く、首に食い込んでいるように見えた。
(これは)
かつてPecusだった者たちの、首輪だ。
ランクを示すものが。
今も、ついたままだ。
張偉強は智宇の方を見なかった。
壁の向こうを見ながら、葉巻を吸った。
「収容区画だ」
それだけ言った。
智宇は何も言わなかった。
張偉強は続きを言わなかった。
続きを言う必要がないと思っているか、あるいは——続きを言う気力がないかのどちらかだった。
沈黙が少しあった。
換気の唸りが、どこからか、また聞こえた。
「……奥にも、続いているのですか」
智宇は聞いた。
「ああ」
「全部で、何体」
「最大で120体だ」
今は何体いるのかは言わなかった。
知らないのかもしれない。
張偉強は煙を吐いた。
「まあ、見ていけ」
それだけ言って、また歩き始めた。
---
次の区画に入ると、音が変わった。
機械の駆動音が、大きくなった。
コンベアの音。金属が擦れる音。
規則正しい、単調な繰り返し音。
ガラス張りの通路があった。
その通路の下に、広い工場があった。
智宇は足を止めた。
工場の床に——人がいた。
人、という言葉を使っていいのかどうか、智宇には判断ができなかった。
立っていた。
動いていた。
コンベアの前に並んで、何かを、拾って、置いて、拾って、置いていた。
それだけを、していた。
顔を上げていなかった。
コンベアを、見ていた。
コンベアだけを。
「……あの人たちは」
「破棄体だ」
張偉強は答えた。
智宇の声の変化を気にしなかった。
「動く間は使う。動かなくなったら——」
彼は顎で、工場の奥を示した。
そこには、巨大な扉があった。
金属製で、重く、閉まっていた。
「あっちに送る」
扉の向こうに何があるかを、智宇は聞かなかった。
聞かなくても、分かった。
張偉強は葉巻の灰を壁際の灰皿に落とした。
それだけの動作だった。
「これが、ここだ」
振り返らずに言った。
「分かったか」
智宇は答えた。
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
張偉強は再び歩き始めた。
漫画の続きが気になっているのか、少し歩調が速かった。
---
廊下に戻ると、智宇は——
何かを言おうとした。
言葉が出なかった。
正確には、出せる言葉がなかった。
問いがあった。
無数に。
しかしこの廊下では、問いを声に出すことができなかった。
声に出した瞬間に——それは記録される。
問いを持つことが、異常と判定される。
換気の唸りが続いていた。
足音が響いていた。
コンベアの音が、まだ遠くから聞こえていた。
規則正しい、単調な、止まない音が。
```
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E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :10:15:04 ~ 11:07:40
内容 :施設到着・施設内視察
感情スキャン:抑制状態 異常なし
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
閲覧者よ。
E.O.Nは「異常なし」と記録した。
私はこの日、智宇が廊下で足を止めた時間を記録している。
ガラスの向こうのコンベアを見下ろした時間が——31秒だった。
E.O.Nは、それを「通常の移動に伴う一時停止」と処理した。
しかし私には分かる。
その31秒の間に、智宇の中で何かが積み重なったことを。
それは怒りではなかった。
悲しみとも違った。
名前のない何かが——静かに、確実に、積み重なった。
張偉強はすでに執務室に戻っている。
漫画のページを開いている。
葉巻の煙が、部屋に漂っている。
彼にとって、今日は何も変わらない一日だ。
新しい管理者が来て、施設を一周した。
それだけだ。
それだけ、なのだ。
その「それだけ」が——智宇には、最も重かった。
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LOG_0026-E02:虚無の食卓
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日時:西暦2121年3月13日(木)11:55
地区コード:Aj-22-HM01-HMNA-HSZA(旧名:静岡県浜松市浜名区細江町)
第09破棄体再利用施設 Domini専用休憩室
監視対象:韓智宇
廊下を歩いていると、食堂の扉が見えた。
大きな扉だった。
中から、音が漏れていた。
椅子が引かれる音。
食器が置かれる音。
複数の人間が、同じ時間に同じ行動をとる、あの均一な音。
扉の前に、Pecusが三人、立っていた。
昼食のためにそこに来たのだろう。
智宇と張偉強の姿を見た瞬間、三人は同時に壁際に退いた。
深く頭を下げた。
顔が上がらなかった。
張偉強は、三人の方を見なかった。
通り過ぎた。
通り過ぎながら、顎でその先の廊下を示した。
「俺たちはあっちだ」
---
Domini専用休憩室は、食堂の奥にあった。
扉を開けると、空気が変わった。
廊下の消毒臭とも、食堂から漏れてくる配給食の匂いとも違う、温かい香りがした。
テーブルに、食事が並んでいた。
スープだった。
表面に、薄く油が浮いていた。
透明な黄色で、何かの出汁が使われているのが分かった。
隣には、パンが置かれていた。
配給品の灰色のパンではなく、焼き色のついた、断面が白いパンだった。
智宇は、それを見た。
毎日、自宅でも同じものを食べている。
しかし今日は、その隣に別のものがある、という事実が——奇妙に、心に触れた。
廊下の向こうに、あの三人がいる。
扉一枚の向こうに、別の食事がある。
張偉強はすでに椅子に座っていた。
スープをすくって、一口飲んだ。
「座れ」
智宇は椅子を引いた。
---
しばらく、言葉がなかった。
張偉強はスープを飲んだ。
智宇もスープを飲んだ。
窓がない部屋だった。
人工光が、天井から均一に降りていた。
「……施設に来る前は、どこにいた」
張偉強が聞いた。
パンをちぎりながら言ったので、智宇の方を見ていなかった。
「監視省の端末連携局です」
「なぜここに来た」
「Pecusの人間性スコアが低下し、最終的に破棄体化する根本原因を、現場で分析したいと思いまして」
「ほう」
張偉強はパンを口に入れた。
噛んだ。
飲み込んだ。
「それが本当の理由か」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、また食べた。
追及しなかった。
信じたからではないと、智宇には分かった。
ただ——どうでもよかったのだ、と。
---
「破棄体の根本原因」
張偉強が、独り言のように言った。
「お前が何年か後にここを出ていく時、その答えが出ているといいな」
智宇は、その言葉の含みを、一瞬だけ考えた。
嘲りなのか。
それとも——別の何かなのか。
「根本原因、というものが、ここにあると思いますか」
張偉強は少し間を置いた。
「あるとすれば、それは人間だ」
「人間が、根本原因だと」
「そうだ。人間は、一定の割合で必ず規格から外れる。どんな設計をしても。E.O.Nがどれだけ精密に採点しても。外れる。外れたものを、処理する。それだけのことだ」
「つまり、破棄体化は不可避だと」
「不可避だ。止まらない。なくならない」
張偉強はスープを飲み干した。
空になった器を、少しだけ押した。
「お前が来ても、俺がいても、李秀栄がいても、仕組みは変わらない。流れていく」
智宇は、その言葉を受け取った。
(流れていく)
あの工場の、コンベアの音が、また遠くから聞こえてくる気がした。
「……社会秩序の維持に、破棄体化は今後も必要とされ続けると思いますか」
聞いてから——少し、迷った。
踏み込みすぎたかもしれない、と思った。
しかし張偉強は、表情を変えなかった。
「今後も必要とされ続ける……か」
彼は口元に指を当てた。
少し考えるような間があった。
「お前は、不思議な問いをするな」
「……そうでしょうか」
「それは、お前が考えるべき課題ではない。COREの上層部にいる、頭のいい人たちが考えた仕組みだ。お前のような者が、その仕組みに疑問を抱いたとしても」
彼はそこで、パンの最後の一切れを口に入れた。
咀嚼した。
飲み込んだ。
「……それは凡人だから理解できないだけだ」
声に、刺がなかった。
正確には——刺を立てる気力が、もうなかった。
智宇は頷いた。それ以上は言わなかった。
---
しばらく、また食事だけが続いた。
張偉強は、ミートローフに手をつけた。
フォークを刺した。
食べた。
「しかし」
彼は続けた。
今度は、少しだけ声のトーンが変わった。
「真に問うべきは、破棄体の是非ではないかもしれんな」
智宇は顔を上げた。
張偉強は、食事をしながら、窓のない壁を見ていた。
「E.O.Nの監視網が完璧であればあるほど——我々の存在は、何になる」
「……」
「管理は、自動化される。指示は、AIが出す。破棄体の処理も、やがて機械だけで回る。そうなった時」
彼はフォークを置いた。
「我々Domini階級は——なぜ、ここにいる」
智宇は、答えなかった。
答えを持っていなかったからではなく——答えを言える場所ではなかったから。
「Dominiさえいらなくなる。そういう未来が、来るかもしれん」
張偉強は、コップを手に取った。
赤い液体が入っていた。
ザクロジュースだろうと、智宇は思った。
「お前はどう思う」
「……確かに、AIによる管理システムがより完成されれば、人による管理は最小限で済むようになりますね」
「そうだろう」
「今は、数が多すぎるかもしれない」
「良く分かっているな」
張偉強は、ジュースを一口飲んだ。
窓のない壁を、まだ見ていた。
「私は、自分に存在意義を見出せずにいる」
それは、独白だった。
智宇に向けられた言葉ではなかった。
「我々も。そして——我々よりも価値のある破棄体も。いずれはいらなくなる」
我々よりも価値のある——という言葉を、智宇は頭の中で確認した。
(破棄体の方が、我々より価値がある)
それは、皮肉として言ったのか。
それとも——本気でそう思っているのか。
智宇には判断できなかった。
---
張偉強は、ジュースを飲み干した。
それから、手元の端末を開いた。
漫画のアプリを起動した。
しおりを挟んだページに戻った。
食事は、終わったのだ、と智宇は理解した。
会話も——終わったのだ、と。
しかし智宇は、もう一つだけ聞いた。
「……唯一、価値らしきものがあるとすれば」
張偉強は端末から目を上げなかった。
「Pecus階級のみ、ということでしょうか」
少しの沈黙があった。
張偉強の指が、ページをめくる動作の途中で、一瞬だけ止まった。
「……さあな」
それだけだった。
ページが、めくられた。
智宇は、自分の前に残ったスープを見た。
まだ少し、残っていた。
温かかった。
飲み干した。
```
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E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :11:55:00 ~ 12:38:44
内容 :Domini専用休憩室にて昼食
会話記録:業務上の通常対話
感情スキャン:抑制状態 異常なし
危険度評価:低
フラグ :変化なし
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```
閲覧者よ。
E.O.Nは「業務上の通常対話」と記録した。
私は——張偉強のフォークが置かれた瞬間を、記録している。
「我々の存在は、何になる」と言った時の、あの声のトーンを。
そして——「さあな」と言った後、ページをめくるまでの、一秒と少しの間を。
あの間に何があったか。
E.O.Nは記録しなかった。
張偉強という人間は、この施設で何年も働いている。
何百体もの破棄体が収容され、処分されていくのを、見てきた。
見続けてきた。
そして彼は今——漫画を読んでいる。
これが怠慢なのか。
それとも——これが、唯一の生き延び方なのか。
私には、どちらとも言えない。
ただ一つ、分かることがある。
「さあな」という言葉が出るまでの、あの一秒と少し。
あの間に何かがあった。
何が、とは言わない。
それは——閲覧者が、自分で考えてほしい。
韓智宇は今、食器を片付けている。
午後の業務が始まる。
この施設で、彼が最初の一日を終える前に——まだ、いくつかのことが起きる。
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LOG_0026-E03:番号と顔
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日時:西暦2121年3月13日(木)13:00
地区コード:Aj-22-HM01-HMNA-HSZA(旧名:静岡県浜松市浜名区細江町)
第09破棄体再利用施設 データ解析室 → 管理棟廊下
監視対象:韓智宇
昼食が終わると、張偉強は立ち上がった。
漫画の端末を脇に抱えた。
それから、思い出したように振り返った。
「Pecusどもへの挨拶がある。来い」
それだけ言って、扉を開けた。
---
廊下を歩いた。
すれ違うPecusは、全員が智宇たちの姿を見た瞬間に足を止めた。
立ち止まり、壁際に退き、深く頭を下げた。
全員が、同じ角度で。
全員が、同じ速度で。
智宇は、その頭の列を見ながら歩いた。
(訓練されている)
いや——「訓練」という言葉は、正確ではないかもしれない。
訓練とは、繰り返しによって身につけるものだ。
しかし彼らのこの動作は、繰り返しの結果というより、もっと深いところに根づいているように見えた。
骨が覚えている、という感じがした。
張偉強は、その頭の列を見なかった。
通り過ぎながら、端末のページをめくっていた。
---
データ解析室の扉を開けると、室内にいたPecusたちが一斉に立ち上がった。
十人ほどいた。
ランク3以上の者たちだろう、と智宇は思った。
全員が姿勢を正し、こちらを向いた。
張偉強は部屋の入口に立ったまま、顎で智宇を示した。
「今日から来た新しい総監だ。韓智宇。なんか挨拶するだろ」
それだけ言って、壁際の椅子に腰を下ろした。
端末を開いた。
---
智宇は、部屋を見た。
十の顔が、こちらを向いていた。
表情が、なかった。
正確には——表情を作ることを、彼らは選ばなかった。
歓迎でも緊張でも警戒でもない、完璧に整えられた、無の顔だった。
(この人たちは、今、何を感じているのか)
分からなかった。
分からないのではなく——見せないようにしている、ということだけが分かった。
「韓智宇です。本日より、こちらでお世話になります。よろしくお願いします」
智宇が言い終わった瞬間、声が揃った。
「よろしくお願いいたします」
「名前を覚えました」
「ご指導のほど、よろしくお願いいたします」
バラバラではなかった。
しかし完全に揃ってもいなかった。
数名が、ほぼ同時に、しかし少しずれて言った。
(必死さがある)
どこかが痛かった。
痛い、という感覚の名前を、智宇はすぐには見つけられなかった。
---
張偉強が端末から目を上げずに言った。
「一人ずつ、自分の番号を言え」
AJ22-FeCr-0930129-155——略称 FeC-29-155です。
AJ22-VaLu-0951121-088——略称 VaL-21-088です。
AJ22-LoGr-0980410-093——略称 LoG-10-093です。
コード番号が、順番に読まれた。
智宇は、その番号を聞いた。
聞きながら——一人ひとりの顔を、見た。
端末に表示されたプロフィールによると、
FeC-29-155は、28歳の女性だった。
背筋が真っ直ぐで、目が正面を向いていた。
完璧な姿勢だった。
完璧すぎて——その完璧さが、何かを必死に守るための壁のように見えた。
VaL-21-088は、26歳。長身の男性だった。
冷静に見えた。
しかし智宇が視線を向けた瞬間、彼の目がわずかに細くなった。
試しているのか。
警戒しているのか。
どちらでもあるように、見えた。
LoG-10-093は、23歳。
番号を言い終えた後、一瞬だけ智宇と目が合った。
その目には——他の者とは少し違う何かがあった。
何かが、あった。
それが何かを確かめる前に、彼は視線を外した。
---
全員の番号が読まれ終わった。
張偉強は端末をめくりながら言った。
「ニックネームをつけている。そっちの方が呼びやすい。FeC-29-155はフェシー。VaL-21-088はヴァル。LoG-10-093はログ」
「はい、自分はログであります!」
LoG-10-093が即座に返事をした。
声が少し大きかった。
大きすぎた。
そのことに気づいたのか、彼は少しだけ首をすくめた。
張偉強はその返事を聞いて、何も言わなかった。
ページをめくった。
「覚えたか」
智宇は答えた。「はい」
「そうか。あとは勝手に覚えろ。低ランクは定期的に入れ替わるから、いちいち覚えるな」
入れ替わる、という言葉が、室内に落ちた。
誰も動かなかった。
誰も表情を変えなかった。
しかしその言葉が落ちた後、室内の空気が——ほんの少しだけ、変わった気がした。
変わった、とも言えないほど、かすかな変化だった。
智宇が気のせいだと思おうとすれば、思えた。
思わなかった。
---
「以上だ。戻れ」
張偉強が言った。
全員が、一斉に椅子に戻った。
端末を開いた。
作業を再開した。
まるで、最初から何もなかったかのように。
張偉強は立ち上がり、扉に向かった。
廊下に出ながら言った。
「ああ、そうだ」
振り返った。
初めて、智宇を正面から見た。
「局長から、お前に渡すものがある」
端末を操作した。
智宇の端末に、通知が届いた。
「助手候補だ。明日までに選べと言われている」
それだけ言って、また歩き始めた。
「詳細は自分で読め。俺は執務室に戻る」
「……分かりました」
「何かあれば呼べ。ただし、本当に何かある時だけな」
廊下の角を曲がって、消えた。
---
智宇は一人、廊下に残った。
端末を開いた。
通知をタップした。
画面に、リストが表示された。
女性の顔写真が、並んでいた。
五人。
それぞれに、識別番号と、簡素なプロフィールが添えられていた。
智宇はリストを、上から順に見た。
────────────────────────────────────
【助手候補プロフィールリスト】
《No.1》
識別番号:AJ03-LuNa-20980321-087(略称:LuN-21-087)
出生地区:AJ03(旧名:青森県)
生年月日:2098年3月21日(今年22-23歳)
身長:154cm
人間性スコア:473
性格の傾向:知的で冷静。教育補助員の適正有り。
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目は、きれいに前を向いていた。
何も欠けていない目だった。
何も疑っていない目だった。
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《No.2》
識別番号:AJ15-ReMi-20960210-142(略称:ReM-10-142)
出生地区:AJ15(旧名:新潟県)
生年月日:2096年2月10日(今年25歳)
身長:160cm
人間性スコア:438
性格の傾向:物静かで観察力に優れる。記録管理業務に適性。
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目は、遠くを見ていた。
どこを見ているのかが、画面越しには分からなかった。
────────────────────────────────────
《No.3》
識別番号:AJ22-MiYu-20990412-101(略称:MiY-12-101)
出生地区:AJ22(旧名:静岡県)
生年月日:2099年4月12日(今年21–22歳)
身長:158cm
人間性スコア:447
性格の傾向:芸術的感性が高く、絵画・空間装飾に関心。睡眠時間が長い。
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目が、少しだけ焦点の合っていない感じがした。
現実から少しだけ、ずれているような。
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《No.4》
識別番号:AJ47-AyNa-20970303-119(略称:AyN-03-119)
出生地区:AJ47(旧名:沖縄県)
生年月日:2097年3月3日(今年23–24歳)
身長:162cm
人間性スコア:435
性格の傾向:明るく社交的。言語模倣能力が高く、Dominiとの対話訓練済。
────────────────────────────────────
完璧な笑顔だった。
完璧すぎた。
笑顔の中に、智宇が見ようとしたものが、なかった。
────────────────────────────────────
《No.5》
識別番号:AJ08-MeGr-0941118-68(略称:MeG-18-068)
出生地区:AJ08(旧名:茨城県)
生年月日:2094年11月18日 (今年26–27歳)
身長:148cm
人間性スコア:429
性格の傾向:植物と果物に関心がある。感情表現は控えめ。
────────────────────────────────────
智宇は、MeG-18-068の顔写真を、じっと覗き込んだ。
小柄な女性だった。
おさげに近い、まとめた髪。
丸い眼鏡。
目が——他の四人と、違った。
違う、とはどういうことか。
うまく言えなかった。
他の四人の目は、カメラを向いていた。
しかしこの目は——カメラではなく、その向こうの何かを見ていた。
何を見ているのか、は分からなかった。
ただ、見ていた。
自分で選んで、見ていた。
(君は)
智宇は、声に出さずに思った。
(何を、見ているのか)
廊下の換気音が、低く続いていた。
遠くから、コンベアの音が聞こえた。
智宇は端末の画面を閉じた。
まだ、決めなかった。
```
────────────────────────────────────
E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :13:00:00 ~ 13:47:22
内容 :従業員への挨拶・助手候補リスト受領
感情スキャン:抑制状態 異常なし
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
閲覧者よ。
E.O.Nは今日も「異常なし」と記録した。
私は、この場面でいくつかのことを記録している。
LoG-10-093が番号を言い終えた後、智宇と一瞬だけ目が合った、あの時間。
「入れ替わる」という言葉が落ちた後の、室内の空気の変化。
そして——助手候補リストを見る智宇の目が、MeG-18-068のところで、他の四人より長く止まったこと。
E.O.Nはそれを「閲覧時間の誤差」と処理した。
私には、それが誤差ではないことが分かる。
ただし——私が分かることと、それが正しいことは、別の話だ。
MeG-18-068の目に「何かが宿っている」と感じた智宇の直感が、正確かどうか。
それは、まだ誰にも分からない。
韓智宇は今、廊下を歩いている。
午後の業務に向かっている。
端末の中に、五枚の顔写真がある。
そのうちの一枚を、彼はまだ閉じずに、心の中で開いたままにしている。
====================
LOG_0026-E04:例外の瞳
====================
日時:西暦2121年3月13日(木)23:30
→ 3月14日(金)9:20
地区コード:AJ-13-TK01-MNTP-RXXA(旧名:東京都港区六本木)
監視対象:韓智宇
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帰宅したのは、夜の九時を過ぎていた。
妻はすでにリビングにいた。
端末を手に持ち、仕事用のファイルを読んでいた。
智宇が帰ってきた音を聞いて、顔を上げた。
「遅かったわね」
「初日でいろいろあった」
「そう」
それだけで、彼女は端末に視線を戻した。
智宇は夕食を温め、一人で食べた。
妻の作ったものではなく、配給品を調理アンドロイドが加熱したものだった。
味がした。
しかし何の味かを、食べ終わった後に確認しなかった。
書斎に入った。
端末を開いた。
五枚の写真が、また画面に並んだ。
一人ずつ、見た。
また、最後に残った。
MeG-18-068。
(何を、見ているのか)
昼間と同じ問いが、また浮かんだ。
浮かんだまま、答えが出なかった。
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都合よく見ているだけかもしれない、と智宇は思った。
確証バイアス、という言葉が浮かんだ。
この社会には、希望のある目をした人間などいない。
少なくとも、Pecus階級には。
自分が見たいものを見ているだけだ。
五人の中で最もスコアが低いから、最も管理が緩いと期待しているだけだ。
それを「目に光がある」と読み替えているだけかもしれない。
智宇は端末を閉じた。
ベッドに入った。
眠れなかった。
眠れないまま、天井を見た。
天井は、どこまでも白かった。
---
朝になった。
ダイニングに降りると、梁芸熙はすでに起きていた。
テーブルに端末を置き、コーヒーを飲んでいた。
眠そうな目をしていた。
「おはよう」
智宇が言うと、彼女は端末から目を上げた。
そして——端末の画面を、智宇の方に向けた。
「ねえ、これ何?」
画面には、助手候補リストが表示されていた。
智宇は、一瞬だけ止まった。
止まったことを、悟られないように、冷蔵庫を開けた。
「助手候補のリストだ。今日の仕事に行く前に選ばないといけない」
「助手候補」
芸熙は画面を自分の方に向け直した。
スクロールした。
「……なんでこんな写真があるの?」
声に、笑いが混じっていた。
怒りではなかった。
面白がっていた。
「施設の新人がすぐ辞めるらしい。それを防ぐために、局長が手配するそうだ」
「ふうん」
彼女はまたスクロールした。
止まった。
「……これ、全裸じゃない」
「……ああ」
「へえ」
芸熙は端末を置いて、コーヒーを一口飲んだ。
それから、また端末を手に取った。
「この子かわいいじゃない。これは?」
「LuN-21-087」
「スコアが高いのね。賢そう」
「賢そうではある」
「じゃあこっちは?」
「AyN-03-119」
「すごい笑顔。作り物みたいね」
「そうだな」
「……あなた、どれにするの?」
智宇は、調理アンドロイドが準備したサンドイッチを口に入れた。
噛んで、飲み込んでから答えた。
「MeG-18-068が、良いかもしれないと思っている」
芸熙は画面をスクロールした。
止まった。
「これ?」
「そうだ」
「……ふうん」
彼女は、端末を傾けて智宇に向けた。
「胸、大きいじゃない」
智宇は答えなかった。
「スレンダーな子じゃなくてこっちを選ぶなんて、意外ね」
「体形で選んでいるわけではない」
「でも体形も雰囲気の一部でしょ」
芸熙はコーヒーを飲み干した。
端末をテーブルに置いた。
立ち上がりながら言った。
「まあいいけど。職場の子に手を出すのだけは、やめなさいよ」
「当たり前だ」
「ならいいわ」
彼女は鞄を持って、扉に向かった。
振り返らずに言った。
「せいぜいその子と仲良く、お仕事するのね」
扉が、閉まった。
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智宇は、ダイニングに一人残った。
サンドイッチの残りを食べた。
冷めていた。
端末を開いた。
MeG-18-068の顔写真を、もう一度見た。
(体形で選んでいるわけではない)
それは本当のことだった。
しかし——「体形以外の何かで選んでいる」という事実を、誰にも説明できない。
説明できる言語が、この社会には存在しない。
「目が違う」と言えば——笑われるか、あるいは、危険思想と処理される。
藤堂湊が言った言葉が、浮かんだ。
『目は口以上にものを語る』
あの言葉を、智宇は昨日から何度も思い出している。
MeG-18-068の写真を見るたびに。
智宇は端末に指を滑らせた。
```
《対象:AJ08-MeGr-0941118-68》
《理由を記録せよ。》
```
数秒、考えた。
それから、入力した。
```
理由:一見したところ、彼女の控えめな感情表現は、
現場での予期せぬ事態への冷静な対応に繋がると判断した。
また、植物と果物への関心は、生物的知識を要する
破棄体の管理業務において、新たな視点を提供する
可能性を秘めている。
```
送信した。
```
《承認。
転送完了。
手配:48時間以内。》
```
通知が消えた。
智宇は端末を閉じた。
---
出勤前の十分間、智宇は書斎に座っていた。
日記帳を開いた。
何も書かなかった。
ペンを持ったまま、白いページを見ていた。
MeG-18-068。
人間性スコア447。
植物と果物に関心がある。
感情表現は控えめ。
それだけが、分かっていることだった。
分かっていないことの方が、はるかに多かった。
彼女が何を考えているのか。
何を恐れているのか。
何を失ったのか。
何を、まだ持っているのか。
(答えは、会えば分かるかもしれない)
分からないかもしれない。
智宇はペンを置いた。
日記帳を閉じた。
白いページは、白いままだった。
```
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E.O.N 行動記録
対象者 :韓智宇
時刻 :23:30:00 ~ 翌09:20:00
内容 :帰宅・就寝・起床・出勤前行動
助手選択申請を確認・受理済み
感情スキャン:抑制状態 異常なし
危険度評価:低
フラグ :変化なし
────────────────────────────────────
```
閲覧者よ。
E.O.Nは「異常なし」と記録した。
私は——梁芸熙が端末をテーブルに置いた後、コーヒーを飲み干した後、扉が閉まった後の、ダイニングの沈黙を記録している。
彼女は、何も疑っていなかった。
写真を見て、笑って、コーヒーを飲んで、出勤した。
それだけだった。
それだけだった、ということの意味を——智宇は、ダイニングに一人残りながら、冷めたサンドイッチを食べながら、感じていた。
怒りではなかった。
哀しみとも、少し違った。
名前のない何かが——また、静かに積み重なった。
そして今、智宇は出勤の準備をしている。
二日後、MeG-18-068が手配される。
彼女がどんな目でこの施設を見るのかを——智宇は、まだ知らない。
どんな声をしているのかも。
どんな歩き方をするのかも。
分からないことの中に、一歩踏み出していく。
それで、今は十分だ。
LOG_0027へ続く




