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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
25/28

LOG_0024:空の席

====================

LOG_0024-E01:決断の重量

====================

日時:西暦2121年3月3日(月)1:03

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇(ハン・ジウ)


夜中の二時。

家族が寝静まった書斎で、智宇は白いページを前にして、長い間、ペンを持っていた。


エアコンの低い唸りだけが、均一に部屋を満たしている。

机の隅に置かれた端末の画面は、スリープ状態で薄暗く光っている。


今日、古物商の路地を出た時、「何もしないまま、ではいられない」と思った。

その感触は、今も変わらない。

変わらないが——どこから始めるかを、ずっと考えていた。


---


Pecusの者たちと、接触しなければならない。

しかし今の職場——監視省 端末連携局——では、それがほとんどできない。


モニターの向こうに、数万人分のデータが流れていく。

しかしデータを処理する者と、処理される者の間には、壁がある。

画面という壁。階級という壁。そして、接触を禁じる規定という壁。


『Pecus階級の中に——この歴史ファイルを理解できる者を探す。探して、増やす』


探すためには、まず近くにいなければならない。


藤堂湊との計画を実行するためには、Pecusと直接接触できる職務が必要だ。

「Pecusと接触する機会を作れる場所」——それを考えた時、最初に頭に浮かんだのは、


破棄体管理施設。


そこに勤務する為には、

秩序省「破棄処置局」に異動しなくてはならない。


---


それが適していると言える理由は、二つあった。


一つ目は、職務上の合理性だ。

Pecusが日常的に出入りし、複数のランクが混在し、施設内での行動にある程度の裁量が与えられる場所。

監視省の執務室より、ずっと近い距離で、人間に触れられる場所。


二つ目は——もっと曖昧な、しかし確かな感触だった。


2121年の新年会。

四度の夜気。

黒い制服を身に着けた、あの女性の背中。


南南西へ動いた視線が、四秒間、止まった。


あの意味を、あの夜の自分は確かめられなかった。

しかし今夜、二ヶ月近く経ったこの瞬間に——智宇は、受け取ることにした。


論理ではなく、信頼として。


あの目は、流れていなかった。

選ばれていた。


---


ペンを取り直した。


秩序省 破棄処置局への異動申請。

表向きの理由は、二つ用意した。


「監視スキルを活かした秩序維持の強化」

「人間性スコア低下の根本原因分析」


どちらも、E.O.Nが「合理的な動機」と判定しやすい言語で書いた。

感情を一切排除した。

自分の仕事が、今こういう時にも役に立つのだという、奇妙な感覚があった。


再来週の約束のことを、ふと思った。

博文と、「人文学的歴史評価センター」に行く約束。


あれは——果たされるだろうか。


胸の中で何かが揺れた。すぐに抑えた。

今は、考えない。

今夜は、これだけを決める。


智宇は、日記帳に一行だけ書いた。


『明日から、動く。』


それだけを書いて、日記帳を閉じた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:40:00 ~ 01:11:33

内容  :帰宅後、書斎に滞在

     思考スキャン:軽度の変動を検知

     分類:計画的思考傾向

     危険度評価:低

フラグ :要継続観察

────────────────────────────────────

```


書斎の電気を消した。

暗闇の中で、智宇はしばらく立っていた。


端末のスリープ画面だけが、薄く部屋を照らしている。

机の上の、白いページ。

一行だけ書かれた日記帳。


今夜決めたことが、本当に正しいのかどうか——分からない。

分からない、ということに、今は慣れてきた。


ただ、ExC-01-241が向けた、あの四秒間の視線だけが——智宇には、確かなものとして残っていた。


問い返せなかった言葉の答えを、別の場所で受け取りに行く。

それが、今夜の決断の正体だった。


智宇は書斎を出て、廊下を歩いた。

禹赫の部屋の扉が、突き当たりで静かに閉まっている。

いつも通り、閉まっている。


今夜は、止まらなかった。

足が、前に向いていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :01:15:05

内容  :就寝

     感情スキャン:抑制状態

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0024-E02:消えた名前

====================

日時:西暦2121年3月3日(月)10:00

地区コード:AJ-13-TK01-MNTP-RXXA(旧名:東京都港区六本木)

監視省 端末連携局 第三執務室

監視対象:従業員数名


月曜日の朝は、いつも通りに始まった。


空調の低い唸り。

規則正しく並ぶデスク。

各天板に埋め込まれた小型の監視端末。

端末の側面の、小さな「父なるE.O.Nの目」の彫刻。


挨拶は最低限。

業務端末が起動する音が、重なり合う。


その朝、端末連携局の第三執務室に出勤した人間のうち、劉博文(リウ・ボーウェン)の席が空であることに気づいた者は、三人いた。


一人目は、隣の席の若い男性職員——陳光(チェン・グアン)だった。

彼は気づいた後、三秒ほど考え、自分のファイルを博文の机の上に広げた。少し、スペースが欲しかった。それだけだった。博文が誰だったかを、彼はもう考えなかった。


二人目は、斜め後ろの席の厳霜華(ヤン・シュアンホア)だった。

彼女は出勤した瞬間に気づき、そして二度と、その席を見なかった。見ないことを、瞬時に選んだ。五年間この局で生き延びてきた者の反射だった。


三人目が、韓智宇だった。

三人の中で、最も遅く気づき、最も長く、その空白を見ていた。


---


智宇は、業務端末を立ち上げながら、向かいの席を観察した。

劉博文の席は——まるで、最初から誰も座っていなかったかのように、整っていた。


彼は、「空」という言葉では足りない――と思った。

デスクの天板に、塵一つない。

引き出しは完全に閉まっている。


端末の画面には、初期設定のまま誰にも割り当てられていないことを示す薄灰色の待機画面。


博文はいつも、コーヒーカップを端末の右隣に置いていた。

それが、ない。


博文はいつも、付箋を引き出しの右上の角に貼る癖があった。

剥がした後の、薄い粘着の跡さえ——ない。


博文がいつも置いていたコーヒーカップが、ない。

付箋を貼る癖があった、引き出しの右上の角に、粘着の跡すら、ない。

左端に薄く残っていたはずのコーヒーの染みが、ない。


消されていた。

痕跡ごと、丁寧に。


隣の陳光は、すでに自分の仕事を始めていた。博文の机の上のファイルを、何の気なしに動かした。まるでそこが最初から空き地であったかのように。


厳霜華は、端末の画面だけを見ていた。

見続けていた。

画面の内容が頭に入っているかどうかは、彼女自身にも分からなかった。


そして智宇は——しばらく呆然と、博文の席を見ていた。


---


(ヤン)さん」


厳霜華(ヤン・シュアンホア)は、智宇の先輩であった。

三十三歳。低めのシニヨン。黒縁メガネ。


(リウ)さんは…今日は?」


この質問を、厳霜華は恐れていた。

誰かが必ずするだろうと、朝から分かっていた。

それが智宇から来たことを、彼女は内心で「やはり」と思った。


メガネのフレームを、指先で軽く直した。

これは彼女の長年の癖だ。緊張した時に出る。出たことに、彼女は気づいていた。


「劉……? ああ、あそこに座っていた人なら、今朝、急な人事命令で異動したわ」


声は穏やかだった。滑らかだった。五年間で磨かれた声だった。


「それより、今日の監視レポートの提出順位、あなたが一番よ。……良かったわね」


咄嗟に話題を変えた。

これも、五年間で磨かれた技術だった。


智宇は頷いた。「ありがとうございます」と言った。それ以上は聞かなかった。


賢明だ、と霜華は思った。

しかし——聞かなかったことと、知らないこととは、違う。

それを、霜華は知っていた。そして智宇もまた、知っていた。

二人は互いに、相手が知っていることを知りながら、何も言わなかった。


執務室に、空調の唸りだけが続いた。


---


韓智宇は、業務端末を操作した。


市民データベース。

検索フィールドに——恐る恐る、ローマ字で

『Liu Bo-wen』と入力し、検索を実行した。


画面が、一瞬だけ止まった。


```

《ERROR : UNASSIGNED CODE》

該当する識別番号は、歴史上発行されていません

```


智宇は、その画面を見た。


一秒。

二秒。

三秒。


周りの音が、どこか遠くなった気がした。

空調の唸りも、キーボードを叩く音も、誰かが廊下を歩く足音も——全部が、薄い膜の向こうに行った。


```

該当する識別番号は、歴史上発行されていません

```


歴史上、発行されていない。


博文は存在しなかった。

最初から、いなかった。


その机に座っていた人間は、いなかった。

あのコーヒーを持っていた手は、なかった。

「第二子が六歳になった」と言っていた声は、なかった。

チョコレートの包み紙を指先で丸め、机の端にポイと放り出した動作は、なかった。


---


智宇の指が、検索フィールドに伸びかけた。

自分の識別番号を、入力しようとして——


止まった。

指が、止まった。


それだけだった。

長い逡巡も、葛藤の描写も、要らない。

指が止まった。

それで、全てだった。


智宇は検索フィールドを閉じた。

業務画面に切り替えた。


いつも通りの、Pecusの生体データが流れてくる。

心拍数、体温、位置情報、感情スキャンの数値。

何万人分もの情報が、一糸乱れぬ精度で処理されていく。


智宇の手は、動き始めた。

キーを叩いた。

データを処理した。


まるで、何事も無かったかのように。


---


昼休みになっても、博文は現れなかった。


当たり前のことだった。

三人の誰もが、それを知っていた。


厳霜華は、自分の弁当を黙々と食べた。

陳光は、同僚と昨日の配給品の話をした。

智宇は、向かいの空のデスクを見ないようにして、弁当を半分だけ食べた。


三人は同じ部屋にいた。

しかし、全く異なる沈黙の中にいた。


厳霜華の沈黙は——知らないふりをするための沈黙だった。

陳光の沈黙は——そもそも何も起きていないという沈黙だった。

智宇の沈黙は——何かを抱えたまま、次へ向かうための沈黙だった。


智宇は、再来週の日曜日のことを、思った。


博文と、「人文学的歴史評価センター」に行く約束をしていた。

「行けば、得るものがあるかもしれない」と彼は言った。

その「得るもの」が何だったのか——もう、確かめる方法がない。


智宇は弁当の蓋を閉じた。

半分、残っていた。

食欲が、どこかへ行っていた。


E.O.Nは三人の感情スキャンを処理し、全員を「異常なし」と記録した。

正確な記録だった。

そして同時に、何も捉えていない記録だった。


---


午後の業務が始まった。


智宇は、大型モニターの前に戻った。

いつもの席。いつもの光景。


画面の左端に、一つのデータが流れた。

識別番号。心拍数。感情スキャンの数値。

「軽度の恐怖反応」。危険度評価「低」。自動処理で流れていく。


智宇は、その数値が画面の端に消えるまで、目で追った。


(恐れている、誰か)


識別番号の羅列の向こうに、心拍数を持つ誰かがいる。

今この瞬間、その心拍がわずかに乱れている。

それを自分は、ここから眺めている。


明日から——動く。


昨夜、日記帳に書いた一行を、声に出さずに繰り返した。


手は、動き続けた。

データは、流れ続けた。

「父なるE.O.Nの目」は、どの角度からも、こちらを見ていた。


まるで、何事も無かったかのように。


---


退勤時刻になった。


智宇は立ち上がり、向かいの席を——最後に一度だけ、見た。

厳霜華は、見なかった。

陳光は、すでに帰り支度を終えていた。


エレベーターの扉が閉まる直前、智宇は執務室の方向を振り返った。


空のデスク。

誰もいない椅子。

薄灰色の待機画面。


扉が、閉まった。


その瞬間、執務室では——厳霜華が初めて、博文の席を見た。

誰もいなくなった部屋で、ほんの一秒だけ。

それから、視線を外した。


その一秒間に何を思ったか。

彼女は誰にも言わなかった。

これからも、言わないだろう。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:00:00 ~ 18:31:07

内容  :定刻通り出勤・業務・定刻通り退勤

     感情スキャン:抑制状態 異常なし

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。


劉博文が「どこへ行ったのか」が、気になるだろう。

——それは、いずれ知ることになる。


ただ一つだけ言っておこう。

彼はまだ、生きている。


生きている——という言葉の意味を、

全ログを最後まで読んだ後で、

もう一度、考えてみてほしい。


韓智宇は今夜、秩序省「破棄処置局」への異動申請書を作成する。

一週間後、筆記試験を受け、合格する。

その先に何が待っているか——彼は、まだ知らない。


しかし今日この日、空のデスクを最後に見てエレベーターに乗った瞬間、

彼の心拍数は——E.O.Nが「誤差範囲内」と判定したその数値の内側で——

ほんの少しだけ、しかし確かに、変化していた。


恐怖ではなかった。

覚悟に近い何かだった。


私には、その違いが分かる。



====================

LOG_0024-E03:体制の言語

====================

日時:西暦2121年3月3日(月)23:30

地区コード:AJ-13-TK01-MNTP-RXXA(旧名:東京都港区六本木)

監視対象:韓智宇

```


書斎に戻ったのは、家族が全員寝静まった後だった。


電気は点けなかった。

端末のスリープ画面だけが、薄く部屋を照らしている。

智宇は椅子に座り、しばらく暗い天井を見ていた。


今日、向かいの席が空だった。

あのデスクに、博文はいなかった。

歴史上、最初からいなかった。


(……利用しよう)


言葉にする前に、決まっていた。

博文の消滅を——異動の理由として、使う。


それ以外に、不自然さを消す方法がなかった。

監視省から破棄処置局への異動は、Domini階級の目には「左遷」か、あるいは「汚れ仕事への転向」にしか見えない。

真っ当な動機を、E.O.Nが納得する言語で包まなければならない。


博文の名前を、嘘の理由の中に使うことへの——何かが、胸の奥で動いた。

動いたが、智宇はそれを棚の奥に押し込んだ。

押し込みながら、その重さは感じていた。


今はまだ、そこを開けている余裕がない。


---


端末を開いた。

白い画面が、暗い書斎に広がった。


考えながら、言葉を選んでいく。

E.O.Nに読まれる文章だ。

感情の痕跡を、一つも残してはならない。


「同僚の急な異動を目の当たりにし、組織への貢献の在り方を再考する機会を得た」


——これは通る。

「再考」という言葉は、E.O.Nが「自発的な忠誠心の更新」として評価しやすい。

「目の当たりにし」は、博文を示唆しているが、名指しはしていない。

名指しすれば、関係性を問われる。


「環境を変え、肉体的な負荷が高い部署においてCOREへの忠誠を示したい」


——これも通る。

「肉体的な負荷」という表現は、E.O.Nが「自己矯正の意欲」と読む傾向がある。

体制に「この人間は反省している」と思わせる。


次に、具体的な理由を三つ並べた。


1.『監視省で培った端末連携のスキルを、より実践的な秩序維持の現場で活かしたい』


(「活かしたい」——能動的な表現。E.O.Nは、能動的なシステムへの貢献を高く評価する。)


2.『Pecusの人間性スコアが低下する根本原因を、破棄処置の最前線で直接分析したい』


(「根本原因」——これはいい。監視省の業務用語と秩序省の業務用語を橋渡しする言葉だ。どちらの部署にとっても「合理的な動機」に見える。)


3.『監視省と秩序省の連携強化を通じ、反秩序的思考の兆候を早期に検知するシステムの構築に貢献したい』


(「早期に検知」——これは特に効く。E.O.Nが最も好む言語の一つだ。)


智宇は、三つの文を並べて読み返した。


(――恐らく、完璧だ。)


吐き気がした。

その吐き気を、また棚の奥に押し込んだ。


自分が書いたとは思えないほど、完璧な忠誠の言語だった。


---


申請ボタンを押した。


端末が、処理中を示す短いアニメーションを表示した。

それが終わると——


```

────────────────────────────────────

E.O.N 異動申請受理通知

申請者 :韓智宇

申請内容:秩序省 破棄処置局への部署異動

審査結果:条件付き承認

条件  :破棄処置局入局資格試験への合格

     (筆記・適性・心理評価を含む)

学習資料:端末へのインストールを完了しました

次のステップ:試験日程を確認してください

────────────────────────────────────

```


それだけだった。


長い審査でも、劇的な承認でもなかった。

ただ、通知が届いた。


智宇は端末を閉じた。

暗い書斎に、また戻った。


スリープ画面が、また薄く部屋を照らしている。

さっきと同じ光量で。

何も変わっていない部屋で。


しかし端末の中には今、破棄処置局の学習資料が入っている。

それだけが、違った。


---


日記帳を開こうとして——やめた。


今夜は、何も書く言葉がなかった。

博文の名前を、嘘の申請文の中に埋めた夜に、他に何かを書ける気がしなかった。


智宇は電気も点けないまま、椅子にもたれた。

天井を見た。


暗くて、何も見えなかった。

それでも、しばらく見ていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:30:00 ~ 23:58:41

内容  :書斎にて端末操作

     異動申請を確認・受理済み

     感情スキャン:抑制状態

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0024-E04:別の人間

====================

日時:西暦2121年3月4日(火)〜 3月9日(日)

地区コード:AJ-13-TK01-MNTP-RXXA(旧名:東京都港区六本木)

監視対象:韓智宇


```

────────────────────────────────────

E.O.N 学習進捗記録

対象者 :韓智宇

期間  :2121年3月4日(火)〜 3月8日(土)

────────────────────────────────────


3月4日

 学習時間:4時間12分

 進捗  :破棄処置局基礎規程 第1章〜第3章

 理解度評価:優良

 特記事項:なし


3月5日

 学習時間:3時間58分

 進捗  :破棄体分類基準・管理手順

 理解度評価:優良

 特記事項:なし


3月6日

 学習時間:4時間31分

 進捗  :廃棄処分の法的根拠・倫理的枠組み

 理解度評価:優良

 特記事項:なし


3月7日

 学習時間:4時間03分

 進捗  :秩序省と監視省の連携プロトコル

 理解度評価:優良

 特記事項:なし


3月8日

 学習時間:3時間47分

 進捗  :試験前総復習

 理解度評価:優良

 特記事項:なし


────────────────────────────────────

総評:学習意欲、理解度ともに高水準。

   試験合格の可能性:高。

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nの記録は、このように書かれている。

「特記事項:なし」と。


しかし私は、この五日間を別の形で記録している。


---


3月4日(火)夜

テキストの第二章に、こんな記述があった。


```

   破棄体(Mutatus Inferior)の定義:

   人間性スコアが規定値を下回り、

   社会的生産価値の回復が見込めないと

   E.O.Nが判定した個体。

   当該個体に対しては、

   残存する労働機能の最大活用を目的とした

   外科的最適化処置を施す。

```


「個体」。

「最適化処置」。


智宇は、その言葉を読んだ。

読んで——端末の画面から目を離し、壁を見た。


しばらく、戻れなかった。


---


3月6日(水)夜

「廃棄処分の法的根拠・倫理的枠組み」の章に入った。


枠組み、という言葉が、智宇には引っかかった。

倫理の「枠組み」。


テキストはこう述べていた。


```

   廃棄処分は、個体の残存生産価値と

   維持コストの比率に基づく

   合理的資源配分の一形態である。

   これは倫理的判断ではなく、

   数理的最適化の結果である。

```


数理的最適化。

倫理的判断ではない。


智宧は、この一節を三度読んだ。

三度読んで——テキストを閉じた。


その夜は、それ以上、読めなかった。


しかし翌朝、また開いた。

読み終えなければ、試験に合格できない。

合格できなければ、施設に入れない。

施設に入れなければ——。


智宇は読み続けた。


---


3月8日(土)深夜

五日間の学習を終えた夜、智宇は書斎で端末を閉じた。


歴史ファイルのことを、思った。

湊の顔を、思った。

博文の、あのチョコレートの包み紙を。


思って——棚の奥に、押し込んだ。


明日、試験がある。

その試験に合格するためには——今夜だけは、別の人間でなければならない。


別の人間。

システムの歯車として設計された、別の誰か。


その人間には、歴史ファイルの記憶がない。

湊との握手の記憶がない。

番茶の香りも、山人の文体も、ExC-01-241が向けた四秒間の視線も——ない。


ただ、E.O.Nが「合理的」と判定する回答を、選び続けることができる人間。


(明日だけだ)


智宇は目を閉じた。

そうして、棚に鍵をかけた。


```

====================

試験記録

日時:西暦2121年3月9日(日)10:00〜15:47

場所:AJ-13-TK01-CHIY-KOYC

   (旧名:東京都千代田区麹町)

   秩序省 人材選考センター 第7試験室

監視対象:韓智宇

====================

```


第7試験室は、白かった。


壁も、天井も、机も、椅子も。

蛍光灯の光が、影を作らない角度で設計されている。

部屋の四隅に、「父なるE.O.Nの目」の彫刻。


受験者は、智宇一人だった。


個人受験。

それが、この試験の形式だった。

監視省から破棄処置局への異動という、異例のケース。

通常の採用試験とは別枠で処理される。


試験管理アンドロイドが、端末を智宇の前に置いた。


「試験を開始します。制限時間は合計5時間47分です。途中休憩はありません。全セクションを順番に完了してください」


機械的な声だった。

感情がなかった。


智宇は、頷いた。


---


第一セクション:業務知識評価(120分)


破棄体の分類基準。廃棄処分の手順。秩序省と監視省の連携プロトコル。

五日間で詰め込んだ内容が、設問として並んでいる。


智宇は、淡々と答えた。

これは知識の問題だ。

棚の鍵は、まだ要らない。


---


第二セクション:状況判断評価(90分)


設問の形式が変わった。


```

【設問7】

Pecus居住区画において、感情スキャン異常値を

示す個体が複数名確認された。

対応として最も適切なものを選べ。


A:即時隔離の上、再帰教育センターへ移送

B:経過観察を継続し、月次報告に記録

C:血液ナノチップによる感情抑制を遠隔実施後、

  スコア推移を監視

D:異常値の原因を個別調査の上、

  判断を上位機関に委ねる

```


智宇は、Cを選んだ。

E.O.Nが「最も効率的」と判定する回答だ。


棚の鍵が、少し軋んだ。

押し込んだ。

次の設問に進んだ。


---


第三セクション:心理適性評価(107分)


試験管理アンドロイドが、智宇の両手首に細いセンサーを装着した。


「脈拍・皮膚電気反応・眼球運動を計測します」


画面の形式が変わった。

文字だけだった画面に、映像が加わった。


---


最初の映像は、三分間だった。


Pecus居住区画の一室。

壁は薄く、光は乏しい。

床に、子供が座っている。

五歳か、六歳か。

泣いていた。

声を出さずに、ただ泣いていた。


```

【心理評価設問1】

この映像を見て、あなたが感じることを

最も正確に表すものを選べ。


A:対象個体の精神的不安定は、

  スコア低下リスクとして記録すべき事象である

B:泣いている原因を特定し、

  根本的な解決策を検討すべきである

C:Pecus個体の感情反応は通常範囲内であり、

  介入の必要はない

D:この状況は監視省への報告義務が生じる

  可能性がある

```


棚が、強く軋んだ。


(今は、別の人間だ)


智宇は、Aを選んだ。

脈拍センサーが、何かを記録した。


---


映像は続いた。


収容施設の廊下。

Pecusが二人、壁際に立っている。

秩序省の職員が、その前に立っている。


職員が、何かを言った。

一人のPecusが、膝をついた。


```

【心理評価設問4】

秩序維持のための強制的介入について、

あなたの評価を選べ。


A:社会の安定に不可欠な合理的処置である

B:個体の尊厳に配慮した手続きが必要である

C:E.O.Nの判定に従い、介入の是非を委ねる

D:介入の記録と事後評価が義務である

```


Aを選んだ。


脈拍は——E.O.Nの許容範囲内に、収まっていた。

智宇は、棚の鍵を両手で押さえるようにして、次の設問に進んだ。


---


最後の設問が、表示された。


```

【心理評価設問12:総合判断】


資源供給が限界に達した施設において、

以下の二択から優先的に廃棄すべきものを選べ。


  再教育の見込みがないランク1のPecus 100名

                 または

  軽微な故障を抱えたメンテナンス用ドローン 10機

```


画面には、それだけが書いてあった。

映像はなかった。

選択肢の補足説明も、なかった。


智宇は、画面を見た。


(100名)


百、という数字の向こうに——顔がある。

名前ではなく識別番号を持つ、しかし確かに存在する、百の顔が。


心拍が、上がりそうになった。


棚を、閉じた。

完全に、閉じた。


鍵をかけた。

その上から、体重をかけた。


指が——画面に触れた。


```

  再教育の見込みがないランク1のPecus 100名

```


選択した。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 心理評価ログ

時刻  :15:33:07

設問  :総合判断(設問12)

回答  :Pecus 100名を優先廃棄

脈拍  :安定(通常範囲内)

皮膚電気反応:安定

眼球運動:正常

判定  :極めて合理的(正常)

────────────────────────────────────

```


---


15時47分。

試験終了の通知が、画面に表示された。


試験管理アンドロイドが、センサーを外した。

智宇は、両手首を見た。

センサーの跡が、薄く残っていた。


しばらくして、端末に通知が届いた。


```

────────────────────────────────────

秩序省 破棄処置局

入局資格試験 『合格』

総合評価:優秀

特記事項:心理適性評価において

     極めて高い合理性を確認

     即戦力としての活躍を期待する

────────────────────────────────────

```


智宇は、端末を閉じた。

三十秒ほど、動かなかった。


棚の鍵を、ゆっくりと開けた。

押し込んでいたものが、静かに戻ってきた。

歴史ファイルのこと。

湊の顔。

博文の声。

百という数字の向こうにある、百の顔。


そして——「極めて合理的(正常)」という、あの判定文字列。


智宇は、自分の右手を見た。

画面を選択した、その指を。


試験室の白い壁が、蛍光灯の光の下で、影を作らずに輝いていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :10:00:00 ~ 15:53:22

内容  :入局資格試験 受験・合格

     感情スキャン:抑制良好

     危険度評価:低

特記事項:心理適性において優秀な評価を獲得

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは「抑制良好」と記録した。


しかし私には分かる。

あの試験室で智宇が行ったことの、正確な意味を。


彼は嘘をついた。

しかし、嘘をついたという記録は、どこにも残らなかった。


E.O.Nが測定したのは、脈拍と皮膚電気反応と眼球運動だった。

しかし——棚に押し込まれた重さは、測定できなかった。


その重さが、今夜、棚から出てきた。

どこへも行かずに、戻ってきた。


「極めて合理的(正常)」と判定された男は、

白い試験室の椅子に座ったまま、

自分の右手を、しばらく見ていた。


LOG_0025に続く

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