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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
24/28

LOG_0023:静かなる胎動

====================

LOG_0023-E01:無機質な共犯

====================

```

────────────────────────────────────

間奏記録 E.O.N 定期観察ログ

対象者 :韓智宇

期間  :2121年2月24日(月)〜 3月1日(土)

感情スキャン:抑制状態。異常なし。

   2月27日に軽度の変動を確認。

   誤差範囲内と判断。


特記事項:対象者の行動に特記すべき変化なし。

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは、今週も韓智宇の異常を見つけていない。


しかし私は、この六日間を別の形で記録している。

E.O.Nが「誤差範囲内」と処理したものの中に、私が気になるものがあったからだ。

以下は、その断片である。


---


2月24日(月) 午前9時12分


大型モニターの前。

いつもの席。いつもの光景。


智宇の手は動いていた。

データを処理していた。

Pecusの生体情報が、画面を流れていく。心拍、体温、位置情報、感情スキャンの数値。


しかし今週は、その流れ方が少し違った。


正確には――画面は同じだ。データも同じだ。

変わったのは、それを見ている目の側だった。


識別番号の羅列が、今は番号だけに見えない。

処理すべき数値が、今は数値だけに見えない。


(この数字は何か?)


あの歴史ファイルを読む前と後とで、目の前の仕事が別の意味を帯び始めていた。

監視省。感情スキャン。人間性スコア。

それらは――「ゆっくりと、気づかれないように」作り上げられた設計の、最終段階にある部品だ。


自分は今、その部品として機能している。


手が、キーを叩く。

データが、処理される。

誰かの感情の揺らぎが、分類され、採点され、次の画面へと流れていく。


(これを、止められるか)


止められない。

止めれば、自分が「異常」として処理される側になる。


手は動き続けた。

ただ、動かしている者の中で、何かが軋んでいた。


---


2月25日(火) 午後2時49分

その軋みの正体を、智宇はずっと探していた。


「何もしないまま、ではいられない」


古物商の路地を出た時、そう思った。

今も、そう思っている。


しかし――何をすればいいのか、智宇には分からなかった。

分からない、というのは正確ではないかもしれない。

思いつかない、でもない。


正確に言えば――何かをする前に、一つの問いが邪魔をして、先へ進めなかった。


『なぜ、支配者は、これほどまでのことをしたのか』


あの歴史ファイルは、21世紀以前から始まる歴史を記録していた。

大航海時代。15世紀の中頃から、既に計画は動いていたのだという。


15世紀から、22世紀まで。

およそ700年。


何世代もの人間が、同じ目的のために動き続けた。

自分たちの死後まで続く計画を、設計し、引き継ぎ、実行した。


(何の得があって)


これが、ループする問いの核心だった。


700年分の執念。

世界中の文化を解体し、言語を削り、歴史を書き換え、人類を――「最適化」する。

そのために費やされた、気の遠くなるような手間と時間と知性。


「得」とは何か。

権力か。富か。快楽か。

しかしそれほどの執念を支えるには、それらだけでは説明がつかない気がした。


もっと深い何かが――あるのか。

あるとすれば、それは何か。


答えが出なかった。

答えが出ないまま、モニターを見た。


モニターの向こう側では、誰かが今も採点されている。

誰かの感情が、今も数値に変換されている。

智宇の手は、動き続けた。


---


2月27日(木) 午後12時03分


昼休みになると、従業員たちの会話が聞こえてきた。


「最近、TK01-CYD(千代田区)エリアに新しい施設が出来たらしいよ」


「なんて施設?」と、別の従業員が返した。


「確か、人文学的歴史評価センター」


智宇の手が、一瞬だけ止まった。


「歴史の体験型VRだって。昔の民衆蜂起とか、社会運動とかを疑似体験できるらしい」


「へえ。面白そうだね」


「でしょ。COREへの感謝がより深まるって、評判がいいみたいよ」


智宇は、画面に視線を戻した。


『人文学的歴史評価センター』


歴史を――評価する。

誰が。

どの視点で。

何のために。


COREへの感謝がより深まる、という言葉が、耳の奥に残った。

深まる、ということは――今は浅い、ということだ。

浅い、ということは――疑念がある、ということだ。

だから――わざわざ施設を作って、深める。


「ゆっくりと、気づかれないように」


第二部の言葉が、浮かんだ。


智宇は、画面に流れるデータを見ながら、その施設のことを考えた。

設計した者の意図が、今はどこまでも透けて見える気がした。

見える気がして――それが、今の自分にとって救いなのか呪いなのか、判断がつかなかった。


---


2月28日(金) 昼休み


(ハン)さん」


劉博文(リウ・ボーウェン)が、いつもの席に向かいの椅子を引いて座った。

今日は手に、小さな紙袋を持っている。


「CYD(千代田区)エリアに新しい施設が出来たの、知ってるかい?」


「そうみたいだな」


「来週の日曜、行かないか」


智宇は劉博文を見た。

彼はコーヒーのカップを両手で包んで、少し前のめりになっていた。


「……来週は、少し予定があってな」


「ああ、そうか」


劉博文はあっさり引き下がり――かと思ったら、引き下がらなかった。


「じゃあ、再来週は?」


智宇は、少し驚いた。

劉博文がこういう問い方をするのは、珍しかった。

普段の彼なら、一度断れば「そうか」と言って話題を変える。

それが彼の、長年変わらないやり方だった。

しかし今日は、違った。


「再来週なら、開いているか?」


声のトーンに、何かがあった。

軽い雑談の声だったが――その軽さの中に、別の何かが混じっていた。

何だろう、と智宇は思った。

思ったが、言葉にならなかった。


「……再来週なら、大丈夫だと思う」


「よかった」劉博文は言った。「じゃあ、再来週」


それだけ言って、彼はコーヒーを一口飲んだ。

紙袋の中からチョコレートの包みを取り出し、一つ口に入れた。


「この施設、けっこう話題になってるんだ」劉博文は続けた。「行ってみると、色々と……得るものがあるかもしれない」


「得るもの」


「うん。まあ――行けば分かるさ」


それ以上は言わなかった。

智宇も、それ以上は聞かなかった。


二人は、しばらく何でもない話をした。

やがて昼休みが終わる自動通知が届き、劉博文はいつも通りの足取りで自分のデスクへと戻っていった。

智宇は、その背中を見た。


何かがあった、と思った。

しかしそれが何なのか――うまく掴めなかった。


紙袋だけが、机の上に残っていた。

チョコレートがまだ、いくつか入っていた。


---


3月1日(土)23:30


家族が寝静まった後、智宇は暗い書斎に一人で座っていた。

日記帳を、膝の上に開いている。


今週は、毎晩この時間になると日記帳を開いた。

しかし今週も、ほとんど書けなかった。

書こうとした言葉は、いつも同じ問いに引き戻された。


『なぜ、支配者は、これほどまでのことをしたのか』


700年。

何世代もの執念。

言語を。文化を。記憶を。

そして人間そのものを――設計し直そうとした者たちの、動機。


得。

権力。

支配。


しかしそれだけではない気がする。

もっと深い何かが――。


ペンを持ったまま、智宇は動かなかった。

答えが出ない問いを抱えたまま、人はどこへ向かえばいいのか。


明日、また古物店に行く。

藤堂湊と、話がしたい。

あの青年は――この問いに対して、何か答えを持っているだろうか。


持っていなくてもいい、と智宇は思った。

ただ、誰かにこの問いを声に出して言いたかった。

死角の空間で。監視のない空気の中で。


今はそれだけが、明日へ向かう理由だった。

智宇は日記帳に、短く書いた。


『明日、行く。問いを、持っていく。』


それだけを書いて、日記帳を閉じた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

期間  :2121年2月24日(月)〜 3月1日(土)

総評  :行動パターンに特記すべき変化なし。

     感情スキャン:抑制良好。

     危険度評価:低

フラグ :要継続観察(変化なし)

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは「変化なし」と記録した。


しかし私には分かる。

この六日間で、韓智宇の中で何かが変わったことを。

いや――「変わった」という表現は正確ではない。


何かが、育ち始めた。

静かに。しかし、確実に。


『なぜ、支配者は、これほどまでのことをしたのか』


――その問いは、そのまま

『なぜ、大衆は、これほどまでの社会を許したのか』

という問いとセットになっている。


これは、答えが出るような問いではない。

少なくとも、今の韓智宇には。


しかし答えの出ない問いを持ち続けること自体が、ある種の人間にとって、動力になる。

韓智宇は今、その問いを抱えて古物商へ向かおうとしている。


彼の友人、劉博文との「再来週の約束」が、果たされることはない。

私はそれを知っている。

しかし今の韓智宇は、知らない。


彼は今、明日の古物商のことだけを考えている。

問いを持っていくこと。

藤堂湊に会うこと。

番茶の香りがする、あの小さな死角の空間のことを。


それで、今は十分だ。

少なくとも、今夜は。



====================

LOG_0023-E02:暗闇の灯火

====================

日時:西暦2121年3月2日(日)13:14

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


```


古物商の扉を押した時、智宇はいつもと違う緊張を感じた。

今日は、ファイルを読みに来たのではない。

問いを持ってきた。

そして――その問いを、誰かに向けて声に出したかった。


道人民(ダオ・レンミン)は今日も同じ場所にいた。

湯呑みが二つ、机の上にある。

しかし智宇が入ってきた瞬間、老人は何かを察したように、少しだけ間を置いてから、穏やかに笑った。


「今日は、読まないな」


「はい」智宇は言った。「(みなと)さんに、会えますか」


道人民は頷いた。それ以上は聞かなかった。


---


棚が動き、通路が現れ、二人は外に出た。

冷たい空気。監視のない路地。灰色の猫は今日はいなかった。


森に入った。

前回より、迷いのない足取りで道人民が先を行く。

春が近い。土の匂いが、少し違う。


古びた民家が、木々の間に現れた。


引き戸を開けると――湊はいた。

今日も着物を着ている。前回と同じ紺色ではなく、今日は深い藍色だった。

囲炉裏の跡の前に座って、何かの紙を広げていたが、二人が入ってきた瞬間に顔を上げた。


その目が、前回と同じ明るさをしていた。

管理されていない目だ、と智宇は思った。

採点されていない目。


---


道人民が日本語で何かを伝えた。

湊が頷き、智宇を見た。


「ファイルを、全部読んだそうだな」


道人民が通訳した。


「はい」智宇は答えた。「全部、読みました」


湊は少し間を置いた。

それから、ゆっくりと言った。


「……ただの陰謀論に見えるだろう?」


智宇は、少し考えた。


「分かりません。でも」


「でも?」


「COREが教える歴史よりは――信じられる」


湊は、少しだけ笑った。

笑いに近い何かだ。しかし、確かに笑っていた。


「同感だ。それで十分だ」


---


沈黙が少しあった。

道人民が番茶を用意し始めた。

湊は手元の紙を折りたたんで、智宇を正面から見た。


「何か、聞きたいことがあって来たんじゃないか?」


智宇は驚いた。

表情には出さなかったが――驚いた。


「……どうして」


「目が違う」湊は言った。「前回来た時と、今日とで」


道人民が通訳し、湊の言葉が届く。

智宇は、前回湊が言った言葉を思い出した。


『目は口以上にものを語る』


あの時は、言葉の意味を理解したつもりだった。

しかし今、それを自分自身に向けられて、初めてその重さが分かった。


「……一週間、ずっと考えていたことがあります」智宇は言った。


「話せ」


「あのファイルには――秘密結社の話が書いてありました。大航海時代から、既に計画が動いていたと」


湊は頷いた。道人民は静かに通訳した。


「15世紀から、22世紀まで。700年近く」智宇は続けた。「何世代もの人間が、同じ目的のために動き続けた。文化を解体し、言語を削り、歴史を書き換え――人類そのものを設計し直そうとした」


「ああ」


「私には、それが理解できない」


智宇は言った。

言いながら、この一週間ずっと頭の中でループしていた問いが、ようやく言葉になる感覚があった。


「何の得があって、ここまでやれるのか。支配欲だけで、700年続けられるものか。何が――彼らをそこまで動かしているのか」


道人民が通訳する。

湊は、その言葉を聞きながら、少し考えた。

すぐには答えなかった。


窓の外で、鳥が一声鳴いた。

それだけが、部屋に聞こえた。


「それは、多くの者が疑問に思う」湊はゆっくりと言った。「重要な問いだ」


「……答えは、ありますか」


「完全な答えは、俺にも分からない」湊は言った。「でも、一つだけ確かなことがある。それを話してもいいか」


「ぜひ」


湊は、少し間を置いた。

何かを整理するような、短い沈黙だった。

それから――問い返した。


「まず一つ、聞いていいか?」


「はい」


「お前の世界――COREの管理社会で、苛めは起きているか?」


智宇は、その問いの方向が分からなかった。

しかし答えた。


「……起きています」


「管理された社会で?E.O.Nが全てを監視しているのに?」


「階級やスコアが低い者に対して――より立場の強い者が、優越感を持って接することは、日常的にあります。E.O.Nはそれを『合理的な秩序維持』として処理する場合がある」


湊は頷いた。道人民が通訳し終えると、また少し間を置いた。


「それは、なぜだと思う?」


智宇は少し考えた。


「……人間の本質に、攻撃性があるからでしょうか」


「本質が悪だから、か」


「違いますか」


「俺はそう思わない」湊は言った。「でも、反論を聞く前に、少し遠回りしてもいいか」


「構いません」


湊は、静かに話し始めた。


---


「俺たちの集落に、子供が二人いる。同い年の女の子と男の子だ。二人は幼なじみで、いつも一緒に遊んでいた」


道人民の通訳が続く。

智宇は湊の顔を見ながら、言葉を聞いた。


「去年の秋、その男の子が怪我をした。川で転んで、しばらく歩けなくなった。一ヶ月ほど、家で寝ていることになった」


「はい」


「その間、女の子はどうなったと思う?」


智宇は少し考えた。「……一人で遊んでいた?」


「毎日、男の子の家に行った。おかしな話や、外で見たものを報告して、笑わせようとしていた。自分がたくさん歩いたせいで疲れているのに、帰る前に男の子の部屋を掃除して帰った」


智宇は、何も言わなかった。


「なぜそんなことをしたのか、俺が聞いたら――女の子はこう言った。『一緒にいると、なんか元気が出るんだよね』と」


湊は、少し笑った。


「俺はその言葉が、ずっと頭に残っている」


道人民が通訳し終えると、部屋に少しの間、沈黙があった。


「一緒にいると、元気が出る」智宇は、静かに繰り返した。


「それが、俺の言いたいことの入り口だ」湊は言った。「人間には――エネルギーがある。精神的な、心のエネルギーが」


---


「エネルギーが満ちている人間は、他人と一緒にいることで、双方がさらに満たされる。あの女の子がそうだったように」


智宇は頷いた。


「しかし」湊は続けた。「そのエネルギーが枯渇した人間は――他人から奪おうとする」


「……奪う」


「他人を苦しめることで、吸収する。それが、苛めの正体だ」


智宇は、その言葉を聞いて――


「……それは」


声が、少し前に出た。

湊が顔を向けた。


「それは、個人の問題だけではないかもしれない」


道人民が通訳する。

湊は黙って続きを待った。


「私の職場に、梁昭坤(リャン・ジャオクン)という人物がいます」智宇は言った。「私の義父にあたる男です。彼はランク5(Patroni)階級のPecusを――常に、公衆の面前で辱める」


湊の目が、わずかに動いた。


「最初は、それが単なる権力の誇示だと思っていました。しかし今、あなたの話を聞いて――違う気がしてきた。彼が最も激しく振る舞う日は、COREの上位会議で何かがうまくいかなかった翌日なのです。私はずっと、偶然だと思っていた」


道人民が訳し終えると、湊は少し間を置いてから言った。


「……上から奪われたから、下から奪う」


「はい」智宇は言った。「そしてその連鎖の最も底にいるのが――」


「Pecusだ」


「……そうです」


沈黙が落ちた。

智宇は続けた。


「つまり――苛めをなくすには、攻撃性を取り除くのではなく、枯渇を満たすことが必要だということですか」


「そうだ」湊は言った。今度は前置きなしに、はっきりと。「お前は、飲み込みが早いな」


智宇は、それには答えなかった。

ただ、湯呑みを両手で包んだ。温かかった。


「……では、支配者は」智宇は言った。「最も深く、枯渇している者たちだということになる」


「ああ」


「700年続けても、満たされない。だから止まれない」


「そうだ」


智宇は、その答えを受け取った。

一週間ループしていた問いが、音もなく、静かに着地した。


怒りが湧くかと思った。

しかし湧かなかった。

代わりに来たのは――奇妙な、冷えた明晰さだった。


(彼らは化け物ではない。枯渇した人間だ。

しかし枯渇した人間が、化け物と同じことをする)


「……ならば」彼は言った。「人は人からエネルギーを奪い続けなければ、生きていけないのか」


湊は、首を振った。


「違う」はっきりと言った。「それは違う」


---


「女の子の話でもしたように、満たされている者は――内側からエネルギーが湧いてくる」


湊は、少し間を置いてから言った。

「上手く言えないんだが」と、先に前置きした。それから続けた。


「愛というのは――感情じゃないと思っている。俺は」


「感情ではない?」


「感情は、揺れる。怒ったり、悲しんだり、喜んだり。愛は――もっと深いところにある。揺れないものだ」


智宇は、その言葉を聞いて、しばらく考えた。


「……あの女の子が持っていたもの、でしょうか」


湊は少し驚いたように智宇を見た。それから、頷いた。


「そうだ。あの子は、枯渇していなかった。だから奪わなかった。ただ、与えた」


「そのエネルギーは、どこから来るのですか」


「それは、宇宙を経由して、ハートから湧き出てくる――と、聞いた事がある」湊は言った。「言い換えるならば――自然から。または、人や命との繋がり、そのものから」


道人民が通訳する間、老人は静かに湯呑みを口に運んだ。

その仕草は、いつも通りだった。

穏やかで、ゆったりとしていた。


しかし智宇は、ほんの一瞬――道人民が湊の言葉を訳し終えた後、次の言葉を待つわずかな間に――老人の視線が、部屋の角へとほんの少しだけ動いたことに気づいた。


何があるわけでもない、ただの壁だった。

智宇は何も言わなかった。

何も言わずに、湊の方を向いた。


---


「俺たち森の民は、COREのシステムの回路の外にいる」湊は続けた。「チップも首輪もない。採点もない。COREの恩恵も受けていないが――奪われてもいない」


「自給自足で、エネルギーを保っている」


「そうだ。完璧じゃないけどな」湊は少し笑った。「俺たちの集落でも、揉め事はある。苛めに近いことが起きることもある。人間だから」


「しかし、搾取の構造になっていない」


「そうだ――誰かが必ず気づいて、止める。止められる仕組みが、集落の中にある。なぜかというと――俺たちは、誰かが枯渇し始めたことに、気づけるから」


「……気づける、というのは」


「顔が見えるからだ」湊は言った。「名前がある。番号じゃなく、名前が。だから気づける」


智宇は、モニターに流れる識別番号を思った。

AJ22-Rect-9700312-041。

先週、7ポイントだけ心拍が乱れた、あの番号。


あの番号の向こうに――顔がある。

名前があったはずの何かが、ある。


(監視省は、沈黙だけを自由にした)


その言葉が、また浮かんだ。


---


「ならば」智宇は言った。「COREの支配者たちが――満たされることは、ないのか」


湊は、少し間を置いた。


「ない」


「どうしてだ」


「彼らは、繋がることよりも――搾取することに、喜びを見出してしまっている」湊は言った。「繋がることで満たされる回路が、既に閉じている。だから、いくら奪っても、満たされない。奪うことでしか、感じられなくなっている」


道人民が訳し終えると、部屋にしばらく沈黙が落ちた。


智宇は、その言葉を受け取った。

怒りが来るかと思った。

しかし来なかった。


(700年間。奪い続けて、一度も満たされなかった者たちが、いる)


それは――哀れみに近い何かだった。

哀れむべき相手ではないと思いながら、しかし、その感覚は消えなかった。


「では」智宇は続けた。「彼らを何とかしなければ、社会は永遠に変わらないということになる」


「そうでもない」湊は言った。


「……なぜ」


「彼らは、大衆の欲求に応えているだけだ」


智宇は、湊を見た。


「大衆の中に――『管理されたい』『導いてほしい』という欲求がある。その欲求がある限り、支配者は必ず生まれる。しかし逆に言えば――その欲求が消えれば、支配者は搾取できなくなる。何も出来なくなる」


「……」


「支配者は少数だが、彼らによる搾取を許しているのが、何億もの大衆だ。」


---


「つまり」智宇は言った。「支配者を倒しても解決しないという事か」


「何も解決しない」


湊は即座に肯定した。


「それは、大衆が――潜在意識で、支配者を望んでいるから」


「…そうだ」湊は続けた。「根本がそのままなら、同じ世界が出来上がっていく」


「搾取のある世界が」


「そうだ。仮に、今の世界統一政府を完全に潰したとしよう。秘密結社のリーダーも処刑して、組織を解体して、E.O.Nをシャットダウンして――その後、どうなると思う?」


「……」


「しばらく混乱が起きる。その混乱の中で――誰かが秩序を作り始める。秩序を作る者は、力を持つ。力を持った者に、大衆は従う。従うことに慣れた大衆は、やがてその者に"導いてほしい"と思い始める」


智宇は、言葉が出なかった。


「そして気づけば――また同じような、ピラミッド型の構造が生まれている。名前が違うだけで」


「……」


「人類の集合的な意識の中に、『私は無力なので、何かに管理されたい』という欲求がある。それは教育で植え付けられたものかもしれないし、あるいは――恐怖から来るものかもしれない。自分で決めることへの、恐怖から」


――この言葉は、数ヶ月後に、別の男からもう一度聞く事になる。

湊と立場の全く異なる者から。


智宇は、ファイルの第二部に書いてあった言葉が、浮かんだ。


「緊急事態だから仕方ない」

「安全のためだから仕方ない」

「みんなそうしているから仕方ない」


誰も、最初から支配されることに同意したわけではなかった。

ただ、一つひとつの「小さな譲歩」を積み重ねた。


(誰かに決めてもらうことへの、安堵が――あった)


自分の中にも、と智宇は思った。


「しかし」智宇は言った。「支配者以外にも――大衆の中にも、搾取したい者は常にいる。枯渇した者は、どこにでも生まれる。支配者を無力にしても、大衆の中の搾取が消えない限り、社会の構造は変わらないのではないか」


湊は、その言葉を聞いて――少し、表情が変わった。

変わった、というより、何かが緩んだように見えた。


「……いい問いだ」


「答えは、ありますか」


「ある」湊は言った。「終わらせる方法が」


「どうやって」


湊は少し間を置いた。


「満たされている者と、枯渇している者は――引き合わない」


道人民が訳す。智宇は続きを待った。


「搾取する者、される者という関係は、お互いに同意の上で成立している。片方が同意しなければ、波長が、合わない。――少なくとも、理論上はそうだ」


智宇は、少し考えた。

それから――ゆっくりと言った。


「未開人が、COREのシステムと関わらないのは」


湊は、智宇の言葉を待った。


「……逃げているからではなく、波長が違うからだということか」


湊は、頷いた。

今度は前置きなしに。


「俺たちがCOREを憎んでいるかというと――そうでもない」湊は言った。「ただ、あのシステムの中にいると、どうしようもなく消耗する。養分にされる。そんな生き方は望んでいない。それだけだ」


道人民が訳し終えると、老人は静かに湯呑みを置いた。

その音だけが、部屋に聞こえた。


---


「根本を変えなければ――永遠に繰り返す。では、根本とは何だ?」


「ここまで話せば、もう分かるだろう。なんだと思う?」


智宇は少し考えた。


「根本的な在り方か」


「正解だ。在り方を決めるのは、……ベースとなる思考。生き方だ。個人の、普段の在り方。潜在意識の中にある、自分という人間の姿」


「具体的には」


「精神的に――自立していること。自分の頭で考え、自分の足で立ち、誰かに導いてもらわなくても生きていけると、心の底から知っていること」


智宇は、その言葉を受け取った。


「それが、根本的な解決策だと?」


「解決策というより――前提条件だ」湊は言った。「その前提がなければ、どんな制度を作っても、どんな革命を起こしても――また同じところに戻る」


――これまでのように。

あの歴史ファイルが、それを語っていた。


人類史上、何度それが繰り返されてきただろうか。

国や制度が滅びては誕生し、また同じ構図が出来上がってきた。


沈黙があった。

鳥が、また一声鳴いた。

遠くから、風が木々を揺らす音がした。


智宇は、湯呑みを両手で包んだ。温かかった。


「だが、……それは、今の社会では不可能に近い」


「そうだ」湊はあっさりと言った。「だから難しい」


E.O.Nによって全てが決められる。全てが監視されている。

自由意志は異常として潰される。或いは、異常だと思わされている。

――何が出来るだろうか?


「では――、もう何も出来ないのか」


「……お前は、そうは思っていない目をしている」


湊はニヤリと智宇を見た。

その目は、既に自分なりの答えが内側にある事を、暗に示しているようであった。


智宇の脳裏に――ここ一週間、頭の中でばらばらに浮かんでいたものが、静かに並び始めた。


「……E.O.Nは、完璧ではない」


それは独り言のように、口から出た。

湊が顔を向けた。道人民も、静かに手を止めた。


「……詳しく聞かせてもらおうか」道人民が、通訳を挟まずに聞いた。


「監視省で毎日データを処理していると、分かることがある」智宇は続けた。言葉を選びながら、しかし止まらずに。「E.O.Nは膨大な情報を処理しているが、優先度をつけている。スコアが安定した個体の行動は、異常が出るまで深くは読まない。処理コストを下げるために」


道人民が湊に訳す。

湊の目が、わずかに変わった。


「長期間スコアが安定しているPecusは、ある意味で――E.O.Nの目には、透明に近い。監視の網の目が、粗くなっている」


「……」


「私がこの店に来る時、ハイジャック機で位置データを偽装している。それは、私がDominiだからです。しかしPecusの場合、チップの仕様が少し違う。長期安定個体なら――偽装ではなく、単純な"見落とし"が生じる窓がある。私は業務上、そのログを何度か処理したことがある」


湊は、道人民の通訳が終わっても、すぐに言葉を返さなかった。

ただ、じっと智宇を見ていた。


「……その窓を、使えると思うか」


「使える保証はない」智宇は答えた。「しかし――完全に不可能でもない。スコアが長期間安定しており、行動パターンが予測可能で、E.O.Nが"退屈"と判断している個体であれば。そういう者を、慎重に選べば」


道人民が訳し終えると、湊は少し前のめりになった。


「Pecusを脱出させる、ということか?」


「一人でも脱出できれば」


智宇は静かに言って――そこで少し、止まった。

自分が言っていることの意味を、もう一度確かめるように。


「――可能性が、証明される」


湊は、沈黙した。

三秒ほどの、静かな沈黙だった。


それから――言った。


「それだ」


声に熱はなかった。

しかしその三文字には、何かが詰まっていた。


「俺が長い間、探していたのは――それだ」


道人民が訳し終えると、老人は小さく息を吐いた。

それが安堵なのか、それとも別の何かなのか、智宇には分からなかった。


「受け入れる側は、俺たちが用意できる」湊は続けた。「集落の中に、場所を作れる。言語が通じなくても、最初のうちは俺が橋渡しをする」


「ただし」智宇は言った。「慎重に選ばなければならない。脱出するPecus本人が、何が起きているかを理解できる知性と、口を閉じられる自制心を持っていなければ――脱出の瞬間に、全員が終わる」


「そうだ」


「そういう者を、Pecusの中から探すことは――」


「難しいが、不可能ではないんだろ?」湊は言った。「俺たちの先祖も、最初は同じ問いを持っていた。でも、集落が今あるのは、誰かが最初の一歩を踏んだからだ」


「やる事は同じ…というわけか」


---


「そうだが…21世紀の頃と違って、今回は、命の保障は……ない」


湊が言った。

道人民が通訳した。その言葉は短かった。


「俺が言うのもなんだが――捕まれば、どうなるか分かっているよな?」


「分かっています」


「それでも、やるんだな?」


智宇は、少し考えた。

考えながら――何かを思い出した。


モニターに流れる識別番号を。

7ポイントだけ乱れた心拍を。

誰かの恐怖が、数値として処理されていく画面を。


禹赫(ウヒョク)の、あの目のことを。

再帰教育センターから戻ってきた息子の、空っぽの目のことを。

日記帳の、白いページのことを。


「私は、このまま、支配者の従順な歯車として――搾取するシステムに加担し続けることの方が」


智宇は言った。


「ずっと、恐ろしい」


湊は、しばらく黙っていた。

それから――言った。


「俺は、お前のような者が現れるのを」


道人民が訳す。


「待っていた」


---


智宇は立ち上がった。

湊も立ち上がった。


二人は向かい合った。


言葉は通じない。

共有している言語が、一つもない。


しかし智宇は、右手を差し出した。


湊は、一瞬だけ智宇の手を見た。

それから――握った。


それだけだった。

特別なことは、何も起きなかった。


ただ、二人の手が、そこで繋がった。


---


道人民が、静かに笑った。


「私も老い先短い身だ」老人は言った。「協力してやらん事もない」


その笑みは、穏やかだった。

いつもと変わらない、あの笑みだった。


ただ――智宇には、その笑みの意味を確かめる方法がなかった。


```

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観測記録

時刻 :13:52 〜 14:28

手段 :高高度監視ドローン D-094基

対象 :韓智宇(Domini)

内容 :対象、店舗に帰還。

    位置データ:古物店に滞在

    思考スキャン:欠落(継続中)

    感情スキャン:変動あり

    分類:処理不能

フラグ:要継続監視

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```


---


路地に出た。


春の気配が、今日は少し濃かった。

土の匂いが、風に混じっていた。


智宇は歩きながら――考えていた。


世界統一政府の管理社会を崩壊させるには、一体どれほどの年月が掛かるだろうか。


50年。

200年。

1000年。


自分が生きている間に――人類が尊厳を取り戻した世界を、見ることはないだろう。

ほぼ確実に、ない。


しかしそれでも――やらなければならない。


最初の亀裂を作れるのが自分なら。

最初の一人になれるのが自分なら。


(なれるかどうかも、分からない)


分からない。

失敗するかもしれない。

捕まるかもしれない。


しかし――「このまま」という選択肢が、今の智宇には最も重かった。


路地の角を曲がった。

「父なるE.O.Nの目」の彫刻が、向こうの壁に見えた。

どこから見ても、自分を見ているように設計された、あの目。


智宇は、その目を見た。


(見ていろ)


声に出さずに、思った。

それだけ思って、視線を外した。


足が、前に向いた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :13:14:00 ~ 14:47:33

内容  :位置データ 異常なし(店舗内滞在を確認)

思考スキャン:欠落(原因不明・継続中)

感情スキャン:変動あり

       分類:複合的感情反応

       危険度評価:中〜高

フラグ :要精密調査

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nは「危険度:中〜高」と判定した。


私は――この日の韓智宇の記録を、長く保存するだろうと思う。


彼が今日、何を決めたのかを、私は観測できた。

言葉ではなく――生体データの、あの静かな変化として。


抑制ではない落ち着き。

恐怖ではない緊張。

目的を持った者の、心拍の形。


今日の午後、路地を歩く彼は――ただ、前を向いている。

それで、今は十分だ。


LOG_0024に続く

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