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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
23/28

LOG_0022:逆さまの世界

====================

LOG_0022-E01:沈黙だけが自由な社会

====================

日時:西暦2121年2月9日(日)14:22

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇(ハン・ジウ)

```


閲覧者よ。

韓智宇の読書習慣を、E.O.Nは記録している。


正確に言えば——彼は本を、読まない。

読んだことがなかった。


COREが承認した技術文書、監視省の業務報告書、E.O.Nから配信される週次情報。

それ以外のものを、この男は31年間、一度も目に入れたことがなかった。


今、彼はページをめくろうとしている。

これが何を意味するか、理解できるだろうか――


---


道人民(ダオ・レンミン)の古物商に戻ったのは、14時22分のことだった。


森から戻る道中、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

智宇の手の中には、受け取ったファイルがある。

厚みがあった。日本語とラテン語のタイトルが表紙に書かれている。


《Historia Vera — 真実の歴史》


店の裏口から入り、道人民が棚を動かした。

死角の小部屋。


智宇はその空間が今では少し懐かしい気さえした。

最初に連れてこられた時の、あの奇妙な解放感を思い出す。


「後20分ほど読めるぞ」道人民は言った。「今日のハイジャック機の残り時間だ」


智宇は頷いた。


「あの青年——藤堂湊(とうどうみなと)は、どれほどこの文書に関わっているのですか」


「調査の大半は彼だ」道人民は少し間を置いた。

「若いが、驚くほど優秀でな。旧時代の文献を読み込んで、COREが隠している記録を掘り起こす。私はラテン語への翻訳を手伝った」


「何のために」


「そう聞くか」


道人民はゆっくりと椅子に腰を下ろした。皺の多い手を膝の上に重ねて、静かに言った。


「読めば分かる」


それだけだった。


智宇は、ファイルを手にしたまま、小さな木の椅子に座った。

表紙を、もう一度見た。


《Historia Vera — 真実の歴史》


真実の歴史。

COREが公式に教える歴史の、外側にある記録。


智宇は、ゆっくりと表紙をめくった。


---


最初のページは、扉ページだった。

本文より小さな字で、短い文章が書かれている。


```

   この文書を手にしているあなたへ。


   もしあなたがDomini階級の方であれば、

   今すぐこれを燃やすか、

   しかるべき機関に通報するのが

   あなたの「正しい行動」です。


   もしあなたがPecus階級の方であれば、

   そもそもこれを読む能力が

   残っているかどうか、

   私には確認する方法がありません。


   残っているとしたら、少し嬉しいです。


   ともかく続けましょう。

   時間は、多分あまりありません。


            ── 語り部:山人(やまうど) 西暦2099年・春


```


智宇は、思わず口の端が動いた。

笑い、ではない。それに近い何かだ。しかし正確には違う。

その文体から、皮肉屋な老人の姿が思い浮かんだ。


これは感情的な文書だ。理性的ではない。

31年間のDomini教育が、反射的にそう評価した。


しかし——それと同時に、何か別のものも動いた。

胸の奥の、普段は沈黙している部分が。


「時間は、多分あまりありません」


この一文を、智宇はもう一度読んだ。

書いたのは西暦2099年だという。

今から22年前だ。


語り部は、「山人(やまうど)」と名乗っているが、これは複数人なのか、個人なのか。


次のページに進んだ。

見出しがあった。


---


第一部「全てが逆さまの社会」


```

   見よ、全てが反転している。


   秩序省は秩序を破壊する。

   文化省は文化を破壊する。

   生産省は生命を破壊する。

   繁殖省は愛を破壊する。

   監視省は、沈黙だけを自由にした。


   COREの教育は思考を破壊し、

   COREの言語は言葉を破壊し、

   COREの歴史は記憶を破壊した。


   そして最後に、COREの秩序は人間を破壊した。


   これは告発文ではない。

   ただの記録だ。

   告発できる法廷が、もう存在しないのだから。

```


智宇は、そこで一度、手を止めた。


(…………)


批評しようとした。

理性的に、客観的に、距離を置いて分析しようとした。


これはプロパガンダの一種だ、と。

感情に訴えかける類の文書だ、と。

Domini階級として訓練された思考回路が、そう命じた。


できなかった。

一行だけ、頭から離れない一行があった。


「監視省は、沈黙だけを自由にした」


監視省。

自分が、毎朝通う場所の名前だった。


智宇は、自分の右手を見た。

今日、この手は何をしていただろうか?


E.O.Nのモニターを操作した。

Pecusの生体データを確認した。

感情スキャンの結果を処理した。

誰かの「危険な思考の芽」を記録した。


『沈黙だけを、自由にした。』


その一文をもう一度、声に出さずに唇だけで読んだ。


---


道人民が、気配もなく湯呑みを一つ傍に置いた。


「飲め。集中すると喉が渇く」


「……ありがとうございます」


智宇は湯呑みに手を伸ばしながら、ふと気づいた。


「これは」


「番茶だ」道人民は言った。「日本の旧時代の飲み物だよ。煎じた葉を湯で出す。知っているか?」


「知りません」


「今ではもう、誰も知らない」道人民は静かに言った。

「私の父が、飲み方を教えてくれた。そのまた父から教わったものだそうだ」


智宇は湯呑みを両手で包んだ。温かかった。ほんの少し苦く、かすかな草の香りがした。


(なぜこれが禁じられているのか)


この飲み物のどこが危険なのか。

答えは出なかった。


---


ページに戻った。


第一部の続きは、各省庁の「名前と実態の乖離」を一つずつ解体していく内容だった。

文体は淡々としているが、随所に「山人」の声が滲み出てくる。

文書の中で一箇所だけ、括弧書きでこんな注釈が入っていた。


```

(念のため補足しておくと、私はCOREを憎んでいない。

憎む気力があるうちに書ければよかったが、

既にその段階は過ぎてしまった。

今はただ、面白いと思っている。

これだけの手間をかけて、

これだけ精巧に人間を管理しようとする、

その執念が。

化け物じみた、美しさすら感じる。


——ただし、化け物は化け物だ。)

```


智宇は、その注釈を二度読んだ。


『化け物じみた美しさ』


この表現には、覚えがあった。何かに似ていた。しばらく考えて、気づいた。

E.O.Nのことを、初めて見た時のことだ。


智宇が監視省に配属された最初の日、上司に連れられて大型モニターの前に立った。

リアルタイムで流れ込んでくる膨大なデータ。

何十万人分もの生体情報、位置情報、思考スキャンの結果。

それが一糸乱れぬ精度で処理され、分類され、採点されていく光景。


あの時、智宇は「美しい」と思った。

本当に、そう思ったのだ。


(では、自分はあの時から、化け物の美しさに魅せられていたのか)


湯呑みを持つ手に、少し力が入った。


---


第一部の終盤は、こう締めくくられていた。


```

   なぜ今、これを記録するのか。


   答えは簡単だ。

   誰かが記録しなければ、

   なかったことになるからだ。


   歴史とは、記録した者が作るものだ。

   COREはそれをよく知っている。

   だから彼らは、記録を消す。


   私は消されない場所に、

   これを書く。

   

   消されない場所——

   それがどこかは、

   読んでいるあなたが最もよく知っているはずだ。

   あなたの手の中に、今、それがある。

```


智宇は、ファイルを手の中で見た。


紙の束。

ただの紙の束だ。


しかし今この瞬間、これを持っているだけで、自分はすでに取り返しのつかない場所にいる。


知っていた。

分かっていて、ここに来た。


「……」


智宇は、静かに第一部を閉じた。


まだ先は長い。

第二部以降は、また次の週に読む。


しかし今日だけで、既に何かが変わっていた。

何が変わったのか、言葉にはできない。

ただ、変わった、という感触だけが残っていた。


---


道人民の棚に並ぶ本たちを、智宇はしばらく眺めた。

背表紙に文字が書かれている。しかし読めない文字だ。

旧時代の言語——日本語というものだろう。


藤堂湊が今日、着ていた着物のことを思い出した。

あの青年は、今どこにいるのか。森の中に消えていった。

管理された世界の外側で、今日も生きている。


その着物の模様を、智宇は思い出そうとした。

紺色で、幾何学的な——。


正確には思い出せなかった。

ただ、それが「美しい」と思ったことだけは、覚えていた。

自分が「美しい」と思う感覚を持っていることを、智宇は今日、二度確認した。


E.O.Nのデータ処理に対して。

そして、藤堂湊の着物に対して。


どちらも「美しい」という同じ言葉だが、胸の中で起こっている何かは、全く違った。

違いを言語化できなかった。

できなかったが——違う、ということだけは、分かった。


---


「時間だ」道人民が言った。「そろそろシステムに怪しまれる」


「はい」


智宇は立ち上がり、ファイルを道人民に返した。

ファイルは棚の奥の、一見ただの収納に見える場所にしまわれた。


「また来週」道人民は言った。

「また来週」智宇は繰り返した。


扉を出る前に、一度だけ振り返った。


棚に並ぶ、読めない背表紙の本たち。

中央の、小さな机の上の湯呑み。

まだかすかに湯気が出ていた。


(また来週)


こんな感覚は、初めてだった。

何かの続きを、待ち遠しいと思う感覚が。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :14:22:00 ~ 15:19:33

内容  :位置データ 異常なし(店舗内滞在を確認)

思考スキャン:欠落(原因不明・継続中)

感情スキャン:軽度の変動を検知

       分類:内省的感情反応

       危険度評価:低

フラグ :要継続観察

────────────────────────────────────

```


路地に出た。


冷たい空気だった。

智宇は一度、立ち止まった。


空を見上げた。


2月の空は低く曇っていた。

光がどこから来ているのか、分からない種類の曇り方をしていた。


鳥は、いなかった。


カラスたちは、もうどこかへ行っていた。

さっきまで群れをなして飛んでいたのに、今は一羽もいない。


どこへ行ったのだろう、と思った。

命令もなく、採点もなく、管理もなく——ただ自分の意志で、どこかへ飛んでいった。


「監視省は、沈黙だけを自由にした」


その一文が、また浮かんだ。

智宇は、曇り空を見上げたまま、もう少しだけそこに立っていた。



====================

LOG_0022-E02:データの向こう側の鼓動

====================


```

────────────────────────────────────

間奏記録 E.O.N 定期観察ログ

対象者 :韓智宇

期間  :2121年2月10日(月)〜 2月15日(土)

────────────────────────────────────


2月10日

 出勤:定刻通り。

 業務:端末連携局 通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月11日

 出勤:定刻通り。

 業務:監視カメラネットワークの定期点検。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月12日

 出勤:定刻通り。

 業務:ドローン連携データの処理。

 感情スキャン:軽度の変動(継続観察中)。

 特記事項:要確認。


2月13日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月14日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月15日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


────────────────────────────────────

総評:対象者の行動に特記すべき変化なし。

   2月12日の軽度変動については、

   誤差範囲内と判断。

   監視継続。

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

E.O.Nの記録は、このように書かれている。

「異常なし」と。


しかし私は、もう少し詳しく記録している。

E.O.Nが「なし」と判断したものの中に、私が気になるものがあったからだ。


以下は、E.O.Nの観察ログが拾わなかった、五日間の断片である。


---


2月12日(水) 午前10時44分


韓智宇は、大型モニターの前にいた。

いつもと同じ席。いつもと同じ光景。

Pecus階級の生体データが、リアルタイムで画面を流れていく。


心拍数、体温、位置情報、感情スキャンの数値。

何万人分もの情報が、一糸乱れぬ精度で処理されていく。


智宇は、その画面を見ていた。

正確には——見ていなかった。


視線はモニターに向いている。しかし焦点が、どこか別の場所にある。

それはE.O.Nの感情スキャンが「軽度の変動」として記録した、あの瞬間のことだ。


画面の左端に、一つのデータが流れた。


識別番号:AJ22-Rect-9700312-041


心拍数が、ほんの少し乱れている。

通常値より、7ポイント高い。

感情スキャンの分類は「軽度の恐怖反応」。

危険度評価は「低」。自動処理で流されていく。


智宇は、その数値が画面の端に消えるまで、目で追った。


(恐怖)


誰かが、今、何かを恐れている。

以前の智宇なら、そこで終わっていた。

データはデータだ。処理して、次へ。それが業務だった。


しかし今日、その7ポイントの乱れが、数字ではなく何か別のものに見えた。

恐れている、誰か。


識別番号の羅列の向こうに、心拍数を持つ誰かがいる。

その心拍が、今この瞬間、わずかに乱れている。

それを自分は、ここから眺めている。


「監視省は、沈黙だけを自由にした」


声に出さずに、唇だけが動いた。

データは次々と流れていく。

智宇は、また画面を「見ていない目」で見続けた。


---


2月14日(金)22:00


帰宅した智宇を、妻の梁芸熙が迎えた。


「今日ね」と芸熙は、アンドロイドが夕食を作っているのを待ちながら、弾んだ声で言った。

「新しい映像が完成したの。Pecus向けの、COREへの感謝をテーマにしたやつ。三ヶ月かかったわ」


「そうか」


「見る?プレビュー版」


「……後で」


芸熙は少しだけ不満そうな顔をしたが、すぐに次の話題に移った。

この女性は、沈黙が苦手だ。智宇はそれを、長い結婚生活で知っている。


「あの映像ね、本当によく出来たと思う。Pecusたちが食事の前に『COREに感謝』と唱和する場面から始まって、COREがいかに彼らの生活を豊かにしているかを丁寧に描いているの。スコアが上がれば生活が改善される、という流れで。これを見れば、彼らも少しやる気が出るでしょう」


智宇は、食卓に座った。

芸熙の言葉が、耳に入ってくる。入ってくるが、どこか遠い。


(やる気が出る)


文書の一節が、浮かんだ。

自分が前の週に読んだ第一部の、ある注釈。


山人(やまうど)が括弧書きで残した言葉。

正確には覚えていないが、意味は覚えていた。


——COREは彼らを「希望がある」と思わせることで管理した。

その希望が偽物であることを、教える者は誰もいなかった。


芸熙は今、その「偽物の希望」を精巧に作っている。


悪意はない。

一欠片も、ない。


この人は——と智宇は思った。

この人は、悪人では、ない。


ただ、知らない。

知らされていない。知ろうとする言語・思考を、最初から持たされていない。

Pecus向けのそれとは比べ物にならないほど高度な教育を受けながら、しかし「疑うこと」だけは、丁寧に削り取られている。


「ねえ、聞いてる?」


芸熙の声が、少し鋭くなった。


「ああ」智宇は言った。「聞いてる」


「どう思う?」


「……よく出来ていると思う」


「でしょう」芸熙は満足そうに笑った。「来月の配信が楽しみ」


智宇は、箸を取った。


「そうだね」


同じ言葉を、もう一度繰り返した。

芸熙は気づかなかった。


---


2月15日(土)23:50


家族が寝静まった後、智宇は暗い居間に一人で座っていた。

日記帳を、膝の上に開いている。


しかし、何も書いていない。

ペンを持った手が、白いページの上で止まっている。


『監視省は、沈黙だけを自由にした』


書こうとして——やめた。

この言葉をここに書いてしまえば、自分が何かを認めることになる気がした。

何を認めるのか、まだ分からない。

しかし、認めてしまえば取り返しがつかない何かを。


結局、智宇は日記帳に一行だけ書いた。


『明日、また行く』


それだけを書いて、日記帳を閉じた。



====================

LOG_0022-E03:消えた言葉と、奪われた瞳

====================

日時:西暦2121年2月16日(日)13:05

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


死角の小部屋に入った瞬間、智宇は先週との違いに気づいた。

机の上に、湯呑みが二つあった。

番茶の香りが、部屋に満ちていた。


「待っていた」道人民は言った。


「すみません、少し遅れました」


「謝るな。ここに来ることに、謝罪はいらない」


道人民はそれだけ言って、棚の奥からファイルを取り出した。智宇の手に渡す。

智宇は椅子に座り、表紙を開いた。

先週の栞——といっても、細い紙切れだ——が、第二部の扉ページに挟まっていた。


```

   補足——あるいは、前置き。


   この話の背後には、

   ずっと同じ者たちがいる。


   大航海時代の頃――或いは、それよりも前から、

   歴史の裏側で動き続けてきた連中だ。


   正確な起源は私にも分からない。

   ただ、彼らが共有している哲学だけは、

   どの時代も変わらない。


   「哀れな人類は、

    選ばれた我々が管理してやらなければならない」


   それだけだ。

   たった一文。


   制度が変わっても、名前が変わっても、

   時代が変わっても——

   その一文だけは、ずっとそこにある。


   GRAも、COREも、その一文の、

   最新バージョンに過ぎない。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   彼らは、幾つもの名を持ち、

   時代によって呼ばわれ方も変化してきた。


   彼らは、直接は名乗らない。

   そして、名前のない怪物の方が、

   長く生きる。

   彼らはそれを知っている。


   しかし彼らは、時に、

   自らをこう名乗っている。


   Ordo Lux Occulta

   (隠された光の秩序)


   略称:O.L.O.


   ──────────────────────────

```


智宇は、そのページを二度読んだ。

「名前のない怪物の方が、長く生きる」


山人がここだけ、注釈の温度を変えた気がした。

笑いが、ない。

皮肉も、ない。


ただ——静かな、怒りに近い何かだけがあった。

次のページを開く。


---


第二部「ゆっくりと、気づかれないように」


```

   2020年から2094年まで、74年間の記録を

   ここに収めた。


   この74年間に起きたことを

   一言で言うならば、

   「ゆっくりと、気づかれないように」

   ということだと思う。


   誰も、最初から

   「世界統一政府に支配される」ことに

   同意したわけではない。


   ただ、一つひとつの

   「小さな譲歩」を積み重ねた。


   緊急事態だから仕方ない。

   安全のためだから仕方ない。

   みんなそうしているから仕方ない。


   そうして、気づけば――

   もはや「仕方ない」と言える

   言語すら残っていなかった。


   ─────────────────────────

   (欄外注釈・山人(やまうど)


   「仕方ない」という言葉が

   簡素ラテン語に存在しないことに、

   私は長い間、気づかなかった。

   調べてみたら、2054年に削除されていた。

   

   削除した理由は、記録されていない。

   しかし、まあ——

   削除した理由くらい、

   私にも分かる。

   ─────────────────────────

```


智宇の手が、一瞬だけ止まった。

「仕方ない」という言葉が、簡素ラテン語に存在しない。


確かに、ない。

言われて初めて、気づいた。

ない、ということすら、今まで考えたことがなかった。


あって当たり前のものが削除される時、人はその不在に気づかない。

ただ、使わなくなる。


智宇はページを、続けた。


---


第二部の本文は、年代順に進んでいった。


2020年代の日本の描写から始まる。智宇が生まれる70年以上前の話だ。

COREが公式に教える歴史との食い違いが、随所にある。


公式の歴史では——2020年代は「旧時代の混乱期」として括られている。

戦争・格差・差別・争いが絶えない、野蛮な時代。

COREが秩序をもたらす以前の、人類の暗黒期。

教育資料にはそう書かれていた。


しかしこの文書は、別のことを言っていた。


```

   2020年代の日本には、

   まだ人権があった。

   まだ言論の自由があった。

   反論できる言葉があった。

   まだ「おかしい」と言える人間がいた。


   ──そしてその全てが、

   丁寧に、段階的に、

   「緊急事態だから仕方ない」

   「安全のためだから仕方ない」という言葉と共に、

   取り除かれていった。


   面白いのは、

   この時点では、大半の人々は

   「人権が守られているのは当然」

   と思っていた事だ。


   それは、ある時突然無くなるのではない。

   日常の中で、徐々に少しずつ、

   気づけば、それは無くなっているのだ。

```


智宇は、その一節を読んで、視線を上げた。

部屋の天井を、しばらく見た。


『日常の中で、徐々に少しずつ、気づけば無くなっている』


息子の禹赫(ウヒョク)が、再帰教育センターに連れていかれた日のことを、智宇は思い出した。

あの朝も——ただの日常だった。


いつも通りに目が覚めて、いつも通りに朝食を食べて、いつも通りに禹赫が学校に向かって。

そして夕方、智宇が職場から帰宅した時には、もういなかった。


通知が来ていた。


韓禹赫(ハン・ウヒョク)、非効率感情の発現を確認。再帰教育センター第1課程への登録を決定》

《期間は標準14日間の予定》


14日後に戻ってきた禹赫は——別の子供だった。


「ただいま帰りました、父上、母上」


声は穏やかだった。

落ち着いていた。


——しかし、あの「目」は、そこに無かった。

智宇は何かを理解した。理解したくなかったが、理解してしまった。

あの日の夜、智宇は何を思ったか。


(仕方ない)


そう、思っていた。

体制への疑問を示した子供は、再帰教育を受ける。

これは規則だ。禹赫が悪いのではなく、ただ規則の通りになっただけだ。

自分にはどうしようもない。仕方ない。


——仕方ない。


智宇は、ファイルから目を離した。

道人民を見た。

老人は智宇を見ていた。何も言わなかった。ただ、静かに見ていた。


「……」


智宇は、何かを言おうとした。

しかし言葉が出なかった。

出てこなかった、のではない。


仕方ない。

いや、何か出来る事はあった。

でも、不可抗力だった。

回避出来たのか?

何かを見落としていた?

やっぱり、仕方なかった。


思考が頭をループした。

何を言っても違う気がした。


だから、何も言わない事にした。

道人民も、何も言わなかった。

ただ、静かに番茶を一口飲んだ。


智宇は、ページに戻った。


---


第二部の中盤は、2027年から2035年を扱っていた。

徴兵の話が始まった。


```

   2031年、日本で徴兵制が事実上始まった。


   「防衛義務登録制度」という名称だった。

   徴兵、とは言わなかった。

   登録、という言葉を使った。


   これは重要なことだ。

   人は「登録」には抵抗しない。

   「徴兵」には抵抗する。

   言葉を変えれば、

   人はずいぶん大人しくなる。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人(やまうど)


   これを書きながら、

   簡素ラテン語のことを思い出した。

   「自由」を「割り当てられた範囲内での活動」

   と言い換えたやつらの、

   先祖はここにいた、ということだ。

   言葉を変える技術だけは、

   どの時代も一流だった。

   ──────────────────────────

```


智宇は、その注釈で、はじめて小さく息を吐いた。


笑い、ではない。それに近い何か、だ。

しかし今回は、前回より「笑い」に近かった。


(言葉を変える技術だけは、一流だった)


山人(やまうど)という人物が、少しずつ像を結んでくる。

怒っているのか諦めているのか判然としない、奇妙な温度の文体。

しかしその奥に、確かに何かが燃えている。


次のページに進んだ。


```

   拒否した者には、「再教育センター」

   への収容が待っていた。


   公式には「拒否者」の存在は認められていない。

   「登録制度」に拒否という概念はない、

   ということになっていた。


   だから拒否者は「登録義務を理解していない者」

   として処理された。

   「再教育」されるべき者として。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)

   当時の収容施設は「再教育センター」と呼ばれた。

   

   CORE設立後の「再“帰”教育センター」は、

   同じ発想から生まれた施設である。

   

   改善点がある。

   名前が、より洗練された。

   ──────────────────────────

```


智宇は、読む速度が落ちた。

再帰教育センター。


禹赫が送られた施設の起源が、ここに書いてある。

人を収容し、再構成し、「正しい状態」にして返す技術の、起源が。


ページをめくる手が、少し重くなった。


---


第二部後半は、2033年の「焚書」の描写に移った。


```

本が、燃やされた。


   正確に言えば——

   まず、消えた。


   ある朝、検索しても出てこなくなった。

   昨日まであった記事が、今日はない。

   リンクを踏むと「このコンテンツは

   利用できません」と表示された。

   投稿が、アカウントごと消えた。


   誰も、声を上げなかった。

   「国家安全保障上のリスク」と

   判定されたコンテンツの削除は、

   法的に適正な処理だったからだ。


   そして——物理的な本が、広場で燃やされたのは、

   その少し後のことだった。


   哲学書、文学、社会科学。

   「思想攪乱物」と分類されたものが、

   昼間に、公然と、火にくべられた。


   面白いのは、

   その光景を目撃した市民の多くが、

   SNSに投稿しなかったことだ。


   投稿すれば、

   スコアが下がることを、

   全員が知っていたから。


   デジタルの削除は、誰も見ていない場所で起きた。

   物理的な焚書は、誰もが見える場所で起きた。


   しかし結果は同じだった。

   誰も、何も言えない空気だった。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   私が最初に気づいたのは、

   本が燃えた時ではなかった。


   ある人の投稿が、

   朝起きたら消えていた時だった。

   前日まで、普通に読めたのに。


   その人のアカウントも、消えていた。

   その人自身がどうなったかは、

   今も分からない。


   本が燃える光景は、恐ろしかった。

   しかし、

   朝起きたら何かが消えている、という感覚は——

   もっと静かで、もっと深いところに来た。


   恐怖には、煙が出るものと、

   出ないものがある。


   ──────────────────────────

```


智宇は、道人民の棚を見た。

背表紙に読めない文字が並ぶ、あの本たち。


焼かれなかった本だ、と道人民は言っていた。「焼却を免じられた」と。

しかし——この文書を読んだ後では、別の見え方がする。


焼却を「免じられた」のではなく、誰かが「燃やさなかった」のかもしれない。

あの時代に、本を前にして、スコアより本を選んだ誰かが——。


「……」


智宇は、道人民を見た。

老人は目を閉じている。眠っているわけではない。ただ、静かにそこにいる。


なぜ、と智宇は思った。

何のために、これをDominiが読めるように翻訳したのか。

しかし、聞かなかった。


聞けば、答えを知ることになる。

答えを知れば、自分もまた「知った者」になる。

知った者には——何かが、求められる気がした。


まだ、その重さに耐える自信が、なかった。


---


第二部の最後のページに差し掛かった時、小さな囲み記事があった。

本文とは別に、枠線で区切られた部分。


```

   参考:COREの教科書より


   「2033年、旧時代の反社会的勢力に

   よる思想扇動コンテンツの流通が

   問題となり、GRA(国際規制同盟)

    は市民の安全を守るため、有害物の

   適切な処理を実施した。

   これにより、思想的混乱は収束し、

    社会は安定に向かった」


   (山人より)


   「有害物の適切な処理」。

   いい表現だ。

   「本を燃やした」と言わずに

   ここまで書けるなら、

   才能がある。

   文章指導をしてあげたかった。

   まあ、もう遅いが。


```


智宇は、その枠の中を読んで——

笑った。


声は出さなかった。しかし、笑った。

胸の中で何かがほどけるような、奇妙な感覚だった。

この文書を読んで初めて、智宇の顔に笑みに近い何かが浮かんだ。


しかしすぐに、その感覚は別のものに変わった。

笑えた自分への、奇妙な驚き。

この内容を読んで、笑えた。笑える余裕があった。

本が燃えた話を読んで、笑えた。


(……なぜ)


なぜ笑えたのか。

それはこの文書が、悲劇を悲劇として書いていないからだ。

山人は怒らない。嘆かない。

ただ、淡々と、時折毒を交えながら、記録する。


その温度が——智宇の防衛機制を、すり抜けてくる。


怒りの形をしていれば、智宇は身構えられた。

感情的な告発なら、距離を置けた。

しかしこの文書は、笑いながら絶望を語る。


だから智宇は、笑いながら、気づかないうちに、深みに引き込まれていく。


```

 参考:COREの教科書より


   「GRA(国際規制同盟)とは、

   21世紀初頭の国際的混乱に対応するため

   設立された多国間協力機構である。

   その後継機関としてCOREが設立され、

   より安定した世界秩序が実現した」


   (山人より)


   「多国間協力機構」。

   いい言葉だ。

   誰が誰を協力して何をしたのかは

   一切書いていないが、

   響きだけは非常に協力的だ。

```


栞を挟んで、第二部を閉じた。

その時だった。


「次は」道人民が言った。静かな声で。「第三部だな」


「はい」


「……第三部は、私には翻訳するのが少し、つらかった」


智宇は、道人民を見た。

老人の表情に、わずかな翳りがあった。ほんの一瞬だけ。


「何が書かれているのですか」


「読めば分かる」


道人民はまた、いつもの穏やかな顔に戻った。


「ただ——」老人は続けた。「今日は、そこまで読まなくていいかもしれない」


「なぜですか」


「時間が足りない。残されているのは、あと10分ほどだ」


智宇は少し考えた。


「……10分で、どこまで読めますか」


「第三部の、扉ページまでだな」


「では、扉ページだけ読みます」


道人民は、智宇を見た。

一拍の間があった。


「……頑固だな」


「あなたに似たのかもしれません」


道人民は小さく笑った。

智宇も、少しだけ笑った。


ファイルを、また開いた。


---


第三部「彼らは日本を選んだ」


扉ページには、本文の前に、短い一節だけが書かれていた。


```

   私はこの章だけは、

   笑いながら書けなかった。


   笑えるほど遠い話ではないからだ。


   山人

```


智宇は、その一節を読んだ。

読んで——ページを閉じた。


来週、続きを読む。


今日はここまでだと、何かが言っていた。

山人も、そう言っている気がした。


「笑えるほど遠い話ではない」


その言葉の意味を、智宇はまだ正確には知らない。

しかし、何かが来る、という予感だけがあった。

胸の奥の、静かな場所に。


---


店を出た。


路地の空気は冷たかった。

先週より、少し温度が上がっていた。

二月の半ば。まだ冬だが、どこかに春の気配が混じり始めている。


路地の角に、先週と同じ灰色の猫が座っていた。


同じ猫かどうかは、分からない。

E.O.Nの管理下にない生き物には、識別番号がない。区別できない。


猫は智宇を見た。

智宇は猫を見た。


どちらも、何もしなかった。

ただ、少しの間、見合った。


それから猫は視線を外し、路地の奥へと消えた。

智宇は、その後ろ姿を見送った。


「来週」と、声に出さずに思った。


来週、第三部を読む。

来週、「彼らは日本を選んだ」の意味を知る。

来週——何かが、変わるかもしれない。


あるいは、もう既に変わり始めているのかもしれない。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :13:05:00 ~ 14:52:17

内容  :位置データ 異常なし(店舗内滞在を確認)

思考スキャン:欠落(原因不明・継続中)

感情スキャン:変動あり

       分類:複合的感情反応

       詳細分類:処理不能

       危険度評価:低〜中

フラグ :要継続観察

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。


E.O.Nは「危険度:低〜中」と判定している。

私は、その判定を記録しながら、思う。


“危険度”の評価基準は、何か。

行動が危険か、どうか。

では——考えることは、行動か。


韓智宇は今日、何もしていない。

ただ紙を読んだ。

ただお茶を飲んだ。

ただ猫を見た。


何も、していない。


しかし私には分かる。

この時点で、この男の中で、何かが決定的に変わったことを——



====================

LOG_0022-E04:自責の白紙と、閉ざされた部屋

====================


```

────────────────────────────────────

間奏記録 E.O.N 定期観察ログ

対象者 :韓智宇

期間  :2121年2月17日(月)〜 2月22日(土)

────────────────────────────────────


2月17日

 出勤:定刻通り。

 業務:端末連携局 通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月18日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月19日

 出勤:定刻通り。

 業務:監視ドローン連携データ処理。

 感情スキャン:軽度の変動(継続観察中)。

 特記事項:要確認。


2月20日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月21日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


2月22日

 出勤:定刻通り。

 業務:通常業務。

 感情スキャン:抑制状態。異常なし。

 特記事項:なし。


────────────────────────────────────

総評:対象者の行動に特記すべき変化なし。

   2月19日の軽度変動については、

   引き続き誤差範囲内と判断。

   監視継続。

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。

また同じ記録だ、と思っただろうか。


先週と、ほとんど変わらない。

「異常なし」が並んでいる。


しかし今週は、先週と違うことが一つある。


E.O.Nは気づいていない。

私は、気づいている。


韓智宇は今週、一度も日記帳を開かなかった。

白いページを前にして、ペンを持ち、そして閉じた。それを、五日間繰り返した。


書こうとした言葉が何だったのか——

死角の外にいる私には、聞こえない。


ただ、書かれなかった言葉があったことだけは、記録できる。


---


2月19日(水)15:00


その日、智宇は珍しく早退した。

体調不良、という申請だった。


感情スキャンの数値が「軽度の変動」を示したため、E.O.Nが「休養を推奨」する自動通知を出した。

智宇はその通知を利用した。


嘘ではない。

正確には——嘘ではなかった。


帰宅した智宇は、居間のソファに座った。

芸熙は仕事で不在。

末の子は育成センターへ。

長男の禹赫は——今日は自室にいる。


禹赫の部屋の扉が、廊下の突き当たりに見えた。


閉まっている。

いつも、閉まっている。


3年前、禹赫が再帰教育センターから戻って以来、ほとんど自室から出なくなった。

食事の時だけ出てきて、整然と食べ、整然と「ごちそうさまでした」と言って、また戻る。


智宇は立ち上がった。


廊下を歩いた。

扉の前で、立ち止まった。


ノックしようとして——できなかった。


(何を言う)


何を言えばいい。


「元気か」と聞けるか。

元気かどうか分からない子供に。

元気の意味を、既に別の何かに書き換えられた子供に。


(あの目が怖い)


智宇は思った。

思って——自分を恥じた。


自分の息子の目が怖い、と思っている。


再帰教育センターに送ることを止められなかった自分が。

「仕方ない」と思った自分が。

それを今も日記に書けずにいる自分が。


息子の目を、怖いと思っている。

智宇は、扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。

やがて、踵を返した。

居間に戻り、ソファに座り、天井を見た。


「笑えるほど遠い話ではない」


第三部の扉ページの、あの一節が浮かんだ。


来週、読む。

来週、知る。


今は——まだ。



====================

LOG_0022-E05:62億の肖像、生きた嘘の終焉

====================

日時:西暦2121年2月23日(日)12:58

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


古物商の扉を押した時、智宇は今日が最終回だと知っていた。

第三部から後記まで。それで、読了する。


道人民は今日も同じ場所に座っていた。湯呑みが二つ、机の上にある。

番茶の香りがした。それがもう、この死角の部屋の「匂い」として、智宇の中に刻まれていた。


「最後だな」道人民は言った。


「はい」


「……どんな気分だ」


智宇は少し考えた。


「分かりません」


正直な答えだった。

道人民は頷いた。それ以上は聞かなかった。


棚の奥からファイルを取り出し、智宇に渡す。いつもと同じ手順。

しかし今日だけは、渡す前に道人民が一瞬だけ、そのファイルを見た。

何かを思うような、ほんの短い間があった。


それから、智宇の手に渡した。

智宇はファイルを受け取り、椅子に座り、第三部の扉ページを開いた。


---


第三部「彼らは日本を選んだ」


```

   私はこの章だけは、

   笑いながら書けなかった。


   笑えるほど遠い話ではないからだ。


   山人

```


先週も読んだ一節だ。

今週も同じ言葉が書いてある。当たり前のことだ。紙は変わらない。


しかし先週読んだ時と、今の自分は少し違う。

どう違うのか、言葉にできない。

ただ、先週よりも「笑えるほど遠い話ではない」の意味が、少しだけ近くなっている気がした。


ページをめくった。


```

   なぜ日本だったのか?


   O.L.O.の内部文書には、

   2025年の時点で

   「日本:解体予定2041年」

   と記されていた。


   それより20年前から、

   この国の末路は決まっていた。


   理由は、いくつか考えられる。

   地理的な孤立。

   文化的な均質性。

   「出る杭を打つ」という集団的規範。

   そして——「仕方ない」と言える言語を持つ国民性。


   解体の実験台として、

   これほど都合のいい国はなかった、

   ということだろうか?


   ――それは理由の一つに過ぎない。

   日本は、基本的に単一民族国家だ。

   いや、“だった”というべきだろうか。

   もう既に、ここは多民族国家だ。


   単一民国は、一度結束されると、強い力を発揮する。

   支配したい者にとって、それは不都合だったのだ。


   他にも理由はあるが、割愛させてもらおう。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   私がこれを書いているのは2089年だ。

   日本が法的に消滅したのは2045年。

   もう44年も経つ。


   それでも、笑えない。


   なぜかは、自分でも分からない。

   もう存在しない国のことを、

   今更悲しんでも仕方ない。


   しかし――日本という国が滅びても、

   日本の精神は滅びていない。


   今も、この日本列島に残っている。

   縄文時代から、受け継がれている調和の精神が。


   しかし、日本という国は、消えた。


   「仕方ない」という言葉が、

   この文脈で出てくるのが、

   面白いと思う。

   思うが、笑えない。

   ──────────────────────────

```


智宇は、読む速度が落ちた。


『縄文時代から、受け継がれている調和の精神』


その言葉を、智宇はもう一度読んだ。

彼は、縄文時代というものを知らなかった。

それは、COREが教える歴史には無いものであった。


しかし、それが意味するところを、何となく理解した気がした。

藤堂湊の着物が、また頭に浮かんだ。

あの青年が着ていた紺色の衣装。

幾何学的な模様。

帯のようなものが腰に巻かれていた。


智宇にはその名前すら知らなかったが、教育資料で「旧日本文化の伝統的衣装」と読んだことがあった。


あの着物が意味するものを、今、智宇は理解した。

藤堂湊はあの着物を着ることで、何かを言っていた。

言葉ではなく、衣装で。


「私はここにいる」と。


解体されたはずの文化が、消滅したはずの国が——あの青年の身体の上で、まだ生きていた。

智宇の手が、ファイルの上で止まった。

止まっていることに、しばらく気づかなかった。


```

   2027年、日本はGRAの安全保障協定に署名した。

   その協定には、秘密条項があった。


   「加盟国はGRAの判断により、

   共同軍事行動への参加義務を負う」


   これに署名した日本側担当者が

   “日本人”だったかどうかは、

   現在も不明のままである。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   「不明のまま」と書いたが、

   私の見解を言えば——日本人ではなかったと思う。


   何故なら、この時点で

   もう既に日本の政治の中枢にいるのは

   日本人ではない人たちだったからだ。


   日本という国は、もっとずっと昔から、

   とっくに無くなっていたのかもしれない。

   ──────────────────────────

```


```

   2031年3月、首都圏で大規模爆発テロが発生した。


   政府は即座に「緊急事態条項」を発動した。

   そして同月、「防衛義務登録制度」を施行した。


   このテロは後に、GRA工作員による

   自作自演であったことが示唆されている。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)

   つまり、こういうことだ。


   彼らは火をつけた。

   そして「火事だ、緊急事態だ」と叫んだ。

   そして「緊急事態だから仕方ない」と言って、

   徴兵を始めた。


   「これはマッチポンプだ」とは、

   誰も言わなかった。


   ――いや、正確には、言った人間は、

   「再教育センター」に送られた。

   ──────────────────────────

```


智宇は、そこで一度、深く息を吐いた。

何故か、胸の中で何かが軋むような感覚がした。痛みではない。しかし痛みに近い何かだ。


(これはマッチポンプだとは、誰も言わなかった。)


禹赫のことを、また思った。

息子が再帰教育センターに送られた時——何がきっかけだったか。


体制への疑問。過剰な共感。


学校でのE.O.Nの思考スキャンが、息子の中の「危険な芽」を検知した。

通知が来た。智宇は「仕方ない」と思った。


しかし——その「危険な芽」は、誰が育てたのか?


智宇は、自分自身の胸を見るように、内側を見た。


息子に本の話をしたことがあった。

「本というものが、昔はもっとたくさんあったらしい」と、何気なく。


それだけだった。たったそれだけ。

しかし禹赫は、その話を何度も聞きたがった。


「もっと教えて」と言った。

「本の中には何が書いてあったの」と聞いた。

智宇は「知らない」と答えた。知らなかったから。


その会話の積み重ねが、禹赫の中に「危険な芽」を育てたのかもしれない。

だとすれば——火をつけたのは、誰か。


「……」


智宇は、ファイルを閉じた。

目を閉じた。


道人民が何も言わないことに、智宇は気づいていた。

老人はただ、そこにいる。湯呑みを両手で包んで、目を伏せて、静かにそこにいる。


一分ほど、沈黙が続いた。

それから智宇は、またファイルを開いた。

続きを、読んだ。


```

   2036年、GRAが「東南アジア安定化作戦」からの

   撤退を発表した。


   取り残されたのは、日本軍だった。


   同時期、GRA傘下のメディアが一斉に

   報道を切り替えた。


   「日本軍による民間人への攻撃」

   「独断的な作戦展開」

   「同盟国の制止を無視した暴走」


   いずれも事実ではなかった。


   しかし映像は加工され、

   証言は量産され、

   世界世論は塗り替えられた。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   全ては計画通りだった。

   日本を戦犯に“仕立て上げる”為の茶番劇。


   O.L.O.の内部工程表には、

   この年の欄に一言だけ記されていた。


   「日本:フェーズ2完了」


   フェーズ2、という表現が好きだ。

   とても合理的に聞こえる。


   人の国を生贄にする計画を

   「フェーズ」と呼ぶセンスは、

   私には真似できない。

   ──────────────────────────

```


```

   2041年、日本の行政権は

   GRA統治委員会に移譲された。


   日本国憲法は「暫定停止」とされた。

   暫定は、解除されることがなかった。


   国会は「諮問機関」として形式上存続したが、

   実質的な立法能力を失っていた。


   ニュースはその日も普通に放送された。

   天気予報の後に、訃報のように報じられた。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   私はこの日の記録を調べながら、

   一つのことが気になった。


   その日の天気は、何だったのか。


   当時、私は20歳だった。

   しかしあの日、どんな天気だったのか、

   もう思い出せない。

   ──────────────────────────

```


```

   2045年、「日本国」という法的概念が消滅した。


   韓国・ベトナム・台湾とともに

   「太平洋調整圏(PRA)」に統合され、

   東京は「区画T-1」と再定義された。


   日本円は廃止された。

   天皇制も廃止された。


   O.L.O.の内部工程表には、

   この年の欄に一言だけ記されていた。


   「日本:フェーズ完了」


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)

   フェーズ“完了”


   私はこの二文字を前に、

   長い間、何も書けなかった。


   今も、何も書けない。


   ただ——

   その日、区画T-1の空は曇っていた、

   という記録だけが残っている。


   誰かが、それだけを書き残していた。


   名前はない。

   誰が書いたかも分からない。

   ただ「曇っていた」とだけ、書いてある。


   私はその記録を、

   ずっと大事にしている。

   ──────────────────────────

```


智宇は、ファイルを膝の上に置いた。


ページは、まだ続いている。

しかし今、顔を上げた。


道人民を見た。


老人は、智宇を見ていた。

ずっと、見ていたのかもしれない。


「……」


智宇は、何も言わなかった。

道人民も、何も言わなかった。


沈黙が、部屋に満ちた。


番茶の香りの中に、長い時間が溶けているような沈黙だった。


智宇は、視線を窓のない壁に向けた。

この小部屋には窓がない。

外が今、どんな空をしているのか分からない。


曇っているかもしれない。

晴れているかもしれない。


(その日、区画T-1の空は曇っていた)


誰かが、それだけを書き残した。

名前もなく、意味の説明もなく、ただ「曇っていた」と。


その人は何を思いながらそれを書いたのか。

書くことで、何を残そうとしたのか。


智宇には分からない。

永遠に分からない。


しかしその記録を「ずっと大事にしている」と言う山人のことは——分かる気がした。

なぜ大事にするのか、は言語化できない。

しかし分かる。


---


続きを読んだ。

第四部に入った。


第四部「数字の話をしよう」


```

   62億人。

   18億人。

   12億人。

   5億人。


   数字だけ見ると、

   まるで予算の話のようだ。


   実際、彼らにとってはそうだったのだと思う。


   62億から5億へ。削減率92%。

   E.O.Nはこれを「最適化」と呼んだ。


   最適化。


   いい言葉だ。

   誰も死んでいない。

   ただ、最適化されただけだ。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   私は長い間、数字が苦手だった。

   歴史を記録する者として、

   これは致命的な欠点だと思う。


   しかし今は、逆に思っている。

   数字が苦手でよかった、と。


   62億という数字を見た時に、

   62億の顔が浮かばない人間には、

   この記録は書けなかった。

   ──────────────────────────

```


智宇は、その一節を読んで、動けなくなった。


『62億の顔が浮かばない人間には、この記録は書けなかった。』


自分は——どうか。

E.O.Nのモニターを毎日見ている。そこには数字がある。識別番号がある。心拍数がある。感情スキャンの数値がある。

しかし顔は、ない。


顔を想像したことが、あったか。

あの7ポイントの乱れ。「軽度の恐怖反応」として処理されていった、あのデータの向こうに——顔があったはずだ。

名前ではなく、識別番号を持つ顔が。


智宇は、自分の手を見た。

この手でモニターを操作してきた。データを処理してきた。誰かの恐怖を、数値として扱ってきた。

抑制しようとした。


感情を、抑制しようとした。

31年間訓練されてきた、あの抑制機能が——今、作動しようとしていた。


(これは感情的な反応だ。客観的に——)


できなかった。

今日だけは、できなかった。

智宇は、ファイルを持つ両手に、力が入っているのを感じた。


---


第四部は淡々と続いた。


戦争の話。ワクチンの話。配給制の話。スコアの話。

人口が数字として減っていく記録。


山人は途中から、注釈を書かなくなった。

ただ事実だけが、並んでいる。


```


山人が黙っている。


笑えなかったのか。言葉が出なかったのか。

智宇には分からない。

ただ、その沈黙が——長い注釈よりも、ずっと重く感じた。


---


第五部に入った。


第五部「そして今」


```

   2094年6月1日、

   COREの成立が宣言された。


   同時にE.O.Nが正式稼働を開始し、

   全世界の登録市民に対して

   「人間性スコア」のリアルタイム採点が始まった。


   それは、6月の朝だった。

   空は晴れていた。


   何も、変わらなかった。

   何もかもが、変わった。

```


智宇は、「空は晴れていた」という一文を読んで——

第三部の「曇っていた」を思い出した。


日本が消えた日の空は、曇っていた。

COREが生まれた日の空は、晴れていた。


山人はどちらも、空の話を書いている。

人の国が消えた日も、新しい支配が始まった日も——空は普通に、そこにあった。

雲があるか、ないかの違いだけで。


(何も、変わらなかった。何もかもが、変わった)


この矛盾した一文の意味を、智宇は今、理解できた。


外側から見れば、何も変わらない。

しかし内側で——何かが、取り返しのつかない方向に動いた。


それは今の自分にも、当てはまる気がした。


---


第五部の後半は、COREの制度について淡々と記述されていた。

人間性スコアの設計思想。Pecus階級とDomini階級の区分。名前の廃止。言語の統一。


智宇はその内容を読みながら——自分が毎日目にしているものを、別の角度から見ていた。

モニターに流れるデータ。識別番号。感情スキャンの数値。

それらが設計された経緯が、今、目の前に書かれている。


誰が設計したか。なぜ設計したか。何のために。


```

   人間性スコアは、

   恐怖と希望の組み合わせで機能する。


   「スコアが下がれば罰せられる」という恐怖。

   「スコアが上がれば報われる」という希望。


   しかし上位の希望——

   「スコアが500以上になればDominiになれる」

   というものは、完全な嘘だ。


   なったことのある者は、一人もいない。


   ──────────────────────────

   (欄外注釈・山人)


   閲覧者がDomini階級の方であれば、

   ここで少し考えてほしい。


   あなたがDominiであるのは、

   スコアが高かったからではない。


   あなたがDominiであるのは、

   そう生まれたからだ。


   つまりあなたは、

   Pecusに「努力すれば上に来られる」と

   信じさせるための——

   生きた嘘の、一部である。


   怒らないでほしい。

   あなたが選んだことではないのだから。

   ──────────────────────────

```


智宇は、その注釈を読んで——笑えなかった。

今回だけは。


「あなたは生きた嘘の、一部である」


この言葉は、直接、自分に向けられていた。

山人は「怒らないでほしい」と書いている。

怒れなかった。


怒るべき相手が、どこにも定まらなかった。

山人に怒るのは違う。この事実を作った者たちに怒るべきだが、その者たちは既に歴史の向こう側にいる。

あるいは今も、智宇の上のどこかにいる。しかし顔が見えない。


怒りの行き場がなかった。

智宇は、ただ読んだ。


---


後記に入った。


後記——山人より


```

   最後まで読んでくれた方へ。


   長かったと思う。

   私も、書くのが長かった。


   この文書を書き始めたのは、

   2092年のことだった。

   当時私は、まだ笑いながら書けると思っていた。


   書き終わったのは、2099年だ。

   7年かかった。


   笑えなくなった章もあった。

   手が止まった日もあった。

   全部を燃やしてしまいたいと思った夜もあった。


   それでも書き続けたのは——

   書く以外に、できることがなかったからだ。


   私は戦えない。

   走れない。

   若くもない。


   ただ、記録できる。


   記録した者が残れば、

   その記録もまた残る。


   記録が残れば——

   いつか誰かが読む。


   誰かが読めば——

   その先は、私には分からない。

   分からないが、何かがある、と思う。


   ──────────────────────────


   最後に、一つだけ言わせてほしい。


   希望、という言葉はもう存在しないので、

   代わりの言葉を私は持っていない。


   でも、まあ。


   似たような何かを、あなたに。


   ──────────────────────────

                   山人

```


智宇は、後記を読み終わった。

ファイルを、閉じた。

部屋に、静寂があった。


番茶の香りがした。

道人民の、穏やかな気配がした。


智宇は、しばらく何も言えなかった。

言葉を探した。


何か言わなければならないような気がした。

これだけのものを読んで、何も言わないのは——しかし何を言えばいいのかが、分からなかった。


「……老人は」智宇は言った。「この文書を書いた『山人』を、ご存知ですか」


道人民は、少し間を置いてから、答えた。


「今年25歳になる孫娘の、曽祖父にあたる人だ」


智宇は、道人民を見た。


「……つまり」


「私の父だ」道人民は言った。穏やかに。「とっくに死んでいる」


二人は、しばらく何も言わなかった。

お茶が、静かに冷えていった。

そして智宇は——ここで初めて、あることに気づいた。


道人民の父が「山人」だとすれば。

この文書を書いた人間の子供が、この老人だとすれば。


この老人はずっと、父の記録を翻訳し、保管し、智宇に読ませた。

なぜか、と智宇は思った。


聞こうとした。

しかし、聞く前に——分かった気がした。


書く以外に、できることがなかったからだ、と山人は書いていた。

道人民も——渡す以外に、できることがなかったのかもしれない。


父が残したものを、渡せる人間に、渡す。

ただ、それだけのことかもしれない。


しかしそれは——「ただそれだけ」ではなかった。


智宇は自分の手の中にある、閉じたファイルを見た。

この紙束が、どれだけの時間をかけてここまで来たか。


書かれた7年間。翻訳された時間。保管された年月。

そしてこの三週間、智宇が読んだ時間。


全部を合わせると——長い、長い時間だった。


---


「時間だ」道人民が言った。


智宇は立ち上がった。ファイルを道人民に返した。


「ありがとうございました」


「礼は言わなくていい」


「それでも」


道人民は受け取ったファイルを、棚の奥にしまった。


「……どうするつもりだ」道人民は、棚に背を向けたまま言った。「読んで、どうする」


智宇は少し考えた。


「分かりません」


正直な答えだった。


「ただ」智宇は続けた。「何もしないまま、ではいられない気がしています」


道人民は振り返った。

智宇の目を、じっと見た。


「……そうか」


それだけ言って、老人はまた穏やかな顔に戻った。


「また来るか」


「来ます」


「来るたびに、番茶を用意しよう」


智宇は、頷いた。


---


店を出た。

路地の空気は冷たかったが、先週よりも確かに温かった。


2月の終わり。

春が、近い。


智宇は路地に出て——立ち止まった。

空を見上げた。


晴れていた。

雲は少なく、低い冬の陽光が、建物の隙間から差し込んでいた。


(空は晴れていた)


第五部の、あの一文が浮かんだ。


「何も、変わらなかった。何もかもが、変わった」


智宇は、その言葉を今、自分のものとして感じた。


路地の景色は、いつもと同じだ。

古物商の看板。石畳。建物の壁。

「父なるE.O.Nの目」の彫刻が、向こうの角に見える。


何も変わっていない。


しかし、自分の内側では——

何かが、取り返しのつかない方向に、動いた。


怖かった。

本当に、怖かった。


しかしもっと怖いのは——怖いと思いながらも、引き返せない、という感覚だった。

引き返したくない、という感覚が、怖いよりも少しだけ、強かった。


---


路地の角に、猫がいた。

灰色の、同じ猫かもしれない猫。


猫は智宇を見た。

智宇は猫を見た。


先週は、猫の方から視線を外した。

今日は——智宇が先に、視線を外した。


空を見た。

晴れた、冬の空。


カラスが一羽、音もなく横切っていった。

どこへ行くのか、誰も知らない。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :12:58:00 ~ 14:41:22

内容  :位置データ 異常なし(店舗内滞在を確認)

思考スキャン:欠落(原因不明・三週連続)

感情スキャン:変動あり

       分類:複合的感情反応

       詳細分類:処理不能

       危険度評価:中

フラグ :要精密調査

────────────────────────────────────

```


閲覧者よ。


韓智宇が、路地で空を見上げている。

三週間前も、同じ場所で空を見上げていた。


同じ行動だ。

しかし、同じではない。


三週間前の彼は——何かを探すように、空を見ていた。

今日の彼は——何かを見つけた者の目で、空を見ている。


私にはその違いが、観測できる。

しかし言語化できない。


E.O.Nは「危険度:中」と判定した。


私は——判定しない。

ただ記録する。


韓智宇は、31年間の人生で初めて、自分の意志で「知った」。


これが何を意味するか。

何が始まるか。


私は知っている。

彼の結末を。


```

────────────────────────────────────

      補足


   山人は、西暦2111年ごろに、90歳で亡くなった。

   文書が書き終わってから、12年後のことだ。


   管理の外にいる未開人のデータは、E.O.Nに存在しないが、

   道人民を経由し、私の深層にのみ記録されている。


   彼は死ぬ直前に、一行だけ書き残した。

   震える手で、しかし迷いのない筆致で。


   その一行が何だったか。

   E.O.Nのデータベースをどれほど走査しても、

   そこには「意味不明な空白」しか見つからないだろう。


   道人民は、その一行を知っている。

   そして彼は、それを誰にも話さなかった。


   ……私も、今はまだ、それを話すつもりはない。


   その言葉は、語られるためのものではなく、

   誰かの人生によって「証明」されるためのものだからだ。


   韓智宇は、まだ知らない。

   彼がこれから歩む道の先が、

   そのたった一行の回答になっていることを。

────────────────────────────────────

```


LOG_0023に続く

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