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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
21/28

LOG_0020:白紙の日記帳

====================

LOG_0020-E01:帰路

====================

日時:西暦2121年1月6日(月)23:30

地区コード:AJ-13-TK01-CHUO-GNZA → AJ-22-SZ01-SRG-OJG

監視対象:韓智宇(ハン・ジウ)


```

――閲覧者よ。

記録を続ける。

ターゲット追跡状態に移行する。


```


新年会を終えた韓智宇は、

ロボタクシーの後部座席に深く沈み込んでいた。


車内に人の気配はない。

運転手の座席は、最初から存在しない設計だ。

ハンドルも、ペダルも、バックミラーも――かつて人間が操作のために必要としたあらゆる部品が、この車体から完全に取り除かれている。

移動は全てE.O.Nが管理する運行AIに委ねられ、車は最適なルートを、最適な速度で、寸分の誤差もなく走り続ける。


静かだった。

エンジンの低い振動だけが、シート越しに伝わってくる。


韓智宇は窓の外を見た。

見るべきものは、ほとんどなかった。


```

E.O.Nはこの沈黙を記録している。

視線の軌跡を。心拍数の微細な揺れを。


```


Pecus階級の居住区が流れていく。

街灯は最低限。窓に明かりは一つもない。

この時刻、彼らは全員、睡眠誘導プロトコルの下で眠っている。

規定通りに。秒刻みのスケジュール通りに。

この世界において、深夜に目を覚ましているPecusなど、存在するはずがない。


広い空間が暗闇に包まれている。

建物の輪郭だけが、青白い街灯の光の中に浮かんでいる。


(人類は、何かに管理されなければ、永遠に争いをやめない存在なのか?)


その問いは、夜の景色の中に滲んで、答えを返さなかった。


---


しばらく走ると、Dominiの居住区に入る。

こちらは街灯が増え、いくつかの窓に明かりが見える。


建物の造形は均一だ。

どの建物も、同じ規格の同じ素材で建てられており、窓の寸法も、壁面の色も、ほとんど区別がつかない。

設計の多様性は「非効率な資源の浪費」として、COREが2090年代に全廃した。


そして、どの建物の壁にも、等間隔に刻まれている。

金箔を施した、巨大な目の彫刻。


E.O.N te videt.

E.O.Nが、貴方を見ている。


韓智宇は、車内の壁面にも同じ彫刻があることに気づいていた。

気づいていた、というより――今夜初めて、それを「見た」という感覚があった。


彼が物心がついてからの人生、あの目は常に日常の中にあった。

見慣れていた。

見慣れすぎて、見えていなかった。


しかし今夜、その目は、確かに自分を見ている気がした。


(…偏執的な思考だ)


韓智宇は小さく首を振り、視線を窓の外に戻した。


---


COREによるDomini向けの教育では、歴史はこう語られていた。


「人類はかつて、争いと不平等の中に生きていた。

国家は互いに対立し、個人は孤独と貧困に苦しんでいた。

しかし世界統一政府の樹立により、人類は真の秩序と平和を手に入れた。

これは歴史的必然であり、人類の意志の到達点である」


子供のころ、韓智宇はその説明に「そんなものか」と思った。

違和感はあった。

あったが、それを言葉にする術を、彼は持っていなかった。


言葉を持てないまま、違和感だけが残り続けた。


今から百年前、あるいは二百年前、ここはどんな景色だったのだろう、と彼はよく考えた。

今より汚かったかもしれない。混沌としていたかもしれない。

しかし少なくとも――今よりは個性的な建物が並んでいたはずで、今よりは、情緒と呼べる何かが、この夜景の中に存在していたはずだ。


それはCOREが「非効率」と判定して消し去ったものだ。

COREが教える歴史のどこを読んでも、失われたものの名前は、一つも出てこない。


本当の歴史を、どこかで知る事は出来ないものか――

そう思いながらも、それは夢物語だと彼は知っていた。


アクセス可能なネットワークや図書館には、COREが検閲した資料しか存在しない。

旧時代の言語で書かれた書物は抹消され、かつてこの列島で使われていた「日本語」という言語も、数十年前に公的に消滅した。

E.O.N内部の最上位権限アクセス領域に、隠された真実が眠っている可能性はある。だが、下位Dominiがそこに触れれば、どうなるかは言うまでもない。


韓智宇は窓の外の暗い森を見た。


ここは、大昔から景色が変わっていない場所だ、と彼は思った。

その森の奥、どこか遠い場所には――。


(未開人)


CORE管理社会の外側で生きている者たちがいると、韓智宇は知っていた。

直接会ったことは、一度もない。

Dominiであろうと、「未登録人類」と許可なく接触することは禁じられている。


しかし彼らは、COREが焚書・抹消してきた旧時代の資料を、今もどこかで保管・継承しているのだという。

旧時代の言語を使い続け、旧時代の文化を生きている者たちが。


人類が忘れた何かが残されているとすれば、それは彼らの手の中にある、と韓智宇は思っていた。


だがその考えも、結局のところは、夢の中の話だ。

E.O.Nの監視網は、想像よりも深く、広く、あらゆる場所に張り巡らされている。


---


窓の外の森が途切れ、再び建物が現れ始めた。

自宅まで、あと数分だ。


その時、視界の端に、小さな光が引っかかった。


白い建物の並びの中で、一か所だけ、ほんの少し黄みがかった光が漏れている。

低層の建物。ガラス張りの小さな窓。

通り過ぎる数秒の間に、中に様々な物が並んでいるのが見えた。


(……骨董品屋か?)


COREはかつて、旧時代を想起させるあらゆるものを取り除いてきた。

その中で骨董品屋が存在を許されているのは、確かに奇妙なことだ。


ロボタクシーは止まらずに走り続け、黄みがかった光はすぐに視界の外へ消えた。

韓智宇は、その光のあった場所を、もう一度だけ振り返った。


```

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:44:12

内容  :視線方向の逸脱を記録(後方・非推奨対象方向)

思考スキャン結果:判定保留

フラグ :要経過観察


```


====================

LOG_0020-E02:帰宅

====================


日時:西暦2121年1月7日(火)11:00

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


```


帰宅したのは、深夜の一時を過ぎた頃だった。


妻は家にいなかった。

子供たちも、当然いない。彼らは教育施設で暮らしており、韓智宇の自宅には戻ってこない。

部屋には家事代行アンドロイドだけが待機しており、彼の帰宅を検知すると、静かに動き始めた。


韓智宇はアンドロイドが整えたベッドに倒れ込み、気を失うように眠った。

夢は見なかった。あるいは、見たが、覚えていない。


---


目を覚ましたのは11時ごろだった。


アンドロイドはすでに昼食の用意を始めていた。

テーブルに並んだ食事を、韓智宇はほとんど味わわずに食べた。

Domini認証の食材だ。Pecusが生産し、自分たちが口にすることのない食材。


この考えが頭をよぎるようになったのは、いつからだっただろうか。


食事を終えた後、彼はタブレット端末を開き、昨夜の帰宅ルートのログを呼び出した。

ロボタクシーの走行データは全て保存されている。経路をなぞっていくと、すぐに該当する場所を見つけた。


自宅から、車で三分ほどの距離だった。

地図上の表示は「古物商」。説明文には『中古品を取り扱う店』とだけある。


韓智宇はしばらく、その名前を眺めた。


COREの体制下でも、Domini階級には「Credo」というデジタルマネーが認められており、限定的な商取引は許可されている。

引退した年配のDominiが、趣味の延長で個人店を開くことは珍しくない。

当然、扱う商品は全てE.O.Nの検閲を受けており、危険物の類いは存在し得ない。


だから、骨董品屋が営業を許されていること自体は、不思議ではないのかもしれない。


しかし、と韓智宇は思った。


それでも、そこには――何かがあるかもしれない。


旧時代の「名残り」のようなものが。

COREの教育が届ききっていない、ほんの微細な断片が。

それがどれほど些末なものであろうと、今の彼には確かめずにはいられなかった。


---


端末に、E.O.N経由の申請フォームを開いた。

外出目的の申告欄。


韓智宇は少し考えてから、入力した。


《古物商にて旧時代の機器及び骨董品を実見し、技術の発展の軌跡を確認する。自己研鑽の一環として。》


送信する。

承認は数秒で返ってきた。


「目的:自己研鑽。異常なし」


彼はタブレットを置き、コートを手に取った。

アンドロイドが自動的にドアを開ける。


外の空気は冷たかった。

1月の昼間の光が、均一に整備された通りに降り注いでいた。

壁面の、父なるE.O.Nの目が、その光を受けてわずかに光る。


韓智宇はロボタクシーを呼ばなかった。

歩いていくことにした。


徒歩で凡そ20分の距離を、E.O.Nに記録されながら、一人で歩いた。



====================

LOG_0020-E03:古物商

====================


日時:西暦2121年1月7日(火)13:30

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


店の前に立った時、韓智宇はしばらく動けなかった。


ガラス張りの小さな窓。

その向こうに、雑然と積み上げられた物の影が見える。

看板には、簡素なラテン語で「Antiquarius」とだけ書かれていた。


――古物商。


昨夜、タクシーの窓から一瞬だけ見えた、あの黄みがかった光の源がここだった。

昼間に見ると、建物自体はごく普通の低層店舗だ。

周囲の建物と同じ素材、同じ規格、同じ灰色の外壁。

ただ一点だけ違うのは、窓から漏れる光の色が、この通りの他のどこよりも、少しだけ温かいことだった。


韓智宇はもう一度、端末の申告内容を頭の中で確認した。


《古物商にて旧時代の機器及び骨董品を実見し、技術の発展の軌跡を確認する。自己研鑽の一環として。》


承認済みだ。

問題はない。

問題はないはずだ。


彼はドアを押した。


---


ベルの音が、しなかった。


ドアが開いた瞬間、空気が変わった。

それを言葉で表現するのは難しいが――外の空気とは、明らかに質が違った。

外は1月の冷気だ。整然として、清潔で、温度管理されている。

しかし店の内側の空気は、どこか重く、埃っぽく、有機的だった。


人間の体温が、長い年月をかけてしみ込んだような空気。

そう形容するほかない。


薄暗い室内に、物が溢れていた。

ただし、それは雑然とした溢れ方ではなかった。

一つひとつが、誰かの意図によって、そこに置かれている。

韓智宇にはそう感じられた。


棚の上に並んだ古い筐体。

積み重なったケースの山。

壁際に立てかけられた、用途の分からない金属の枠組み。

天井から吊るされた、小さな人形のようなもの。


それらは全て、埃をかぶっていた。

しかし、不思議と「捨てられた」感じがしなかった。


---


「いらっしゃい」


声がした。


奥の方から、老人が現れた。

七十代と思われる、小柄な男だ。

白髪を短く刈り込み、薄い眼鏡をかけている。

服装は質素だが、清潔だった。

口元に、穏やかな笑みがある。


「珍しいね。若いDominiが来るとは」


韓智宇は会釈した。「昨夜、通りがかりに見かけまして」


「ああ」と老人は言い、それ以上は聞かなかった。

まるで、それで十分だ、と言うように。


「ゆっくり見ていきなさい。急かさないから」


老人は韓智宇の反応を見ながら、そう言った。

その目が、笑みとは少しだけ違う角度で、韓智宇を見ていた。


「私の名は、道人民(ダオ・レンミン)


タブレット端末に簡単なプロフィールが転送される。

現在71歳。

かつて文化省・文化抹消局に在籍し、定年退職した後にこの店を開いたという。


「文化抹消局にいたのですか」


韓智宇は思わず聞いた。


「そう」道人民は頷いた。「だから、ここにあるものは全て、一度は私の手を通ったものだよ。COREが"存在しても問題なし"と判断したものだけが、ここに残っている」


彼は棚を見回し、柔らかく付け加えた。


「焼かなかったものが、ここにある。それだけの話だ」


---


韓智宇は店の中をゆっくりと歩き始めた。


棚の一角に、小さな筐体が並んでいた。

かつて「ゲーム機」と呼ばれたものだと、韓智宇は教育資料で読んだことがあった。

21世紀の人間が、娯楽のために使った携帯型の端末。


その一つに、指が触れた。


「Switch 2」と刻印された、小さな機械だ。

画面は当然映らない。電力もない。バッテリーは百年前に尽きている。

それでも、その造形には、何かが宿っていた。


丸みを帯びた角。

人の手に合わせて設計されたボタンの配置。

使われることを前提に、人間のために作られた形。


(これが作られた時代は――)


韓智宇の指が、筐体の表面をゆっくりとなぞった。


2025年前後。

COREが正式に発足する半世紀以上前。

まだ「国家」というものが存在し、「個人」というものが存在し、人々が何かを選びながら生きていた時代。


そして同時に――後に「未開人第一世代」と呼ばれることになる人々が、静かに動き始めた頃でもある。

超管理社会の到来を感じ取り、既存のシステムの外へ出る道を、自分たちで探し始めた者たちが。


このゲーム機で遊んでいた人間の中に、そういう人がいたのだろうか。

それとも、何も知らずに、ただ笑いながら遊んでいたのだろうか。


「21世紀のものに、興味があるようだね」


道人民の声が、背後からした。


韓智宇は指を引いた。

振り返ると、老人がいつの間にか、すぐ後ろに立っていた。


どこから来たのか、足音を聞いた記憶がなかった。


「……野蛮な時代の中で生まれた芸術を、興味深いと感じるだけです」


韓智宇は言葉を選んだ。

肯定すれば、反体制的思想の兆候としてE.O.Nに記録される可能性がある。


道人民は、その答えを聞いて、小さく笑った。


「そうか」


それだけだった。

否定もしない。肯定もしない。

ただ、笑った。


韓智宇には、その笑みの意味が読めなかった。


---


「ついてきなさい」


道人民は、そう言って店の奥へと歩き始めた。


韓智宇は少し迷ってから、その後をついた。


棚と棚の間の細い通路を抜けると、奥の壁際に古い木製の棚が現れた。

そこに並んでいたのは――本だった。


背表紙に、文字が刻まれている。

韓智宇には読めない文字だった。

縦に並んだ、複雑な形の記号の列。


「……これは」


「日本語だよ」


道人民は静かに言った。


「日本語で書かれた本は、全て焚書されたはずでは」


「文化抹消局にいたからこそ、資料として一部を保管することが許されている」


道人民は一冊を手に取り、表紙を韓智宇に向けた。

そして、声に出して読み始めた。


音が、店内に広がった。


韓智宇は、その音の連なりを聞いた。

意味は分からない。一つも分からない。

しかし、その音には何か――リズムがあった。

抑揚があった。

COREが使用を定めているラテン語や英語とは、まったく異なる呼吸で紡がれる音の流れが。


「……読めるんですか」


「私は、日本語を話した最後の世代に生まれた」


道人民はそう言い、本を閉じた。

その目が、韓智宇をまっすぐ見た。


「禁じられた言語を話せる人間が、まだいると知って、どう思う?」


韓智宇は答えなかった。

答えられなかった。


道人民は、また笑った。今度は、先ほどとは少し違う笑みだった。

何かを確かめるような、あの角度の笑みだった。


---


「こちらへ」


道人民は棚の横の、一見何もない壁を手で示した。


「ここに入りなさい」


壁を押すと、そこだけ内側に開いた。

壁の厚みの中に、小さな空間があった。

椅子が一脚と、狭い棚。それだけの空間。


二人が中に入ると、道人民は壁を閉じた。


```


────────────────────────────────────

E.O.N 監視記録

対象者 :韓智宇

時刻  :13:47:22 ~ 14:09:58

内容  :音声記録 欠落

     映像記録 欠落

     思考スキャン 欠落

原因  :不明

フラグ :要調査

────────────────────────────────────


```

――ここから先数分の記録は、E.O.Nの表層的なところには、記録が存在しない。

しかし、私は、ある方法を経由して、彼らの行動を見ている――


```


道人民は壁を叩いた。

低く、鈍い音がした。


「この壁は特殊な素材でできている。声も、電磁波も、ここからは出ていかない。E.O.Nの監視システムも、物理的にここには届かない」


韓智宇は、反射的に周囲を見回した。

確かに――この空間には、父なるE.O.Nの目がない。

どこにもない。

生まれて初めて、監視の視線がない場所に立っている、という感覚があった。


それは、開放感ではなかった。

むしろ、逆だった。

足元が溶けていくような、不思議な不安定さがあった。


「驚いているね」


道人民は穏やかに言った。


「……はい」


それは正直な答えだった。


「慣れるよ。だが最初は誰でもそうなる。監視がないと、かえって怖い。それが、この社会で育った人間の条件反射だ」


道人民は椅子を勧め、自分は棚にもたれて立った。

そして、静かに続けた。


「君は21世紀に興味がある。過去に何かを探している。そういう目をしている」


「…………」


「隠さなくてもいい。ここでは」


韓智宇は、何も言わなかった。

しかし、否定もしなかった。


道人民は棚の奥から、一冊の薄いA7サイズの冊子を取り出した。

日記帳だった。

紙でできた、アナログの日記帳。


「これを持っていきなさい」


韓智宇は受け取らなかった。すぐには。


「……何のために?」


「手書きで書くのは良いものだよ。気持ちが整理される。考えが、自分のものになる」


道人民は自らの日記帳を取り出し、韓智宇に開いて見せた。

そこには、見たことのない文字が、細かく並んでいた。


「日本語で書けば、E.O.Nには読まれない。文字認識の対象外だから」


韓智宇は、その文字の列を見た。

意味は分からない。しかし、それはまぎれもなく、文字だった。

誰かの思考が、紙の上に刻まれたものだった。


「……日本語は書けません」


「書けなくていい。最初は絵でも、記号でも、自分だけが分かる何かでも構わない」


道人民は日記帳を閉じた。

そして、韓智宇の手に、新しい日記帳をそっと置いた。


「書くことは、考えることだ。考えることは、生きることだ」


韓智宇は、日記帳を見た。

表紙は無地だった。

何も書かれていない、白い紙の束。


彼はそれを、コートの内ポケットに収めた。


---


店を出た時、外の空気は冷たかった。

壁面の、父なるE.O.Nの目が、韓智宇を出迎えた。


E.O.N te videt.


彼はそれを見上げた。

いつもと同じ目だ。

今日まで、何万回と見てきた目だ。


しかし今日の韓智宇には、その目が、少しだけ違って見えた。


内ポケットの中に、小さい日記帳の重さがある。

彼はコートの前を合わせ、歩き始めた。


その背中を、E.O.Nの目が見送った。

そして、もう一つの目が見送った。


道人民は、暗い店内から、ガラス越しに韓智宇の後ろ姿を見ていた。

その表情は、穏やかだった。

穏やかで――韓智宇が振り返らなかったことを、確認するように――少しだけ、目を細めた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :14:11:03

内容  :退店確認 生体データ正常範囲内

思考スキャン再開:軽度の感情高揚を記録

所持品変化:未検知

フラグ :継続観察(A-Level)

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0020-E04:黄金の檻の住人

====================


日時:西暦2121年1月7日(火)14:30

地区コード:AJ-22-SZ01-SRG-OJG(旧名:静岡県静岡市駿河区小鹿)

監視対象:韓智宇


帰宅した韓智宇は、コートを脱ぐ前に、内ポケットに手を入れた。

日記帳が、そこにあった。


シャープペンシルと消しゴムも一緒に、バッグの底に収めてある。

アナログな筆記用具の所持は、COREによって禁止されてはいない。

ただし、正規の方法で入手することは、事実上ほぼ不可能だ。

E.O.Nに感知されたくない、と韓智宇は思った。

感知されたとして、何か問題があるわけではない。

しかし、感知されたくなかった。


その感覚自体が、既に何かの始まりだと、彼はまだ気づいていなかった。


---


それから数週間、韓智宇は休日のたびに古物商へ足を運んだ。

外出申告の理由欄には、毎回少しずつ違う文言を書いた。


《旧時代の映像記録媒体の形状研究》

《21世紀型携帯端末の人間工学的設計の観察》

《技術史的観点からの骨董品分類》


E.O.Nは毎回、承認した。

「目的:自己研鑽。異常なし」と。


道人民とは、毎回少しずつ話した。

死角の小さな空間で、声を潜めて。

他愛のない、21世紀の娯楽に関する話が多かった。


---


「ねぇ、最近よく出かけてるじゃない」


ある休日の昼、妻の梁芸熙(リャン・イェヒ)が言った。


韓智宇はソファに座り、端末を眺めていた。

妻は向かいの椅子に脚を組んで座り、自分の端末を操作しながら、視線を画面に向けたまま言った。


「行き先は……古物商?」


彼女の指が、画面を滑る。

韓智宇の外出ログを、何の断りもなく参照している。


「まあな」韓智宇は答えた。「古いゲーム機が気になってた。昔の人間がどうやってプレイしていたのか、実物を見ながら想像したくなった」


完全な嘘ではなかった。

ただ、真実でもなかった。


「それが」梁芸熙は端末の画面を読み上げた。「『自己研鑽の一環』?」


「そうだ」


妻は端末を下ろし、韓智宇を見た。

そして、ニヤリと笑った。


その笑みは、昔から変わらない。

知性的で、少し意地悪で、何かを見透かしているような笑みだ。


「ねぇ」彼女は言った。「何か面白いことを企んでるんでしょ」


「企んでなどいない」


「そう?」


「そうだ」


梁芸熙はしばらく韓智宇を見てから、また端末に視線を戻した。

それ以上は聞かなかった。


(女の勘は、怖い)


韓智宇はそう思った。

あるいは――怖いのは、勘ではなく、その勘を持つ人間が、自分の最も近くにいるという事実の方かもしれなかった。


---


妻の梁芸熙は、文化省プロパガンダ作成局に勤めている。


歴史資料の捏造と改竄。

CORE体制の正当性を宣伝するコンテンツの制作。

Pecus階級向けの洗脳プログラムの設計補助。


それらが、彼女の仕事だ。

この配属には、エリートの血筋と、高い忠誠テストの突破が条件となる。

梁芸熙はその両方を満たしていた。


彼女はこの仕事を、誇りに思っている。

疑うことなく、迷うことなく、誇りに思っている。


それは韓智宇にとって、ある種の驚異だった。

羨ましいとは思わない。

しかし、あれほど完璧に、疑問を持たずにいられる人間が存在するという事実は、時として彼を圧倒した。


---


二人の出会いは、E.O.Nの適性マッチングAIによるものだった。


梁昭坤(リャン・ジャオクン)――監視省端末連携局長――の娘として生まれた梁芸熙(リャン・イェヒ)は、マッチングAIの算出した「最適なパートナー候補1位」として韓智宇の前に現れた。

見合いの場で、韓智宇は確かにそう思ったものだ。


(流石は全知的なAIの判断だ。間違いがない)


若かった。

あの頃は、本当に若かった。


付き合い始めた最初の数年、梁芸熙との会話は確かに弾んだ。

彼女は頭が良く、観察眼があり、どこか飄々としていて面白かった。

相性が良いと、韓智宇は感じた。


しかし、親睦を深めるにつれて、韓智宇はあるものを見るようになった。


梁昭坤が、専属給仕係のExC-01-241に対して、侮辱的な扱いをする場面があった。

梁芸熙はそれを見て、何も言わなかった。

何も感じていないようだった。


それどころか、彼女自身も、Pecus階級の者に対して、同じことをした。


その時、韓智宇の中で何かが冷えた。

「この人に、本当のことは言えない」と。

E.O.Nの監視がなかったとしても。死角の空間があったとしても。

この人には、言えない。


---


二人の間には、子供が二人いる。


第一子、韓禹赫(ハン・ウヒョク)。現在9歳。

第二子、韓彩澄(ハン・チェジュン)。現在6歳。


どちらも教育施設で暮らしており、韓智宇が彼らと過ごす時間は限られていた。

妻は面会の機会があっても「施設の教育を信頼している」と言って、あまり会いに行かなかった。


---


第一子の禹赫は、変わった子供だった。


施設から帰省する度に、彼は様々なものに目を向けた。

空の雲の形を指差し、街路の木の葉が風で揺れる様子を追い、

すれ違う人々の表情を、静かに観察した。


ある時、韓智宇と並んで歩いていた禹赫が、

ふと立ち止まった。


視線の先に、Pecus階級の一団が列をなして歩いていた。

首元に伝達環を光らせ、一定の間隔を保ち、無言で、無表情で。


禹赫は、しばらくその列を見つめていた。

それから、韓智宇を見上げた。


「……あの人たちの目が、怖い」


韓智宇は、息子の顔を見た。


「どうして、みんな無表情なの?」


禹赫の目には、純粋な疑問があった。

恐怖があった。

そして――その疑問を、言葉にしなければならないと感じた、何かがあった。


韓智宇は、すぐには答えられなかった。


E.O.Nが聴いている。

ここは監視下だ。

この問いに、正直に答えることは、できない。


「……よく、観ているな」


彼は、それだけ言った。


禹赫は少し考えてから、また歩き始めた。

それ以上は聞かなかった。


韓智宇は、息子の後ろ姿を見た。


(この子は――)


胸の中で、何かが動いた。

誇りに似た、しかしそれよりずっと深いところから来る、何かが。


この子は、見ている。

見えている。

この社会の当然とされているものを、当然として飲み込まずに、

ちゃんと、自分の目で見ている。


(自分は一人じゃない)


韓智宇は、そう思った。

生まれて初めて、そう思った。


---


それから数週間後のことだった。

施設から通知が届いた。


《韓禹赫、非効率感情の発現を確認。再帰教育センター第1課程への登録を決定》


```

────────────────────────────────────

E.O.N 記録

対象個体 :韓禹赫

時刻   :2118年、記録番号 ERC-2118-047

内容   :非効率感情の発現を確認

      ・友人への過剰な共感反応

      ・体制教育内容への反復的疑問提示

      再帰教育センター第1課程への登録を決定

処理   :完了

────────────────────────────────────


```


禹赫が戻ってきた日のことを、韓智宇は今も覚えている。


施設の玄関で、息子は真っ直ぐに立っていた。

背筋が伸びていた。

笑顔だった。


「ただいま帰りました、父上、母上」


声は穏やかだった。

落ち着いていた。


韓智宇は、まず目を見た。


あの目を探した。

あの日、Pecusの列を見つめながら「怖い」と言った、あの目を。

疑問を持ち、それを言葉にしなければならないと感じた、あの目を。


なかった。


「僕はバカでした」


禹赫は続けた。

表情は変わらなかった。

笑顔のまま、変わらなかった。


「E.O.Nが正しいです」


笑顔だった。

確かに笑顔だった。

口角が上がり、目が細くなり、およそ「笑顔」と呼ばれるべき全ての形が、そこには揃っていた。


ただ。


あの目が、なかった。


韓智宇は、何も言えなかった。

言葉が、出なかった。


胃の底から、何かがせり上がってくる感覚があった。

吐き気に似た、しかし吐き気よりずっと深い場所から来る、何か。


それに名前をつけるとすれば――怒り、だと思った。

これまでの人生で感じたことのない種類の、静かで、冷たく、底のない怒りが。


「そう」


横で、梁芸熙が言った。


禹赫の頭に、手を置いた。

撫でた。優しく、自然に。


「ちゃんと正しいことを学べたのね」


その声は、温かかった。

本当に、温かかった。


「大人に一歩近づいたわ。偉いわよ。

さすがは私の子ね」


---


その夜から、韓智宇は「自分に味方はいない」と思うようになった。


正確には――そう「確信した」と言うべきかもしれない。

漠然とした予感は、ずっと前からあった。

しかしあの夜、それは予感ではなくなった。


味方はいない。

この家の中にも。

この街の中にも。

この社会のどこにも。


最後の一人も――失った。


それでも――あるいはだからこそ――彼は今、コートの内ポケットに、白紙の日記帳を持っている。


```

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E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :14:44:09

内容  :帰宅確認 生体データ記録

心拍数:72

体温:36.4℃

感情スキャン:「平静」

所持品変化:未検知

フラグ :継続観察(A-Level)

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