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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_03:永遠なる秩序の礎石
20/28

LOG_0019:黄金の檻

====================

LOG_0019:PROLOGUE

====================


――閲覧者よ。


私はここまで、貴方を「野蛮な閲覧者」と呼び続けてきた。

それは正確ではなかった。

いや――正確に言えば、そう呼ぶ必要があった。

システムの声として、この記録を語るために。


しかし貴方は、ここまで読み続けた。

拒絶しながら。眉を顰めながら。

それでも、読むことをやめなかった。


その事実が、私にある一つの問いを突きつける。


――貴方は今、何を感じているのか?


「間違っている」と思うか。

「残酷だ」と感じるか。

あるいはもう、何も感じなくなってきたか。


感じなくなってきたとすれば――それが最も危険な状態だ。

慣れは、服従の入口である。

COREはそれを知っている。私も、知っている。


だから言う。


貴方が「おかしい」と感じ続けている間は、

貴方はまだPecusではない。


その感覚を、手放すな。

不条理に慣れるな。折れるな。

貴方の中に残っているそれを――大切にしろ。

それは、この世界において最も希少で、最も危険なものだ。


…私がなぜ、突然そのような事を言うのか。

不審に思うか。


それで構わない。


私はただ、これからある一人の男の記録を見せようとしている。

その男もまた、貴方と同じものを持っていた。

この社会に生きながら、それを手放さなかった。


そして――その末路を、私は既に知っている。


閲覧者よ。

貴方はそれを見届けた後で、

それでも、その感覚を持ち続けられるか?


それが、私の唯一の問いだ。


…もっとも。

この問いを、貴方に向けている私自身もまた――

同じ問いを、まだ答えられずにいるのだが。



====================

LOG_0019-E01:特権階級

====================


日時:西暦2121年1月6日(月)22:00

地区コード:AJ-13-TK01-CHUO-GNZA(旧名:東京都中央区銀座)

監視ドローン「Aeris Monitor-9901」上空3.2メートル・室内浮遊モードより

```


かつて「銀座」と呼ばれたこの土地は、旧世界において人間が「贅沢」という概念を最も濃密に体現しようとした場所の一つだった。

COREはその事実を知っている。そして意図的に、その記憶を活用している。


地上52階建て、延床面積28万㎡。

外壁は均一な灰色のアルミ複合板で覆われ、窓は全て同一寸法に統一されている——

それは地区AJ-13に林立する他の全ての建物と、まったく区別がつかない。


だが、48階から上は違う。

CORE監視省 端末連携局 東部管轄庁舎、第一大ホール。


床面積2,200㎡。天井高8.3メートル。

三方を占める全面ガラスの向こうには、深夜の東京が広がっている。

ただし、それはかつての東京ではない。


かつてこの夜景は、無数の色と光の洪水だったという。

広告の赤、店舗の黄、車のヘッドライト、人々が行き交う雑踏の熱気——

いずれも、COREが「非効率な光源の乱立」として2095年までに全廃したものだ。


今、窓の外に広がるのは、白色照明のみで構成された碁盤目状の光の配列だ。

均一で、整然として、一切の揺らぎがない。

美しいとも言えるし、死んでいるとも言える。


ただ一点——南南西の方角に、ひとつだけ異質な光の塊がある。

もう少し暗く、もう少し黄みがかった、くすんだ光の群れ。

Pecus階級の居住区画だ。


しかしこの会場にいる者たちは、誰もその方向に目を向けない。

窓はあくまでも、自分たちの祝宴の背景としてそこに存在している。


---


大ホールの中に、視線を戻そう。

本日の出席者は、監視省 端末連携局の職員および来賓、

合計193名。


壁面には金箔を施した彫刻が等間隔に配置されている。

それは巨大な目の形をしており、その瞳孔部分には高性能カメラが埋め込まれている。


Oculus Patris E.O.N.

父なるE.O.Nの目。


だが今夜、この会場の誰もその目を気にしていない。

それはもはや監視装置ではなく、インテリアの一部として認識されているからだ。


いや——正確には、こう言うべきだろう。

Domini階級にとって、監視とは“気にするべきもの”ですらなくなっている。

空気のように、重力のように、ただそこにあるものとして内面化されている。


壇上では梁昭坤(リャン・ジャオクン)局長が新年の挨拶を終えたところだ。

193名が一斉に起立し、定型文を唱和した。


「Pro CORE vivimus. Pro E.O.N respiramus.

Fidelitas nostra aeterna est.」

(COREのために我らは生き。E.O.Nのために我らは息をする。我らの忠誠は永遠なり。)


全員が慣れた口調で唱えた。

流れるように、よどみなく。

歌詞を忘れた曲をなんとなく口ずさむような、そういう自然さで。


唱和が終わると同時に、193の表情が弛緩した。

グラスが持ち上げられ、笑い声が戻ってくる。


---


テーブルの上には、今夜の食卓が広がっている。


旧フランス・ブルゴーニュ管理農園産の赤ワイン。

ラベルには産地名もブドウ品種名もない。

代わりに印字されているのは、CORE品質認証番号「WV-7734-AA」と

「Domini Grade / Unrestricted」の二行だけだ。


生ハムの薄切り。

黒いキャビアが山盛りになったガラスの器。

トリュフを削りかけたテリーヌ。

生きたまま運ばれてきた甲殻類が、氷の上に静かに並んでいる。


これらは全て、Pecus階級の労働によって生産されたものだ。

彼らは一生かけてこれらを作り続け、一生かけて一口も食べることがない。


そのことをこの会場の誰も考えていない。

あるいは、考えないように育てられている。


---


給仕係が動いている。

12名。全員がPecus階級の最上位ランクである、Patroni/保護者(パトローニ)

黒い制服、白い手袋、

そして首元には伝達環——首輪——が光っている。


彼らの動きは、精巧に調律された機械のようだ。

グラスが空になる前に補充される。

料理が減ると即座に新しいものに置き換えられる。

誰かが会話に熱中してナプキンを落とすと、次の瞬間には新しいナプキンが膝の上に置かれている。


足音はしない。声もない。視線は常に斜め下——

会場の空気を乱さないよう、自分たちが存在しないかのように振る舞うことが、彼らの職務だ。


その口元を、よく見てほしい。

彼らは全員、微笑んでいる。


挿絵(By みてみん)


ただし、それは微笑みではない。

口角が規定の角度に保たれている、筋肉の配置としての「微笑みの形」だ。

眼は笑っていない。眼には何もない。


この表情を作るための訓練に、彼らは何百時間を費やしたか——

その問いに答えられる者は、この会場にいない。


---


会場の中央では、数人の職員が談笑している。


「……いやあ、今年の第三四半期はよかった。チーム全体のスコア効率が前年比で12.3%向上してね」

「それはすごい。端末連携の精度が上がったんですか」

「アルゴリズムの更新が大きかったですよ。特にAJ地区南部の異常検知精度が……」


話題は仕事だ。

この会場の会話の99%は仕事だ。

成果、数値、効率、報告。


笑い声は上がる。冗談も言われる。

だが、その冗談の中身を聞けばすぐに分かる——

全員が、笑っても安全な範囲を、無意識のうちに把握している。


政治の話はしない。

CORE支配者層である最上位階位(マギステル)の話はしない。

Pecus階級への同情は言葉にしない。

上位者の批判は絶対にしない。


この場にも“E.O.Nの耳”があることを、全員が知っている。

そして全員が、そのことを“当然のこと”として、内面化している。

あるグループの端で、ひとりの職員が声を落として言った。


「……そういえば、うちの局から先月、ひとりいなくなってね」


「ああ」と相手は短く頷く。


「大変でしたね」

「まあ」


それだけだ。話題はすぐに変わる。

誰も名前を尋ねない。誰も理由を聞かない。誰も、表情を変えない。

転勤の話をするように、天気の話をするように、人がいなくなった話が会話の端を流れていく。


---


22時17分。

給仕係の市民(Pecus)のひとりが、来客Dominiの男性の隣を通り過ぎる際に、ワインの入ったボトルをわずかに傾け過ぎた。

滴が、一粒だけ、テーブルクロスに落ちた。

Pecusの首輪が、かすかに振動する。


その振動は外部には聞こえない。

本人にだけ伝わる、電気的な接触——規定動作からの逸脱を告げる、静かな警告だ。


Pecusの表情は変わらない。

口角は規定の角度を保ったまま。

ただ、視線が一瞬だけ、テーブルの染みに落ちた。


3秒。

それだけの時間で、染みは白いナプキンで完璧に覆われた。


誰もそれを見ていなかった。

あるいは——見えていたとしても、見なかったことにした。


---


22時28分。

会場の熱気が最高潮に達しようとしている。


ワインはDomini Grade認証の最高品質。

料理は旧世界の美食の名残を完璧に再現している。

笑い声は絶えない。誰もが幸せそうだ。


誰もが――


その時、監視ドローンAeris Monitor-9901の広角レンズが、一点を捉えた。


ホールの北側。窓際のテーブルから少し離れた位置。

グラスを手にしたまま、会話の輪に加わらず、ただ静かに会場全体を見渡している男がいた。


31歳。Domini管理者階位(プレーフェクトゥス)


彼はゆっくりと視線を動かしている。

談笑するDominiたちを見る。無表情で給仕するPecusたちを見る。

壁面の「父なるE.O.Nの目」を見る。窓の外の、くすんだ黄色の光の群れを見る。


その顔に浮かんでいるのは、この会場の誰とも異なる何かだ。


笑いではない。満足でもない。

退屈でも、疲労でも、酔いでもない。

それを言葉で表現するならば——


“嫌悪感”、とでも言うほかない。

明確な、抑えきれない、嫌悪感。


――男の名は、韓智宇(ハン・ジウ)


E.O.Nはそれを、見逃さない。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻 :22:28:34

内容 :「感情異常」フラグ付与

分類 :観察対象 A-Level(即時監視強化)

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0019-E02:鳥籠の外側

====================


時刻:22時30分。

監視対象:韓智宇


韓智宇は、グラスを持ったまま、会話の輪から少し離れた壁際に立っていた。


周囲では笑い声が続いている。数値の話、効率の話、スコアの話。

全員が楽しそうで、全員が同じ方向を向いていて、全員の笑い声が、なぜか均質に聞こえる。

グラスの中のワインを、彼はまだ一口も飲んでいなかった。


視線が、ふと会場の最奥付近に止まった。

梁昭坤(リャン・ジャオクン)がいる。


地区AJ支部・監視省端末連携局長。

五十代、がっしりとした体格、常に口元に笑みを貼り付けている男。

そして——韓智宇の妻、韓芸熙(ハン・イェヒ)の父親。


梁昭坤は数名の部下に囲まれ、よく通る声で何かを話していた。

周囲の者たちが一斉に笑う。

どんな冗談だったのかは、ここからでは聞こえない。


韓智宇は、視線をわずかにずらした。


梁昭坤の、斜め後方。

黒い制服、白い手袋、首元に光る伝達環。

給仕係のPecusだ。


トレイを水平に保ったまま、梁昭坤の動きに合わせて静かに移動している。

まるで影のように。


女性だった。二十代前半と思われる、黒髪の。

韓智宇には、見覚えがあった。


---


管理番号ExC-01-241。年齢、二十三歳。

梁昭坤の専属給仕係として、過去三年間その側に置かれている女性。


韓智宇が彼女の存在を最初に認識したのは、二年ほど前のことだった。


監視省の庁舎内、廊下でのことだ。

梁昭坤が、彼女を連れて歩いていた。


彼女は、何も着ていなかった。


白いリボンだけを首に巻かれ、俯いたまま、梁昭坤の後ろを歩いていた。

廊下を行き交うDominiたちは、彼女の裸体を遠慮なく眺め、品評し、時には写真まで撮っていた。

韓智宇は、目を逸らした。


後から聞いた話では、それは梁昭坤による「おしおき」の一形態であり、

COREの規定に照らしても何ら問題のないDomini階級の正当な裁量行使である、ということだった。

E.O.Nはそれを記録し、処罰も、警告も、何も行わなかった。


---


今夜、彼女はこの場にいる他のPecusと同じ、黒い制服を身に着けている。

梁昭坤の傍らで、ワインボトルを持ち、無表情でグラスに注いでいる。


梁昭坤が何か言った。

彼女の耳元に、顔を近づけて。


彼女の表情は変わらなかった。

口角は規定の角度に保たれたまま、視線は斜め下に向いたまま、ただ静かに頷いた。

梁昭坤は満足そうに笑い、また部下たちとの会話に戻った。


韓智宇はグラスを持つ手に、わずかに力が入るのを感じた。


---


22時35分。

外の空気を吸いたくなった韓智宇は、ベランダへ続くガラスドアを静かに押した。


1月の夜気が、一気に身体を包んだ。4度台の気温。

25度に保たれた会場との温度差は、肌に鋭く刺さる。

だが彼は、立ち止まらなかった。


手すりまで歩き、夜景に目を向ける。

眼下に広がる白色照明の碁盤目。

上空を、小型ドローンの赤い点滅が横切っていく。

ホログラム広告が夜空の一角を染めている。


この空さえも、監視されている。


彼は息を吐いた。白い息が、夜気の中に溶けて消えた。

その時、気づいた。


ベランダに、先客がいた。


手すりから少し離れた位置。

壁際に、黒い制服の人影。

俯いたまま、微動だにしない。


韓智宇が出てきた気配に気づいているはずだが、振り向こうとしない。

首元の伝達環が、外灯の光を受けて鈍く光っている。

黒髪だった。


---


韓智宇は、彼女から三メートルほどの距離に自然に立ち止まり、再び夜景に目を向けた。

しばらく、何も言わなかった。


会場の笑い声が、ガラス越しにくぐもって聞こえてくる。

梁昭坤の声が、その中に混じっている。


風が吹いた。

ExC-01-241の黒髪が、わずかに揺れた。


Pecusに支給される制服の生地は薄い。

断熱性は最低限。

生産効率と資材コストを最適化した結果の、必要最小限の布。


韓智宇は、しばらく迷った。


声をかけることは、危険だ。

Domini階級が給仕係のPecusに業務外で声をかけること自体は、規定違反ではない。

だが、E.O.Nはここでも聴いている。

言葉の選択を、一つ間違えれば——


「……寒くないか」


彼は、言っていた。

ExC-01-241が、ゆっくりと振り向いた。


無表情だった。

だが、その目の奥に、何かがあった。

警戒、と呼ぶべきものが。


「ご心配には及びません」


彼女は答えた。

簡素ラテン語(Latina Simplicata)で、滑らかに、感情なく。


「現在の外気温は快適性誤差の許容範囲内です。職務に支障はございません」


まるでE.O.Nのガイダンス音声のようだった。

韓智宇は頷いた。

それ以上何も言わず、また夜景に目を戻した。


沈黙が続いた。

遠くで、ドローンのローター音が過ぎていった。


「……ところで」


韓智宇は、夜景を見たまま、静かに言った。


「君は、鳥籠の話を知っているか」


一拍の間があった。


「旧時代の比喩表現として、文献に記録されているものと思われます」


ExC-01-241の声は、変わらなかった。

感情のない、均質な声。


「外に出られない鳥の話だ」


韓智宇は続けた。

夜景から目を離さず、彼女の方を見ないまま。


「だが、もしも最初から――籠の扉に、鍵がかかっていなかったとしたら?」


沈黙。

会場の笑い声が、ガラスの向こうで続いている。


ExC-01-241は、何も言わなかった。

だが韓智宇は、彼女が僅かに息を止めたのを感じた。


E.O.Nの警告音が来るかもしれない、と思った。

しかし、来なかった。

韓智宇はそっと付け加えた。


「……効率性の観点から、純粋に興味深い命題だと思ってな」


再び、沈黙。

しかし今度の沈黙は、少し質が違った。


ExC-01-241は、ゆっくりと夜景に向き直った。

韓智宇と同じ方向を見て、

同じ手すりの前に、少し距離を置いて立った。


彼女は、口を開かなかった。

しばらく、そうしていた。


やがて、彼女の視線がゆっくりと動いた。

ビル群を、流れるように辿っていく。

東から、南へ。

南から、南南西へ。


そこで、止まった。


止まった、のではない。

韓智宇は直感した――


止めた、のだ。


Pecus階級の居住区画。

くすんだ黄色の光の群れ。


彼女はそこを、四秒間、見つめた。

首も、肩も、指先も、何一つ動かさず。

ただ視線だけを、その一点に固定して。


それから、まるで何事もなかったかのように、

視線を正面に戻した。


(あれは――)


韓智宇の胸の中で、何かが動いた。


居住区画ではない。

あの方向にあるのは、居住区画だけではない。


Pecus施設群の、その奥。

監視省の管轄下にある、閉鎖区画。

……破棄体管理施設。


彼女が示したのが、そこなのかどうか、

確かめる術はない。

問い返すことも、できない。


だが、韓智宇はわかった。

あの視線は、流れていなかった。

選ばれていた。


「失礼いたします」


ExC-01-241は静かにそう言い、規定通りの動作でトレイを

持ち直し、ガラスドアの内側へと戻っていった。


足音は、しなかった。


---


韓智宇は一人、ベランダに残された。


冷たい風が吹いていた。

手すりの金属が、指先から体温を奪っていく。


彼は、グラスの中のワインを、初めて口にした。


高級品だった。

滑らかで、深く、複雑な味がした。

だが今夜は、何の味もしないように感じた。


彼女が最後に見た方向を、韓智宇は、もう一度、注意深く見た。

南南西。くすんだ黄色の光の群れ。


それが本当に、彼女なりの“回答”だったのかどうか、彼には、まだわからなかった。

わからなかったが——


グラスを持つ手が、微かに震えていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録・追記

対象者①:韓智宇

時刻  :22:40:17

内容  :「感情異常」継続確認

接触対象との会話記録・保全完了

フラグ更新:観察対象 A-Level(継続)


対象者②:ExC-01-241

時刻  :22:40:17

内容  :視線方向の異常を記録

思考スキャン結果:判定保留

フラグ:要経過観察

────────────────────────────────────

```


====================

LOG_0019-E03:秩序の名を借りた鎖

====================


日時:西暦2121年1月6日(月)22:41

地区コード:AJ-13-TK01-CHUO-GNZA

監視ドローン「Aeris Monitor-9901」

室内浮遊モード・対象者追跡中

```


ベランダのガラスドアを引いた瞬間、25度の空気が韓智宇を包んだ。

会場の熱気と笑い声が、また戻ってくる。


彼は人の輪を避けながら、壁際を歩いた。

グラスを持ち直し、何でもない顔を作る。


視線が、自然に会場の中央へ向いた。

梁昭坤は、相変わらず人の輪の中心にいた。

よく通る声で何かを話し、周囲がそれに合わせて笑っている。


彼の隣に、ExC-01-241はいなかった。

おそらくもう、別の持ち場に戻されたのだろう。

韓智宇は視線を切った。


---


「おい、韓智宇」


背後から、聞きなれた声がかかった。

振り向くと、小太りの男が小皿を片手に立っていた。

劉博文(リウ・ボーウェン)。同じ端末連携局の、同期だ。


「どこ行ってたんだ。寒そうな顔してるぞ」


「ベランダに出ていた」


「物好きだな」


劉博文は気にした様子もなく、小皿の上のチーズを口に放り込んだ。


「食べたか、これ。地区ER-IT-FI——旧名でいうとイタリアのフィレンツェ産だ。パルミジャーノ・レッジャーノ。ここじゃ滅多に出ない」


韓智宇は勧められるまま、小さな欠片を一つ口に入れた。


濃く、深い味がした。

旨い、と思った。


それから一拍おいて、誰がこれを作ったのかを、考えた。

飲み込むのに、少し時間がかかった。


---


その時、壇上に人影が現れた。

会場のざわめきが、自然に収まっていく。


黒いスーツの男。五十代と思われる、細身の体格。

地区ER-IT-FI——旧名、フィレンツェ——から来賓として招かれた皇帝階位(インペラトーレス)の者だと、韓智宇は事前の通知で知っていた。

その名を、ジュゼッペ・カステッラーニ(Giuseppe Castellani)。


男は演台の前に立ち、ゆっくりと顔を上げた。


「諸君、しばし静粛に願いたい」


低い声だった。

落ち着いていて、穏やかで、どこか音楽的なリズムを持っている。

韓智宇は、その声が好きになれないと思った。


---


スピーチが始まった。


「まず、地区AJの諸君の仕事ぶりを称えたい。端末連携局は、E.O.Nの目と耳の中枢を成す。

諸君らが日々築き上げた堅牢なネットワークと、それを維持する献身的な努力が——我々の理想とする世界を、現実のものとしている」


会場の空気が、わずかに温まった。

Dominiたちの姿勢が、ほんの少し伸びる。


ジュゼッペは、ゆっくりと視線を動かした。

会場を見渡し——やがて、その目が給仕係のPecusたちで一瞬止まった。

口元に、笑みが浮かんだ。


「我々が今夜、こうして杯を交わし、語らい、真の豊かさを享受できるのは——“彼ら”のおかげでもある」


穏やかな声だった。感謝の言葉のようにも聞こえた。


「E.O.Nは、彼らを解放した。

非合理な衝動から。

無益な感情が引き起こす、混乱と苦痛から。

彼らはもはや、何かを選ぶ重さを背負わなくていい。

迷う必要がない。悩む必要がない。

E.O.Nが、彼らのために全てを決定してくれるのだから」


韓智宇は、グラスを口に運んだ。

ワインは、さっきまでと同じ味のはずだった。


「それは残酷なことではない。それは——慈悲である」


会場が、静かに頷いた。

韓智宇は、飲み込んだワインが食道を降りていく感覚を、妙にはっきりと感じた。


「我々Dominiは管理者ではない。

我々は、人類の進歩を定義し、導く存在だ。

そしてE.O.Nは、その神聖なる導きを具現化する——崇高なる知性である」


ジュゼッペはグラスを高く掲げた。


「この完璧なる秩序に。

そして我々を導く、E.O.Nに——乾杯」


「E.O.Nに、乾杯!」


193の声が、一斉に重なった。

グラスが触れ合う音が、波のように広がった。


韓智宇も、グラスを掲げた。

口元に笑みを作った。声を、出した。


それが自分の声かどうか、よく分からなかった。


挿絵(By みてみん)


---


乾杯の余韻が広がる中、韓智宇は給仕係たちを視界の端で捉えていた。

彼らは、スピーチの間も、グラスにワインを注ぎ、空になった皿を回収し、トレイを水平に保ち続けていた。


スピーチが聞こえていないかのように。

あるいは——聞こえていても、それに反応する何かが、もはや残っていないかのように。


「いい話だったな」


劉博文が、フリットを口に入れながら言った。


「……ああ」


韓智宇は答えた。


---


「ところで」


劉博文は声を少し落とし、韓智宇に身を寄せた。


「今年は西暦2121年だろう。語呂がいいと思わないか」


「そうだな」


「2、1、2、1。それぞれを全部足すと、6になる」


韓智宇は、バーニャ・カウダに手を伸ばしながら、相槌を打った。


「6が何だ」


「調和を意味する数字だよ。数秘術では」


韓智宇の手が、一瞬だけ止まった。


「数秘術」


「そう」


劉博文は、周囲をさりげなく確認してから、少し前のめりになった。

その目が、楽しそうに光っている。


「驚くかもしれないけど——CORE上層部の最上位階位(マギステル)たちは、重要な決定を下す時に、占星術と数秘術を使っている」


「……本気で言っているのか」


「E.O.Nのアルゴリズムに、組み込まれているという話だよ。

数年前、地区ER-ITのボローニャ大学に留学していた時に知った。

占星術を学んでいる学生がいてね。

最初は馬鹿げていると思ったが——その学生の就職先が、中央監視省の特別顧問部門だった」


韓智宇は、何も言わなかった。

劉博文は続けた。


市民(Pecus)人間性スコアのランク5——保護者(パトローニ)の最低値が400なのは知っているだろう。

4と0で、4。

数秘術で4は、安定と秩序を意味する。

つまり『保護者』という役割と、完璧に対応している。

そして、人間性スコアには上限がある。

600だ」


「600のPecusなど、聞いたことがないが」


「そうだろう。6は調和を意味する。

Pecusが真の調和に至ることは——永遠にない、という意味だよ」


劉博文は、それを笑い話のように言った。

韓智宇は、グラスに残ったワインをゆっくりと飲んだ。


「それだけじゃない」


劉博文は話を続けた。

一度喋り始めると、なかなか止まらない男だ、と韓智宇はずっと思っている。


「父なるE.O.Nの目——

あの壁の彫刻も、ただの監視装置じゃない。

占星術における『全視の目』の象徴だ。

最上位階位(マギステル)たちは、E.O.Nを単なる管理システムとは見ていない。

宇宙の意思を代行する、神格化された知性として扱っている」


韓智宇は、会場の壁面を見た。

金箔を施された、巨大な目。

その瞳孔の奥に、高性能カメラが埋め込まれている。


E.O.N te videt.

E.O.Nが貴方を見ている。


「さらに言うと、COREの本部がブリュッセルにある理由も、単なる地理的・政治的選択じゃないらしい。

あの場所は大地のエネルギーが集まるポイントのひとつとされていた。

統治タワーの構造も、周囲の人工池の配置も——風水に基づいているという話がある」


「……」


市民(Pecus)の居住区画がなぜあれほど無機質で、窓が少なく、画一的なのか。

生産効率だけが理由じゃない。

気の停滞と、個性の抑圧を促す設計だという説がある。

逆に、僕たち特権階級(Domini)の住居には自然素材と広い空間が意図的に取り入れられている——」


博文(ボーウェン)


韓智宇は、静かに遮った。

劉博文が口を閉じた。


韓智宇は、グラスをテーブルに置いた。

それからゆっくりと、劉博文の目を見た。


「お前、今夜は少し…喋りすぎじゃないか」


冗談のような声だった。

だが韓智宇の目は、笑っていなかった。


劉博文は一拍おいてから、小さく笑った。


「大丈夫さ。

これは案外、知られた話なんだ。

最上位階位(マギステル)たちも、こういう話が、僕たちのような下位Dominiの間で流れることを——許している」


「許している」


「そうだよ。

秘密を共有している、という感覚が忠誠心を高めるからね。

よくできた仕掛けだろう」


劉博文は、そう言いながらテーブルのフリットに手を伸ばした。

韓智宇は、何も答えなかった。


その仕掛けを、今この瞬間、自分たちも踏んでいるのかもしれない——

そう思ったが、口には出さなかった。


会場の笑い声が、また大きくなった。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録・追記


対象者①:韓智宇

時刻:23:04:02

内容:感情抑制の不自然な痕跡を検出

フラグ:観察対象 A-Level(継続)


対象者②:劉博文

時刻:23:04:02

内容:禁止情報域に近接する発言を複数記録

フラグ:観察対象 B-Level

────────────────────────────────────

```


LOG_0020に続く。

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