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実家での温かい時間──そして、両親がすっかりあの男に陥落し、父にいたっては式典服のサイズを気にし始めているという絶望──を経て。
明くる日、セレナはいつも通りアルノー伯爵邸の教室に立ち、いつも以上に気合を入れて授業に臨んでいた。
「──ですから、夜会などの実戦の場において、不躾な視線や言葉を投げかけられた際は、感情を露わにしては負けです。淑女の微笑みを浮かべたまま、相手の非礼を優雅に、かつ論理的に突き返す。それこそが、貴方がたの身を守る最高の盾になります。ただし、全ての方が論理的に対応してくださる訳ではありません。手に負えないと思ったら、周りの力を借りて雰囲気を作るのも大事です」
「はい、先生」
マルグリットとレイナルドは、先日の王城で王太子殿下たちに褒められたということで、大きな自信になったようだった。いつも以上に目を輝かせ、セレナの言葉を一言も聞き漏らすまいと熱心にメモを取っている。
(これこそが私の生きる道だわ)
セレナは家庭教師としての充実感に胸を膨らませていた。いつもなら授業終わりに現れるはずの男が、今日は珍しく、授業中にカチャリと扉を開けて入ってくるまでは。
「やあ、先生。熱心なところ悪いけれど、ちょっといいかい?」
上着を片手に、長身をドア枠に預けているのはレオンだ。その指先には、ゴールドの縁取りが施された、いかにも高貴な一通の手紙がひらひらと揺れていた。
いつもと違うレオンの登場に、レイナルド達も目を丸くして視線を向ける。
「アルノー様。まだ授業時間ですが、何か急用でしょうか?」
セレナが少し眉をしかめて咎めると、レオンはくくっと愉しげに喉を鳴らし、手にした手紙をセレナの目の前でこれ見よがしに広げてみせた。
「近々、王宮で盛大な夜会が開催されるんだ。もちろん、マルグリットとレイナルドの出席はすでに決定事項なんだけどね。……そこで相談なんだが、先生はどうする? 君が手塩にかけて育てた二人の成果、実戦の場で直に見に行きたくないかい?」
レオンの言葉に、セレナはぴくりと眉を動かした。
「……お断りいたします。私は一介の家庭教師に過ぎません。そのような華やかな社交の場など、身分不相応でございます」
「おや、冷たいね。男爵家にだって招待状は来るだろうに。だけど先生、マナーは武器、生きた実務を教える。それが君の教育論だったろう?」
レオンは食えない笑みを深くして、セレナのすぐ近くまで歩み寄ると、彼女の矜持を的確に突き刺すような声を低く響かせた。
「無知な羊が狼の群れに飛び込まないよう、君は二人に最高の武器を渡した。なら、その武器を、二人が狼たちの前でどう使いこなすか──それを見届ける義務が、教育者である君にはあると思わないかい? それにね、殿下も婚約者様も先生が来たら面白いねと、とても楽しみにされていたよ」
「っ……」
ずるい男だ。そんな風に言われては、教え子たちの晴れ舞台を見届けたいという気持ちが刺激されないはずがない。
追い打ちをかけるように、マルグリットとレイナルドがこれ以上なくキラキラした瞳を向けてくる。
「先生、一緒に来てください」
「僕、先生がいてくれたら百人力です!」
教え子たちの可愛いおねだりと、家庭教師としての責任感。その天秤に負け、セレナはついに、小さくため息をついて降伏した。
「……分かりました。お二方の付き添い、およびお目付け役として、会場の隅の壁際から、影のように見守らせていただきます」
「よし、交渉成立」
セレナの承諾を聞いた瞬間、レオンは待ってましたとばかりに、これ以上なく美しく、そして底意地の悪い極上の微笑みを浮かべた。
「あ、言い忘れてたけど、付き添いじゃなくて、当日は私のパートナーとして堂々とエスコートさせてもらうからね。ドレスの手配はするから、サイズだけ教えて?」
「はぁっ!? パートナー!? 聞いていません、そんなこと!!」
「今言ったよ。ああ、断っても無駄だからね。すでに君のご両親には、『いずれ正式に挨拶に伺うための第一歩として、夜会に彼女をエスコートしたい』と手紙で根回しを済ませてある。お父上からも『娘がいいのなら』と快いお返事をいただいたよ」
「お父様が!?」
実家であれほど「娘の気持ちが第一」と毅然と言ってくれたはずの父が、レオンの驚異的な速さの裏工作によってあっという間に買収されていた。絶望だ。淑女の仮面をなぐり捨ててセレナは絶叫した。
「そういうわけだから。明日、採寸の者がカーター男爵邸に行くからよろしくね、先生」
レオンはパチンと片目を瞑ると、風のように優雅に去っていった。
後に残されたセレナは、あまりの逃げ場のなさに、本日何度目か分からない目眩を覚えるのだった。
◇◇◇
ドレスを手配するなんてやりすぎではと思ったが、両親にその家の格式に合わせる必要があるのでは、と諭され、なんとか納得して採寸をしたものの。カーター男爵邸の居間に届けられた、アルノー伯爵家の紋章が入った大きな箱を前に、セレナは完全に硬直していた。
「まあ……! なんて素晴らしいドレスかしら!」
横で母が歓声を上げ、父が眼鏡の位置を直しながら深く頷いている。
箱の中に収められていたのは、最高級のシルクを贅沢に使い、繊細なレースが施された見事なイブニングドレスだった。仕立ての素晴らしさは言うまでもないが、問題はその色である。
(待って。これ、完全に……!?)
森の奥を思わせる深いグリーンの生地に、艶やかに光を放つのは。深く、吸い込まれそうなほど美しい刺繍とアンダースカート。それらは見覚えのありすぎる琥珀色だった。思い浮かぶのは、あの人を食ったような笑みを浮かべる男の顔しかない。
さらに、事前にマルグリットから「当日はこのドレスを着ます」と見せてもらっていたドレスを思い出す。その裾にあしらわれていたものと、全く同じ意匠の刺繍が、セレナのドレスのウエストラインにも施されていた。
これではまるで、アルノー家の令嬢とお揃いだ。──社交界の人間なら、この程度の意匠でも十分に意味を読み取ってしまうだろう。
「なるほど?」
父が、腕を組んでボソリと呟いた。
「お前の気持ちは待つが、あちらの気持ちを隠すことはしないということだな。………だが、お前には恐ろしいほどよく似合うだろう。癪だが、あの男の審美眼だけは認めざるを得ん」
「お父様までそんなこと言わないでください!」
セレナは真っ赤になりながらも、着ないという選択肢はないため、観念してそのドレスに身を包むことにしたのだった。




