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あれから、アルノー伯爵邸での授業は順調に進んでいる。生真面目なアレクシスとセレナの連携は効果を発揮し、レイナルドの勉強の進度はセレナの予想を超えていた。
「──ですからマルグリット様、この法案が通れば、東部の職人たちが納めるべき関税の計算方法が変わります。彼らの生活を守るためには、どの項目を主張すべきだと思いますか?」
「ええと……、ここを原材料ではなく加工品として申請すれば、余計な税を引かれずに済む、?」
「素晴らしいです! 物事の表面だけでなく、その裏にある仕組みを捉えようとすることが大切です」
セレナが微笑むと、マルグリットは少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに目を細めた。隣では、座学を終えたレイナルドが、アレクシスから受けた指示の下、身体を動かしている。
「そういえばセレナ先生、僕、昨日の稽古でアレクシス先生に身体の柔軟性が出てきたって褒められたんです。先生がストレッチの時間を取ってくださっているおかげです」
「ふふ、それはグランヴィル様が日々努力を重ねられているからですよ。文武は車の両輪です。どちらが欠けても、立派な為政者にはなれませんからね」
二人の確かな成長。そして、理路整然と話が通じるアレクシスとの快適な連携。
アルノー家での仕事は、セレナにとってとてもやりがいがあった──あの、ニヤニヤとこちらを観察しては冗談を言ってくる課題魔の男さえ来なければ、だが。
「……そういえば、今日はあのお方の姿を見ませんね」
いつもなら授業終わりに「今日の特別課題だよ」と難解な実務資料を嬉々として押し付けにくるレオンが、今日は現れない。
セレナがホッと胸をなでおろした、その時だった。
「先生、今日の授業もありがとうございました。……あの、これ、兄上からお渡しするようにと」
授業が終わり、片付けを始めたセレナに、マルグリットが少し気まずそうな顔で一通の封筒を差し出してきた。
アルノー伯爵家の美しい紋章が刻まれたその手紙は、いつもの嫌がらせのような分厚い資料の束とは、明らかに雰囲気が違っていた。
「アルノー様から? 今日の宿題は手紙なのですか?」
「いえ……。兄上、今日は王城のお仕事でどうしてもこちらに来られないからって。なんだか、いつになく真面目な顔をしてましたが」
不審に思いながらも、セレナはペーパーナイフで封を切り、中に折り畳まれた上質な紙に目を走らせた。
そこには、いつもの飄々とした口調とは裏腹な、レオンの流麗で迷いのない文字が並んでいた。
『カーター先生
私の主君である王太子殿下が、先生の教育方針に大変深い興味を示されている。ついては、明後日の午後、二人の進捗報告を兼ねて王城の執務室までお越しいただきたい。私がお迎えの馬車を出す。安心して、いつもの鉄壁の先生のままでおいで。
レオン・アルノー』
「は……? 王、城……!?」
手紙を読み終えた瞬間、セレナの思考は本日一回目の停止を迎えた。
一介の臨時家庭教師である自分には、あまりにも分不相応で、巨大すぎる単語。
セレナの脳裏には、以前王城で開催された、王太子の結婚相手を見つけるための大規模な舞踏会の噂が過った。確か、素敵な姫君を見つけたはずだが。まさかあの華やかな世界の中心にある、それも王太子殿下の執務室に自分が呼ばれるなど、何の冗談だろうか。
「先生、顔が真っ白ですが、大丈夫ですか……?」
「ええ、ええ……大丈夫ですわ、マルグリット様。少し、衝撃を受けただけです……」
心配そうに覗き込んでくる生徒にどうにか引きつった笑みを返しつつ、セレナは内心で激しく頭を抱えていた。
(あの変人、王城で一体私の何を話したのよ……!?)
教え子の前という矜持だけでどうにか理性を保ちながら、セレナは二日後に迫った王城召喚に向けて、静かに覚悟を決めるのだった。
◇◇◇
一方的な約束の日、セレナは人生で最も緊張しながら、王城の重厚な大扉の前に立っていた。案内されたのは、一般の人間は立ち入ることすら許されない、王太子殿下の執務室。家庭教師として鉄壁の仮面を被ってはいるものの、セレナの背中には冷や汗が伝っていた。
「カーター先生、お入りください」
カチリ、と扉が開く。
部屋の中にいたのは、圧倒的な覇気を放つ美しい若者──この国の次期最高権力者である王太子殿下。そしてその隣で、今日も今日とて優雅に微笑んでいるレオン・アルノー。
(……あ)
さらに部屋の隅に直立不動で控えている見知った姿を見つけて、セレナは小さく息を呑んだ。レイナルドの武術の家庭教師でもある、アレクシスだ。アレクシスはセレナと目が合うと、規律正しく一礼した。しかしその切れ長の双眸には、いつになく深い、底知れない同情と憐れみの色が乗っている。声には出さないものの、全身から醸し出される労いのオーラに、セレナは別の意味で胃が痛くなった。
しかし、何よりセレナの目を引いたのは、王太子の傍らに座る、大輪の百合のように美しい一人の令嬢だった。先日開催された、王太子の結婚相手を見つけるための舞踏会で、見初められた─ことになっていると噂の、殿下が心に決めた未来の王太子妃。
(まあ……なんておっとりとした、優美な方かしら。男性ばかりの空間で緊張していたけれど、少し安心したわ……)
令嬢の、春の陽だまりのような温かい微笑みに、セレナは密かに胸をなでおろした。
「よく来てくれたね、先生。さあ、そこへ掛けておくれ」
レオンが流れるような動作で椅子を引く。宮廷服に身を包んだレオンは、悔しいほどに見栄えがした。
「レオンから話は聞いている。マルグリット嬢とグランヴィル子息の教育、見事な成果だそうだな。これは君の書いたレポートか」
王太子は手元の書類──セレナがレオンの「宿題」に叩きつけたあの反論レポートの写し──に目を落としながら、低く心地よい声で言った。
「カーター嬢。普通、お仕着せの教育しか受けていない令嬢は、数字の裏にある民の暮らしや、流通の歪みにまでは気づかない。だが君は、グランヴィル子息達にそれをただの知識としてではなく、税制の仕組みを利用して弱者をどう守るかという領主としての判断力を養う形で教えている。レオンが我が国の国宝級の家庭教師だと吹聴するだけのことはあるな」
(国宝級とか言ってたの……!?)
レオンへ盛大な頭痛を覚えつつも、セレナは背筋を伸ばし、真っ直ぐに王太子の瞳を見つめ返した。
「恐れ多きお言葉にございます、殿下。お二方とも元より聡明であらせられます。私はただ、これからの時代を生き抜くための、ほんの少しの武器をお渡ししているに過ぎません」
「武器、か。面白い表現だ。マナーは武器、生きた実務を教える。……だが、それを教えるのは並大抵の覚悟ではできまい? 君がそこまでして二人に実務を叩き込む理由はなんだ」
試すような王太子の鋭い眼光。並の令嬢なら気圧されて平伏するような無言の圧力の中、セレナは家庭教師として、一歩も引かずに毅然と言い放った。
「無知は、牙を持たない羊が狼の群れに飛び込むようなものだからです。特にグランヴィル様のような立場のお方は、知識が足りないというだけで、悪意ある大人たちに容易く踏みにじられます。私は、教え子が理不尽に奪われる側になるのを、教育者として絶対に許したくないのです。己の身を守り、周囲を守るための盾と剣──それこそが、学問であると信じております」
凛とした、迷いのない声が執務室に響く。
王太子は一瞬目を見開いた後、心底満足そうに深く深く頷いた。
「素晴らしい。完璧な回答だ。実に得難い傑物だな、君は」
「本当に……。胸が熱くなるような、素晴らしい教育論ですわ、カーター様」
おっとりと、鈴を転がすような愛らしい声で、婚約者様もまた、深く感動したように目を細めた。最高の評価。教育者としてこれ以上の名誉はない。セレナが純粋な感動に胸を震わせかけた、その瞬間だった。
「カーター嬢。私たちに子供が生まれたら、ぜひ貴女に家庭教師を頼みたい」
「! 恐れ多いお言葉、身に余る光栄にございます」
「あら殿下ったら。まだ結婚してもいないのに?」
「なに、早すぎるということはあるまい。良い教師は手元に置いておきたいからな」
甘く見つめあった王太子と婚約者は、セレナに視線を向けると目を細めた。不思議に思っている間に王太子が口を開く。
「まあ、王族の教育を任せるとなると、色々と条件があってね。教育者の身元がより安定した立場──できれば、身元の確かな既婚の婦人でなくてはならないのだが……」
ニヤリと笑った王太子の視線がスッとレオンへと向けられる。先ほどまでおっとりと微笑んでいたはずの未来の王太子妃様が、扇で口元を隠しながら、ふふ、と実に愉しげな笑みを漏らした。
「あら、丁度よろしいではありませんか。目の前に、身元も確かで、カーター様を気に入ってらっしゃる伯爵家当主が転がっておりますわ」
「おや、本当だ。灯台下暗しだったな」
「ええ。アルノー卿が早く先生をお迎えすれば、すべて解決いたしますわね?」
おっとりとした聖母のような顔のまま、爆弾のような追撃を笑顔で畳み掛けてくる婚約者様。セレナは血の気が引いた。
「はい!?」
最高権力者達からの連携による無言の婚姻推奨に、セレナの緊張が音を立てて崩れ去った。あまりの衝撃に、上品な淑女の仮面をかなぐり捨てて素っ頓狂な声を上げてしまう。
対するレオンは、待ってましたとばかりに極上の微笑みを浮かべ、深く胸に手を当てて一礼した。
「勿論、お任せください殿下、婚約者様。その条件でしたら、遠くない未来に確実に達成してみせますので」
(この人、便乗して何を言っているの!?)
あまりの怒りと恥ずかしさで、セレナの顔は一瞬で耳まで真っ赤に染まった。しかしレオンは止まらない。
「とはいえ、彼女に今アプローチの真っ最中でして。温かく見守っていただければと」
「お前が手こずるとはな?」
「よしてくださいよ。今信頼を積み重ねてる時期なんです、余計なことはなしで」
「ふふ、楽しみにしておりますよ」
「ありがとうございます」
セレナが何も言わない─否、言えない間にも話は進み、殿下達は愉快そうに肩を揺らした。
セレナが助けを求めるように部屋の隅へ視線を向けると、そこには、きつく腕を組んで、完全に外堀を埋められたなと言わんばかりに、これ以上なく哀れみの目を深めているアレクシスの姿があった。
「……殿下、婚約者様」
アレクシスが静かに口を開いた。
「あまり先生を追い詰めないで差し上げてください」
「おや?」
「この場で卒倒されても困りますので」
「これは失礼した」
「大丈夫だよアレクシス、先生は強いから」
「おまえは黙ってろ、レオン」
いつも通りなのだろう、男たちの気安いやり取りが始まって、セレナは本気で意識を飛ばしたくなった。
◇◇◇
気付けば部屋を辞し、お迎えの馬車に乗っていた。ガタゴトと揺れる振動の中で、ようやく肩の力が抜ける。
同乗するレオンに、セレナは我慢の限界とばかりに、やっと抗議の声を爆発させた。
「なんなんですか、あれは!!」
「どれのことだい?」
「どれもこれもです!! 国宝級だなんて大袈裟な嘘を殿下に吹き込んで、その上、あの……条件だなんて……っ!婚約者様まで一緒になってからかって!」
「殿下たちはお世辞を言うような人じゃないよ。先生を高く評価していたねぇ」
「そういうことではありません!!」
「ふふ」
「笑わないでください!!」
鼻息荒くなるセレナに対して、レオンはにこやかなままだ。
けれど、ふと会話が途切れ、夕暮れの赤い光が馬車の中に差し込んだ。宮廷服を着こなしたレオンの横顔は、いつものようなからかい半分ではなく、お茶会で見せた真剣な表情を浮かべていて、セレナは急に気まずくなって目を逸らす。
レオンはいつもより一段と笑みを深めた。その声音は、いつものからかいが削ぎ落とされ、ひどく真っ直ぐにセレナに届く。
「でも、嬉しかったよ」
「……え?」
「先生が評価されて。私の目に狂いはなかった。最高の家庭教師だよ」
ドクン、と心臓が大きな音を立てた。
目を瞬く。目の前には、本当に優しい目で自分を見つめて、嬉しそうに笑うレオンの姿がある。
「それは…教育者として、大変光栄です」
「それはよかった。ぜひ君には報われて欲しいからね。あれだけ真面目に努力している人が、正当に評価されないなんて損失だ」
「っ!?」
なんだか恥ずかしくて、嬉しくて。自分でも処理しきれない感情に胸をいっぱいにしながら、セレナが消え入りそうな声で感謝を述べようとした、その瞬間。
「あー、ますます結婚したくなったなぁ」
「台無しです!!」
あっという間の落差。
赤くなった顔のまま叫んだセレナに、レオンはまたいつも通りに、くくっと愉しげに笑うのだった。




