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家庭教師として来たはずなんですが  作者: 夢幻


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5




「──本日の稽古はここまでだ。よくついてきたな、レイナルド」


「はいっ ありがとうございました、アレクシス先生!」


 アルノー伯爵邸の訓練場に凛とした声が響く。

 木剣を手に、泥だらけになりながらも必死に頭を下げたレイナルドを見送り、アレクシス・デュノワは汗を拭った。

 元マルグリットの婚約者であり、武芸の達人でもある。悪友のレオンに「レイナルドの武術の先生をしてほしい」と頼まれた時は何を考えているのかと訝しんだが、実際に教えてみれば、少年は素直で非常に筋が良かった。


(この少年を育てようとしているのは本気のようだな)


 アレクシスは練習用の木剣を自身の従者に預けると、訓練場が見渡せるガゼボへと足を向けた。そこには、いつものように上等な椅子に深く腰掛け、優雅に書類を眺めているレオンの姿があった。


「レイナルドは下がらせたぞ、レオン」


「ああ、お疲れ様、アレクシス。今日も手厳しい指導だったね。遠目から見ていても、坊ちゃんが今にも泣き出しそうだったよ」


「甘やかすわけにいかないからな。……それより、お前は何を見ている」


 アレクシスは無愛想に言った。

 レオンの手元にあるのは、普段彼が扱っているような領地の公文書や、夜の社交界の招待状ではないようだった。何より、おかしいのはレオンの様子だ。

 いつもなら、何を考えてるのかよく分からない笑顔を浮かべる男が、手元の紙片を見つめたまま、ふっと信じられないほど優しく、どこか腑抜けたような笑みを浮かべている。

 長年の付き合いになるが、こんなレオンの顔は一度も見たことがなかった。


「ああ、これかい? 私の可愛い婚約者殿がね、前回の宿題に完璧な反論のレポートを叩きつけてきたんだよ。しかも、びっしりと付箋の貼られた原書付きでね」


「婚約者?いや、反論のレポート、だと?」


「そうさ。私が三冊目の余白に書き残した『東部領における皮革の流通経路の制限』についてさ。経路を制限すれば小規模な職人の首を絞める、むしろ自由化を促して別の品目で帳尻を合わせろ、だってさ。たった数日でここまで私の意図を読み解いて、真っ向から叩き潰しにくるなんて……本当に素晴らしい女性だと思わないかい?」


 嬉々として語るレオンを、アレクシスは腕を組み、冷徹な眼差しで見下ろした。


「……それは、お前がその女性に酷く嫌われ、警戒されているだけではないのか」


「心外だな。彼女は紛れもなく芯の底から教育者だよ。仕事は完璧にこなすし、私に一歩も引かずに真っ直ぐ怒ってくれる。ああいう嘘のない人、本当にたまらないね」


「お前、マルグリットから聞いたぞ。その女性に、初対面でふざけた婚約の申し込みをしたそうだな。お前は何がしたいんだ。からかって遊ぶのも大概にしろ」


「まさか。私はいつだって本気だよ。あとは彼女が私を好きになるだけさ」


 大真面目にのたまう親友に、アレクシスは内心で深いため息をついた。

 本気、だと? あのレオンが?

 だが、本人の「面白いおもちゃを見つけた」と言わんばかりの呑気な言葉と、その口元に浮かんでいる酷く甘い笑みの重症度が、どう見ても見合っていない。

 アレクシスは、かつて自身の婚約者であったマルグリットの姿を思い浮かべた。訳あって婚約は解消されたものの、彼女は妹のようなものだ。今でも彼女の職人としての生き方を尊重し、陰ながら見守っている。レイナルドのことも、口には出さないが義弟のようなものだと思っている。だからこそ、アルノー家の教育環境がレオンの気まぐれで引っかき回されるのは看過できなかった。


「お前が誰を口説こうが勝手だが、マルグリットやレイナルドの教育を、お前のお遊びに巻き込むな。一度、そのセレナ先生という方に俺も挨拶をしておかねばならん。文武の教育方針をすり合わせる必要があるからな」


 アレクシスとしては、極めて生真面目な仕事の話をしたつもりだった。

 しかし。

 それを聞いた瞬間、レオンの顔からニヤニヤとした笑みがスッと消えた。

 椅子の背にもたれかかったまま、レオンの瞳が、冬の夜池のように冷たく据わる。それは夜毎違う人々の間を渡り歩き、話に花を咲かせる男とは思えないほどだ。


「……アレクシス」


 レオンの声が、いつもの軽薄さを失い、低く、重く響く。


「君がレイナルドの武術の先生として、彼女に挨拶をするのは一向に構わないけれどね。……必要以上に、彼女に近づかないでくれよ。彼女は貴重な人材だからね。横取りは困るな」


 ガゼボの空気が一瞬にして凍りついた。

 アレクシスは微動だにせず、その圧力を真っ向から受け止めた後、呆れたように肩をすくめて息を吐き出した。


「……やれやれ」


 これほど独占欲だけは一人前か。果たしてそれは、本当に貴重な人材に対する物だろうか?あのレオン・アルノーが、一人の堅物な女教師に、自覚もないまま完全に狂わされている。


「安心しろ。俺はお前のように、初対面の女性に不躾な求婚をするような真似はしない。……せいぜい、その先生に愛想を尽かされないよう、己の素行を顧みるんだな」


「手厳しいねぇ」


 アレクシスが背を向けて歩き出すと、背後でレオンが、またいつもの調子に戻ってくくっと笑う気配がした。


(傑作だな。あいつが頭を抱えてのたうち回る日が、今から楽しみだ)


 生真面目な武官は、親友の前途多難すぎる恋路に、内心で静かにエールと、盛大な憐れみを送るのだった。




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