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家庭教師として来たはずなんですが  作者: 夢幻


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4/10

4




 深夜、カーター男爵邸の自室にて。


「なによ、あの態度。からかうのも大概にして欲しいわ。私は家庭教師なのに!」


 セレナは机の上のランプを灯し、昼間レオンから渡された経済学の原書を睨みつけていた。

 思い出すだけで、顔がカッと熱くなる。あの為政者としての凛々しい姿に、一瞬でも胸をときめかせかけた自分が、心底バカらしかった。


「恋愛結婚のための一歩ですって? はっ、笑わせないで。あんな底意地の悪い変人に、騙されてまるものですか」


 口では容赦なく文句を吐き捨てながらも、セレナの羽ペンは止まらない。

 悔しいことに、原書の余白に記されたレオンの自筆の注釈は、どれもこれも一読しただけで背筋が伸びるほど鋭い指摘ばかりだった。

 この数値の裏にある領民の暮らし、そして職人たちの権利をどう守るか──。レオンの思考の軌跡を追いかけるたび、その思慮深さに感動しかけては我に返るのを繰り返す。


「……あ、もうこんな時間」


 ふと気づけば、窓の外が薄明るくなり始めていた。

 手元の原書には、びっしりとセレナの考察を記した付箋が貼られている。

 セレナはこめかみを押さえ、深くため息をついた。


「いけないわ。あの男のせいで、貴重な睡眠時間が削られてしまった……」


 自覚のないまま、彼女の夜はアルノー家の長男に侵食されつつあった。

 



少し仮眠を取って支度をした後、セレナは以前から週に何度か通っている、別の子爵家の令嬢の元で授業を行っていた。

 アルノー家での嵐のような日々とは違い、こちらの授業は極めて平穏で、いつものセレナのペースで進んでいく。


「──ですから、この時代の外交交渉において、こちらの表現は一種の牽制を意味します。ご理解いただけましたか?」


「はい、セレナ先生。とても分かりやすかったです」


十四歳になる子爵令嬢は、ふわりと笑って羽ペンを置いた。そして、じっとセレナの顔を覗き込んでくる。


「先生、なんだか楽しそうですね。いつもより少し、お顔の雰囲気が柔らかいですわ」


「えっ……私が、ですか?」


 予想だにしない指摘に、セレナの背筋が跳ね上がった。


「ええ。なんだか、以前よりも活き活きとされているというか……。もしかして、どこかで素敵な殿方との出会いでもあったのですか?」


「なっ、まさか! 誓ってそのようなことはございません!!」


 子爵令嬢がくすくすと上品に笑う。

 対するセレナの脳裏には、レオンの真面目な横顔と、その直後に「どう、見直した?」とふざけた笑みを浮かべた最悪な顔が交互に浮かんできていた。


(違う、違うわ! 私はあの男の不躾な態度に激怒しているだけで、断じて楽しんでなど)


 内心で盛大に全否定の嵐を吹き荒れさせながらも、セレナは手元の教本を握りしめる手を、かすかに震わせるしかなかった。




 ◇◇◇





 数日後。セレナは「私は教育者。私情は持ち込まない」と自分に何度も言い聞かせ、冷静沈着な顔をしてアルノー家へと入った。

 マルグリットとレイナルドの授業は、今日も順調だった。二人はマルグリットは税制と法律を貪欲に吸収し、レイナルドも社交マナーと領地経営の基礎を着実に身につけている。


 ──授業が終わりに差し掛かった頃。


 案の定、というべきか。扉が軽やかにノックされ、レオンが姿を現した。今日はいつもの、飄々とした、着崩した佇まいだ。


「やあ、先生。前回の宿題の進捗はどうだい? 私の出した資料は、少し難しすぎただろうか」


 ちょっと楽しげに、からかうような視線を向けてくるレオン。

 セレナはフンッと小さく鼻を鳴らすと、鞄から付箋だらけになった例の原書を取り出し、机の上にドンと置いた。


「……難解な部分もありましたが、概ね理解いたしました。ただ、アルノー様。貴方が三冊目の余白に書き残されていた『東部領における皮革の流通経路の制限』についてですが、私は少々異議がございます」


「ほう?」


 レオンが片眉を上げる。

 セレナは眼鏡のブリッジをすっと押し上げ、徹夜の成果である反論のレポートをビシッと突きつけた。


「現在の関税率のまま経路を制限すれば、小規模な職人たちの首を絞めることになります。マルグリット様が将来独立される際の障害にもなり得る。ここは制限ではなく、むしろ流通の自由化を促し、別の品目で帳尻を合わせるべきですわ」


 レオンは突きつけられた書類と、付箋だらけの原書を交互に見つめ──それから、ゆっくりと目を丸くした。


「……へえ」


 レオンは、ぽつりと溢した。書類を手に取ると、そこに並ぶセレナの美しい文字と、徹夜の痕跡が窺える熱い考察をじっと見つめる。今度は目を細め、文字列を丁寧に追っていく。その顔から、いつものニヤニヤとした意地悪な笑みが完全に消えた。

 

「そこまで読み解いて、私の机上の空論を叩き潰してくれるとはね。……さすがは、私の見込んだ先生だ」


 ふっと、レオンが笑った。

 それはいつもの、からかうための嘘臭い笑みではなかった。子供のように純粋に驚き、そしてセレナの知性を心から称賛するような、深く、優しい笑顔。

 その笑顔を見た瞬間、セレナの思考が一瞬だけ空白になった。何か言い返そうとしたはずなのに、適切な言葉が見つからない。

──そんなことは、初めてだった。


「職務ですから。当然ですわ」


 セレナは慌てて視線を逸らし、耳まで真っ赤にしながら荷物をまとめ始めた。

 その様子を、横で見ていたマルグリットが、実の兄に対してこれ以上ないほど冷ややかな、けれど全てを察したような目を向けていたが──今のセレナには、それを気にする余裕すら残っていなかった。





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