28
差し出されたレオンの手の上に、セレナはそっと、己の手を重ねたのは良いのだが。
「先生、緊張してる?肩に力入ってるよ」
「す、すみません……」
「楽しんで、大丈夫だから」
強張っているのが自分でも分かった。前はどう接していたかもう思い出せない。遠目に、レイナルドとマルグリットが破顔して小さく手を振るのが見えた。
(無様な真似はできないわ…!)
呼吸をひとつ。難題として有名な数式を頭に浮かべ、なんとか気持ちを落ち着かせる。
しかし、レオンと目があった瞬間セレナの平常心はどこかへ飛んでいった。まるでフロアの全ての光が集まったかのように、レオンの琥珀色の瞳が強く、深く輝いていた。レオンはセレナの手を壊れ物を扱うように優しく、けれど指の一本一本までを閉じ込めるようにしっかりと包み込むと、滑らかな足取りでダンスフロアの中央へと導いていく。
周囲からは、にわかに小さなざわめきが起こった。今夜の主役であるマルグリットとレイナルドのダンスに、誰もが興奮冷めやらぬ状態だったところに、今夜の立役者であるアルノー家の次期当主が、見慣れない女性の手を引いて現れたのだ。注目が集まらないはずがなかった。
「アルノー様、やはり……」
「しー、先生。お喋りが過ぎるよ」
レオンは悪戯っぽく唇に人差し指を立てると、流れるようにセレナの腰に大きな手を添えた。
──熱い。
上質なドレスの生地越しだというのに、レオンの掌から伝わる確かな体温に、セレナの背筋が跳ねるように強張る。
始まったのは、先ほどまでの激しいタップとは打って変わって、穏やかで甘美な、ワルツの調べ。
「さあ、行こうか」
レオンのリードは、やはり完璧だった。
一歩、引き込まれる。セレナが足を踏み出すのと同時に、レオンの長い脚が絶妙な間合いで彼女のステップを受け止め、次の瞬間には軽やかにフロアを滑り出していた。
セレナも家庭教師として、貴族のダンスのステップは頭に叩き込んでいる。けれど、今日は頭と体がバラバラになりそうだった。目の前にあるレオンの端正な顔が、広間のどんな装飾品よりも眩しくて、どこに視線を置いていいのか分からない。
「……っ」
「おっと、緊張しすぎだよ、先生。私の足を踏んでも怒らないから、もっと力を抜いて」
「踏みません!……ですが、その、貴方の顔が近すぎて、落ち着きません……」
思わず本音が零れ落ちると、レオンは一瞬だけ虚を突かれたように目を丸くし、それから低く愉しげに喉を鳴らして笑った。
「それは光栄だな。じゃあ、私のネクタイの結び目でも見ておいてよ」
「そう、させていただきます」
言われた通り、セレナはきゅっと唇を結び、彼の胸元へと視線を落とした。細められた琥珀色の瞳から逃れられたことで、少しだけ息がしやすくなる。──そう思ったのも束の間、今度は別の感覚がセレナを襲った。
視線を下げた先にある、彼の逞しい胸板。ステップを合わせるたびに、かすかに鼻腔をくすぐる、レオン特有の清涼で、どこか甘い香り。そして、腰を支える彼の指先が、ドレスのドレープをなぞるように、ほんの少しだけ引き絞られる。
(これでは、余計に意識してしまうわ……!)
心臓の音が、広間に響くオーケストラの重低音よりも大きく胸の内で暴れ始める。
周囲の景色が、まばゆい光の帯となって視界の端を通り過ぎていく。回るたびにドレスが美しく翻り、足元の新しい靴がフロアに吸い付くように滑らかな軌道を描いた。
「マルグリットの靴、まるで最初から先生の足の一部だったみたいに馴染んでる」
「……マルグリット様が、私のために、心を込めて作ってくださった靴ですから。下手なダンスで、この素晴らしい靴の価値を落とすわけにはいきません」
レオンの胸元を見つめたまま、セレナは懸命に、自分の声が震えないように言葉を返した。
好きだと伝える気持ちは、しっかりあるのに。シャンデリアの下で華やかに踊る貴族たちと、どこまでも優しい、このレオン・アルノーという男の存在の大きさに、最後の最後で足がすくんでしまう。
私はただの、堅物の男爵家の家庭教師。アルノーの家に、彼の隣に、本当に私が並んでいいのだろうか。
そんな、あと一歩の勇気が足りない足元を、広間のまばゆい光が冷たく照らし出すようで、セレナは小さく胸の奥を痛めた。
「先生」
切なさに胸を締め付けられていると、頭上から、いつもより少しだけ低い、真剣な声が降ってきた。視線を上げると、レオンがまっすぐな瞳でセレナを見つめていた。その瞳には、周囲の華やかな照明も、大勢の貴族たちの姿も映っていない。ただひたすらに、セレナ一人だけを映し出していた。
「……私の目を見て。他の誰も、何も見なくていいから」
その言葉は、まるで魔法のようだった。
レオンの手が、セレナの腰をさらに優しく、けれど強く引き寄せる。二人の距離が、もう衣服一枚を挟むだけの手前まで縮まった。
世界から、音が消えたような錯覚に陥る。
大勢の招待客の話し声も、食器の触れ合う音も、すべてが遠い彼方の出来事のように薄れていく。ただ、レオンの琥珀色の瞳と、彼と繋いだ手の温もり、そしてステップを刻む二人の足音だけが、世界のすべてになった。
レオンのステップはどこまでも優しく、セレナの臆病な心を包み込むようにリードしていく。視線を合わせたまま踊るワルツは、まるで夢の中にいるように心地よくて、切なくて、愛おしい。
ああ、ずっと、このまま踊っていたい。この温もりの中にいたい。
胸の奥から湧き上がるその切実な願いが、セレナの足元に、確かな熱を宿していく。
やがて、音楽が最後を告げる緩やかな旋律へと向かい、ゆっくりと静止した。二人のステップも止まる。
レオンは繋いだ手を離さないまま、セレナの目をじっと見つめ、それから満足そうに、けれどどこか名残惜しそうに微笑んだ。
「素晴らしいダンスだったよ、先生。……最高の曲になった」
「……アルノー様のエスコートが、お上手だったからです」
セレナは小さく息を吐きながら、そっとカーテシーを返した。心臓はまだ、破裂しそうなほどの音を立てている。ダンスの余韻が、広間に残る熱気の中に溶けていった。
◇◇◇
夜の更けゆく会場に、宴の終わりを告げる穏やかな調べが流れ始めた。
満足げな笑みを浮かべた招待客たちが、主役の二人や伯爵夫妻に次々と別れの挨拶を告げ、馬車の待つ車寄せへと向かっていく。あれほど煌びやかで騒がしかった広間から、一人、また一人と人が減り、色とりどりのドレスの波が引いていく。
残されたのは、役目を終えたキャンドルの微かな爆ぜる音と、少しだけ落とされたシャンデリアの柔らかな光。
アルノー伯爵夫妻とマルグリット、レイナルドの四人は、先触れへの対応や片付けのために奥の部屋へと移動し、ついに広間には、驚くほどの静寂が戻ってきた。
静まり返った空間で、セレナは自分の足元を見つめた。マルグリットが仕立ててくれた、世界に一足だけの美しい藍色の靴が、シャンデリアの残光を浴びて静かに佇んでいる。
楽しかったパーティーが、終わる。それは同時に、自分がアルノー家の家庭教師として過ごす時間の、本当の終わりを意味していた。
胸がきゅう、と切なくなる。もう、明日からは帰っても、レオンに託された意地の悪い課題を解く必要はない。ここに通う理由も、なくなってしまう。先生、というこの愛おしい呼び名で彼と会話できるのも、もしかしたら、これが最後なのかもしれない。
そんな寂しさと、だからこそ、胸に抱いたこの溢れんばかりの感情を、そのままにして帰るわけにはいかないという、ひどく熱い決意がセレナの心を支配していく。冷たくなっていく指先をぎゅっと握りしめ、セレナはゆっくりと、隣に立つレオンの方へと向き直った。自分のやろうとしていることを思うと、心臓が口から飛び出しそうで、じっとりとした冷や汗が滲む。
しかしそんなセレナの極限の緊張を知ってか知らずか、レオンはいつも通り、どこか気楽な調子で声をかけてきた。
「どうだった?」
「どう、とは?」
「今日の二人」
セレナは、先ほどまで楽しそうに談笑していたマルグリットとレイナルドの、眩しい残像が残るフロアへと視線を向ける。そして誇らしさを込めて、ふっと笑った。
「最高の結果です」
「うん」
「契約完了、ですね」
「……っ」
レオンが一瞬だけ、驚いたように目を見開き、すぐに相好を崩した。
「先生らしいなあ」
「そうでしょうか」
「うん」
そう言って、レオンは少しだけ悪戯っぽく、いつものようにずるい笑みを浮かべた。
「じゃあ、次の契約をお願いしようかな」
「え?」
「今度は私の番」
「……はい?」
「私の家庭教師の長期契約、お願いできる?」
「!?」
「はは、冗談だよ。ちょっと寂しくなっちゃってさ」
「もう!!」
──いつもの空気感に戻った、今なら。
からかわれて、怒って、いつもの調子を取り戻した今だからこそ、言える気がする。セレナは肺をひっくり返すような心持ちで、深く、浅く、息を吸った。
「アルノー様」
「ん?」
「……私、ここでの仕事はとてもやりがいがありました」
「うん」
いつものからかいは完全に鳴りを潜め、レオンは優しく、促すようなうなずきを返す。セレナはたまらなくなって少し視線を落とし、己の靴を見た。マルグリットが一歩前へ進めるために作ってくれた、大切な、素敵な藍色の靴を。この靴が、今の、たった一つの勇気の拠り所だ。
「からかってくる貴方のことは、本当は、最初からずっと苦手で。……でも、貴方が本当にマルグリット様とグランヴィル様のことを誰よりも思ってらっしゃるのが、痛いほど伝わってきて。いつの間にか見直したんです……不敬かもしれませんが」
そう、苦手だった。なんなら、嫌いだったはずなのに。
「貴方は、私の大切にしていることも、何一つ笑わずに大切にしてくれた。家庭教師という誇りも、私の知識欲も、全部」
顔が耳の裏まで真っ赤になっているのが、自分でも痛いほど分かる。でも、ここで目をそらしたら二度と伝えられない。セレナは逃げずに、真っ直ぐにレオンを見つめた。
「そんな貴方のことが、私──好きになってしまいました」
言い切ると同時に、セレナはぎゅっと両手を握りしめ、身構えた。
途端に、息が詰まるほどの静寂が広間を支配する。いつもなら息をするようにすぐに返ってくるはずの、軽口やからかいの言葉が、ない。しんと静まり返った空気の重さに、セレナの心臓が痛いほど脈打ち始める。
やっぱり突飛すぎただろうか。身分違いの家庭教師の分不相応な戯言だと、呆れられて、引かれてしまっただろうか──初めて襲ってきた強烈な恐怖と不安に耐えかねて、恐る恐る視線を上げた、その時だった。
レオンの、端正な喉仏が大きく上下するのが見えた。いつも楽しげに、すべてを見透かすように細められている琥珀色の瞳は、見たこともないほど大きく見開かれ、綺麗な唇は信じられないものを見たかのように、わずかに戦慄いている。
あの、口から生まれてきたような、いつも余裕たっぷりで完璧なレオンが、まるで思考を完全に奪われたかのように、ただ呆然とセレナを見つめていた。
「……あはは」
「え……?」
やがて、レオンの口から、今にも泣き出しそうな掠れた笑いが漏れた。セレナがこれまで一度も見たことのないような表情が、そこにはあった。
眉をハの字に下げ、目元を盛大に細めて、胸いっぱいの、抑えきれない喜びを爆発させた──本当に、くっしゃくしゃの、少年のような笑顔。
「そうじゃないかなとは、ずっと思ってたし、期待もしてたけどさ。……あー、ダメだ。いざ本人から、真っ直ぐ言葉で言われると、格別だな。……とっても、嬉しい」
「アルノー、様……っ?」
あまりの眩しさと、彼の瞳から溢れる熱量にセレナが息を呑んだ瞬間、視界が一気に反転した。
強い力で引き寄せられ、ぽすん、と彼の広い胸元に顔が埋まる。
パーティーの前に馬車を降りた時とは比べものにならないほど力強く、けれど同時に、壊れ物を扱うように大切に、骨がきしむほど強く抱きしめられていた。
「私も好きだ。大好きだよ、セレナ」
耳元で、少し震えるレオンの声が響く。トクトクと、セレナのものと同じくらい早く、激しく脈打つ彼の鼓動が、衣服を通じて生々しいほどに伝わってきた。
「だから、お願いがあるんだ」
「……お願い、ですか」
「うん」
レオンが腕の中で、少しだけ愛おしそうに笑う。
「もう、家庭教師としてじゃなくて」
背中に回されたレオンの大きな腕に、さらにぐっと力がこもる。もう二度と離さないと誓うように。
「一人の女性として、私の隣にいてほしい」
「……っ」
「そして、もし先生が……セレナが許してくれるなら」
レオンが少しだけ照れたように、けれどひどく真剣な光を瞳に宿して目を細めた。
「本当に、私の婚約者になってほしい」
セレナの胸に、堰を切ったように感情が押し寄せる。
「これから先の未来も、ずっと一緒に歩んでほしいって……ずっと、ずっと思ってた」
「……レオン、様」
背中に回されたレオンの大きな手の温もりに、セレナの目から、今度こそぽろぽろと、堰き止められなくなった嬉し涙が溢れ出した。
からかわれて怒ってばかりいた日々も、生死不明の彼を必死に探して、夜も眠れずに泣いたあの恐ろしい夜も。すべてが、この瞬間のためにあったのだと、はっきりと確信できる。
セレナは、レオンの背中にそっと手を回すと、その上等な夜会服の生地を、指先が白くなるほどぎゅっと握りしめた。
「……私の、負けです」
「何が?」
「……長期契約、お受けします」
胸元に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で小さく呟くと、レオンは愛おしそうに喉を鳴らして笑い、さらに愛おしそうに、愛を確かめるように腕の力を強めたのだった。




