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「セレナ。まだ時間には早すぎるが、その……本当に大丈夫なのか?」
「お父様、朝からもう十回目です。大丈夫ですから、少し落ち着いてください」
カーター男爵家の居間で、セレナは何度目かになる深呼吸を隠しながら、父親を宥めていた。
アルノー家での婚約パーティーから半月。レイナルドとマルグリットの教育係としての契約は満了し、セレナは久しぶりにどこかの誰かから出される課題に追われない日々を送っていた。他の家からぜひ我が家でも家庭教師を、と乞われることもあったが、受ける量をセーブしている。
これまでは、朝になればアルノー家へ行き、当然のようにあの琥珀色の瞳と顔を合わせていた。けれど、仕事が終わった今、彼が家でどんな顔をして過ごしているのか、何を考えているのかは、届く手紙の文字から推し量るしかない。
『知識の女神セレナ
マルグリットが今度は侯爵家から靴の注文を受けたよ。夜会での立ち回りで興味をもってもらえたらしい。
レイナルドは、ようやくアレクシスから1本はとれなかったけど、惜しいところまでいったよ。
二人とも、頑張ってる。
しかし、君がいない日はなんて張り合いがないんだろう。
次の休日に、迎えに行くよ。二人で出掛けよう。君のあの、素敵な靴に見合う男になっていくからね
とびきりの敬意を君に
レオン』
手紙に書かれた約束の文字を思い出すだけで、心臓が跳ねる。
今日のセレナの足元には、マルグリットが仕立ててくれた、あの藍色の革靴があった。
(仕事でも、夜会でもないのに、この靴を履くなんて……)
まるで、世界で一番特別な場所へ向かうための戦闘靴のようで、気恥ずかしい。鏡の前で何度も髪型を直し、レオンから贈られたドレスの裾を整えた。ともすれば地味になりそうな淡いブラウンの布地は、藍色の刺繍がさされ、上品に仕上がっている。襟ぐりや袖口にはおさえ目な白いフリルが輝き、年齢相応の可愛らしさがあった。流石マルグリットの兄、センスがある。
そわそわしているのは自分なのに、目の前で「あの次期伯爵、遅れたら男爵の意地を見せてやる」と拳を握りしめている父親のせいで、余計に緊張が伝染しそうだった。
その時、小気味よい馬車の音が、カーター家の門前に響き渡った。
トントン、と静かに玄関の扉がノックされる。
「っ……!」
セレナは弾かれたように立ち上がった。一歩、踏み出すたびに、お気に入りの靴が確かな足音を響かせる。
緊張で指先を震わせながら、セレナは自らの手で扉を開けた。
「──お待たせ、セレナ」
そこに立っていたのは、見慣れた、けれど全く違うレオン。魔獣退治から帰ってきた時の、泥にまみれ、痩せ細った姿ではない。王宮へ行く時の、近づきがたいほど冷徹な貴族の正装でもない。藍色を基調にした三つ揃えに、セレナの瞳の色も刺繍で交えて。そして、靴はセレナのドレスと同じ淡い茶色。ドレスと同じような紋様が、藍色の糸で描かれていた。髪を少し崩し、けれど一分の隙もなく整えられたその姿は、間違いなくセレナの靴に見合う男として、この日のために用意されたものだった。
「アルノー、様……」
「レオン、って呼んでくれる約束だろう?」
悪戯っぽく、けれどどこか熱を帯びた琥珀色の瞳が、セレナを上から下まで、ゆっくりと確かめるように見つめる。そして、彼女の足元の藍色の靴に視線が留まったとき、レオンの口元が、心底愛おしそうに綻んだ。
「……すごく綺麗だ。やっぱり、君のその靴の隣に立つのは、世界で私が一番ふさわしい男でありたいな」
「……口が上手いのは、相変わらずですね」
「これでも、君の家に向かう馬車の中で、緊張して何度も上着を直していたんだよ? 先生のいない半月は、思った以上に長くて退屈だった」
そう言って、レオンは優しく微笑みながら、大きな手のひらを上に向けて差し出した。
家庭教師と雇い主の息子、という壁はもうない。
お互いの家で過ごす時間が見えないからこそ、約束をして、おめかしをして、こうして迎えに来てもらう。その一連のすべてが、たまらなく甘く、新鮮な焦れったさを運んでくる。
セレナは、自分の頬が真っ赤に染まっていくのを自覚しながらも、今度はもう、視線を逸らさなかった。すっと右手を伸ばし、彼の温かい手のひらの上に、そっと自分の手を重ねる。
「どこへでも、連れて行ってください。……レオン、様」
「喜んで。──さあ、行こうか」
レオンの手が、セレナの指を優しく、けれど二度と離さない強さで包み込む。
一歩。二人の足音が重なり、新しい未来へと響いた。
◇◇◇
パタン、と上等な馬車の扉が閉まり、御者が馬に合図を送る。
ガタゴトと心地よい振動が伝わり、馬車が滑らかに動き出した──その瞬間だった。
「──あー……、ダメだ。限界」
「えっ!?」
さっきまでカーター男爵の前で貴族の微笑みを浮かべていたレオンが、嘘のようにガタリと崩れ落ちた。向かい側の席に座るはずだった彼は、滑り込むようにセレナの隣の席へと移動してくると、そのまま肩に、頭をぽすんと預けてくる。
一分の隙もなく整えられていたはずの彼の髪が、セレナの首筋をくすぐる。レオンの心地よい重みと、ステップを合わせた時にも感じた、あの清涼でどこか甘い香りが一気に車内に満ちていく。
「アル…レオン様!? 突然どうされたのですか!」
「セレナを補給してるんだよ。お願い、このまま数十秒だけじっとしてて。冗談抜きで、この半月、君に会えなくて干からびるかと思った……」
耳元で、少し掠れた、本当に枯渇していたような声が響く。いつもの飄々とした態度からは想像もつかないほど、レオンは余裕をなくしていた。
「手紙の返事、いっつも生真面目で素っ気ないんだもん、セレナ。『アルノー様、執務は滞りありませんか』とか、『マルグリット様の工房の帳簿についてですが』とか、仕事の話ばっかり。私は君の近況とか、私を恋しがってる言葉が欲しかったのに。毎日、執務室の机に突っ伏して泣きそうになってたんだからね?」
「そ、れは……私は他家からの家庭教師の打診を断る調整などでバタバタしておりましたし、あまり軽々しいことを手紙に書くのは不敬かと……」
「もううちの家庭教師じゃないって、あの夜にあれほど言ったのに」
レオンは肩に頭を乗せたまま、不満げに低く唸ると、そっとセレナの左手を手繰り寄せた。そして、指を滑り込ませ、複雑に絡ませてがっちりとホールドする。指先から伝わる彼の体温の熱さに、セレナの心臓がまた暴走を始めた。
「……でも、嬉しいな。ちゃんと、私の贈ったドレスを着て、マルグリットの靴を履いて待っていてくれて」
レオンが少しだけ顔を上げ、至近距離で二人の足元を見つめた。並んだ二人の足元。セレナと、レオンのための靴。
「君のドレスの色、本当に私の目に狂いはなかったな。今日の私は、全身でセレナの男です!って主張してる仕立てなんだけど、気づいてくれた?」
「気づかないわけがないでしょう……! 玄関を開けた瞬間、心臓が止まるかと思いました」
「はは、それは大成功」
レオンは満足そうに目を細めると、絡めた指先を少しだけ引き上げ、セレナの甲にそっと唇を寄せた。吸い付くような感触に、セレナは身を硬くする。
「レ、レオン様! 狭い馬車の中で、そのようにからかうのはお止めください!」
「からかってないよ。……これでも、すごく理性を保つために必死なんだ。本当は、迎えに行って扉が開いた瞬間、君をそのまま抱き上げて馬車に連れ去りたかったくらいなんだから」
「なっ……!」
大真面目な顔で、琥珀色の瞳を熱く燃え上がらせてそんな不埒なことを言う。レオンはいつもそうだ。言葉の攻め足が早すぎて、セレナはいつだって防戦一方になってしまう。
「……今日の行き先だけどね、セレナ」
レオンはセレナの耳元にさらに顔を寄せ、内緒話でもするように囁いた。
「君がずっと行きたがっていた、王立中央図書館の禁書棚に入る許可を手に入れた。あそこは高位貴族の推薦と、厳しい身元審査がないと入れないからね。……そこで一日中、君の好きなだけ本を読もう。もちろん、私の隣で」
「王立中央図書館の、禁書棚……! あの、一般には非公開の、古代魔術の原本や、百年前の歴史書の初版があるという、あの……!?」
一瞬で頭から羞恥心が消し飛び、知識欲を爆発させて目を輝かせたセレナを見て、レオンはやっぱりね、と言わんばかりに、今日一番の、心からの幸せそうな笑みを浮かべた。眉を下げて細められたその目元は、あの夜、広間でセレナに告白された時の笑顔の残像を宿している。
「禁書棚、何から読みたい?」
「実は、魔術に最近興味を持っていて。現代の魔術体系が確立される前の本があれば読みたいな、と」
「魔術に興味があるの?私が使ってるところ見せようか」
「!?良いんですか?」
元々、興味を持ったのはレオンが魔術を使えると聞いたからだった。この国に魔術師は殆どいない。おとぎ話のようなものだと思っていたのに、実際にいると聞けば調べたくなるものだ。
セレナは一層目を輝かせた。
「良いよ、今度見せる。今日は、本の世界に浸ろうよ」
「うわぁ…楽しみです!もちろん、禁書棚も!」
「君のそういう、学問に目を輝かせるところが誰よりも大好きだ。でも、本に夢中になりすぎて、私のことを完全においてけぼりにしないでほしいな。 一時間に一回は私の目を見て、名前を呼んでほしい。………だめ?」
レオンの言葉に、セレナはきゅっと唇を結んだ。
今までなら何を言ってるんですかとはね退けるところだ。けれど、この半月、自分自身もどれほど彼の存在を恋しがっていたか、机の引き出しの手紙を見るたびにどれほど胸を焦がしていたか、その事実がセレナの理性を甘く溶かしていく。
(そんな風に、最後の選択権を私に委ねないでほしいのに……)
レオンはいつも、押せ押せで距離を詰めてくるくせに、最後のセレナ自身の意志を確認する瞬間だけは、酷く紳士的に、こちらの出方を待つのだ。それが彼の最大の誠実さであり、セレナにとっては、自分の口から言わなければならないという、最高に恥ずかしいお預けだった。
セレナは真っ赤になった顔を隠すように、レオンの藍色の胸元に小さく額を押し付けた。
「……一時間に一回なんて、ケチなことをおっしゃらないでください」
「え?」
「……ずっと、お隣にいるのですから。飽きるほど、お名前くらいお呼びしますわ」
消え入りそうな声で、けれどはっきりと返されたセレナの言葉に、今度はレオンの方が、虚を突かれたように一瞬だけ息を呑んだ。
次の瞬間、絡められていた手にさらに強い力がこもり、レオンのもう片方の大きな手が、セレナの腰を抱き寄せるようにして、強く、強く引き寄せた。
「……あー、ダメだ。先生、本当にずるい。今すぐ図書館じゃなくて、家に馬車を回させたいくらい可愛い……」
「な、何を仰っているのですか! 早く本を読ませてください!」
呆れたように怒るセレナと、喉を鳴らして笑うレオン。
馬車は、二人の新しい未来を乗せて、ガタゴトと心地よい音を立てて走り続ける。
窓から差し込む柔らかな木漏れ日の中、並んだ二人の、淡いブラウンと藍色の靴は、これからの長い人生を共に歩むための、長期契約の第一歩を、刻み始めていた。




