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アルノー伯爵邸の片隅にある、臨時の靴工房兼、勉強部屋。
そこに足を踏み入れたセレナ・カーターは、目の前の光景に納得と、それから深い同情を覚えていた。
部屋の主であるアルノー伯爵令嬢──マルグリット・アルノーは、作業机に突っ伏して、死んだ魚のような目で天井を仰いでいる。その横では、先日も顔を合わせた金髪の美青年、レイナルド・グランヴィルが、申し訳なさそうに縮こまっていた。
「セレナ先生。初めまして、マルグリットと申します」
「初めまして、マルグリット様。セレナ・カーターです」
「先生、最初にお伝えしておきます。兄上の言うことは、基本的に全部嘘か、良くて八割増しのハッタリだと思ってください。あと、婚約の話は絶対に断った方がいいです。ろくなことになりません」
初手から実の兄をバッサリと切り捨てたマルグリットに、セレナは深く頷いた。
(やっぱりあの方、身内からもそう思われてるのね)
「貴重な忠告、胸に刻んでおきますわ、マルグリット様。……それで、本日の授業なのですが」
「あの、先生」
マルグリットは机の上の高級そうな革の端切れをいじりながら、ぶっきらぼうに言った。
「私は靴が作れればそれでいいんです。兄上には今後のために社交界のマナーを学べ、って強制されましたけど、貴族のドロドロしたお付き合いなんて興味ないですし、お高くとまったお作法なんて、覚えるだけ時間の無駄だと思うんです」
典型的な堅物なら、ここで淑女たるもの!と説教を始めるところだろう。だが、セレナは眼鏡のブリッジをすっと指で押し上げ、不敵に微笑んだ。
「マナーとは、単なる形ではありませんわ、マルグリット様。武器です」
「武器……?」
「ええ。例えば、お高くとまった侯爵夫人があなたに嫌がらせをしてきた時、社交界のルールを完璧に逆手に取れば、こちらは一言も暴言を吐かずに、相手を公衆の面前で恥じ入らせ、二度と口出しできなくさせることも可能なのですよ?」
「……それ、詳しく教えてください」
マルグリットの目が、輝いた。職人として身を守る武器になると理解した瞬間、彼女の学習意欲は最高潮に達したらしい。
セレナは手際よくノートを開き、ペンを走らせる。
「ではまず、貴族の分析から始めましょう。さらに、靴職人として独立されるなら、知っておくべき法律と、革の輸入に関わる税率の計算も座学に組み込みます」
「税率の計算。それ、ちょうど知りたかったんです」
マルグリットは完全に授業に前のめりになった。しかし、その横で完全に置いてけぼりを食らっている大問題児が一人。
「あの、先生。僕の方は……」
教科書を前に、今にも泣きそうな顔でオドオドしているレイナルド。セレナは視線をそちらへ移すと、一転して厳しい教育者の顔になった。
「グランヴィル様」
「はいっ!」
「分からないことは恥ではありません。ですが、視線を泳がせるのは、私は自信がありません、どうぞ舐めてください、と周囲に宣伝しているようなものです。背筋を伸ばして。まずは貴族会話によく出てくる比喩表現から始めましょう。マルグリット様が税率の計算をしている間に、あなたにはこれを終わらせていただきます」
「頑張ります……!」
そうして、セレナお手製の教本を開いたのだが。
「小鳥のさえずりを聞きたい、は?」
「貴方ともっと話してたい、です」
「素晴らしい。自信を持ってください、比喩表現は完璧ですよ」
次々セレナが出す問題にスラスラ答えていくレイナルド。思っていた以上に出来ていて、セレナは頭の中でカリキュラムを組み替えていった。
レイナルドは照れたように笑むと、口を開く。
「レオン様が、教えてくださったんです」
「あの方が?」
セレナは目を瞬かせた。
「僕は本当に貴族男子としてのこと、なにも知らなくて。全てレオン様が手解きしてくださったんです」
「立ち振舞いも酷かったですもんね」
マルグリットが顔を上げ、ニヤリと笑う。自信なさげではあるが、貴族男子として特に問題ある立ち振舞いには、今は見えない。
(…意外と、ちゃんとしてるのね)
少しだけ、見直した。
その後もビシビシと、けれど理不尽に怒るのではなく、根気強く教えてくれるセレナに、レイナルドも「怖いけど、すごく分かりやすい……!」と必死についていく。
──授業が終りになった頃。
「やあ、授業の進捗はどうだい? 私の可愛い妹と、愛しの婚約者殿」
ノックもそこそこに、ニヤニヤとした薄薄しい笑みを浮かべたレオンが扉を開けた。
途端に、部屋の空気が一気に冷える。
真っ先に動いたのはマルグリットだった。彼女は鋭い手つきで羽ペンを握り直すと、冷ややかな視線を兄に向けた。
「兄上、邪魔です。出ていってください」
「おいおい、実の兄に向かって開口一番にそれかい?」
「兄上が来ると話が脱線するんです」
「おや、もうセレナ先生の味方になっちゃったの? 寂しいなぁ」
レオンは面白そうに肩をすくめ、視線をセレナへと向けた。その瞳には、相変わらず底の知れない好奇心が満ちている。
セレナはピシッと書類を揃え、立ち上がると、一糸乱れぬ完璧な一礼をした。
「アルノー様。本日の授業はここまでです。これ以上の立ち入りは、生徒たちの集中力を削ぎ、教育環境の維持に支障をきたしますので、ご遠慮いただけますか」
「手厳しいね、先生。進捗を聞きにきただけなんだけど」
「マルグリット様は大変聡明で、レイナルド様も素直で努力家です。貴方が余計な茶々を入れさえしなければ、一年で見違えるようになるでしょう。……それでは、私はこれで失礼いたします」
これ以上、この男のペースに巻き込まれてたまるか。
セレナは鞄を抱え、早足で部屋を後にした。
「……ふーん?」
閉まった扉を見つめ、レオンは顎に手を当てて、くくっと低く笑う。
「ねえ、坊ちゃん。あの先生、やっぱり最高だね。たった数時間で、この気難しいマルグリットをあんなに懐かせるなんて」
「うるさいですね」
「レオン様、先生は本気であなたを警戒していますよ。早くあのふざけた婚約の申し込み、撤回してあげてください」
「まさか。ますます気に入ったよ。あんなに私を真っ向から拒絶しておいて、仕事は完璧にこなすんだから」
「先生もお可哀想に…」
マルグリットはため息をついた。こんな兄に気に入られるなんて。




