18
装花は無事に決まり、残りの決めなくてはいけないことは少なくなってきた。セレナも少し余裕ができ、相変わらずレオンが授業終りに持ってくる、教育書やら古書やらを夜な夜な読み漁る日が戻ってきた。
静かな夜、蝋燭の灯りの下でふと、ページをめくる手を止める。
(そろそろ、お役御免になるのかしら)
セレナが教えられるのは未婚の淑女・紳士についてのことだけ。婚約をしたら、そう遠くないうちに結婚だろう。
教え子と離れるのは、いつものことなのに。やけに寂しい気がした。
◇◇◇
翌日。ほんの少し憂鬱になりながらアルノー家に向かうと、いつもなら二階の勉強部屋へ上がるところを、案内役の執事に「こちらへ」と一階のまま直進させられ、屋敷のさらに奥へと導かれた。
普段は立ち入ることのない、重厚な造りの廊下。いつにない雰囲気に、セレナは思わず背筋を緊張で強張らせてしまう。
「せーんせ」
「っ! アルノー様」
手前の廊下の角からひょっこりと顔を出した、いつもの見慣れた人物。その姿を視界に捉えた瞬間、セレナは無意識に、心の底からホッとして胸を撫で下ろしていた。
レオンはそんなセレナの様子を見て小さく目を瞬かせると、すぐに意地悪く、にやりと笑った。
「私の顔を見て安心してくれるなんて、だいぶ頼りにしてくれてるみたいだね?」
「違いますっ」
「ふうん?まあいい、入ろう。今日のパーティーの打ち合わせは、この部屋でするから」
レオンはくすくす笑いながら、目の前の一際立派なマホガニーの扉を開いた。セレナは「失礼します」と足を踏み入れたが──次の瞬間、室内の光景を見て、その体勢のまま完全に硬直した。
そこは、伯爵邸の最奥に位置するサロン。そして室内の中央のソファには、マルグリットとレイナルドだけでなく、黒髪をきっちり撫でつけた壮年の男と、柔らかな栗毛の華やかな貴婦人が座っていたのだ。
(現、アルノー伯爵夫妻……っ!?!?)
セレナは慌ててカーテシーをした。
「先生、 こちらです」
マルグリットが気にした様子もなく手招きをするが、セレナは頭が真っ白になって一歩も動けない。パーティーの打ち合わせだと思って地味な仕事着で来てしまったし、そもそも一介の家庭教師が、事前連絡もなしに現伯爵夫妻と対面するなど、不敬にも程がある。
固まるセレナを救ったのは、ソファから勢いよく立ち上がったアルノー伯爵夫人その人だった。夫人はレオンに負けず劣らずお茶目な瞳を輝かせながら、セレナの手を両手で包み込んだ。
「あなたがセレナ先生ね!レオンから毎日のように長い手紙が届いてたわよ」
「領地に行ってる間の王都の報告を頼んでいたはずなんだがな」
伯爵は、隣で満足そうに微笑んでいるレオンを振り返りため息をついた。
「ええ、そうだったわね。でも気付けば三枚に一枚は先生のお話だったのよ?」
「やめてくださいよ、母上」
「『今日はこんな本を紹介した』『先生はこういう考え方をする』『真面目すぎて心配だ』って」
「ちょっと母上」
「『可愛い』も何回かあったわね」
「母上!」
「ごめんなさい、黙るわ」
珍しくレオンが押されてるいるところを見て、セレナは目を丸くした。
伯爵がゆっくり口を開く。
「我が家の、この面倒くさくて執念深い次期当主を拾ってくれたことを、親として心から感謝する」
「……は、拾……っ?」
セレナは耳を疑った。拾った覚えは全くない。
「まあ、あなた、セレナ様が困っていらっしゃるわ」
夫人は、それはそれは優雅で美しい微笑みをセレナに向けた。だが、伯爵は容赦がなかった。
「レオンから貴女の好みを聞いた。マルグリットたちのパーティーが終わった後、貴女が我が家に来るならと、専用の書庫兼研究室の改装図面を、もう大工に引かせてある。日当たりも完璧だ」
「…………図面、ですか」
「なんなら来月からここに住んでもいい」
「父上、先走りすぎです。先生の気持ちが第一ですよ」
伯爵を諌めてくれるレオンの言葉は嬉しいが、貴方が言い出したことでしょうと思わず責めたくなる。
「さあ、早くこちらの席へ!」
夫人に手招きされ、セレナは覚悟を決めた。促されるままソファへ腰掛けたはいいものの、緊張していたのだが。ひとたびマルグリットたちの話題になると、いつもの家庭教師としての顔を取り戻した。
「──ですから、グランヴィル様がご自分とお客様の好みを配慮してマリーゴールドを選ばれた時は、本当に感動いたしましたわ。最初は薔薇の存在しかお分かりにならなかったのに、自ら主催として庭園を熱心に見学されるまでに成長されたのです」
「ほう……」
伯爵が仏頂面のまま顎を撫でる。セレナの言葉は止まらない。今度は隣のマルグリットへ熱い視線を向けた。
「マルグリット様もです。ただ場数を踏むだけでなく、お召し物や靴の意匠がパーティーの格式にどう影響するか、今やご自身で判断なさっています。お二人が揃えば、今回の婚約パーティーは必ずや素晴らしいものになりますわ!」
拳を握らんばかりの勢いで、教え子たちの努力と輝かしい成果を熱弁するセレナ。あまりの熱量に、レイナルドとマルグリットは顔を赤くしたり、居心地悪そうにしたりしていた。
ふと我に返ったセレナは、自分が伯爵夫妻の前で大口を叩いてしまったことに気づき、途端に青ざめる。
「申し訳ありません。私としたことが、つい熱くなってしまい、おこがましい口を叩きました……」
「いいえ! いいえ、とっても素晴らしいわ、セレナ先生!」
夫人が両手を叩いて、弾んだ声でセレナを絶賛した。
「本当にレオンの手紙の通りだわ。マルグリットたちがこんなにしっかりしたのは、全部貴女が我が子のように二人に愛情を注いでくれたからなのね。ねえ、あなた?」
「ああ。これほど熱心に子供たちのことを見てくれる家庭教師に出会えたことは、我が家の誉れだ。……レオンが手放したがらない理由が、本当によく分かる」
伯爵夫妻の、嘘偽りのない心からの称賛と、温かい眼差し。セレナは胸がいっぱいになり、少し目頭が熱くなるのを感じた。
「恐れ入ります……」
ふと視線を感じて横を向くと、レオンが肘掛けに頬杖をつき、見たこともないほど穏やかで、底知れないほど深い愛おしさを湛えた琥珀色の瞳でセレナをじっと見つめていた。母親に暴露されて焦っていた男とは到底思えない、熱い視線。
「ほらね、先生。やっぱり君は、この家に必要な人だ」
静かに、けれど有無を言わせぬ重みを持って紡がれたレオンの言葉。両親の絶賛よりも、教え子たちの笑顔よりも、そのレオンのひと言が一番、セレナの心臓を強く強く締め付けるのだった。




