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「──というわけで、お二人の昨夜の立ち回りは、初めての王宮の夜会としては百点満点、いえ、二百点です。特にマルグリット様が、お声をかけてこられた伯爵夫人に対して、一歩も引かずに笑顔で社交辞令を返されたシーンは実に見事でした」
夜会が明けた翌日。
アルノー伯爵邸の教室で、セレナはいつも通り、背筋をピンと伸ばして授業を行っていた。手元の教本にペンを走らせながら、昨夜の二人の輝かしい成果を大真面目に振り返っていく。
「ありがとうございます、セレナ先生。先生のマナーは盾という言葉を、ずっと胸の中で唱えていました」
「僕も、一段と自信をもって臨めました」
マルグリットが感慨深げにうなずき、その婚約者であるレイナルドも胸を張る。
「素晴らしいわ。お互いを支え合うお二人は、昨夜の会場で誰よりも輝いておいででした」
そこまで言って、セレナの脳裏に、昨夜の記憶が鮮烈に蘇った。
『……まいったな』
ダンスフロアの真ん中で、いつも余裕たっぷりだったレオンが、耳まで赤くして低く呟いたあの声。引き寄せられた手の熱さ、意味が分からなくなるほどの心臓の鼓動。極めつけは、王太子殿下にお言葉を頂いた後。
『もう手加減する理由がなくなってしまったな』
低く、独占欲を孕んだ眼差し──。
(っ!!)
「先生?」
急激に沸騰したセレナの手元が狂い、ペンの先が紙面に強く引っかかった。一瞬遅れて、黒いインクがビシャッと派手に紙面へ跳ねる。
「あっ……!」
いつにない失敗に、セレナは慌ててしまう。
吸い取り紙で押さえるものの、動揺のあまり手元がおぼつかない。淑女の仮面が、インクごと完全に崩壊していた。
「せ、先生、大丈夫ですか……?」
レイナルドが心配そうに覗き込んでくるが、その隣で、レオンの妹であるマルグリットは、すべてを察した目でフッと生暖かい微笑みを浮かべた。
「兄上と昨日はとても楽しめたようで」
「ま、マルグリット様!? 何を仰るのですか、私とアルノー様は、そのような不純なものでは……!」
「不純だなんて。ただ、兄上が今朝、それはそれは恐ろしいほどの、生気に満ち溢れた爽やかな笑顔で朝食を食べていたので。……完全に仕留める気ですよ、あれは」
「仕留めるっ……!?」
「僕もレオン様にあんな肉食獣のような目をされたら、生きた心地がしません……先生、ご愁傷様です」
レイナルドも頷きながら、何故か哀悼の意を捧げてくる。
「ち、違います、お二人とも誤解です! 私はただ、インクの出が少し悪かっただけで……!」
必死に弁解するセレナだったが、真っ赤な顔のままでは説得力など皆無だった。
ごほん、と息を整えることで気を取り直し、本日の授業を始める。
「えーでは、本日は経済情勢をさらに深く理解するため、隣国との通商条約の変遷、および繊維製品の関税率の推移について講義を行います」
「昨夜先生が令嬢たちをやりこめたという関税についてですね」
「えっ」
「兄上が『私の先生はなんて格好いいんだ、ますます惚れ直した』って、夜通しうるさかったんです」
「ああ、僕らもしっかり学ぶようにと再三言ってましたね」
セレナはもう何だか恥ずかしくて帰りたくなった。昨日頭がいっぱいいっぱいになってしまって、帰りの馬車に乗った記憶が全くないなんて、二人には絶対に言えない。
何とか授業を終えた頃。
──コンコン。
軽やかなノックが響いた。セレナの両肩が思わず跳ねてしまう。
「やあ、先生。昨夜はよく眠れたかい? 私は君が夢に出てきて、ちっとも眠れなかったよ」
カチャリと扉を開けて入ってきたのは、マルグリットの言った通り、恐ろしいほど調子の良さそうな笑顔を浮かべたレオンだった。
「……アルノー様」
セレナはインクで汚れた紙面をバッと隠し、今度こそレオンを睨みつけたが、赤くなった耳までは隠せない。
レオンはそれを見逃さず、くくっと愉しげに瞳を細めると、セレナのすぐ近くまで迷いなく歩み寄ってきた。
「実はね、先生。近々、マルグリットとレイナルドの正式な婚約祝いの身内だけのパーティーを開こうと思っているんだ」
レオンは、さも公務の一環であるかのような、極めて真面目な顔でセレナを見つめた。
「ついては、二人に贈るちょっとした記念品を街で探したくてね。今時の若い二人の好みを一番よく知っているのは、そばにいる先生だろう? ぜひ、私の買い出しに同行して、アドバイスをくれないかい?」
その言葉に、セレナはぴくりと眉を動かした。
「アルノー様。そのような高価な贈り物の選定は、私のような家庭教師ではなく、伯爵家御用達の商人を屋敷に呼び出すべきでは?」
「いやいや、御用達の老舗が持ってくるものは堅苦しくてね。二人が普段使いできるようなセンスの良いものを、街の市場で実際に見て選びたいんだ。……それとも先生は、愛する教え子たちの祝い品を選ぶのが嫌かい?」
「嫌なわけがありません。二人のためでしたら、喜んでお供いたしますが──」
「よし、交渉成立。じゃあ、今すぐ行こうか。馬車の準備はさせてある」
あまりの速さに、セレナはまたしても小さいため息をついて頷くしかなかった。ふと後ろを振り返ると、当のマルグリットとレイナルドが目を丸くしている。
「私、そんなパーティーの話、初耳ですが」
「僕もです。レオン様、ついに職権乱用を始めましたね……」
「おやまだ言ってなかったっけ。まあそういうことで、君たちも心づもりしておいてくれ。じゃあ先生行こう」
え、と思ったものの既に遅く。セレナはレオンに手を取られ、部屋の外へと連れ出されたのだった。
◇◇◇
馬車に揺られること少し。
セレナは、レオンと共に王都で最も賑わう一等街の雑踏を歩いていた。大貴族であるレオンが市場を歩くなど、本来なら浮きまくるはずなのだが、今日の彼は上着を少し崩し、髪もラフに流した、どこか親しみやすい裕福な若旦那風の装いをしている。それがまた、悔しいほどに格好いい。
「ほら、先生。人が多いから、私からはぐれないようにね」
レオンはごく自然な動作で、セレナの華奢な手首を優しく包み込んだ。
手袋越しだというのに、昨夜のダンスの時の熱を思い出し、セレナは思わずビクッと肩を揺らす。
「アルノー様、手、手が……っ。周囲の目もありますし、離してください!」
「おや、迷子になったら大変だろう? それに、こうして寄り添っていないと、今日は護衛をろくにつけていないから守れないんだよ」
(護衛をつけていただければいいのでは!?)
心の中で激しくツッコミを入れながらも、レオンの歩調が、自分の歩幅に合わせて驚くほどゆっくりであることに気づき、セレナはまたしても胸の奥がキュッと締め付けられるのだった。
「おや、先生。あそこの店が気になるのかい?」
レオンの声にハッと我に返る。気づけばセレナは、市場の片隅にある、少し風変わりな露店の前で無意識に足を止めていた。
そこは、東方の大陸から仕入れたという、珍しい文房具や古い実用書を並べた雑多な店だった。
「あ……いえ、申し訳ありません。ただ、あの棚にあるインク瓶が、少し珍しい製法のものでしたので、つい……」
「ふうん、どれだい?」
レオンは嫌がる風でもなく、むしろ興味深そうにセレナを促して露店へと近付いた。並べられた商品を見るなり、セレナの瞳に一瞬で輝く。
「見てください、アルノー様。この藍色のインク、ただの染料ではなく、鉱石をすり潰して配合してあるようです。これなら公文書に用いても百年は色褪せませんわ。それにこちらの羊皮紙の滑らかさ! これだけの圧縮技術があるということは、東方の製紙技術は我が国よりも数年進んで……」
熱を帯びた口調で嬉々として語っていたセレナは、ふとレオンの視線に気づいて、ハッと口を噤んだ。レオンは買い出しの荷物持ちのように静かに佇みながら、それはそれは愛おしそうに、眩しいものを見る目でセレナを凝視していたのだ。
「すみません、私としたことが。このような市場の露店で、お待たせして専門知識をまくし立てるなど、不躾極まりないことを……」
恥ずかしさでカッと顔を赤くするセレナに、レオンは優しく目を細めてクスクスと笑った。
「いいや、謝る必要なんてどこにもないさ。本当に楽しそうだ。……昨夜のダンスの時よりも、ずっと生き生きとした良い顔をしているよ、先生」
「っそれは、からかっていらっしゃるのですか?」
「まさか。君のそういう、自分の好きなものに真っ直ぐで聡明なところが、たまらなく魅力的だと言っているんだよ。──店主、今彼女が触れたインクと紙を、すべて購入しよう」
「毎度あり!お嬢さんよく見てくれてるもんな、こちらとしても気持ちよく売れるぜ」
「えっ!? お祝い品を買いに来たのでは!?」
「これはそれとは別。さあ、次へ行こうか。ちょっと寄りたい宝石商があるんだ」
尚も恐縮するセレナをレオンが連れて入ったのは、格式高い高級宝石商のサロンだった。
「アルノー様、ここは普段使いのお祝い品を探す店では……」
「ああ、ここはマルグリットが当日のドレスに合わせる、本番用のジュエリーを新調したくてね」
レオンは手慣れた様子で店主を下がらせると、あらかじめ用意させていたらしい、ベルベットのトレイをセレナの前に差し出させた。そこには、眩いばかりの、けれど上品に輝く一連のネックレスやイヤリングが並んでいる。
「先生、ちょっとこれを当ててみてくれないかい?」
「私が、ですか」
「うん。実際につけて見るのが良いんだが、本人がいないから。先生に試着してもらうのが一番確実なんだ。ほら、ちょっと失礼するよ」
レオンは言うが早いか、トレイから琥珀色のトパーズがあしらわれた、繊細なゴールドのネックレスを持ち上げた。
そのまま、セレナの背後に回り込む。
「ちょっと、近い、近いです……!」
「動くと危ないよ、先生。針が刺さるといけない」
耳元で、レオンの低く微かに掠れた声が響く。
レオンの指先が、セレナのうなじに薄皮一枚で触れるか触れないかの距離で動き、留め具を留めていく。その瞬間、彼の温かい吐息が首筋に触れ、セレナは完全に硬直した。心臓が、昨夜のダンスの時以上にうるさく鐘を鳴らしている。
レオンはセレナの前に回り込むと、彼女の胸元で輝く琥珀色の宝石──そして、恥ずかしさで完全に真っ赤になり、潤んだ瞳で自分を睨みつけているセレナの顔を、じっと見つめた。
「……うん。やっぱり、思った通りだ」
レオンは、いつもと違う、低く深く熱を帯びた瞳でセレナを見つめ、その形の良い唇を妖艶に歪めた。
「驚くほどよく似合っているよ、先生。……マルグリットに、じゃなくて。君に、ね」
「な……っ!? アルノー様、そのような冗談は困ります! マルグリット様のためではなかったのですか!?」
「半分はね」
「半分!?」
レオンはあっさりと、けれど最高にずるい笑顔で白状した。
「マルグリットに似合う意匠を探してたのは本当。でも、宝石は君に似合うのを探してた」
「どうして…」
「これは僕からの、昨夜のお礼だよ。……受け取ってくれるね?」
「受け取れません! このような高価なもの、男爵家の家庭教師がいただくなど、身分不相応にも程があります。 すぐに外してください!」
セレナは真っ赤になりながらも、頑なに拒絶の姿勢を取る。鉄壁の理性が、これ以上レオンの踏み込みを許してはならないと警報を鳴らしていた。
レオンは「困ったな、本当に手強い」と苦笑しながらネックレスを外したが、その琥珀色の瞳は、まだ完全に諦めたわけではなさそうだった。
◇◇◇
宝石商を出た後、気まずい沈黙が流れるかと思いきや、レオンは「じゃあ、最後にもう一箇所だけ、私の我が儘に付き合ってほしい」と、再びセレナの手首を引いて歩き出した。
連れてこられたのは、王都の喧騒から少し離れた、重厚な石造りの建物──国営の王立大図書館だった。
「アルノー様、ここ……」
「先ほど宝石を身分不相応だと突き返した堅物な先生への、私からの本当のプレゼントさ。はい、これ」
レオンがセレナの手のひらに握らせたのは、一般の貴族では立ち入ることすら許されない、王立図書館の特別閲覧室の通行許可証だった。伯爵家以上かつ、王家の許可がある者のみが持てるという、セレナがずっと欲しかったもの。
「ここなら、君がずっと探していた、建国初期の貴重な教育原書がすべて揃っている。……宝石が君を飾るおまけに過ぎないのなら、君のその美しい知性を満たす輝きは、ここにあるんじゃないかい?」
「あ……」
その瞬間、セレナは息を呑んだ。
鏡の前で宝石をあてがわれた時とは、明らかに違う──心の奥底から湧き上がるような歓喜と、目の眩むような衝撃が襲う。
この男は、分かっているのだ。
自分がどんなに美しいドレスや高価な宝石を贈られるよりも、一冊の古い本、一条の知識の光を授けられる方を、何百倍も喜ぶということを。
自分の女としての外見だけでなく、教育者としての魂を、誰よりも深く観察し、理解してくれている。
「……ずるいです、アルノー様」
セレナは通行許可証を胸に抱きしめ、泣き出しそうな、それでいて今日一番の、心からの笑顔をレオンに向けた。
「こんな素敵なプレゼント、受け取らないなんて出来ません」
「おや、それは良かった。……じゃあ、今日から私のことは、レオンって呼んでもらえるのかな? 先生」
「それはそれ、これはこれです、アルノー様」
「やっぱり厳しいなぁ、先生は」
大きな木扉を開け、静謐な本の香りに包まれた図書館へと進む二人。
差し込む木漏れ日の中、楽しそうに本棚を見上げるセレナの横顔を、レオンは誰よりも愛おしそうに見つめ続けるのだった。




