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セレナの胃が痛む冗談合戦が終ったところで、チャーリーはレオンを殺さんばかりの目で睨みつけながらも、侯爵家としての挨拶回りのために、名残惜しそうに一度その場を離れていった。
「……先生、後で必ず僕とも踊ってくださいね。……そこの虫に食い荒らされる前に」
やっと一息つける、とセレナが胸をなでおろしたのも束の間。彼女はすぐに、会場の空気が妙にピリついていることに気づいた。さっきから、周囲の令嬢たちからの視線が、物理的に突き刺さりそうなくらい痛いのだ。セレナは扇でそっと顔を隠しながら、隣の男をキロリと睨みつけた。
「アルノー様。令嬢方の視線で、突き刺されそうなのですが……」
「おや、おかしいね。私はいつも通り、にこやかに微笑んでいるつもりだけど?」
そう、レオンは社交界において、誰にでも平等に気さくで、希望を持たせてはサラリとかわす罪深き初恋泥棒。全令嬢が一度は恋に落ち、そして散っていくタイプの、最もタチの悪い男だ。セレナも、何となくは聞いたことがあった。
普段の夜会なら、義務的に数人と踊って適当に切り上げる男が、今日は男爵家の家庭教師を頑なに手放さず、ずっと楽しそうに独占しているのだから、衆目は集まる。令嬢たちのヒソヒソ話がセレナの耳にも届き始めた。
「アルノー様が、あんな地味な女をずっと独占されるなんて……!」
「私、あのお方に微笑みかけられたことならあるのに、どうしてっ」
ついに耐えかねた令嬢たちが、嫌がらせ目的でセレナに近づいてきた。
「あら、アルノー様。そちらの地味なお連れ様はどなたかしら? 伯爵家の夜会に、男爵家の、しかもお仕事をされている方を伴われるなんて、いささかお戯れが過ぎるのではなくて?」
レオンの琥珀色の瞳が、一瞬で冷徹な温度へと切り替わり、口を開こうとした──その時。セレナが一歩、前に出た。
普段なら、笑顔で流すところだが。今はレイナルドとマルグリットの家庭教師としてここに立っている。無様な真似も、なめられることも、矜持が許さなかった。
「──お初にお目に掛かります、お嬢様方。不勉強な私めにお声がけいただき恐縮です。ふふ、確かに、私のような者がこの場にいるのはお戯れかもしれませんわね」
セレナは淑女の微笑みを浮かべ、実におっとりと、同意してみせた。まさか素直に認めるとは思わなかった令嬢は、一瞬勝ち誇ったように目を輝かせる。
「あら! ほら、ご自分でも分かってらっしゃるじゃない……」
「ええ。何せ私のような男爵家の、それもお仕事をさせていただいている身で出来る話など面白くもなく。先日の議会資料でも触れられておりましたが…ウィルソン伯爵家が他国との関税交渉で大きく譲歩し、輸入関税が緩やかになった結果、ハリス子爵家が独占していた絹織物市場に安価な輸入品が大量に流れ込み、現在進行形でハリス子爵家の財産が目減りしている、なんて経済情勢は、夜会の華やかさには一切関係のないお話ですものね?」
セレナは、扇でそっと口元を隠しながら、歌うような軽やかな調子で言いのけた。その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「え……っ!?」
中心にいたハリス子爵令嬢は、一瞬で顔を真っ青に染めた。そして、彼女を取り囲んでいたお友達であるはずの令嬢たちが、一斉にハッと目を見開いてハリス令嬢を振り返る。
「貴女のおうち、今そんなことになってるの!?」
「最近ドレスを新調されなかったのは、そのせい……?」
「し、知らないわ! 私はそんな、お父様の仕事の話なんて……っ!」
ハリス令嬢は涙目で声を荒らげるが、すでに遅い。貴族の夜会において実家の経済的な困窮を、それも市場の仕組みごと公衆の面前で暴露されるのは、致命傷に等しい。さらに、その原因を作った当のウィルソン伯爵令嬢もその場にいたため、令嬢たちの間に一瞬で最悪の不協和音が響き渡る。
「……ちなみに、そちらのウィルソン伯爵家のお嬢様も、関税が緩やかになった代わりに輸入穀物の流通権を握られたのは見事ですが、あちらの領地は今期、大雨で荷馬車が通る街道が土砂崩れを起こしているはずですわ。流通の足を引っ張られて倉庫の維持費がかさみ、せっかくの利益が相殺されている計算になりますが……そちらの対策は、お父様ともうお済みですの?」
「な、ななな、なんですって……っ!?」
今度はウィルソン伯爵令嬢が、まるで幽霊でも見たかのように目を見開いてガタガタと震え出した。実家の財務や領地事情を、ただの男爵家の家庭教師が、まるで自分の庭のことのように正確に把握し、笑顔で突きつけてきているのだ。恐怖を感じないはずがない。
「学問や労働をお戯れと断じるお嬢様方の、その先進的で優雅な感覚、大変感銘を受けました。申し訳ありません。職業柄、どうしても領地経営や経済の話の方が口をついて出てしまいまして」
セレナが完璧なカーテシーを捧げると、笑顔で完全に経済的に圧殺された令嬢たちは、互いを睨みつけたり、顔を真っ青にしたりしながら、蜘蛛の子を散らすように一斉に敗走していった。
それを見届けたレオンは、しばらく呆然とした後──爆発したように嬉しそうに笑った。
「うん、やっぱり君は最高だ! 助ける必要すらなくて、ますます惚れ直したよ。……ねえ先生、気分転換に、私と一曲踊ってくれないかい?」
「……これ以上目立ちたくないのですが」
「あの狼たちを蹴散らしたんだ、今さらだよ」
半ば強引に手を取られ、セレナはダンスフロアの中央へと導かれた。
◇◇◇
流れるような美しい音楽に合わせ、レオンの完璧なリードでステップを踏む。
悔しいけれど、彼のダンスは驚くほど踊りやすく、まるで世界に二人しかいないような錯覚に陥るほど心地よかった。
「──見てごらん、先生」
レオンの低い声に促され、セレナはターンをしながらフロアの向こうへと視線を走らせた。
そこには、高位貴族の大人たちに囲まれながらも、堂々と胸を張って会話をしているマルグリットとレイナルドの姿があった。
レイナルドはセレナに教わった理路整然とした口調で相手を感服させ、マルグリットは非の打ち所がない優雅な微笑みで周囲を魅了している。二人は完全に、社交界という戦場で、セレナの授けた武器を完璧に使いこなしていた。
「……良かった。うまくやってるね」
レオンが、ふっと目を細めて呟いた。
その声は、いつもセレナをからかう時の意地悪なトーンではなかった。人を食ったような仮面が完全に外れた、妹とその婚約者の成長を心から愛おしみ、安堵する──本物の、優しいお兄様の顔だった。
不意に間近で見せられた、その嘘偽りのない温かい横顔と、あまりの美しさ。
(っ……)
ドクン、と。
セレナの胸の奥が、今までにないほど大きな音を立てて跳ねた。
「先生? どうしたんだい、急にステップが硬くなって。……もしかして、私に見惚れた?」
いつものように、からかう気満々の意地悪な笑みを浮かべて覗き込んできたレオン。いつもなら「お戯れを」と冷ややかに返すはずのセレナだったが──今の不意打ちのせいで、どうしても仮面が間に合わない。
「っ、違います!!」
セレナは完全に動転し、耳の付け根まで真っ赤に染め上げて、ガバッと顔を背けた。
それは、今までの怒りの抗議ではなく、弁解の余地もないほどに純情な、正真正銘の照れの反応だった。
「…………」
それを見た瞬間、レオンのステップが、微かに、けれど確実に乱れた。
いつものようにからかい混じりの言葉で煙に巻くこともできず、セレナをリードする彼の手のひらが、急に強くなる。真っ赤になって視線を彷徨わせるセレナを上から見つめるレオンの琥珀色の瞳が、熱を持つ。
自分の笑顔が、彼女の鉄壁の防波堤を揺るがしたという事実。そして、それによって無防備に赤くなった彼女が、自分の想像を遥かに超えるほどに、愛おしくて堪らないという自覚。
レオンは片手で小さく額を押さえ、低く、掠れた声でぽつりともらした。
「……まいったな」
「え……?」
聞き取れないほどの小さな呟きに、セレナが恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもと違って、どこか痛みを堪えるように眉をひそめ、耳元をほんのり赤くしたレオンがいた。その視線には、もうからかいの色の破片すら残っていない。
「アルノー、様……?」
「何でもないよ、先生。……ただ、これ以上君に可愛い顔をされると、私の紳士の仮面までかなぐり捨ててしまいそうだ、っていう独り言さ」
「な、何を……っ!」
バクバクと騒がしい心臓の音に、もうセレナはいっぱいいっぱいになってしまった。近すぎる距離に、互いの熱がじわりと伝わってくる。
音楽の終わりを告げる最後の旋律が響く中、二人は互いの視線を外せないまま、ただただ立ち尽くすのだった。




