第07話_自分の意思で
ミアが目を覚ましたのは、朝の仕込みを始めた頃だった。
長椅子の上で身じろぎして、目を開けて、天井を見ていた。隣の椅子で寝ていたリタのほうが先に気づいて、立ち上がった。
「もう大丈夫。ここは店ですよ」
「……ヒューゴさんは」
「上で寝ています。大丈夫です。あなたが治したそうです。覚えてませんか?」
ミアは天井を見たまま、しばらく動かなかった。それから起き上がって、長椅子の上で膝を抱えた。
俺は鍋をかき回していた。今日の具は羊と蕪だ。朝の店でする話じゃない。
ヒューゴが下りてきたのは、それからしばらくしてだった。
階段の途中で一度止まって、脇腹を押さえて、手すりには頼らずに下りてきた。
「ごめんなさいヒューゴさん、私を庇って」
「ほっほっほ。この通り、ぴんぴんしておりますよ」
「でも」
「いやあ、たまには前に出るのも悪くありませんでしたな。棍棒というのは、あんなに重いもんなのですね」
ヒューゴはカウンターに座って、シチューをおかわりのたびに「うまいですねぇ」と言った。
三杯目のあたりで、ミアが少しだけ笑った。
◇
ダグは昼まで寝ていた。
カウンターに突っ伏したまま、客が入ってきても起きなかった。常連が「よく寝るなあ」と言って、頭の横で飯を食っていた。
起きたときには、昼の客で店が埋まっていた。ダグは目をこすって、隅のミアを見て、窓際のヒューゴを見た。
「……おう」
黙って二杯食って、裂けた鎧を俺に押しつけた。
「縫っといてくれ。また使う」
「明日か」
「わからねえ」
扉の閉まる音が、いつもより小さかった。
ミアはその日、ずっと店の隅に座っていた。
リタが飯を持っていくと食って、器を返して、また黙った。杖を膝に横たえて、先の聖印を指でなぞっていた。
「神官さま、顔が白ぇぞ。ちゃんと食ってんのか」
「はい、いただいています」
別の常連が、器を持ってミアのところへ行った。
「頼むよ神官さま。こないだのやつ」
「……はい」
ミアは器に手をかざして、小さな声で何か唱えた。常連は一口食って、「おお、やっぱり効き目があるぜ!」と席に戻った。
祈ったくらいで飯がうまくなるものか。俺のシチューは、祈る前からうまい。
リタがカウンターに戻ってきて、空いた皿を置いた。
「マスター。ミアさん、朝から一度も顔を上げていませんよ」
「ああ、そうだな」
「はい」
「おせっかいかな?」
「どうでしょうか」
◇
夜の客が引いて、店にはミアとリタと俺だけが残った。ミアは隅に、リタは奥に。
俺はシチューをよそって、ミアの向かいに座った。
「食え。精神力ってのは寝て飯を食わねえとな」
「……はい。でも、さっきいただきました」
「もう一杯だ。いいから食え」
ミアはスプーンを取った。半分ほど食ったところで、俺は聞いた。
「ミア。お前、分かってて治してるだろ」
スプーンが止まった。
「かすり傷まで拾えば、肝心なときに精神力が残らない。それでも治す。なにか理由があるんじゃないか?」
ミアは長いこと器を見ていた。
「神殿にいたときのことです」
声が小さかった。
「神殿の癒しは、お代をいただきます。決まりなんです。巡礼の方も、街の方も、冒険者の方も、みんな同じです」
「聞いてる。必要なことだな。神殿だって運営には金がいる」
「はい、、ある日、若い冒険者の方がいらっしゃいました。脚に深い傷があって、お代を申し上げたら、足りないとおっしゃいました。ほんの少し、足りないだけでした。……私は、決まりですから、と申し上げました」
「それで」
「その方は笑って、まぁ平気です、と言われました。また来ます、と。それで、そのまま帰っていかれました。脚を引きずって」
スプーンは止まったままだった。
「しばらくして、仲間の方がいらっしゃいました。……あの方は、戻らなかったそうです」
「……」
「決まりは守りました。神殿の方々も、あなたに落ち度はないと言ってくださいました。……ただ、あの方の『平気です』は、傷の話ではなかったんです。お代が足りない、という意味でした。私はそれを、言葉どおりに受け取りました」
「それで出たのか」
「はい。お代で治す治さないを決める場所に、もういられませんでした。外に出て、目に入った傷は残らず治そうと決めました」
皿の音が止まっていた。
俺はしばらく黙っていた。
「ミア。お前は間違ってねえよ」
ミアが顔を上げた。
「決まりは決まりだ。金が足りねえやつを全部タダで治してたら、神殿がもたねえ。それはお前も分かってるだろ」
「……はい」
「そいつが平気だと言った。お前はそれを信じた。信じたのが間違いだったと思ってるんだろ」
「……はい」
「違うな。そいつ、脚を引きずって帰ったんだろ」
「……はい」
「平気なわけねえ。お前はそれを見てた。見てたのに、口で言ったほうを取った。信じたから外れたんじゃねえ。見たもんを捨てたから外れたんだ」
ミアは何も言わなかった。
「昔の話だ。森で、仲間が一人やられた。見た目はかすり傷だった。本人も笑ってた。敵はまだ残ってたし、ヒーラーの精神力も残り少なかった。後回しだ、と俺が言った」
「……」
「毒だった。夜には動けなくなって、朝には冷たくなってた」
「……」
「毒までは見えてなかった。あのときの俺には、ああ言うしかなかった。今でもそう思ってる。思ってるが、あいつは死んだ」
奥は静かだった。
「戦ってる最中ってのはな、相手の言葉も、場面も、敵の強さも、自分の強さも、怪我の具合も。考えることが色々ある。どれか一つ要因で判断は決まらない。もし一つの要因だけで動くのなら判断することを捨ててるってことになる。それは楽だがな」
「……私が判断する・・・」
「ああ、お前がだ。お前はパーティで一番守られた場所にいる。ヒューゴが盾もなしに前に出たのは、後衛の中でもお前が最優先だからだ」
ミアは長椅子のほうを見た。昨日の夜、ヒューゴが寝ていた場所だ。
「傷をなんでも全部治すってのは、判断から逃げてる。神殿の決まりで冒険者を治さなかったのと、同じことだ。どっちも、お前が決めたことじゃねえ」
ミアの目が器に戻った。
「お前が決めるんだ。誰を先に治すか、誰を後にするか、誰を治さねえか。状況から判断しろ。考えろ。時には考える時間が一瞬しかねえこともあるが、それでも判断するんだ。それでも間違えることはある。間違えたかすら分からんことのほうが多い。だがな、そうするしかねえんだ」
ミアが俺を見た。
「……はい」
残りを食い終わると、「ごちそうさまでした」と言って立ち上がった。階段の途中で振り返って、もういちど頭を下げた。
朝の礼より、浅かった。
奥で、皿を洗う音がまた始まった。
俺は器を持って奥に行った。
「リタ。その皿、洗うの何回目だ?」
「はい。四回目です」
◇
翌朝、三人は揃って出ていった。
ダグは縫った鎧を受け取ると、肩の縫い目を引っ張って確かめてから言った。
「分かってるよマスター、二つ目の分かれ道までだろ」
「分かってるなら、いい」
ヒューゴは「ほっほっほ」と笑って、杖を担いだ。脇腹はもう押さえていなかった。
ミアは最後に出た。扉のところで振り返った。
「マスター。私、自分で考えて動けるようになりたいです」
「ああ」
扉が閉まった。
俺は帳簿を開いた。
傷薬は、前と同じだけ持たせた。
今度は空で戻ってこなければいい。




