第02話_役立たずな魔法使いヒューゴの場合
翌朝。
仕込みを終えて、扉の閂を外した。
開けた途端、目の前に男が立っていた。
くたびれた灰色のローブ。中年。髭に白いものが混じっている。
手には継ぎはぎだらけの杖と、表紙の取れかけた分厚い本。
ローブの肩には、パーティの紋章を剥がした跡があった。
目が合うと、男は照れたように笑って、頭を掻いた。
「いやあ、申し訳ない。開店前なのは承知の上なんですが……この匂いは、少々反則ですな」
言い終わる前に、男の腹の虫が盛大に鳴った。
男は、頭を掻いたまま、「お恥ずかしい」と言った。
俺はため息をついて、扉を大きく開けた。
「入れ。シチューならある」
「よろしいんですか」
「いいから入れ」
男は、杖と本を抱え直して、入ってきた。
これが、ヒューゴとの出会いだった。
「いやはや。うまい。実にうまい」
男は、シチューを三杯食った。
一口ごとに「うまい」と言う。パンをちぎっては「うまい」と言う。三杯目を頼むときは、「いやはや、お恥ずかしい」と言った。
「褒めるのは有り難いけどよ。料理が冷めちまうよ」
「これは失敬」
名前はヒューゴというらしい。
灰色のローブは裾がほつれていて、杖は継ぎはぎだらけ。分厚い本は表紙が取れかけていて、ページの端が全部めくれている。何百回も読んだ本の形だった。
「実は最近パーティをお払い箱になりましてね。まあ、いつものことですが」
「、、、そうか」
「私は、できの悪い魔法使いですから」
ヒューゴは、それを、天気の話でもするみたいに言った。
恨んでいるふうでも、落ち込んでいるふうでもない。
そう言われ続けて、もう自分でも納得してしまった、という顔だった。
「で、どんな魔法が使えるんだ?」
「火も水も、一応は。ただし駆け出しに負ける程度です。回復は、まるで才能がなくて」
「それだけか」
「それだけ――と言いたいところですが、一つだけ、妙なことができましてね」
ヒューゴが、少しだけ身を乗り出した。
「相手の魔法の発動を、ほんの一拍、遅らせることができます」
「遅らせる」
「はい。消えるわけでも、弱まるわけでもない。ただ、ほんの一瞬、遅れるだけで。何の役にも立ちませんが」
「そんなことができるのか」
「できるんですよ。これが面白いところで。魔法というのはですね、術者が魔力を練って、形にして、放つ。この『形にして』と『放つ』の間に、ごくわずかな――」
長くなりそうな話だった。
「その話長くなるか」
「はい、長くなります」
「後にしろ」
「はい」
ヒューゴは、素直に口を閉じた。
閉じたが、目は閉じていなかった。
魔法の話をしているときだけ、この男の目は、別人みたいに光る。
「お代なんですが、お恥ずかしい話、今は持ち合わせが」
「ツケでいい」
「ありがとうございます」
「施しじゃねえぞ。ちゃんとあとで払えってことだ」
「いやあ、この歳で人様の世話になるのは」
「歳は関係ない。食ったら払え。それだけだ」
「……ありがたい」
ヒューゴは、本を胸に抱えて、頭を下げた。
◇
「マスター。あの人、お皿を見ながら、何かぶつぶつ言ってます」
出勤してきたリタが、裏から戻ってくるなり小声で言った。
見ると、ヒューゴが空になった器を眺めながら、口の中で何か唱えている。
聞き耳を立てると、術式の名前だった。火の初級、水の初級、灯り。
たぶん、頭の中で魔法を組み立てて遊んでいる。
「ヒューゴというらしい。最近、パーティを追い出されたらしい」
「……そうですか」
リタは、しばらくヒューゴのほうを見ていた。
何か言いかけて、やめて、仕込みに入った。
◇
昼になって、店が埋まってきた。
ダグがいつもの席に座る。縫った鎧は、今日はまだ破れていない。
常連が何人か。物見遊山が一組。
窓際の奥にはエド。
エドは席に着くとき、ヒューゴを一度だけ見た。すぐに視線を外して、いつもの赤ワインを頼んだ。
「おい、マスター。あのおっさん誰だ」
ダグが、ヒューゴを顎で指した。
「新顔だ。ヒューゴ」
「冒険者か」
「らしい」
「職は」
「本人に聞け」
ダグはシチューの器を持ったまま、ヒューゴの席まで行った。
面倒見がいいのか、野次馬なのか、ダグはこういうことをよくやる。
「おっさん、冒険者だって?」
「ええ、一応」
「職は」
「魔法使いです。できの悪い」
「できの悪いって、自分で言うなよ」
「事実ですから」
ヒューゴは、にこにこしていた。
ダグが、困った顔で俺を振り返った。
俺は肩をすくめた。
そのとき、物見遊山の一組の中の、若い魔導士が笑いながら手を上げた。
酒が入っている。
「おっさん、魔法使いなら何か見せてよ」
「お見せするほどのものは。……ああ、そうだ。あなた、灯りの魔法は使えますか」
「使えるけど」
「では、つけてみてください。私が、遅らせますので」
「遅らせる?」
「ええ。ほんの一拍」
魔導士が、面白そうに指を立てた。
初級の光魔法。駆け出しが最初に覚える、夜道を照らすくらいしか使い道のないやつだ。
ヒューゴが、杖を軽く握った。
魔導士が、指を鳴らした。
――灯りがついた。
「……ん?」
魔導士が、自分の指先を見て、首をひねった。
「今、ちょっと引っかかった?」
「普通についたじゃねえか」
「気のせいだろ」
「一瞬遅れたくらいで何になるんだよ!」
どっと笑いが起きた。
魔導士本人も、まあいいか、という顔で笑って、席に戻った。
「ですなあ。私も、そう言われ続けて二十年です」
ヒューゴは、笑われている中で、一緒になって笑っていた。
怒らなかった。言い返さなかった。
笑われ慣れている笑い方だった。
ただ、笑いが収まったあと、ヒューゴはカウンターまで来て、俺にだけ聞こえる声で言った。
「マスター。今の、見えましたか」
「何が」
「彼の指先です。魔力が一度ふくらんで、しぼんで、それから灯った。あれが『間』です。私が触っているのは、あれなんですよ」
目が、光っていた。
笑われたことなど、もうどうでもいい、という目だった。
「……何を言ってるのか、分からん」
「でしょうなあ」
ヒューゴは、嬉しそうに席に戻った。
俺は厨房に戻って、鍋をかき混ぜながら考えた。
魔力がふくらんで、しぼんで、灯った。
言われてみれば、そうだったかもしれない。見えたとは言えない。だが、魔導士本人が「引っかかった」と言った。
気のせい、と周りが言って、本人もそれで納得した。
一瞬遅れたくらいで何になる。
そう言った奴は、たぶん前衛をやったことがない。
盾を構えるのに要るのは、一瞬だ。
火球が飛んでくるのが見えてから盾を上げたのでは、間に合わない。杖を振ったのが見えた瞬間に上げ始めて、やっと間に合う。
その「やっと」が、一瞬遅れてくれたら、どれだけ楽か。
俺は、昔、盾を持っていたことがある。
色々やったから盾をもっていた期間はそう長くはなかったが、火球が盾に当たる音は、まだ覚えている。
◇
夜。客が引いたころ。
ヒューゴは、窓際の端の席で、本を開いていた。
帰る様子がない。帰る場所がないのだ、とすぐ分かった。
「泊まるところは」
「ございません。軒先で結構ですよ。慣れておりますので」
「もう冷えるぞ」
「軒先は、まだましなほうです」
「慣れてるんだな」
俺は鍵の束から一本抜いて、カウンターに置いた。
「二階の奥。空いてる。宿代はツケだ」
「いやあ。重ね重ね」
「稼いだら払え」
「……ありがたい」
ヒューゴは鍵を受け取って、本を閉じて、立ち上がった。
階段の手前で、一度だけ振り返った。
「マスター。あの、先ほどの『間』の話なんですが」
「長くなるか」
「長くなります」
「明日にしろ」
「はい」
ヒューゴは、嬉しそうに二階に上がっていった。
明日、本当に聞かされるのだろう。
リタが、皿を拭きながら言った。
「マスター。また増えましたね」
「何が」
「お客さま」
「……ああ」
帳簿を開いて、ツケの欄に新しい名前を書いた。
ヒューゴ。シチュー三杯、パン二つ、宿代一晩。
◇
翌朝、ダグが店に来るなり言った。
「マスター。今日も北の森に行くんだけどよ。昨日より奥まで行こうと思ってる」
「ならおとなしくしとけ。まさか一人で行く気か」
「……まずいかな?」
「まずいに決まってるだろ」
俺は、二階を見上げた。
階段の上から、ヒューゴが本を抱えて降りてくるところだった。
「ヒューゴ。ついていけ」
「私がですか。いやあ、お役に立てるかどうか」
「後ろに立ってろ。それだけでいい」
「それなら得意です。二十年やっております」
ダグが、呆れた顔で俺を見た。
「あの変な魔法のおっさん? 何の役に立つんだよ」
「分からん」
「分かんねえのかよ!」
何が起こるかわからないのが冒険ってもんだ。




