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動き出した時間

 海歌と過ごす時間は夢のようだった。楽しくて、有意義で、一分一秒が充実していたと思う。


 しかし、夢はいつまでも続かない。

 退屈で、陰鬱で、荒んだ現実へと引き戻されてしまう。


 今日も、重苦しい内藤先生の数学の授業が始まった……


「いいか?数学の公式ってのは、問題を解くためのツールだ。しっかり覚えておけよ」


 仕方なく、先生の説明に集中する。

 《《授業中にスマホをいじっていて注意された》》という前科がある以上、スマホを触るのはリスキーだ。


 そういえば、今日は海歌の「おはよー」が送信されてこなかったな……


 それにしても、退屈と孤独が苦痛で仕方ない。

 以前ならば、(帰ったらゲーム何やろうかな)とか(もしも推しのキャラと付き合えたらデート先はどこにしようかな)とか、先の楽しみや妄想でしのいでいた。


 しかし今の俺は、数学の数式でもなく、妄想でもなく、海歌のことで頭がいっぱいだった。


 海歌に会いたい、海歌としゃべりたい、海歌と遊びたい……

 とにかく、海歌がいないという退屈と孤独が苦痛で仕方がなかった。


「あ!」


 そのとき、空音が授業中にも関わらず声を大にした。

 教室に、とある女子生徒が入室してきたのだ。

 襟足の長い黒髪、猫背気味の姿勢、目の下の大きなクマ、特徴的なしずく型の青いイヤリング……


 紛れもない【宮本みやもと海歌うみか】だった。


「海ちゃん、学校来てくれたんだ!」

「……宮本さん、久し振りに見たな。何週間ぶり?」

「……1か月ぐらいじゃない?」


 クラス中がざわめき立つ。

 そりゃ、1か月も音沙汰がなかったクラスメイトが、急に登校してきたのだから当然か。


 海歌は一言も発せず、廊下側の先頭の自席に座った。

 教科書もノートも出さず、机に身を投げて夢の中へ……


 そんな舐めた態度の海歌を、内藤先生が放っておくはずがなかった。


「宮本さん?今は数学の時間ですよ。体調が悪いのなら保健室に行ってください」

「……」


 海歌は机に突っ伏したまま、貧乏ゆすりをはじめた。

 静まり返った教室に、海歌の上履きが床を叩く「トントントン……」という音が響く。


「宮本さーん、聞こえますか?イヤリングは外してください。校則違反です」

「……あとで外します」


 海歌はぶっきらぼうにこたえた。


(うわ……これ、絶対に怒られるやつだ……)


 俺を含めてみんなが、内藤先生の怒りの大爆発を予期して身構えた。


 しかし、内藤先生は「そうですか」とため息混じりに言って、何事もなかったかのように授業を再開した。


 そして、何事もなく授業は終わった。

 内藤先生はいつも通り、雑に黒板を消して、そそくさと退室した。


 休み時間になり、再び教室の賑やかさが戻って来た。何人かのクラスメイトが海歌について話している声も聞こえる。


 そんな中、海歌は唐突に席を立ち、俺の席に歩み寄ってきた。


「陸翔、お昼休みに5階の空き教室に、お弁当持って来て」

「あ、ああ。分かった」

「ん、よろしく」


 海歌は足早に自席に戻った。


 4限目の授業が終わった後、海歌に言われた通り、お弁当を持って5階の空き教室に向かった。


 教室の隅っこの席に、海歌が座っていた。

 クーラーの冷房が効いていて涼しかった。


「陸翔、一緒にお弁当食べよ」


「……そういうことだろうと思ったよ。食堂はガヤガヤしてて落ち着かないから、この空き教室に来たんだろ?」


「お、私のことよく分かってるじゃん」


 机を移動して、海歌と対面に座った。


 海歌は、さっそくお弁当箱を開いた。


 中身は、焼肉のタレがかかった白いごはんと、唐揚げが2つ、そして申し訳程度のブロッコリーが一つだけ。

 最強の時短弁当ではあるが、茶色っぽく、栄養に偏りがある感じがする。俺的には、トマトやアスパラガスなどを加えて彩りを加えたいと思う。


「陸翔のお弁当も見せて」


 海歌に言われるまま、俺はお弁当箱を開けた。

 俺のお弁当箱の中を見た海歌は「え、すごっ!」と、素直に驚いた。


 今日のメニューは、栄養バランスを考えてプチトマトとブロッコリーを入れている。しかし、自分の好きなハンバーグとふわふわの卵焼きも欠かさず詰めた。

 冷凍食品がおいしく、楽に食べられる現代に生まれてよかったと、つくづく思う。


「お母さんに作ってもらってるの?それとも、陸翔が自分で作ったの?」

「自分で作ったよ」

「ヤバ、すご」

「そうかな……?」


 俺は普段から、弁当を自分で作っている。

 母親と父親の帰宅が遅く、姉も夕食時に不在なことが多い関係で、夕食を自分で作ることもある。


 俺の弁当は、そうした料理の経験の賜物たまものである。最近は、卵焼きの綺麗な巻き方を練習中だ。


「俺の卵焼き、一つあげるよ」


「お、ありがとう。気が利くね。じゃあ私のブロッコリーあげる」


「いや、海歌がブロッコリー食べなくないだけだろ」


「うっ、バレたか」


 海歌とおかずの交換をしたり、雑談に興じたりして、お昼休みを満喫する。


 しかし、海歌の《《指》》がどうしても気になってしまった。

 というのも、海歌の左手の人差し指と中指に、いくつもの切り傷があったのだ。


「海歌、その指の傷、どうしたの?」

「あーこれね。日曜日に料理してたら、包丁で切っちゃった」


 理由は、不器用な海歌らしいものだった。


「この前は、私が不器用すぎて陸翔にチャーハン作ってもらったけど、こんどは、私が陸翔に料理を作るから」


「そりゃ楽しみだ」


「陸翔は何食べたい?何でも作るよ。カニクリームコロッケとか、ポテトサラダとか、デザートにチョコケーキとか」


「それ、難しくない……?特にケーキとかのお菓子って、分量を間違えた時点で失敗するから。まずは、簡単なチャーハンから作ってみてよ。レシピは、ネットにいくらでも載ってるよ」


「あ、そっか。ネットのレシピ見ればいいのか」


「そ、そうだよ……今まで何にも見ないで作ってたのか」


 海歌の作るチャーハン、塩コショウ多めでしょっぱそう……という不安もあったが、期待のほうが大きかった。

 何より、料理に不慣れな海歌が、俺のために頑張って料理を作ってくれることが嬉しかった。


 ふと、時計を見上げる。


 時刻は午後1時20分。あと10分で授業が始まるし、しかも、化学基礎なので実験室に移動する必要がある。


「ヤベっ、もうこんな時間か!」

「急がば回れだよ。ちょっとぐらい遅刻しても大丈夫だって〜」

「のんびりし過ぎも良くないと思うけど!?」


 俺は急いでごはんを口にかき込み、水筒の麦茶で流し込んだ。


 海歌の弁当箱には、まだ半分ぐらいのごはんと唐揚げ1個が残っていた。海歌は、その残った分を休み時間に食べるらしい。


 手早くお弁当箱を片付け、照明とクーラーを切って、俺たちは足早に教室を出た。

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