動き出した時間
海歌との夢のような時間は過ぎ去り、憂鬱で、退屈な現実がやってくる――
「次は、福音、福音~。お出口は右側です」
機械的な音声が次の駅を知らせる。
ユニフォームに染みついた汗の酸っぱさ、おじさんのスーツから漂うタバコの臭い、鼻をツンと突くOLさんの香水の臭いなどが混ざり合っていた。
乗客たちは、何とも言えない表情で俯き、スマホを見ていた。
そんな、この世のありとあらゆる憂鬱を詰め込んだ満員電車に揺られて、今日も学校を目指す。
(今日は特に混んでるな……他の駅でトラブルでもあったのか?)
電車が揺れるたびに、体をグッと押されて圧迫感が強まる。
そんな窮屈な電車内で、ある一筋の光を見た。
「え……」
次の駅で乗り込んできた人々の中に、その人はいた。
俺が見た光は、その人が付けていたイヤリングの反射光だったらしい。
「お、おはよう、海歌……」
「……おはよ、陸翔」
なんと、学校に来ず、この時間には寝ているはずの海歌が隣に立っていた。
海歌は、いつにも増して低い声で挨拶を返してくれた。
「ふああ……」と、何度も大きなあくびをしている。
「う、海歌、何で……?」
「何でって、私が学校に行きたいと思ったから」
ぶっきらぼうに答えた海歌。
「東西等愛線は、近代駅での急病のお客様の対応のために、現在運行を停止しています」
車内アナウンスが、別の線でのトラブルを告げる。
時間が経つほど、電車内の人数は増えていった。
それにともない、海歌とより密着してしまう。
(う、海歌の胸が当たってる……!?)
弾力のある柔らかな感触が、背中に押し当てられた。
速く、そして力強い海歌の心臓の鼓動が、制服のシャツ越しに感じられる。
だが、そんな幸せな感触をじっくり味わうことはできなかった。
「り、陸翔……」
「な、なに?」
海歌は俺に体を預けたまま、まるでゾンビのようなうめき声を響かせた。
「気分悪くて……マジでやばい、吐きそう……」
「え、え……!?」
突然、体調不良を告げられて、焦りに焦った。
もしも海歌がこの場で吐いたら、最悪、電車を止めてしまうかもしれない。次の駅まで堪えてもらう他ない。
「次の駅で降りよう。俺も一緒に降りるから、それまで我慢できる?」
「……頑張る」
体が熱い。
背中に大量の汗が湧く。
自分の体調が悪いときよりも、よっぽど不安だった。
不安な状態は続くが、無事に次の駅に到着した。
俺は海歌の手を引いて電車を降り、トイレに急いだ。
「大丈夫?」
「……無理そう。死ぬかも」
「もうちょっとでトイレに着くから、安心し……」
俺は言葉を詰まらせた。
女子トイレには長蛇の列が。20人ぐらい並んでいる。
体調不良と伝えれば、優先してトイレを使わせてもらえるだろう。
しかし、海歌は柱の陰にうずくまってしまう。
「……ビニール袋持ってない?」
「ああ、あるよ」
ごみ袋用として持ち歩いていたビニール袋を二重にして、海歌に手渡した。
海歌は、その袋へ盛大に嘔吐した。
行き交う何人かの人が、心配そうに海歌のほうをチラッと見て、過ぎ去っていく。緊張と心配と気まずさで、生きた心地がしなかった。
「ごめん、マジでごめん……本当にごめん…………」
「いいよ、気にしないで」
海歌の声は震えていた。
俺はペットボトルのお茶を差し出し、それで口をゆすいでもらった。
「あー、酸っぱ……吐いたらちょっと楽になったかも」
「コーラ買ってこようか? 少しは気分良くなるかも」
「お願い」
「分かった。そこで待ってて」
海歌からビニール袋を預かり、適切に処理して、海歌の大好きなコーラを購入した。
俺と海歌は、駅のホームへ再び戻った。
電車を待つ間も海歌を気遣い、会話を途切れさせないようにした。
「今日、朝から体調悪いなって思ってたんだよね」
「まあ、そういう日もあるよな。今日は無理しないで休んだほうがいいんじゃない?」
「ヤダ。絶対に学校行く」
海歌は首を横に振った。
「どうしてそんな無理をするんだよ? いきなり全力で頑張らなくても、少しずつ慣れればいいと思うけど……」
以前の海歌ならば、少しでもツラくなったり、面倒になったりしたら逃げ出していただろう。
けれど今の海歌は、身体に無理をさせてまで学校に行こうとしている。
海歌の中で、何か心変わりがあったのだろうか。
「――陸翔を取られたくないから」
「え?」
海歌の言っていることが理解できず、思わず聞き返した。
「うちらのクラス、かわいい人とか、カッコイイ人とか、すごい人とかいるじゃん?ミサキさんとか、小林くんとか ……あと、空ちゃんとか」
「た、たしかに」
「そういう人たちと陸翔が一緒にいるの見てると、なんか……ムカつく。陸翔が私以外の誰かと仲良くしているのは、性別関係なく、嫌」
海歌はそっぽを向いた。
けれど、 耳が真っ赤になっていた。
海歌が恥ずかしがったり、緊張したりしたときに顔や耳が赤くなるのは昔からだった。
「とにかく、私は陸翔と一緒に居たいの。わかった?」
「お、おう、分かったよ……」
他のクラスメイトに嫉妬するぐらい、海歌は俺のことを気に入ってくれているらしい。
目の前で本音を聞かされて、俺まで顔が熱くなってきた。
ちょうどそのとき、電車がホームにやってきた。
「さ、遅刻しないように、早く行こ」
海歌は元気になったのか、おもむろに立ち上がった。
「体調はもう大丈夫?」
「うん。陸翔のおかげでだいぶマシになった。心配してくれて、ありがと」
「また体調が悪くなったら、無理せず保健室に行けよ」
「わかった」
海歌は笑った。
また海歌の笑顔が見られて、ひとまずホッとした。
「こんど、絶対に恩返しするからね」
「恩返しとか、気にしなくていいよ。だって、俺と海歌は幼なじみだろ?」
「いや、私と陸翔が幼なじみだろうと、友達だろうと、恋人だろうと、私は絶対に恩返しするから」
俺と海歌は再び電車に乗り、学校を目指した。
空にはどこまでも青い空が広がっていて、まぶしい太陽がギラギラと俺たちを照らし出していた。




