幼なじみであり、恋人であり、救世主であり……
「うわ、暑っ……」
ゴールデンウィーク明け、玄関を出た私は、季節外れの蒸し暑さに襲われた。
力強い太陽の光が燦燦と降り注ぎ、私の白い額をジリジリと焼き焦がす。
(ありえないんだけど。まだ5月だよ!?)
日焼け止めは塗ったけど、汗拭き用のシートを忘れた。
汗対策グッズを取りに戻るため、玄関の鍵を開けた。
――ドアを開けたそのとき、私の中で何かがプツンと切れた。
「あ、もう、いいや」
通学用のカバンを玄関に放置し、とぼとぼとリビングを歩いて、制服を着たままベッドにダイブした。
「ん~、どうしたの海歌……? 忘れ物?」
夜勤明けで寝ていたママの、酒焼けしたガラガラ声が聞こえてきた。
「今日、学校休む。ムリ~」
「そっかぁ、まあ、そういう日もあるよね~」
しばらくして、再びママのいびきが聞こえてきた。
私はベッドの上で仰向けになり脱力した。
エアコンが稼働する「ゴー」という音や、時計の針の「カチっ、カチ」という音がよく聞こえた。
「え、めっちゃ幸せなんだけど」
涼しい部屋で、何も考えず、二度寝する……緊張して固くなっていた体がほぐれて、心臓がゆっくりと鼓動を刻むのを感じた。
そのまま目を閉じて、心地よい夢の世界に片足を突っ込む。
そうして、1日、2日、1週間……と、時間はあっという間に過ぎ去った。
勉強しなきゃいけない、学校に行かなきゃいけない、せめてお風呂に入らなきゃいけない……そうは思っていても、体が動かないし、やる気も湧かない。
そんな自分と、頼んでないのに必ず来る【明日】という日にウンザリしていた。
「明日なんか、来なければいいのに……」
寝ている間に宇宙か、あるいは心臓が爆発して、痛みも何も感じないまま永遠の眠りに就けたら、もう何も悩まないで済むのに。
そんなことを考えながら、今日も寝つきの悪さで布団の中でモゾモゾ動き続ける。
そんなことの繰り返しで、気が付けば、1か月という月日が過ぎ去った。
「あー、ダル」
腹の虫が鳴って、私は目を覚ました。
締め切ったカーテンの隙間から、夕日の茜色が流れ込んでいる。
重い体を起こしてベッドから立ち上がり、ポットでお湯を沸かしてからトイレに向かう。
そして、ベッドの縁に腰かけて、カップ麺を食べた。
「……薄っ」
塩味が足らず、しょうゆを一周分かけた。
食べ終わったカップ麺の容器を、ベッド脇の【カップ麺タワー】のてっぺんに重ねて、10日連続でそれを食べていたことに気が付いた。
(風呂、そろそろ入ろうかな……いや、めんどくさいし、いっか……)
日に日に傷が増える腕をボリボリ搔きむしりながら、またベッドの上に磔になる。
もう一か月以上、学校に行っていない。
勉強は遅れに遅れ、やらなきゃいけない課題は山積みになり、中間テストはスルーしてしまった。
1日、1週間と過ぎるごとに、学校に行きづらくなる。高校が休みの土日だけは、罪悪感なくゲームができる。
――私は生きているというより、死んでいないだけ。
もう、完全に詰み。
高校は卒業できない。
部屋も、未来も、時間とともに暗くなってゆく。
「……まあ、いざとなれば死ねばいいし」
不安な気持ちを落ち着かせるための魔法を唱えて、瞳を閉ざし、妄想の世界に逃げ込む。
ママは仕事と男遊びに忙しいし、「好きにすれば」と言うので、私を邪魔するものは何もなかった。
「海歌が満足するまで、俺はここにいるから」
「大変だったね、海歌」
「一緒にいてくれてありがとう、海歌」
私を助けてくれる、イケメン男子な救世主様の声を聞いた。まあ、全部妄想だけど。
けれどその妄想が、私をかろうじて正気に保ってくれる。
別にイケメンじゃなくてもいい。
もう、誰でもいい。
こんな私を救ってくれる人、来てくれないかな……
ピンポーン!
「!?」
私の現実逃避の妄想を遮断するように、インターホンが鳴った。
「……うるさい、死ね、どっか行け」
どうせ、旅行のお土産を渡しに来た一階のおばさんか、宗教勧誘だろ!
私は妄想の続きがしたくて、枕で耳を覆った。
しかし、予想に反して、インターホン越しに聞き覚えのある声が響いた。
「――す、すみません、東京豊穣高校1年の古谷陸翔です。先生から預かった書類を届けに来ました」
私を救ってくれる人は、案外、近くにいた。
♢
「ただいま~」
かすれた声が玄関から聞こえた。
鼻をツンと突くお酒の臭いをまとい、ビニール袋を両手に持ったママが帰ってきた。
私はベッドから飛び起きて、リビングでママを迎えた。
「おかえり、ママ」
「ただいま、海歌……どうしたの、そんなニコニコして。何か良いことでもあった?」
「うん。私にとっても、ママにとっても嬉しいニュース」
特売や半額のシール付きの牛肉や卵を次々と冷蔵庫に入れるママに、スマホを見せた。
ママは、画面に表示されている文章をそのまま読み上げた。
「3年1組のみなさん、こんにちは、担任の内藤です。本日最後の成績会議が行われましたので、その結果をお知らせいたします――クラス全員、無事に卒業が決まりました……!?」
メールを途中まで読んだママは、スマホを持ったまま私に抱き着いてきた。私の胸元に顔を埋め、ズルズルと鼻をすする。
Tシャツの胸元に、温かな感触がじんわりと広がった。
「頑張ったね海歌。本当に、ほんとに、頑張ったね……」
「え、泣くほど嬉しかった?」
想像以上に喜ばれて、ちょっと引いてしまった。ママが泣いているところを見たのは、何時ぶりだろう。
「すごいじゃん海歌。やればできるじゃん! 陸翔くんと空音ちゃんに勉強教えてもらってたもんね。二人に『ありがとう』って言った?」
「まあ、うん」
私は頷いた。
内藤先生からのメールを受信して、真っ先にチャットを送ったのが陸翔と空ちゃんだ。
二人に支えてもらったお陰で、高校卒業に漕ぎつけたといっても過言ではない。
『よっしゃ、目標達成! みんな一緒に卒業できるな!』
『やったね海ちゃん! ウチも、めっちゃ嬉しいよ!』
二人からの返信が頭の中で蘇り、その喜びがじんわりと染み渡った。
「――ママも、ありがとう」
そう伝えると、ママは涙でつけまつ毛が取れた顔を上げた。
「え……わたしは、海歌に何もしてやれなかったけど……」
「そんなことないよ。ママが一生懸命に働いて、私の学費と生活費を稼いでくれたおかげで、今日を迎えられたんだから」
ママがいなかったら、高校卒業を前に飢えと寂しさで死んでいた。だからこそ、陸翔と空ちゃんと同じぐらいに感謝している。
「ご、ごめんね、わたし、マジでダメダメなお母さんで……」
「人って、ごめんって何回も言われるより、ありがとうって一回言われたほうが嬉しいんだよ、ママ」
はっとしたママは、私の手を強く握り、私を真っすぐに見つめた。
「――ありがとう、海歌。わたしの娘として生まれてきてくれて。大好き!」
「え、ええ、そこまで言う……? まあ、嬉しいけど」
ママは再度、私をぎゅっと抱きしめてきた。
こういう雰囲気、どう反応していいのか分からないから苦手なんだよなぁと思いつつ苦笑い。
けれど、心の内ではすごく嬉しかった。
卒業できると決まった喜びもそうだけど、ママに面と向かって感謝を伝えられたのが何より嬉しかった。
「じゃあ、今日は海歌の卒業決定のお祝いですき焼きにしよっか。ちょうどお肉と卵を買ってきたところだし」
「やった~」
気持ちがすっきりしたからか、その日にママと食べたすき焼きはバリクソ美味しかったのを覚えている。




