宮本海歌
それは、もう10年近く前のことだったと思う。
「ねぇ、海歌の課外学習のお金振り込んでおいてって言ったよね? なんで振り込んでおいてくれなかったの!? 学校から催促のメール来たんだけど!」
怒号に似たママの声がリビングから聞こえて、私は目を覚ました。
怒鳴られているのは、私ではなく、夜遅くに帰ってきたパパだった。
「ああ、忘れてた」
「忘れてた……じゃないでしょ! わたしだって平日は仕事で忙しいのに、どうしてくれるの!?」
「……うるせぇ、耳がキンキンする」
「誰のせいでこうなってるのか分かってる!?」
夜中にも関わらず、大声で叫ぶママ。
ふと、枕元の目覚まし時計を見てみると、午後11時。
近所迷惑にならないのかなぁと、どこか他人事のように思っていた。
「はいはい、分かってますよー。全部オレが悪いです。――それはそうと、早く晩飯の支度してくれ」
「っ――!!」
そのとき、パシッという乾いた音が響いた。
あーあ、またママがパパのこと叩いた。
「いってぇなこの野郎! 仕事から疲れて帰ってきてこの仕打ちかよ!?」
バンッ!と、強くテーブルを叩いたらしいパパ。部屋全体が、少し揺れた気がする。
こりゃ、久しぶりの大ゲンカになるなぁ……
「そもそも、お前の職場のほうが銀行に近いんだから、お前が時間作って振込しろよ!」
「言ったでしょ、わたしも忙しいし疲れてるの! ……遅くなるって連絡一つ寄こさないし、ゴミ袋も食べ終わった食器も放置して家のこと何にもやらないで……アンタ何なの!?」
「あーダル、もういい。お前とは話になんねぇわ」
そう言って、パパは脱衣所のドアを勢いよく閉めた。
「あああああああ!!!」
続いて、サイレンに似たママの絶叫が轟く。
(うるさいなぁ……)
私は布団を目深に被り、耳を塞いだ。
パパもママも、ここ最近仕事のストレスなのか、ずっとイライラしていて不機嫌だ。
私も怒鳴られるんじゃないか、叩かれるんじゃないかと不安になりながら、再び眠りに落ちる。
そんな日々が続いたある日――パパが帰ってこなくなった。
「わたし一人で海歌を育てろって言うの……? 無理無理無理、絶対ムリッ!!」
私が学校から帰ってきたとき、ママは半狂乱で暴れまわっていた。
テーブルはひっくり返ったまま。『これでいい子に育つ!新米お母さん向け子育て術』とか『死にたい気持ちに寄り添う』と表紙に書かれた本や雑誌が床に散らばり、その周りに何十本もの金色の髪がパラパラと舞った。
窓の外をボーっと眺めているママに、プリントを差し出した。
「ママ、これ、学校からもらった。明日までに提出だから、ハンコかサイン……」
「今それどころじゃないって分かるでしょ!? これ以上、わたしを追い詰めないでよ!!!」
ママは床にうつ伏せになって、子どもみたいにわんわん泣いていた。
いや、泣きたいのはこっちなんだけど。
毎日ママの愚痴と怒鳴り声を聞かされて、不安になりながら日々を過ごして、明日は書類を出さないで先生に怒られる……
「大人って、自分勝手なんだなぁ」と、子どもながらに思ったのを覚えている。
「なるほど! あいつ、帰りが遅かったのは絶対浮気してたからだ!! 今頃、わたし以外の女と仲良しこよしで幸せに暮らしてるんだろうなぁ……殺してやる、絶対に殺してやるッ!!!」
いつもの妄言が始まったので、私は諦めてベッドの上に転がり込み、イヤホンで耳を塞いだ。
大好きな音楽をタブレットで聴いたり、推しのライブ配信を見ている時だけが、唯一、心が休まる時間だった。
♢
それから、私は中学3年生になって、受験勉強に励んだ。
「頑張って、できるだけ上のレベルの高校に行きなさい。ママみたいになるわよ」
――それが、ママの口癖になっていた。
叩かれるんじゃないか?
怒鳴られるんじゃないか?
そんな不安に背中を押されて、苦手な勉強に励んだ。
自分のやりたいことよりも、ママが期待することを優先してやった。
「あー死にたいな……」
そんな愚痴を吐きつつ、勉強机にしがみつき、何とか第一志望の高校の合格証書を手にした。
「おめでとう、海歌!よく頑張ったね!」
「あ、ありがとう、ママ」
合格証書を受け取ったママは、私に抱き着いてきた。
息ができなくて、骨が軋む、それぐらい強く抱きしめられた。
「ゲームやりたかったんだよね?お祝いに、なんでも買ってあげるわ!」
「え、いいの……?」
「うん。このために、お母さんはお仕事頑張ってきたんだから!」
これで受験勉強から解放されて、ゲームやりたい放題!
バイトも頑張って、友達もたくさん作って、ワンチャン彼氏もできたりして?
そんな大きな期待を胸に、新しい教室に入ったわけだけど……
「ミサキさんおはよ~。はじめまして!」
「道山空音ちゃんだよね? こちらこそ、初めまして~。その金髪、地毛だよね、すご!」
「おう、小林。部活、どこ入る予定?」
「中学のとき野球部だったから、また野球部に入ろうと思ってるよ。せっかく入るんだから、甲子園行きてぇよ!」
え、打ち解けるの早くない? 何かのマジック?
というか、お互い初対面なのになんで名前まで知ってるの?
同じ小・中学校に通っていた人がいるとしても早い、早すぎる……
そもそも、実家から遠い高校に進学したのが間違いだったのかもしれない。小・中学生のときの知り合いや友達は、みんな近場の高校に進学してしまった。
(誰か、話しかけられそうな人、いない……?)
周囲をキョロキョロ見渡してみる。
「あの子、独りぼっちなんだ」
「寂しくないのかな?」
そう思われたくない気持ちが、お腹の底で沸々と煮えていた。
そんな焦りの中で、見覚えのある顔を見つけた。
窓際の一番後ろの席、一人で本を読んでいる黒髪男子は――
(り、陸翔! 古谷陸翔! 同じ高校だったの!?)
小学生の頃、放課後によく遊んだ幼なじみが、なんと同じ高校の同じ教室にいた。凛々しく、なんか賢そうな雰囲気、まったく変わってないな!
陸翔に話しかけるために、席を立とうとした。
けれど……
「海歌ちゃん、陸翔くんに気があるんだ。へぇ~」
「ターゲット発見って感じ?」
「一人でいる大人しそうな男子狙ったらライバル少なくて済むもんね~。賢いね」
ち、違う!!
私はただ、一人ぼっちが嫌なだけで、陸翔のことが気になっているわけじゃない!
脚に力が入らなくなってしまって、結局また席に座り直した。
いや、気にし過ぎなのは分かってるけど、全部が全部不安になって仕方がない。
――あれ、友達ってどうやって作るんだっけ……?
「おはよっ!」
「ひえっ!?」
机に突っ伏していたら、突然、背後から肩をがしっと掴まれた。
振り向くとそこには、綺麗な金髪の小柄な女の子が立っていた。
瞳の色は青空のような透き通る色をしていて、明らかにヨーロッパ系の血が入った美形だ。
クラスメイトから「道山空音」と呼ばれていた子だ。
「今ね、クラスのみんなの顔と名前を覚えてるの! 名前、教えて!」
「み、宮本、海歌……」
「宮本さんね。海歌、いや、海ちゃんって呼んでもいい?」
「う、うん」
「よろしくね、海ちゃん! あ、ウチのことは空音とか、空ちゃんって気軽に呼んでもらっていいよ!」
私の手首をさすさすと撫でる空音さん。初対面なのに、なんか馴れ馴れしいなぁ。
「チャット、交換しよ! あ、そういえば海ちゃんは選択科目何にする予定? 音楽? 書道? 美術?」
「あ、うん……えーと、選択科目は音楽、かな」
「ウチもだよ! 一緒だね! ウチね、小中学生のときバイオリンやってたんだ!海ちゃんは声がカワカッコいいから声楽で、ウチが演奏でクラシックバンド同好会!なんちゃって~」
あ、この子、私に合わないかも……




