過去の傷痕
風呂上がり、俺はアイスクリームを食べながらソファに座っていた。
すると、海歌が寄ってきた。
お前はエサを待つひな鳥か!
「アイス、一口ちょーだい」
「はいよ」
海歌は大きく口を開いて、残っていたアイスを一口で食べてしまった。
「おい、全部食うなよ……」
「一口食べていいんだよね?だから、一口もらったよ」
海歌の一口を侮るなかれ、ということか。
「アイスの棒捨ててきて~」
「それぐらい自分で捨ててこいよ……ったく、しょうがないな~」
と言いつつ、俺は重い腰をあげて、アイスの棒を捨てに行った。
こき使われるのは、幼い頃から姉にされていたことなので慣れっこだ。
「ふああ~眠くなってきたなぁ」
海歌は大きなあくびをした。
「そろそろ寝ない? 私のベッドで一緒に……?」
耳元で甘く囁き、手を重ねてきた海歌。誘い方が巧妙で、思わずドキッとしてしまった。
「でも、一人用のベッドに二人で寝るのは狭くないか?」
「狭いからこそいい。お互いの距離が近くなるからね」
海歌と並んで歯磨きをして、順番にトイレに入った。
まさに、海歌に為されるがままだった。
「なんか……ドキドキしてきた」
「実は、俺もドキドキしてる。だって、女の子の家に泊まるの初めてだから……」
「えへへ、陸翔の初めてもらっちゃった」
「その言い方は誤解を生むぞ……」
海歌は部屋の明かりを落とした。
ベッドの上には、カーテンの隙間から差し込む月明りと、街灯の白い光が溜まっている。
海歌に手を引かれ、ベッドの縁に腰かけた。
部屋は静寂に包まれ、エアコンが冷たい空気を吐き出す「ゴー」という音だけが聞こえる。
「ねぇ、私のこと好き?」
「も、もちろん」
「どれぐらい?」
「どれぐらい……? まあ、海歌と居ると、課題のこととか、成績のこととか、将来の不安とか、全部忘れられるぐらい好きだな」
手と手を重ね、小さい声でお喋りする。
修学旅行の夜、同じ部屋の人たちがコソコソ話していたのを思い出す。
「ここ、触って」
海歌は俺の手を引き寄せた。
いったい、どこを触らせようとしているのか……ちょっと期待してしまったが、海歌が触らせたのは、海歌の腕だった。
ほどよく保湿されていて、スベスベとしている。
ずっと触っていたい……そう思える左腕を、海歌は淡い光の下に晒した。
――二の腕から手首にかけての肌の表面に、びっしりと白い線が走っていた。
「ごめん、こんなの見せちゃって……」
「……」
間違いない、リストカットの跡だ。
刃物でできたような白い傷跡が、何本も何本も、横方向に刻まれている。最も新しいであろう傷は少し赤みを帯びていて、血が固まった跡がある。傷はすべて塞がっているが、見ているだけで痛々しい。
医療ドキュメンタリーで見たり、小説で読んだりしたことがあったけど……まさか、こんな身近にしている人がいるなんて思わなかった。
――そういえば、海歌が半袖を着ているところを見るのは、今日が初めてだ。
「……」
「なんて説明すればいいかな……ムズいかも」
押し黙る俺を見つめる海歌。その黒い瞳が、湧き出る涙を溜めている。
「いろいろ考えてると、不安になって、やっちゃうんだよね……」
俺は自分を傷つけたことがない。だから、海歌が自分を傷つける気持ちや痛みが、まったく理解できなかった。
海歌を理解して、寄り添いたい。
けれど、理解できない。
その悔しさを押し殺すために、奥歯をぐっと嚙み締めた。
「こうやって自分を傷つければ、私は弱くて可哀そうな人間でいられる。そうやって、誰かから優しくしてもらったり、誰かに助けてもらいたかったんだと思う」
俺は、黙ったまま海歌をジッと見つめた。
何と声をかければいいか分からなかった。
どんな言葉も、海歌の慰めにならない気がした。
「ごめん、海歌……気づけなかった…………」
「謝らないで。陸翔は悪くないよ。だって、全部私のせいだし、傷は隠してたんだし」
神妙に語っていた海歌の表情が、窓から差す白い光を浴びて、少し明るくなった。
「でも、新しい傷はほとんどないよ。陸翔と仲良くなってからは、絶対に自分を傷つけないように我慢してた。だって、私が自分のことを傷つけたら、陸翔は悲しむでしょ? 陸翔が悲しむのは絶対に嫌だったから、やめた」
俺がいることで、海歌が傷つく回数を減らすことができたようだ。
とにかく口下手で、大好きな人の前でも、気の利いたことが言えずに黙り込んでしまう……そんな無力、未成熟な俺が、海歌の感情を受け止めきれるだろうか?
でも、実際俺も、海歌に救われた一面がある。
俺は海歌と再会して、一人でいることの孤独を知った。
誰かの笑顔のために頑張ることの喜びを知った。
人と関わることの苦労と幸せを知った。
――だからこそ、俺は再び海歌を救いたい。
「その……」
言葉が詰まる。
海歌を励まし、海歌を元気づけたい。
かといって、海歌の自傷行為を肯定したいとは思わない。
どんな言葉を投げかければいいか、本当に悩んだ。
「――大変だったね……」
その言葉が飛び出た瞬間、目尻から涙が落ちた。
涙で揺れる視界に、同じく涙を流す海歌が映った。
「うん……大変だった」
Tシャツで涙を拭った海歌は、改めて、俺と真っすぐに向き合ってくれた。
「これ以上痛い思いはしたくないと思ってるし、なにより……陸翔に傷ついてほしくない。だから、陸翔に一つ、お願いがあるの」
「お願いって……?」
どんなお願いを要求されるのだろうか。
俺は身構えてしまった。
「私が今後二度と、自分を傷つけないための魔法をかけてほしいの」
そう言って、海歌は両手を伸ばした。まっすぐな目で俺を見つめている。
海歌の言う《《魔法》》って?
「水族館でデートしたときは頬にしたけど、今日は、唇と唇を重ねる本物の……ふふっ」
「変な言い回ししないで、素直に言ってくれたらいいのに……」
俺はドキドキしながらも、海歌に顔を寄せた。
海歌の桃色の唇が目の前に迫り、海歌の甘い吐息が鼻にかかる。
けれど、海歌の顔を目の前にして躊躇ってしまった。
「……本当に、俺でいいの?」
「ん?」
「海歌にとって、これがファーストキスだろ? 人生に一度きりのキスが、俺でいいのかなって……」
俺は、海歌に相応しいパートナーなのか?
果たして海歌に釣り合う男なのだろうか……?
石のように固まってしまった俺の後頭部と背中に腕を回した海歌。
そして、俺の体をぐっと引き寄せた。
「「……」」
俺と海歌は究極的に密着し、唇を重ね合った。
海歌の唇の湿っぽく、柔らかな感触が研ぎ澄まされる。
もう、海歌のことしか考えられなかった。
過去の孤独も、言い争った記憶も、未来への不安も、頭の中からスーッと溶け出してしまう。
多幸感に溺れていたそのとき、海歌の長い舌がにょろにょろとうねって、俺の口の中に入りこんできた。
「んん!?っ、おぇっ……ごほ、ごほっ………」
思わずえずいて、激しく咳き込んでしまった。
「ハハハっ、びっくりした?」
「ま、まさか、舌入れられるとは思わなかったから……」
自分の頬に付いていた唾液を袖で雑に拭い、頬を赤らめる海歌。まったく、油断できない女の子だ。
「ありがと、陸翔。これで何もかもうまくいくと思う」
「なら、よかった。でも、さっきみたいに急に変なことするのはやめてね」
ブランケットを胸に抱き寄せ、海歌はクスッと笑った。
その仕草の一つ一つが、愛らしくてたまらない。
「――私は、陸翔がいいの」
「っ……」
「ふふっ、マジで照れてるのウケる」
こんなことを大好きな人に言われて、照れない人はいないだろう。恥ずかしくって、何も言えなくなってしまった。
そんな彼女の気持ちに応えて、俺はベッドの上、海歌を優しく抱き寄せた。
まだ風呂に入って時間が経っていないからか、海歌の頭からはシャンプーやヘアオイルの残り香が感じられる。
「おやすみ、海歌。ゆっくり休んで」
「うん、おやすみ、陸翔。――大好き」
俺は海歌と抱き合い、月明りの下、どこまでも沈み込んでいった。




