悠理の追憶②
常磐大河と言う男子の名前は、実は入学式の頃から知っていた。
二つの学区から生徒が集まるこの中学で、悠理とは違う小学校では大河はある意味で有名人だったからだ。
有名と言っても、決して良い意味では無い。
『おそらく親からなんらかの虐待を受けているであろう子供』
大河の名前よりもそんな酷い噂が、保護者を通じて生徒達にも知れ渡っていたのだ。
これは小学校に在籍していた時点で、近所から学校・警察・児童相談所への通報が相次いでいたからである。
大河の身体には、常に殴られたかのような痣が目立っていた。
顔・腕・足、そして背中。
もちろん小学校の教師達も、大河を引き継ぐ形となった中学の教師達もそれは把握している。
既に数回行われている家庭訪問、そして三者面談。
だが常磐大河の両親は、その席に決して顔を出すことは無かった。
また大河の家庭に関して、口さがない保護者の間ではかなり有名な話がある。
『大河が小学校低学年の頃に、母親が父親の親友と不倫をしており、幼い子供を置きざりにして夜逃げの様に出て行った』
と言う、他人の噂話に目が無い人間にとっては好奇をくすぐられるような話だ。
この話はどこかのタイミングで悠理の母の耳にも届いていた。
おそらくPTAの会合の際に、お母さんネットワークを介して聞いた話なのだろう。
親が知っているとなれば、当然の如く子供達の間でもその話は広まっていく。
皆、他人の不幸話が大好きだ。
自分とは違う世界の、自分とは関係の無い誰かの辛い話には、誰しもが喜んで食いついてくる。
噂話に尾ひれも背びれもくっついて、『母親は宗教にもハマっていた』や『父親はそれを苦に自殺未遂を繰り返している』などの真偽も不確かで無責任な言説が広まってしまっていた。
常磐大河はそんな噂を信じる人達の、哀れみと同情と好奇心の視線に、幼い頃から晒され続けていた。
『……今日は、新條君は一緒じゃないの?』
暇を持て余していた悠理は、ただ黙々と本を読み続ける大河に向けてなんてことの無い世間話を誘う。
『……アイツは今、委員会に行ってる』
常磐大河がただ一人、普通に会話をしているであろうその男子──新條綾もまた、大河とは違う意味で有名人だ。
未だに成長期が訪れていない小さな背丈に、見た目が愛らしく整っていて、そして成績が良い。
性格も穏やかで、親切で、運動が苦手で、からかい甲斐があるとくれば、特に女子から小動物の様な扱いをされているタイプの人気者だった。
『そっか……』
そこで一旦、会話が途切れる。
困る。
その日は確か、二年生に上がったばかりのクラスメイト達が親睦を深め合う為に、駅前のカラオケ店でちょっとしたパーティーを企画していた日だった。
クラスの中でも活発な、目立つメンバーばかりが参加するこの催しを、悠理はやんわりと断っている。
今校舎を出て家路に着けば、もしかしたらクラスメイトとばったり顔を合わせてしまう。
もう一度誘われてしまったら、押しに弱い悠理は断り切れずに、嫌な思いをするであろうカラオケに参加しなければならない。
だからこうして、先に帰ったクラスメイトに見つからないよう、わざわざ教室で待機している。
部活や委員会に出た生徒は、この時間は教室には滅多に戻ってこない。
最近の悠理の行動パターンは、担任に相談があるなどの理由を付けてこうして教室で皆が帰るのを待つのがお決まりだった。
当時の悠理は上級生の虐めから解放されたばかりで、また幸か不幸か一年生まで仲の良かった友人──悠理を見捨てていった玲奈達──とは違うクラスになり、放課後一緒に遊ぶような関係のクラスメイトはまだ出来ていなかった。
この時すでに人を信じられなくなっていた悠理は、持ち前の人当たりの良さと空気を読んで場を取り繕える性格でクラスメイトに対しては普通に振る舞ってこそ居たが、内心は他人への恐怖で常にパニック状態だった。
人が怖い。
幼少期からその見た目の良さで男性から悍ましい目で見られていたり、怖い目に遭ってきた。
そして先の虐めの件で、女性に対しても恐怖心を抱きつつある。
だが両親想いの悠理は、自分に向けられている期待に背くなど考えられず、そして親に心配をかけたくない一心で、まるで何事も無かったかの様に振る舞う。
振る舞えてしまう能力を、持ってしまっている。
だから殆どのクラスメイトは、悠理の変化に気づいていない。
上級生達からの虐めは陰湿にも目立たないように行われて居たし、悠理を助けてくれた野々村月乃達は気をつかってか誰にも事の顛末を話してはいない。
クラスメイトだけじゃなく、親や教師まで、まさか悠理が虐められていようなどと、微塵も思っていなかったのだ。
『……成美は、誰か待ってんの?』
ちらりと横目で悠理を見て、大河は本を開いたまま裏返しに机の上に置いた。
『え、あ……いや、別にそうではないけど……』
今度は沈黙では無く、返答に困る。
人を避けているなどと、間違っても口には出せない。
(あれ……?)
そこで悠理は自分の違和感に気づく。
人を避けている自覚がある筈の自分が、なぜ率先して大河に話しかけられたのか。
(なんでだろ……常盤君、あんまり私の事──他の人の事に興味無さそうだからかな……)
クラスの会話には絶対に入ってこない。
話しかけても短い返答で会話を終わらせる。
遊びに誘われても乗らないし、一緒に下校する事すら嫌がる。
それが二年生に進級して短いこの期間で知り得た、常磐大河と言う男子の常。
朧気な記憶を幾ら辿っても、たまに別のクラスから顔を出しにくる新條綾としか、この男は会話をしていない。
『カラオケ、行かなかったのか?』
おそらく悠理が暇を持て余していると判断したのか、珍しく大河の方から会話を切り出してくる。
この時の悠理には勿論知るよしも無いが、他人の顔色を伺う事は今の大河にとって必須の能力であったが為に、悠理に気を遣っていたのだ。
不機嫌な時に間違った行動を取れば、殴られてしまうから。
『あ、あー……うん。なんかあんまり、気が乗らなくて』
言い訳としては七十点。
他にどう言い繕えば良いのか分からず、大河から視線を逸らして悠理は答える。
別段、大河に言い訳をする意味も無ければ、理由も無い。
だけどやはり他人は怖いから、こうして自分をも騙すように言い訳をしてしまう。
悠理はそんな自分が悲しくて、悔しい。
『まぁそうだよな……お前、クラスのみんなにまだビビってるみたいだし』
『──え?』
大河の言葉に思わず、視線を向けてしまう。
夕暮れのオレンジ色を逆光にした大河の顔は、薄暗い教室の中でもその右目の青あざが痛々しく目立つ。
『び、ビビってるって……な、なんで……?』
親にも悟られていない、今の自分の本心。
それを一度も会話したことのない男子に言い当てられた事に、悠理の心臓が激しく跳ね上がった。
『いや、学年が上がってからのお前。ずっと作り笑いしてるじゃんか。仲の良い奴らとクラス別になったのか?』
作り笑い。
場の空気を乱す事を嫌う悠理にとってそれは最も得意とする事で、まだ誰にも指摘された事の無い、自分の武器。
それを、こんな容易く。
なんて事の無いような軽口で看破された。
『作り笑い……してたかな?』
『──あ、いや。俺の勘違いだったらごめん。たまにお前が他のヤツと喋ってるの見て、辛そうだなぁって思ってたから』
悠理の様子がおかしい事に気づいた大河は、慌てて椅子を引いて身体ごと悠理に向き合う。
その時初めて、悠理と大河の視線が合った。
『……ううん。勘違いじゃ……ないよ』
自嘲気味に笑みを浮かべた悠理も、椅子を引いて大河に身体を向ける。
『あのね……常磐君は、あまり他の人と喋らないじゃない?』
『ん? 俺?』
『うん。違うクラスの新條君としか、お話してるとこ見たこと無いし……』
悠理の言葉に大河は小首を傾げ、しばらく考え込む。
まだ心臓がバクバクと激しく脈打つのを感じながら、悠理は大河の返答を待たずに言葉を続けた。
『ひ、一人で居る事……怖くないの?』
その問いは、虐めから解放されてからの悠理がずっと心に秘めていて、だが誰にも打ち明けられなかった疑問。
『わ、私ね? 一年の最後にちょっと、色々あって……今他の人と居るのが……怖いの』
自分の内側に抱えた矛盾を、上手く言葉にする事ができない。
目の前の男子は、ちゃんと会話ができている今であっても、悠理に対して好意も敵意も無く、興味を持っていないように見える。
だからこそ、打ち明けられる。
『だけど、一人で居る事も怖い……誰かと一緒に居るのも怖いし、だけど一人も嫌だ……
さ、最近は、もうどうしたら良いのかわかんなくて……』
悠理は自分が力の弱い女だと言う事を自覚している。
今までの経験で、もし誰か──男性が自分に対して良からぬ思いを抱き、力尽くで迫ってきたとしても、どんなに頑張って抵抗しようともきっとそれは無駄に終わるだろう事を悟っている。
今までは友達と常に一緒に居る事で対処していた。
だけどあの一件以来、その友達すら恐怖の対象になってしまっている。
一人で居る事も恐怖。
だけど誰かと居る事も怖い。
このままではいずれ、孤独と恐怖に耐えかねて悠理の心は壊れてしまうだろう。
『成美でも、そう思ったりするんだ』
『──へ?』
『成美ってさ、えっと、ほら。モテるじゃん』
胸の内を苦しみながら吐き出した悠理に対して、大河は軽く言葉を続ける。
『俺と違っていつ見ても誰かに囲まれてて人気者の成美でも、俺と同じような事を考えてたんだなって、今ちょっと驚いてる』
『お、同じ?』
『ん、まぁ。俺が勝手に同じって感じてるだけだから。あんまり気にしなくても良いよ』
そう言って大河は勢い良く椅子から立ち上がり、大きく背伸びをした。
長時間同じ姿勢で読書をしていたせいで、背骨がポキポキと音を立てる。
『成美の状況とは違うけれど、俺もずっと怖かったんだ』
凝り固まった身体を弛緩させ、大河は柔らかな笑みを浮かべた。
『大切な人に置いて行かれるのも怖いし、大切な人に忘れられるのも怖い。だけどその大切な人が、近くに居るのも怖い』
教室の窓、日暮れの濃いオレンジ色が、大河の身体の輪郭を包む。
『離れるのも怖い。だけど触れるのも、話すのも、見るのも怖い』
悠理の目には、まるで大河の身体そのものが、オレンジ色に光って見える。
『一人じゃ生きていけないけど、たまにどうしても一人になりたくて。おんなじとこをグルグルグルグル、行ったり来たりして一歩も前に進めていない気がして。人だけじゃなくて、なんつーか、こう……もう生きているのが怖くて、辛くて』
大河が一歩、悠理へと近づく。
『きっとこんな不器用で面倒くさい生き方をしているのは、自分だけだと思ってた。他の人達はさ。平気そうな顔で普通に生活してて、普通に誰かと仲良くなったり、遊んだりしててさ。なんでそんな簡単そうに、俺ができない事をやれるんだろうって』
椅子に座り大河を見上げる悠理の頭にぽんと優しく、右手を置いた。
『だけどさ。今まで羨ましく思ってたお前が、実は俺と同じような事考えてたって知って、ちょっと嬉しい』
『ときわ……くん……?』
吸い込まれそうになる。
大河の語る言葉の一つ一つが、悠理の心にじんわりと優しく染みこんで、身体の内側から暖かくなるような、そんな錯覚を覚える。
『さっきの成美の質問、ちゃんと答えられなくて申し訳ないけどさ。でもこの無駄に広くて難しい世界で、俺と同じ事考えながら生きている人が居るんだって分かって、なんか』
そして大河は、その痛々しい青あざなんか見失ってしまうほどに。
『安心した』
思いっきり笑った。
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