悠理の追憶①
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「ここが、そう」
「こんなに……」
玲奈に案内されて悠理が目にした物は、様々な端材を無理矢理繋ぎ合わせて建てられている掲示板だった。
そこには端から端、時には上から重ねられる様に、尋ね人の情報が記載されている。
「あの地震が起きて最初の一年くらいは、かなりの人がここを訪れてたんだけど……最近はもう見るのも辛いみたいで……」
玲奈はそう言って、掲示板に張られている紙を右手でさらりと撫でる。
「私も弟を探しているから、日に一度はここに確認しに来てるんだけど……悠理ちゃんのお父さんやお母さんの名前っぽい物は見たことない」
「……うん、教えてくれてありがとう」
「……」
「……」
続く言葉が見つからず二人は押し黙ったまま、掲示板に張られている尋ね人の名前を端から目で追う。
大河はそんな二人を、少し離れた場所にあるベンチに座って眺めていた。
もう三十分もすれば撤収作業が完了し、この吉祥寺駅を出発する事になるだろう。
その短い時間が充分かどうかは分からないが、この時間を利用して悠理は玲奈と会う事を決めた。
積もる話も、聞かれたくない話もあるだろう。
だから愛蘭に断りを入れて、大河がこうして悠理の護衛に付いている。
玲奈とは中学一年の頃はかなり仲が良かった、と悠理は大河に話した。
しかし今の二人は会話もぎこちなく、また居心地が悪そうに見える。
(まぁ、友達が上級生に虐められているのを見捨てた訳だしなぁ)
ペットボトルのコーヒーをちびちびと飲みながら、大河はあえて二人から目線を逸らして周囲を警戒する。
そもそもここは人攫いを生業としていた人でなし達のコミュニティ。
ケイオス──大河と海斗のたった二人でディフェンダーズを掃討したその強さを知っていても、良からぬ考えを抱く者がまだ居たとしても何もおかしくは無い。
(ディフェンダーズの代わりになれとかいう依頼、断った事も根に持っているだろうし)
ケイオスが去った後、おそらくここのコミュニティの人々はディフェンダーズを再び頼りにすると、大河は考えている。
自らの手は汚したく無い。
しかし食い扶持には困る。
ならば腹立たしくも実績だけはあるあの悪党共に縋るしか、このコミュニティは成り立たない。
愚かな選択だと思う。
七百人も住民が居て戦える者が僅かしか居ないと言うのは、ただの怠慢でしか無い。
その気になれば──ほんの少しの覚悟と僅かな勇気さえあれば、誰しもが剣を取ってモンスターと戦える。
それが今の東京だ。
傷を負う事を恐れず、血を流すことを厭わなければ生き抜ける。
そういう風に世界が妄想されている。
じゃあ何故それをしないか、となれば。
施される者と言う立場に甘んじて、権利だけを声高に叫び義務を放棄しているに過ぎない。
大河はそんなこのコミュニティの人々が、とても腹立たしく感じる。
「……はぁああ」
右手で目元を覆い、ベンチの背もたれに身体を思いっきり預け、大河は大きなため息を漏らした。
「……落ち着け。俺」
あえて口に出す事で、どこかに行きそうだった冷静さを引き戻す。
災禍の牙は顕現させていない。
しかし依然として、大河は自分の感情の抑制に苦労している。
中野から吉祥寺への旅路が穏やかだった事もあって最近は意識していなかったが、今日一日で得たフラストレーションだけで、こうも容易く心を掻き乱されてしまう。
(あの時……確かに何かを得た気がしたんだけどな……)
クラン・ロワイヤル最終戦、宿敵との戦闘の最中。
災禍の牙から流れる怒りの奔流に抗い、その掌握に成功した時。
自分の感情を全て取り戻したかのような、そんな開放感を感じた。
だが蓋を開けてみれば、未だに少しの事で我を見失いそうになってしまう。
自分のふがいなさに、心の底から呆れ果てる。
周囲の警戒は怠らず細く長く気を張り続けながら、見上げた空に浮かぶ泰然自若に流れる雲が少し羨ましく思える大河であった。
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「……ずっと、謝りたかったの」
ようやく口を開いたのは、玲奈だった。
肩口で揃えられた黒髪を指でいじりながら、震える声は今にも泣きそうな心の発露。
「私ね。あの頃──中学生の頃は、年上の彼氏が居る事はかっこいい事だって勘違いしてて……井上先輩に、悠理ちゃんに告白したいから協力してくれって頼まれた時、絶対悠理ちゃんも喜ぶって思っちゃってて……」
悠理はそんな玲奈の懺悔を、押し黙ったまま聞いている。
井上と言う名前を聞いてようやく、あの時告白してきた三年生男子がそういう名前だった事を思い出した。
上級生の間でも素行が悪い事で名前が知れ渡っていて、教師達も注意していたタイプの、そんな先輩だった筈だ。
「でも先輩をフッた後の悠理ちゃんの様子を見て、余計な事しちゃったんだって……ようやく気づいて……本当はすぐに謝ろうって思ってたの。だけどあの後、女子の先輩たちが悠理ちゃんを虐めている時……怖くて……近寄れなくて……」
そう言われて、また思い返す。
井上という先輩のの告白を断ってから三年生女子に絡まれるまでに、そんなに間隔は空いていなかった。
確か翌日には、もう悠理が井上をフッた事が噂として広まっていたと記憶している。
これは大分後に知った事だが、どうやら悠理を虐めていた上級生女子の中に井上の元カノが居たらしい。
別れたタイミングは、井上が悠理に告白する三日前。
つまり井上は、悠理と付き合う為にその彼女を一方的に捨てたのだ。
捨てられた方の気持ちとしては、とんでも無い話である。
「先輩達が卒業した後、野々村さん達が悠理ちゃんと一緒に遊ぶようになって……余計に近づけなくなっちゃって……私、あの子達の事が苦手だったから……」
悠理が井上をフッたのは二学期の終わり。
年が明けて三学期が始まり、三年生達が卒業するまでの三ヶ月間。
その三ヶ月が、悠理が上級生女子から虐められている期間だ。
「月乃ちゃんは、みんなが言うほど悪い子じゃないよ……」
野々村月乃。
この吉祥寺で悪名を轟かせていた不良の兄を持つ、悠理と同学年の中でも遊んでいるグループの、その中心人物。
彼女こそが、悠理を上級生の虐めから救ってくれた人物だ。
「月乃ちゃん達は確かに夜遊びとか、ちょっと良くない感じの遊び方はしてたけど、私をソレに誘ったりはしなかったし、人を馬鹿にしたりとか虐めたりとかは絶対にしなかったもの」
日々を追う毎に苛烈になる上級生達からの虐めは、最終的には車道に突き飛ばされたり、階段の上から落とされかけたりとより直接的に、そして危険な物へと変わっていった。
それを見かねた野々村月乃が率いるグループが、一人恐怖に耐えている悠理へと優しく手を差し伸べてくれたのだ。
界隈でも名の通った兄の悪名を上手く利用し、そして兄を通じて得た黒い人脈を盾として、上級生たちが悠理に手が出せないような状況を巧みに作った。
それはあまり褒められた手法では無い。
野々村月乃の兄は、いわゆる反社と呼ばれるイリーガルな存在に極めて近い男だった。
仲間と認めた者に対しては過剰なまでに優しいが、逆にソレ以外にとっての害悪。
暴力的で、短絡的で、享楽的。
法と罪の境界線を綱渡りしているかのような、そんな男の名前はもはやその響きだけで凶器と捉えられるほどの威力を持つ。
逆らえば容赦の無い制裁が待っていると思わせる程度には、悠理達の世代には知れ渡っている男だった。
そんな兄を持つ野々村月乃の友人に危害など加えよう物なら、その何十倍にもなって自分に返ってきてしまう。
野々村月乃はそれを上手く利用して、悠理を上級生達から庇ったのだ。
悠理はそんな野々村月乃に今でも厚い友情と、そして感謝と尊敬の念を抱いている。
「うん……だけど結局私は、中学を卒業してもずっと……悠理ちゃんに謝れなかった」
掲示板の前、俯く玲奈の手はキツく握られたまま。
悔しさと後悔と、申し訳なさが込められたその拳が小刻みに震えている。
「ごめん……ごめんね……悠理ちゃん」
鼻声混じりのその言葉に、悠理はゆっくりと玲奈へと向き直る。
「あのね。玲奈ちゃん」
悠理の声に玲奈は伏せていた目と顔を持ち上げ、恐る恐るその顔を伺う。
「確かにあの頃は友達だって思ってた玲奈ちゃん達に裏切られて、先輩達が怖くて、痛くて……毎日死んでしまいたいぐらい辛かった」
どこか自嘲気味に笑う悠理に、玲奈の身体が強張る。
「もうどうしたら良いか分かんなくてさ。助けてくれた月乃ちゃん達ともあんまり話は合わないし、でももう玲奈ちゃん達の事は信じられないし、自分の家を一歩出たら全然知らない世界に迷い込んだみたいで……私以外の皆が、まるで違う生き物の様に思えて、ずっと怖かった」
懐かしむように、噛み締めるように。
悠理は自分自身を曝け出す。
「そのまま二年生に上がって、なんとか普通に喋れる友達を作れて……でもやっぱり、どうせこの人達も何かあったらすぐに私を見捨てて逃げていくんだろうなって考えたら、なんだかとても虚しくて……」
そっと目を閉じて、当時の自分を思い返す。
野々村月乃達に救われて、上級生たちは卒業して居なくなり、これで自分を脅かす者は居なくなった筈なのに、悠理の心は安寧とはほど遠く。
だけど悠理はそれまでが所謂『聞き分けの良い子』であったが為に、他者に対して本心を取り繕う術に長けていたが為に、誰にもその不安を打ち明ける事が出来ないまま、その孤独を最早取り返しの付かない場所まで深く深く沈めかけていく。
「でもね」
だけど。
「もうダメだって、もう自分で自分を守り切れないってヤケになりそうになった時に」
壊れる寸前の、一番心が露出していたその時に。
「大河が救ってくれたの」
隣の席の無口で無表情で、何を考えているか分からない。
そんな男の子の何気ない一言が、バラバラになりそうだった悠理の心を繋ぎ止めた。
「大河は覚えていないけど……でもあの時、大河が言ってくれた言葉が……」
きっと大河自身は、悠理を救ったなんていう自覚は無い筈だ。
でも確かに、あの時、あの言葉があったから──。
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『──常盤くんは、まだ帰らないの?』
放課後。
下校のチャイムが鳴り響く校舎の二階。
二年三組の教室。
紺色のセーラー服に身を包んだ幼い悠理が、隣の席で静かに本を読んでいる男子に向かって話しかける。
『……ん、今……良いところだから』
ぶっきらぼうにそう言い放ち、その男子──常磐大河は、悠理に目をくれず読んでいる本のページをめくった。
その顔に残る、生々しい青あざ。
もう汗ばみ始める季節になったというのに、決して脱ごうとしない学ラン。
ヨレてしわくちゃのワイシャツが襟元から見え隠れして、お世辞にも身綺麗とは言いがたい。
この時、この場所で。
常磐大河と成美悠理は、生まれて初めて言葉を交わした。




