あの日の『彼』
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「はぁっ……はぁあああっ……ぐすっ、うぇっ……はっ、はっ」
嗚咽を堪えた浅い呼吸を、何度も何度も繰り返す。
住み慣れた家の、いつもの景色。
自分の好きだけで構成された、世界で一番居心地の良い部屋。
幼い頃に二人で一生懸命にペンキで色を塗った姉の部屋の扉。
柱や壁の傷にすら思い出と愛着がある、なんてことの無い普通の廊下。
家族みんなで食卓を囲んだ、彼にとって平穏の象徴である居間。
母にとっての聖域であり、目を閉じればいつだってそこで軽口を叩きながら料理をしている姿が幻視できる、台所。
父はいつもこの端っこの座椅子に座ってビールを飲んでいて、会社員としての戦う男の目で暖かく家族を見守ってきた。
そんな当たり前の、この日本でありふれた普通の家族の思い出が、今となってはなによりも尊く、愛おしい。
寝息を立てる家族の顔を、起こさないようそれぞれの部屋で長い時間をかけて見つめ続け、そして夜が白むこの時間まで恐怖で震えた。
決心が鈍る。
決意が緩む。
でももう引き返せない。
引き返してはいけない。
軋む廊下の音や扉の開け閉めの音すらも何もかもが、ただただ無性に愛おしい。
涙が止まらない。
恐怖が心臓を締め付けて、夏の夜の熱気と違う、寒々しい汗が全身から吹き出てくる。
だけど足を止める事は許されない。
大切な家族の為に。
大切な友達の為に。
顔も知らない、名前すら分からない誰かの為に。
だけどやはり幼い心が背負うには、死という恐怖は重すぎる。
「ぐすっ、うぅううう、うぇえええっ」
ついには声を我慢できずに、まるで幼児の様に泣きじゃくりながら、『彼』は玄関に座り靴を履く。
「ひぐっ、ぐぅっ、ぐぅうううっ」
右手の甲を必死に口に押し当てて、まだ目覚めの朝を迎えていない家族を起こさない為に、必死に声を噛み殺す。
「ふぅっ、ふぅううっ、ぐうぅううっ」
時間が無い。
そろそろ街に朝が降る。
もう一時間もしない内に始発が駅に到着し、一日を始める為に街に賑わいがやってくる。
そうなれば、きっと誰かに止められる。
夜番の警察官かも知れないし、近所の顔見知りかも知れないし、一番最悪なのは地元であるが故に仲の良い友人と鉢合わせてしまうかも知れない。
そうなれば、決心が揺らぐ。
ただでさえ脆く今にも壊れそうなか細い決心が、たやすく霧散し生にしがみつきたくなる。
だからもう、家を出なければならない。
家を出て、歩いて二分も掛からぬ先の公園に行き、そこで首を吊って死ぬと決めたから。
「はぁああ、はぁあああっ」
涙と鼻水で汚れた顔を拭うことすら忘れ、震える指で玄関の扉に手をかける。
もう二度と戻れぬ我が家。
暖かい思い出と、大好きな家族。
自分にとって平和の象徴であったこの家と、別れの時が来てしまった。
ガクガクと痙攣する足を、使命感と義務感だけで動かして。
内と外の境界線──敷居を跨いだ。
「あぁあああああああ」
半開きになった口から、掠れた声で悲鳴が漏れる。
一歩一歩に後悔と未練と、そして家族への思いを込めて『彼』は歩き出した。
祖父の代から続く古い一軒家。
生い茂った玄関先の植栽は、母の手入れだけでは追いつけず少しだけ荒れていた。
つい先月までは、少し貧乏くさいなんて思っていたその光景にすら、何物にも代えがたい思い出が詰まっている。
カラカラカラ、パタン、と。
背後で玄関が閉まる音がした。
もう戻れないあの場所への、すべての未練を断ち切る無慈悲なその音に、また涙が溢れる。
だけど行かなければならない。
死ななければならない。
自分が死ななければ、数え切れない悲劇と死が、この東京に降り注ぐ。
「大河ぁ……大河ぁ……タイちゃぁん……」
誰よりも──もしかしたら両親よりも頼もしいと思っていたかも知れない、大事な大事な親友の名を連呼しながら、『彼』は軒先の門を潜り、そして目的地である公園へとゆっくり移動していく。
「死にたくない……ぐぅっ、死にたくないよぉ……タイちゃん……タイちゃんっ、大河ぁ」
だけどやはり『彼』には、死ぬしか道は残されていない。
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