第10話 イーハトゥーブ・イーハトゥーブ(前編)
帝都の惨劇から一カ月。勇者同士の私闘が街中で行われたという真実を大っぴらにできるわけも無く―まして生き残った片割れが護送中に脱走したなどという恥さらしな事実は―一切合切が伏せられた。街の口さがない人々は敷かれた箝口令を尻目に、やれ魔人が街に潜んでいただの、やれ飲んだくれた貴族が魔法をぶっ放しただのと好き勝手に噂した。場末とはいえ宿街の一画が一夜で吹き飛んだのだからそれは不安の裏返しでもあったが、神前試合の季節が近づくと次第に興味もそちらへと移って事件のことは忘れ去られていった。
「おい!ぶつかっておいて謝罪の一言も無しかよ、兄ちゃん」
「……」
だからだろう、祭りを前にして浮かれた男達が昼間から酒を飲んでいたのは。片目が潰れた禿げ頭の男、痩せぎすだが長身の男、最後に着込んだジャーキンから飛び出さんばかりの筋肉を持った巨漢の男、合わせて3人の男たちは娼館から出てきた小柄の男に千鳥足で突っかかる。
「昼間から女遊びとは随分生真面目な奴だなぁ」
「おチビちゃん、そんなに背が小さいとアッチも小さくて苦労するんじゃないかい、ええ?」
周囲の人々は一様に同じ願いを想う。―どうか巻き込まれませんように!―露天商の男は声にならない悲鳴をあげながら商品を背に隠し、花売りの少女は軒下に隠れる。先程まで陽の下で昼寝をしていた浮浪者ですらござを持って素早く逃げていった。
「……」
小柄の男は押し黙って動かない。片目の禿男はそれを委縮であると判じて被っているフードを力任せに引き剝がした。
「あっ!」
フードの下から現れたのは碧眼の美青年であった。しかし見るべきは容姿だけではない、下に着込んでいた服装も家紋を縫い付けた特注の品であり、一目で高貴に属すると分かる気品を纏っている。
男達は貴人と関わりようが無い下層民であったため気が付くことが出来なかったが、小柄の男は今代勇者であるルシアンその人であった。
「も、申し訳ありゃせんでした…」
「すいやせん!お供も連れて無かったですし、貴族様がこんな所を歩いているなんて思わなくて!!」
相手が貴族だと分かった途端に卑屈になり始めた男達に、ルシアンは優しく笑いかけると一言放った。
「死ね」
指先から伸びた白糸が先頭にいた禿男の頭を触れて、次の瞬間力無く崩れ落ちた。目の焦点が合わず、脱力しきって口から涎を垂らすその様は絶命を意味していた。
『貴族』にとってこの世で最も便利で、替えが効き、壊しても良心が痛まないものが自分達に『近しくない人々』である。特に匪賊や低級奴隷といった社会階層の底辺は、揃えるのに銀貨を要する鳥や豚といった家畜よりもなお価値が劣る。取り立ててそれで遊んでやる義理もないが、風聞や倫理が当たらねば特別腹の虫と天秤にかけてまで生かしておく理由もまたなかった。
「ひぃ…!!」
本能的に恐怖を感じた痩せぎすが背を向けて走り出した。あれは関わってはいけないものだ。天上人の貴族様で、化け物で、何であんなのがこんなところにいるんだよ、クソッ。だがそんなやけくそめいた思考を最後に男はものを考えられなくなった。白糸が後頭部に伸びてきてちょんと触れたのだ。
「ア“あ”あ“あ”ァ“~ッ」
先程の静かな死とはうって変わって、逃げていた男はけたましく発狂して曲がり角に突っ込み頭をカチ割った。仲間の絶望めいた臨終の音を聴いて残った巨漢は逆上した。
「う“オオオオオッ!」
恐ろしい存在に目を付けられて、謝っても逃げても許してもらえないのなら抵抗するしかない。反射的に繰り出したものは歩哨だった頃詰所の腕相撲で負け無しを誇った右上腕。
「……」
ルシアンは欠伸を噛み殺すような表情でそれをいなすと、指先から糸を紡いで額に掛けてやる。
「…ぇあ?」
見たことも無い漆黒が男の目の前に広がった。背骨が氷柱に入れ替わっているが如き寒気、世界の果てに一人立たされているかのような孤独感、己ではない何ものかが感受した絶望で無理やり心が塗りつぶされていく―。
「おっ、おっ、おあっ、あぁっ」
地に伏して陸に打ち上げられた魚の様に体をくねらせる。ジタバタとするそれを一瞥したルシアンは「醜い」と吐き捨てるように侮蔑し、その場を立ち去った。
じたばたじたばた。ひとりでに死ねない巨男は陸で溺れるばかり。二人の死体と一人の半死人は不揃いの恰好となった。
正気を失った男が無軌道にうねうねしているものだから周りの人々は気味悪がって誰も近づかない。皆見て見ぬふりをして動かなくなるまで放っておこうという魂胆でいて―――否、一人近づいてくる者がいる。
「……」
軒下に隠れていた花売りの少女。先程までの怯えが嘘のように超然と男に近づくと、首筋に鋭い花留めを突き入れた。
「ガッ…あッ…!」
今度こそ揃って三つの死体が出来上がる。結局、彼らは往来の邪魔になるからと自警団が脇にどかすまでその場に捨て置かれた。
―――
――
―
「ねぇルシアン、また娼館に行ったでしょ」
「ん?ああ…」
事が済んだ後もしなだれかかる僧侶メアリーに勇者ルシアンは気のない返事を返す。
「もー、私がいるんだから他の子なんて要らないでしょ」
「種をまくことも貴族の務めさ」
「庶子なんて産まれても恥にしかならないじゃん。嘘つかないでよ」
二人の間で既に幾度となく交わされた話題。共に戦地に居た時からルシアンに孕まされた女は両手で数えきれなかった。
「英雄色を好むのさ」
「すぐそうやってはぐらかす。大体、あのブス子ちゃんが命を狙ってくるかもしれないから気軽にフラフラ外出するなって言ったのルシアンじゃん」
「……」
「ねぇってば、別にめんどくさい怒り方しないからさ、何でそんなことするか言ってよ。…それとも私に飽きちゃった?」
「いや…」
ルシアンは暫く黙っていたが流石に気まずいのか、これまでとは雰囲気を変えてぽつりぽつりと喋り始めた。
「この世で…本当の意味で共感することって出来ると思うか?」
「…共感?何それ」
「自分と他人が同じ気持ちになることだよ。同じものを見て綺麗だと思うとか、同じものを食べて美味しいと思うとか、とにかく人と同じ気持ちになることさ」
「そんなのいつもルシアンがやってることじゃない」
メアリーは戦場で何度も見たルシアンの魔法を思い出す。彼の魔法は周囲にいる最大5人までの仲間が知覚する情報を集め、即座に意思伝達して指揮ができるという極めて特殊なものだ。
愛情と清純と恣意を司る精霊、マラオと一族が誓約することでかつて得られた力なのだと彼は以前に語ってくれた。心なき人は彼のことを個人としては強力な魔術使いだとは決して言えないなどと陰口を言っているが、そんな者は戦場で発揮されるあの魔法の恐ろしさを知らないから言えるのだ。
「なぁメアリー、いつも持ってる聖像…そこの棚に置いてあるやつ。あれは何色だと思う?」
「……?白色でしょ、ちょっと変色はしてるけど」
「それはどう白色なんだ」
「どうって…白色は白色だよ」
メアリーにはルシアンが何を言いたのかさっぱり分からない。彼は口に手を当てて暫く考え込んでいたが、言葉が見つかったのか再び話しだす。
「実はな…人は一人一人そいつにとって見えてる景色が違うんだ」
「えっ?」
「いや、正確に言うなら同じものを見ていても感じ方が人によって違うと言うべきか。俺が自分の目で見た景色、魔法を使って人の目を介して見えた景色、これらは全く別のものとして俺の頭に入ってくる。視界だけじゃない、匂いや肌触り、味だって人によって感じ方が全く違う」
「で、でもさ…それって少しづつ違うだけで、大まかというか…大体の感じ方は一緒なんじゃない?」
「いいや、違う」
「えっ」
「同じ景色を見ているのに世界が単色にしか見えない、つまり色が分からない人間がいる。同じ犬を撫でているだけなのに何故かそれだけで不快感を覚える人間がいる。嘘を嘘と思わないまま自分で自分を騙してしまう人間がいる。つまりだ、世界にこれという基準は実は存在しなくて、皆別々に思い思いの世界を生きているんだ。俺達は共に生きているようですれ違って生きている」
「でもさ、でもさ、そんなのおかしいよ。だって私この前久しぶりに会った友達と一緒にお酒飲んで美味し~って言い合ってたもん。あれもすれ違いだっていうの?」
「…分からない。いや、実の所俺には何も分からないんだ。単に俺が気にし過ぎなのか、この魔法が欠陥を持っていて得られる感覚が間違っているのか、それとも俺の気が狂ってるのかもしれん」
気が付けばルシアンは汗をかいている。メアリーが白い腕を伸ばして布で拭うと、ずっと我慢していたものを絞り出すようにしてルシアンは答えた。
「…それでも、どうしたって俺には魔法を使う度に襲ってくるこの『あまりに現実的で纏まりの無い感覚』が世の共感と呼べるものが全て欺瞞と錯覚に満ちていると伝えてきているように思えるんだ。だから、それを否定したくて曖昧な言葉だけじゃない、肉体と肉体で繋がりを得ていないと不安で不安で仕方がなくなるんだ」
「ルシアンっ」
ひしとメアリーが抱き着いて押し倒す。
「私難しいことはよく分からないし、例え見えてるものが違ったとしても、ルシアンのこと好きだよ。ずっとずっと一緒に居たいよ」
「……」
今度こそルシアンは正しく絶望した。彼女は己が打ち明けた悩みを大して考えもしないまま温もりにすり替えてしまった。分かってくれなくても一緒に考えてくれる…いや、その素振りを見せてくれるだけで自分は救われたのに。それともこれが人の元来だとでもいうのだろうか?これまでだって誰かの行為に何かを期待する度に、それは都合よく解釈する己が頭の中の行う幻想―例えば無口で従順な女に主人の意を汲むだけの知性を期待するような―なのではないかと疑ってきたが、長い時間を共有してきた彼女ですらこのざまなのだから世に共感なぞ存在しないのではないか。全てが嘘、錯視、世に真は存在し得ぬ。
世界で唯一共感を証明し得る男は上も下も無い虚空にただ一人でいるような心地を抱いた。腰に縋りつく温もりですら今となっては煩わしかった。
―――
――
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(もう一寝入りしよう)
あの後ルシアンは無言のまま部屋を出て行ってしまった。メアリーは少しでも彼の気が安らいでいればいいと願いながら横になろうとすると、布に足を引っ掛けてしまいベッドの上で転ぶような形になった。
「あっ!」
手足が棚にぶつかり上に置いていた聖像がずり落ちる。不信心をなすまいと手を伸ばしたが間に合わぬ、像は床に落ちてしまった。
(―――?)
強烈な違和感。床に落ちた時の音が不自然としか言いようが無い鳴り方で響いたのだ。下は石床、なのにまるで木床に叩きつけたかような鈍い音。しかも、どこかでこれと同じような違和感を感じた経験があるような気がする。
そう、あれは半年ぐらい前に小鬼の巣穴を『消音魔法』で囲って増援が来る前に全滅させようとした時の―
「よいしょっと」
「え…」
倉用に備え付けられていた床下が突如開き、中から小汚い格好の女が這い出てきた。




