六神司院(ロゲルスリン)腐敗の臭い
聖都中央の砦に戻ったエキュネウスをアテナイ軍司令官エウクロスが待っていた。最近、特にアトラスの名を耳にするようになった。
【ルージ国のアトラスというのはどんな男であった?】
彼は甥のエキュネウスにそう尋ねた。用意周到な男だが、うかつにもルージ国のアトラスという人物について十分な認識がなかった。ルージ国を統べる者としてリダルの存在が大きく、息子アトラスの存在などその陰に隠れて霞んでいたのである。
六神司院の者どもが、アテナイ軍の歓心を買おうと様々な情報を注進に来るばかりではなく、利に群がる商人までがアテナイ軍にすり寄っている。その中にもアトラスに関わる情報は皆無といって良かったし、情報を求めてもルージ国の神々に敵対する王子という侮蔑的な情報以外にはない。
ひょっとすれば、偶然にアトラスと剣を交わし、アトラスの帰国も見送ったこのエキュネウスが、今の聖都で最もアトラスを知っている男かもしれなかった。
エキュネウスは慎重に記憶をたどった。
【牙狼王リダルの血を引く勇猛果敢さがございました。ただ……】
【ただ?】
【どこか、無謀さと危うさを感じました】
初対面の時のアトラスの姿を思い起こせば、アテナイ兵の血に染まった剣を手にして立っていた。エキュネウスに向ける視線に怒りや敵意は無かった。
故郷へと帰るアトラスを見送ったときにもその印象は同じだった。このアトランティスの大地を戦場として戻ってきたときには、剣を交わすべきエキュネウスの視線をしっかり受け止めながらも、そこに感じるものは敵意でも、ライバルに対する敬意でも無かった。戦わねばならないが何のために戦うのかを問い続ける青年の目だった。
【なるほど】
エウクロスは頷いたが、疑問は晴れていない。アトラスという者がネルギエの地で果てたかと思うと、蘇ってルージ国を率いてフローイ国を占領した。
その戦果を考慮すれば、悪魔に魂を売り、その加護を受けているという噂も信じたくなるほどだった。
現実家の彼はその噂を振り払って、話題を変えて副官カルトレオスに問うた。
【六神司院どもの動きはつかめたか?】
【特に不審な動きは見せておりませぬ】
アトランティスの国々が争う画策した裏切り者の神官たちが、今はアテナイ軍にすり寄って見える。だが、裏切りに長けた者たちが状況の変化を読んで反旗を翻すかも知れない。その気配を常に探っているのである。
【どこまで続く友好やら】
【まだ、我らアテナイ軍の存在を利用するつもりでしょう】
【今年はアテーナーへの貢ぎ物を増額してある。これで奴らの忠誠が判るだろうよ】
【仰るとおり、奴らの顔色が見ものですな】
ギリシャ所部族とアトランティスの講和は成っている。しかし、アテナイで開催される女神アテーナーの祭りを協賛するという名目で毎年多額の費用をアトランティスに出させている。これはアテナイにとっても都合が良かった。戦の賠償金なら、この金は諸部族で分配せねばならないが、アテナイで行われる祭りの協賛金という名目なら、諸部族の中でもアテナイのみが受け取っても良かろうという理屈である。
女神アテーナーの生誕に合わせて夏に開催される祭りの協賛金をこの時期に要求し、準備をさせておくのである。アトランティスから搾り取った財宝を春に本国に送っておけば、ギリシャ人同士の抗争に明け暮れる本国の馬鹿どもも、アトランティスに価値を見いだして、ここにもっと増援の兵をよこすだろう。
エキュネウスが眉を顰めて疑問を呈した。
【関係が悪化しませんか】
占領軍とアトランティスは過去に敵同士だったが、今は平穏を保っている。しかし、無理な要求でアトランティスの不満がつのり、再び武力対立に至る心配はないのかというのである。エウクロスはエキュネウスの心配を笑い飛ばした。
【要求したところで六神司院の懐は痛むまい。やつらは我らの要求をそのまま民が奴らに収めさせる賄賂の増額に転嫁するだけでよいのだからな。民の恨みを買うのは六神司院だが、奴らはそんな民の不満など気にもとめぬ】
この時、下僕が現れて、エウクロスに来客を告げた。既に日は暮れ、闇に紛れてやって来た客だった。
【お通ししろ】
そう命じたエウクロスの視線の先に高僧の身なりの男が姿を見せた。エキュネウスもその顔は知っている。六神司院の最高神官の一人、クジーススだった。
内密の話を始めるに違いない状況を察して席を外そうとするエキュネウスに、エウクロスは目配せをしてここで話を聞けと指示した。クジーススもエキュネウスがエウクロスの甥だという血縁関係は知っていた。エキュネウスがこの場に留まることに口は挟まなかった。ただ、若い彼にちらりと侮蔑的な笑みを浮かべて慇懃に礼をしただけである。
【相変わらずお元気なお姿。御身に神々の祝福があらんことを】
エウクロスはクジーススにそう言い、クジーススも挨拶を返した。
【本日も、我々にとって格別な祝福を受ける日であったこと、神々に感謝を】
【格別な日よりと言えば、今年は女神アテーナーの祭りも格別でしてな】
日常的な挨拶の直後、エウクロスは女神アテーナーの祭りの協賛について申し出を始めた。クジーススは申し入れを受けることを即断した。エキュネウスは信じられなかった。少なくとも、アトランティスの神々を奉じる最高神官が、蛮族と蔑む民族の神に捧げ物をするなど、アトランティスの神々を冒涜する行為だろう。
エキュネウスは、ふと、あのアトラスが神々に対する反逆者として喧伝されているのを思い出した。あの男には人間として生き抜く意志を感じ取ることが出来ても、神々を冒涜する雰囲気を感じ取ることは出来なかった。しかし、クジーススという最高神官は欲に濁って神々を冒涜する強いにおいが漂っていた。
エウクロスはクジーススの様子をうかがいながら、唐突に話題を変えた。
【しかし、フローイ国に手を伸ばすのが、少し早すぎたのではないですかな】
【何の事でしょう?】
【ボルスス王の死に六神司院……、そう、クイールトスとグリポフ殿が関わって居らぬと?】
【とんでもないことです。シフグナの領主の暴走で、アトランティスは偉大な王の一人を失いました】
【そのシフグナのパロドトスをそそのかしたのが他でもない、クイールトス殿ではないかと噂を耳にしました】
エウクロスの言葉をクジーススは即座に否定した。
【我らの神々の願いは民の平穏。我ら神に仕える者がその平穏を乱すなどあり得ませぬ。しかし、そのような根も葉もない噂をどこで?】
【根も葉もない噂であるからこそ。あちこちに漂っているのかも知れませぬな】
【なるほど。私どもも心しておきましょう。では今日はこれで……】
その一言を発して一礼し、立ち去ろうと背を向けるクジーススにエウクロスは言った。
【我らの神々は寛大である。しかし、裏切りを許さぬ厳しさもある】
クジーススは背を向けたまま言った。
【よく覚えておきましょう。では、真理の女神のご加護を】
クジーススが姿を消すのを待っていたかのように、若いエキュネウスは首を傾げて言った。
【しかし、彼はどんな用件で来たのでしょう】
彼の疑問ももっともで、何の用件もなく出向いてきて、ただエウクロスの申し入れを受けて世間話をしただけに見えた。エウクロスは甥の素直さを愛でて笑った。
【確かに、世間話をするつもりで来たのではあるまいよ】
【では?】
エキュネウスの問いにエウクロスに代わってカルトレオスが答えた。
【先日、出入りの商人を使って、我らアテナイが王ボルススの死の真相を知っていると、六神司院に噂をばらまきました】
アテナイ軍の砦に物資を納める商人たちは、六神司院にも出入りしている。そんな商人たちが、アテナイ軍のご機嫌を伺って、六神司院の内情を知らせてくる。もちろん、アテナイ軍の内情も商人たちによって六神司院に伝えられてもいるだろう。
そんな商人たちの情報を集約すれば、あの時期にクイールトスとグリポフの二人が聖都から姿を消していたことは分かる。商人たちは商品の買い付けに王都にも出向いており、そこでクイールトスとグリポフらしき人物を見たという情報もあった。
帰国するフローイ軍兵士が突然に体調を崩し、シフグナで襲われて王ボルススが討ち取られた。クイールトスとグリポフの二人がそれに関わっているのではと推察するのも当然だった。エウクロスはその噂の事実を確認するためにその二人の名を交えて話をした。エキュネウスはようやくクジーススの来訪の意味を察した。
【それでは、それを確認するために来たというのですか】
【やましいことがなければ、確認など無用。後ろ暗いところがあるから、我らが何を知っているのか確認に来ざるを得なかったというところだ】
【では、奴らがフローイ国王謀殺の犯人ということですか】
【どうやらそうらしい】
意味深に笑うエウクロスの傍らでカルトレオスが冗談を言った。
【エキュネウス殿。今度奴に会ったら、神帝を暗殺したのはお前たちかと問うて見れば面白いでしょう】
【では、ルージ国のアトラスではなく、六神司院が神帝暗殺の黒幕と言うことですか?】
驚くエキュネウスの肩を叩いてエウクロスは言った。
【我らにとってどちらでも良いこと。しかし、六神司院からはうさんくさい臭いが漂うてきおる】
その視線の先に、聖都の中心部の神殿があり、神職どもが今もうごめいているはずだった。




