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知らない火1

「花咲くを知らず」の続き。

海藤視点。





ずっと燻っていた自分の中にある「それ」の正体を、海藤久成は長いこと見極められずにいた。

時にはモヤモヤして、はたまたゾクゾクするし、ズキズキもする。

曖昧な擬音で表現するしかない「ソレ」は存在だけを主張して、中々形を掴ませない。


海藤久成は元来、物事を単純に、二極化して考えることを好んでいる。

ごちゃごちゃと考え込んで事態が良くなった試しがないので、先に動き出すのを良しとする。

幼い頃からその姿勢は変わらない。変えようとした試しもない。

けれど「ソレ」の存在については、ハイかイイエで解決するものでもないし、そもそも何なのかが分からないので闇雲に動き出す訳にもいかなかった。

八方塞がり。

だが、解決の糸口なら恐らく見当がつく。


ひどく疲れるし、なるべくなら確かめたくない事柄だったので意識的に避けていたが、駅でその原因の人物を見かけてからは衝動的に突っ走っていた。


「ソレ」が解決するか、1ミリも分からない。

けれど、立ち止まっていることもできない。

衝動だけが先を急かす15歳のある日。


桜の舞う、それは4月初頭のことだった。







・知らない火・







「ヒサ、入部届けもう出したか?」

「んなもん、とっくだよ。それよかさ、時間空いたし帰りあそこ寄ってくか?あの胸デカい店員いるとこ」

「海藤ナイス!よくぞ言ってくれました!あそこ美人多いよな~。お願いしたらヤらしてくれたりしねーかな?」

「んなヤリマンだったら逆にヤだけどな俺は」

「えー!?マジか!俺はヤらしてくれんならそれでいーや」

「お前どんだけだよ!」


海藤久成は外見がそれほど整っているという訳でもないのに自然と女子を惹きつける雰囲気を持つというので、男友達の間では非常に重宝されていた。

ともすると妄想と願望で終始する下世話な男子の下ネタに、新鮮で有用なオカズを提供するのも彼が主だったし、何より彼がいるだけで場は自然と華やぐ。どこに居ても、どのグループに属しても、海藤という強烈な光は跡を残した。

だが海藤はそんな自分の価値などに興味は無いようで、女やグループカーストの地位より部活動の方を優先したくているらしい。そんなストイックさと相反する色気(?)とが、尚のこと周りを惹きつけ、益々彼の評判は右肩上がり。放課後は特に引っ張りダコとなる。


「オネーサン、彼氏いるんですかー?」

「この後って時間あります?」


お目あての美人でグラマラスな店員にモーションをかける周りを冷やかしながら、海藤はその店員の巨乳に視線を合わせ、けれどその頭の中ではまったく別のことを考えていた。

味の薄いチェーン店のアイスコーヒーを啜ると、その苦味が誰かの面影を記憶の引き出しから引っ張ってくる。

ウザい、と思うのに引き出しは次々に開いていくので途方に暮れるしかない。


『あ、これ?みだれ髪。与謝野晶子の』


面影は女子だ。

思春期の少年らしく、紛れもない同級生の女子を思い起こしている。

だがその面影には常に暗い影が纏わりつく。


『海藤くんだけはあり得ないから、安心して』


交わした会話はたったの二、三回かもしれない。

それでも強烈に記憶に刻み込まれている。

ずっと嫌っていた、暗い女。

それなのにこんなにも海藤久成の中に跡を残しているから、どうにも煩わしくて仕方がない。


「ねえ、君」

「…………」

「あれ、反応鈍いなー。もしかして彼女持ち?君だったらお姉さん、遊んでみたいんだけどな」

「……え」


マジかよー、やっぱりヒサかよー、という周りの声が突然耳に入ってきたことで、海藤はようやく開け放していた引き出しを閉じることが出来た。

気づけば美人巨乳は目の前に迫り、男なら夢にまで見るようなシチュエーションが展開されている。

だが海藤の口から出たのはお断りの台詞だ。

ヤリたい盛りの男子高校生にはあり得ない答えに、店員はキョトンとしていた。


「お姉さん、悪いけど今そういう気分じゃねーんだ、ゴメンね」


その声音、堂に入った断り文句、余裕すら感じる表情。お姉さんは、途端に女の表情を見せてトロンとしていた。

スッゲー、あんな巨乳の美人店員に誘われて断る海藤スゲー、しかも逆に落としてる、と周りが彼を神格化する最中も、海藤が求めるのは燻り続ける何らかの正体だ。

それは今目の前にいる美人巨乳の彼女には求めようもない。

だから海藤久成は断りを入れるしかない。







女より何より、海藤の中で騒めく「それ」を追求するのは、それが解決しないでは気持ち悪くていられないからだ。ずっと、何かをどこかに置き忘れているような、忘れた物を思い出せないでいるようなそんな感覚で、解決しない限りは何も手がつかないような気さえしてくるのだ。

そんな思慮深さを海藤は自分に求めていないから、尚のことさっさと解決してしまいたい。


(だから、か)


事あるごとに記憶は海藤に解決を急かす。

開けたくもない記憶の引き出しを開け放す。

なるべくなら思い出したくない女子の記憶が詰まった引き出しを。




(あの女、……あいつは)




杉田摂子。

虫より大嫌いだった、暗くて地味な女。





「ヒサ、何拾ってんの?何ソレ」


桜舞う4月の駅のホームで、友達二、三人と連れ立って登校途中だった海藤は、改札前付近で妙な物を見つけた。


「文庫本」

「は?本?なにエロ本?」

「バカ、鈴木、このサイズなら官能小説っていうヤツだろ?な、ヒサ?」

「官能小説ぅ~?うーわエロ!つーかジジくせ!」


どうしても意識がそちらの方へ向かう外野を余所に、海藤は淡々と中身を吟味している。

藍色のババくさいブックカバーに収められている文庫の内容は、カバーに負けず劣らず辛気臭い。どうやら戦時中に息子に送った母の手紙を紹介するというものらしい。

普段なら髪の先ほどの興味も湧かない類の本だ。

だがその本からは何故か、ふわりと花のような匂いが香ってきた気がして海藤は無意識にそのままバッグへしまっていた。


「なんだよヒサ、届けんの?」

「うん」

「うーわ、いい子ぶってやがる」

「落とし主が可愛い子でもお前には紹介しねー」

「あーあーすいません久成様俺が間違ってましたから誰か紹介して下さい!」


予想では可愛くも美人でもないだろうとアタリをつけていた海藤だった。可愛い女子となんとか繋がりを持ちたくて必死な友人の懇願をからかいながらホームを後にした。


しかし結局、拾った本はその後どこにも届けることなく、なんとなく家に放置されたままとなった。

読む気は元よりない。

だが不思議と手放す気も起きなかった。




それから3日ほどして、海藤は偶然改札でその姿を見つけていた。


(あ、杉田摂子)


紺色の飾り気のない通学用バッグを肩に提げ、県立高の制服を規定通りに着用するおかっぱの女子が、駅員と何やら話しているのが目に入った。

つい1ヶ月ほど前まで同じ教室で顔を突き合わせていたクラスメイト。だが、話した回数は片手で足りる、嫌悪すら抱いていた相手。

ことあるごとに記憶の奥底から面影を覗かせる女子。

海藤にとって、何故かずっと無視できない存在だった。


ざわり、と鳩尾をくすぐる不快な感覚が通り抜ける。


そうすると海藤は、ああ、やっぱり、と認めざるを得なかった。

燻る「それ」が手ぐすねを引いて、彼も理解できないような衝動の只中に突き落とそうと待っている。


「あの……は、届いて……」


その時、風に乗って微かな声が耳に入ってきた。聞き覚えのある涼しげな発声は、杉田摂子のものに思える。海藤はハッとして、なるべく身を隠せるような柱の影に移動して彼女に接近した。

そして、じっと聞き耳を立てた。


「タイトルは覚えてる?」

「確か、届かなかった手紙っていう題名だったと思います」


海藤は今更にあの窓口が落し物の問い合わせを受け付けている所だったことを思い出した。

題名がどうのとやり取りしていることを察するに、落としたのはCDやDVD、もしくは……本の類であるのは間違いなさそうだ。


(本……?……まさか、な)


海藤は、不快さを生むばかりだった「それ」が、次第に心臓を大きく動かし、血液を頻繁に体内へ送る役目を果たしていることに気づいた。

要は興奮していた。

過去これほどエキサイティングな事柄があっただろうかというほどに、海藤は目の前で繋がろうとしているナニカの行く末を固唾を飲んで見守った。


「悪いけど、ここには届いていないね」


他を当たって、とすまなそうに言う中年の駅員に、そうですか、ありがとうございました、と返す杉田摂子は、それほど残念そうにも見えない表情で海藤の潜む柱を通り過ぎていった。

その時、ふわりと、海藤の目の前で桜のような香りが閃いた。

それが鼻腔に届いた時、杉田の後ろ姿を見送ることもなく、海藤は駆け出して自宅へ向かっていた。


(あれだ!絶対、あの時のヤツだ)


確信していた。

3日前、改札で拾った一冊の辛気臭そうな本。

藍色のカバーの、花の香の。


「はは……はは、は……」


帰宅した海藤は、肩で息をしながら、拾ってから今まで一度も開かずに置いた文庫本のタイトルを確認して笑った。


『届かなかった手紙』


やっぱりだ。

やっぱり、このずっと燻っている「ナニカ」に名前をつけるのは、杉田摂子だ。

あの女が、これからの俺の生活を煩わすものに荷担していた。

そう確信した海藤は、天啓のように閃いたこれからの自分が為すことを、どう達成するべきか考え始めた。

差し当たってそれの協力へ不可欠なのは杉田摂子の存在だ。

何の気なしに、手に持った文庫本をパラパラとめくると、海藤は今まで読む気も起こさなかったそれへじっくりと目を通し始めた。







思うに、自分は杉田摂子へ何かを成さなくてはならないのでは、彼がそんな考えに辿り着くまで然程時間はかからなかった。

それは、一つとして献身や反省といった善意から来るものでなく、全ては自分のためだ。

手前勝手な事情のために、彼女を利用しようと考えていた。海藤久成の中には、杉田摂子に対する湿った感情や罪悪感などといったものは一切なかった。

だがそれにしても、相手のことを全く知らないまま事に臨むのはいかにも無謀である。

手元にある彼女との共通項となった文庫本を、海藤は手始めに毎日読むことを課した。

すると早速変化は起きた。

起床時刻を誤って、完璧に朝練に間に合わなくなった日のことである。

改札で一人の女子高生がもたもたと何やらトラブっている。


(杉田!)


全体的に地味な出で立ち、規定通りの目立たない、いやある意味では目立つ制服姿、間違いなく杉田摂子だった。

海藤は隣の改札に並び、すぐ隣でもたついている杉田に何か声を掛けるべきか一瞬迷って、けれど人波は待ってくれずに結局無言を貫いた。

だが通り過ぎる一瞬、どういうわけか、何かに気づいたように杉田摂子はこちらを振り仰いだのだった。


(あ……)


幼く丸い頬、白い面、肩口で揺れる黒髪、そして、透明な温度を保つ濡れた瞳。

記憶にある彼女と重なるような、それとも全く違う新鮮さを湛えるような。


一瞬、それはほんの一瞬の出来事だ。


杉田摂子と海藤久成は、確かに視線を交わし、見つめあった。

海藤にはまるで永遠にも感じられるひとときだった。

世界の時計が止まってしまったかのような感覚だ。


(まともに見たなんて、今まで無かったな)


そう思った時にはすでにごった返す電車の中にいて、むせ返る人いきれの中、海藤は先ほど見た光景を繰り返し反芻させている。

そして、通学リュックに忍ばせた彼女の私物の重みを、ひしひしと感じ取っていた。




部活動で疲れ果てる海藤は家に帰って読書などしようものなら、ものの数分で眠りの世界へ旅立った。

そういう事情もあって、読書はもっぱら電車の待ち時間やたまの遊び時間の合間を縫ってということになり、とりわけ駅で本を開く機会は頻繁に増えた。


そんな折、海藤はどこかから自分を見つめる視線があることに気づくようになった。

それは一度どこかで感じたような、静かな視線だった。

夜の気配でも纏っているかのように控えめなそれは、向かいのホームから見つかった。


ぼうっとしたような雰囲気の、おかっぱの女子生徒。

杉田摂子だ。


海藤はそれに気づいて、一瞬ヒヤリとした。

今まさに手にしているこの本が、彼女のモノだとバレたに違いないと思ったからだ。

やはり、この前のあの改札での一件が響いているのかと考えつつ、それにしては察しが良すぎるとも思った。

だが杉田摂子は海藤の焦りを余所に、やがてやって来た友達の輪の中へと入っていき、もうこちらの方へ視線をよこすことはなかった。

ほっとしたと同時に、海藤はある種の虚しさを感じていた。あるいは偶然ではなかったら何かが生まれるのではと、漠然と考えたからかもしれなかった。

しかし、そんな少しの憂鬱など晴らすほどの必然が、その後の彼らには訪れることとなった。

海藤が駅のホームで本に目を通していると、必ずと言っていいほど杉田摂子の視線がよこされるようになったのだ。

最初は偶然かと思ったが、あまりに頻度が高いのでその可能性は早々に捨て去った。

しかしそうすると、いったい何を持って彼女がこちらを見つめてくるのか、そして、自分がどうしてその視線を見つめ返すことに躊躇いを覚えないのかわからず、海藤は次第に居心地の悪さを覚えるようになった。

それを払拭するために事を起こしたのは、堪え性のない海藤にとって遅過ぎるとも言えるほど後手になった3ヶ月後のことだ。


「杉田、これ」


駅でごった返す人ごみの中に杉田摂子の姿を見つけた海藤は、とっさに肩に手をかけ、例の本を差し出していた。

瞳がこぼれ落ちるのでは、というほど大きく見開いた目をキョロキョロ動かして、杉田は最初、自分が話し掛けられているという事実から目を逸らしたくているようだった。

だが海藤の視線は杉田にのみ向けられていたので、「え?」と激しい動揺を押え込んだらしい彼女の視線はようやく差し出した文庫本へと向けられた。


「お前のだろ」

「あ……どうして」

「こっち睨んでたじゃん、ずっと」


燻る「それ」が首をもたげている。

見下ろす彼女はひたと本を見据えて、恐る恐るという風に口を震わせて、言葉を発した。


「それ、あげる」


それは、海藤にとってまったく予想もつかないような答えだった。


「あ?あんたのじゃねえの?」


そんなはずはない。

そうでなければ、あれほどこちらに視線をよこしてきたこの3ヶ月の彼女の行動に説明がつかない。

まさか、繋がりすら、無かったと言う気か。

海藤の手のひらには、いつしかじっとりとした嫌な汗が浮かんでいた。

だが、動揺する海藤の心情を更に揺すぶるような答えが返ってきて、懊悩はパっと晴れた。


「私のだけど、あげるから。それと……睨んでたんじゃ、ないし」


私のだけどあげるから?

あげるっていったか、今、この女。


「……そうかよ」


条件反射のような言葉が海藤の口からポツリと出て行った。

彼は、今自分が何を言ったのかもわかっていなかった。杉田は俯いたままだからバレようがないだろうが、彼の顔はかつて無いほど惚けたマヌケ面をさらしていた。


(なんで俺に。つーか読んだけど別に要らんっつー……てか、これってアレか、つまり)


もしかして脈アリみたいなアレな反応なんだろうか。

コイツの本を拾って読んで、何十回と視線を合わせたことで、もしかして「そういう信号を送っていた」ことにされたんではなかろうか。

いやいやいや、と冷や汗をかきながら、一方で、そうであれば中々に順調な流れになっているではないかと海藤は感嘆した。ただ彼女の本を読んだだけで降って湧いたチャンスだ、しかも相手はパクっていたことを咎めずにそれどころか譲るとまで言ってくる。

この機を逃す手はない。


「じゃ、もらっとく」


そもそも、話し掛けたのだって何かの計算あっての事ではないのだ。

海藤は解決したいモノのために何かを成そうとは思いつつも、具体的に作戦を練っているわけではなかった。

全てはなんとなく、だ。

なんとなく彼女の本を拾って読んで、なんとなく視線が何度も合って、なんとなく返そうとしたら、このような運びとなった。

え、と零して顔を上げた杉田摂子の視線と、海藤は逸らすことなく真正面から向き合う。

これまでそうしてきたように。

目の前の、相変わらず透明な温度を保つ瞳に自分だけが写っているのは、不思議と海藤を誇らしい気持ちにさせた。


「ヒサー!おい、どこ行ってんだ~~?」


やがて、鈴木のがなり声が聞こえてくるまで、海藤はしばしその心地よさに浸って杉田と向かい合ったままでいた。







杉田摂子の本から海藤久成が得たものは、それほど多くなかった。

なにしろ、普段彼が愛読しているのは週刊少年誌くらいのものだったし、しみったれたドキュメンタリーなど、強制でもされなければ見向きもしなかったはずだ。

彼が杉田摂子の本を開いたのは、彼女のことを知ると己に課したから、それだけの理由に過ぎない。確かに最初はそうだったはずが、本の内容の全てが彼に響かなかったわけでもなかった。

その証拠に、彼の中にあった無数の扉の、少なくとも一つは開いたことは確かだ。

海藤は、杉田摂子のしみったれた本から、母への慈しみの気持ちを僅かなり芽生えさせていた。それくらいの可愛げは、彼にもまだあった。


「なあ、母ちゃん。明日、仕事早く引けんだろ?」

「そうだけど……ヒサ、なにあんた、また学校で面倒起こしたとか言わないでしょうね?やめてよね、もうそういうのは。高校入って早々、先生達に頭下げるのなんて、ただでさえ疲れて帰ってくるのに……」


放っておけば延々と続いていきそうな母・愛子のお小言を「ちげーよババア!」と遮って、さらなる怒りが降ってくる前に素早く言った。


「メシ、作ろうか……って言おうとしたんだよ」

「へ……」


愛子は息子そっくりの三白眼を見開いて、あんぐり口を開けた。


「めっ…ずらしぃ~……あんたが料理するって言い出すなんて……小学校以来じゃない!?」

「食うのか食わねえのか、どっちだよ」


そっぽを向いて解答を急かす息子に、感激しきりの母が抱き付いたのは言うまでもない。


この親子は仲が良くないわけではないが、母子家庭というのもあり、交流の機会が極めて少なかった。母の愛子はよく言えば大らか、悪く言えば大雑把で、息子にはそれほど干渉せず、さらに言うと家庭を顧みることすら少ない。

シングルマザーの大変さはよく分かっていたから、海藤はあまり彼女に求め過ぎないようにしていた。そんな薄い交流が次第に溝を生んで、会話がないわけではないが、どこか他人事のようにお互いの責任を放棄するような関係に陥ろうとしていた。とりたてて母が嫌いという訳ではない、むしろ大事にしたいと心の底では思っていたのだが、なにをどうしたらいいのか思春期の少年に分かるはずもなく、幼い反抗を繰り返していた。

改心、とまでは行かないが、杉田摂子の本を読んで、戦時中の哀れな母子の実情を知り、たまには親孝行でもしてみるかな、と軽い気持ちで試してみようとしたのは確かだった。

そうして、そんな自分のちょっとした変化に少しだけ心地悪さを覚えながら、一方では悪くないと感じていた。

そんな小さな変化が、大きな波を及ぼそうとしていることには、もちろん彼は未だ気づかぬままだ。

その波は、すぐそこまでヒタヒタと迫っていた。







「なあ、頼む、ヒサ。お願い!アヤカちゃん、お前と遊んでみたいって聞かなくて……なんつーかさ、それ取り持つって感じでオレと付き合ってもらったとこあるからさ」

「はあ?お前プライドってもんねーのかよ、なんだよその女。大体俺、地区予選あっから最近あんま時間ねーよ」

「いやそれはもうそのとーり、申し訳ない!けどさ、ここは友達の顔立ててくんない?一回でいーから、な?一回だけ!」

「あー、も~……」

「アヤカちゃんマジ可愛いし!天使よ、ホント!顔小っちゃいわ胸おっきいわ脚細いわ白いわ柔らかいわで……」

「なに、もうヤってんの?」

「い、いや、そりゃあ~……び、B、いや、Cくらいまでなら?」


鈴木がアヤカちゃんにベタ惚れなのは、この所の彼の惚気話から嫌という程わかっていた。

だからこそ、海藤は面倒で仕方が無い。

そもそも、彼氏に他の男との仲介を頼む女などお断りだ。


「えぇ~、久成くんて、もうレギュラーなの?すごぉい!最近、サッカー中継けっこう見てるんだ~。わたし、将来テレビで見るかもしれない人と今会ってるってことだよね?」

「…………」


興味はないが、友達の頼みを無碍にもできず、なんだか鈴木が哀れに思えてきてこうして会う機会を作ったのだが、来なければ良かったと何度後悔したか分からない。

話が壊滅的に面白く無いし、サッカーに興味が無いことなど数分話しただけでも十二分に分かった。何も海藤とて女子とディープなサッカー話に花を咲かせたいなどと思ってはいない。

可愛い女子というのはそこに居るだけで花になるからだ。

だが不思議なことに、海藤はそんな花のように愛らしいアヤカちゃんには露ほども興味が湧かないのだった。

彼女の瞳には溢れ出る情熱の炎がチラチラと輝いていて、それを見つけるたび何故か、あの透明な温度を湛える静かな瞳を思い出してしまうからだ。

これにより海藤は非常に焦った。


(いやいやありえねーだろ。なんで俺が杉田摂子なんかを?)


親友の彼女といえ、自分に会いたいと言ってモーションかけてくる可愛い女子に食指が伸びないとは、いくらなんでも異常だと感じた。

花が咲いたように可愛い女子より、陰気で自分を好きかどうか分からない、それどころか嫌っているかもしれない相手を思い出すなんて馬鹿げている、と。


(あの本のせいか?)


本を借りたことにより、ほんの少し身の周りに変化が起きたからか、彼女を特別視したのかもしれない。

始めはそう考えたが、何度アヤカちゃんと会っても白けた気分になる己にさすがに危機感を抱いて、海藤はセカンドアクションを起こした。




1人で駅の向かいのホームに並ぶ杉田摂子の姿を見つけた時、海藤はすぐそちらへ移動した。

やはりどう考えても、胸に湧いてざわつく何かの正体と他の女子への興味喪失の原因は一致しているように思われた。

本を読んだだけでは足りない、やはり杉田摂子に会って何らかのコンタクトを取るべきだと判断して、無意識に彼女の元へ行き、気づけば声をかけていた。


「もっと、持ってねーの」


突然声を掛けられた杉田は海藤に気づくと必要以上に驚いて見せた。そしてやや後ずさり、目が合うとすぐに逸らした。


「な、何を?」


一応反射のように答えた声は、完璧に裏返っている。


(こんな、どっからどー見ても俺と関係ねーヤツなのになー)


「ああいう本」

「……まさか、ちゃんと全部読んだの?」


心底驚いたとでもいうふうに黒い瞳をまん丸にさせている様子は、どこか小馬鹿にされているようにも感じられて少しイラつく海藤。


「は?お前馬鹿にしてんの?」


威嚇するように剣のある声で言い放つと、慌てたように「いえ」とかなんとかモゴモゴと口の中で答えていた。そして意を決したように小さく返事をよこす。


「あ、あるには、ある、けど」

「じゃ、貸せよ」

「…………」


有無を言わせない海藤のきっぱりとした要求に、杉田は押し黙って答えなかった。

さもありなんと、海藤は自分でも彼女の態度に納得している。

彼が要求したことは、彼自身でも考えて口にしたことではなかった。彼女とどんなコンタクトを取るにしろ、何か共通の話題を持ってして近づいた方が良いと、長年の経験で瞬時に導き出した答えだったからだ。そんな直感の言動で杉田を攻略することは難しいに違いない。

しかし、理解を示していたとしても、杉田の沈黙はあまりに長かった。いいのか悪いのかハッキリしないことに一番ハラが立つ性分の海藤は、もちろん急かした。


「おい、なんで黙ってんの。そんなに嫌かよ、俺に貸すの」


前回はくれるとまで言った相手だ、まさか断らないだろうとは推測していた。好きではないかもしれないが、嫌われてもいないだろう。


「嫌……とかじゃなくて、なんで、私なのかなって」


それを聞いた海藤は、ザワザワと、またもや襲いかかってきたソレの感覚に居心地悪くしていた。

ザワザワ、モヤモヤ、ぞくぞく、そんな擬音を伴って鳩尾を這い上がってくるその感覚は、燻るような形から、出口を求めて騒ぐソレへと変化している。

何か、今にも暴発してしまいそうな。

見下ろした杉田の表情は、バツが悪そうな顔ながら、何故か耳まで真っ赤になっている。


(何コレ、やっぱ脈ありなの、コイツ)


そう思ったら、ザワザワが倍になった。

ヤバい、と思った時には、海藤は誤魔化すように素っ気ないセリフを口にしていた。


「はあ?んなこと気にしてんの?俺の周りに本が詳しいヤツいると思ってんのかよ」

「でも、私じゃなくたって」


真っ赤な顔で、若干瞳を潤ませながら杉田が訴える。


(そうだよ、お前じゃなくたっていい、お前以外のもっと可愛くて付き合いやすいヤツだったら、誰でもいいハズだったんだ)


けれど違った。

だれでもいいどころか、杉田でなければ解決しない何かがあったからこんなに自分の何かを揺さぶり、呼び起こされる。

まるでらしくない自分を曝してしまうのがその証拠だ。


「別に告ってるわけじゃねーんだから変な意味に捉えんなよ、めんどくせーな」


そうだ、変な意味ではない、何も間違ってない、ただこの不可解な何かを解明したいだけだ。ただそれだけーーー。


自分の動揺を悟られたくない海藤は、放った言葉が杉田摂子にどう作用するかなど考えていない。


(あ……)


気付いた時には彼女はさらに顔を赤くさせ、瞳を潤ませていた。

いつも透明な温度を保っているはずだったその瞳は、いま、秘めた熱さを湛えて色を変え、海藤の胸を抉ってくる。

凶器のように直向きで純粋な熱が、正確に、深く。


(まさか……)


それを感じ取ったとき、ふと気付くものがあった。


「うっ……!」


何かを掴みかけた海藤の目の前を、杉田摂子は顔を伏せながら足早に通り過ぎていく。


「杉田!」


傷つけたのだとわかっていた。

接触を続ける気でいるならすぐに追って謝罪するべきだ。

だが、後悔よりも先立つ、この、熱くたぎるどうしようもない感情は一体なんなのか。

その処理に戸惑って、海藤は身動きが取れないでいる。


(なんか、今……あいつを見つけたら滅茶苦茶にしてしまいそうだ)


自分が何をしてしまうか分からない。

長い間燻っていた「ソレ」が変化を起こした時、海藤は雷鳴に打たれたように、その正体を掴んでいた。


「ソレ」は、「火」だった。


何かを灯す明かりにも、焼き尽くす業火にも変じる、いつの間にあったのか知らない火だ。


それがずっと、彼の中で燻って昇華できないでいたものの正体だった。


「なんだ……これ……」


何にも言い代えることのできない彼の火は、杉田の潤んだ瞳が抉っていった胸を、しばらくヒリヒリと焦がした。

甘さもなく、ただひたすらに、ヒリヒリと焦がし続けた。






まだ続きます。


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