花咲くを知らず 2
さらに続きます。
海藤と川沿いを帰ったのを最後に、私は学校までをバスで通いはじめた。
幸いあと5日を残して冬休みに入るため、バス通学による若干の煩わしさは最小限に抑えることができた。
教室で金沢センパイについてはしゃぐ舞子の話に相槌を打っている時、部活で忙しく準備に駆け回っている時、家で好きな本を寝転がって読んでいる時も、わたしの頭に居座っているのは海藤久成からの謎の口づけだった。
何をしていようと、それは片時も頭から離れてくれなかった。
そして、逃げておきながらも私は、今更ながらに海藤に嫌われてはいないだろうか、いや、そもそも最初から嫌われていたのではないかと、不安で胸がいっぱいになっていた。
逃げたのは、またナイフみたいな言葉で傷つけられたくなかったからだ。
でも、逃げたことであの口づけにどんな意味を見出すべきか、分からなくなった。またからかわれたのではないか、傷付けるための手段だったのでは、万が一にも好きだなんて意味は、様々な懊悩が駆け巡った。
自分が傷ついているということに気づくのが嫌で、海藤に貸していた本は意識的に部屋の端に追いやっていた。すべて何度も読み返すほど大好きな本だったのに、途端に色あせてしまったようで悲しくなる。私への嫌がらせのためにこの本達を面白いと言ったのではと考えると、恐怖で捨ててしまいたくなる衝動すら覚えた。
そして、そんな風に海藤の言動ひとつで揺れてしまう自分の今の生活の現状を情けなくも感じていた。彼に恋愛感情を抱いているかどうか明確ではないにしろ、それでも今の私を少なからず支配しているのが海藤久成であることは間違えようもなく、ひどく気分を落ち込ませた。
こういう時、あのキスについてを、自分のことが好きだからではないかと思い込んで浸ってしまえるほど、自分に自信が持てる女の子だったらと思わずにはいられない。何もかもを自分に都合の良いように解釈してしまえるような自惚れなど、私にはとうてい望めそうもない。
とって代わるのは、果てしなく暗い被害妄想だった。
そもそも私から本を借りるなど海藤にとっては何のメリットもないのだ。
考えられるとしたら、暇つぶしのために私の嫌がることを本格的にやる、そんなことぐらいだろう。だが一体、そんな骨の折れるようなことを私に徹底して行う、そのメリットこそ何だというのか。
学校が変わってまでその嫌がらせの対象になる何かが、私のどこにあると言うんだろう。
そこまで考えて、私は気付かずにはいられなかった。
もしかして、私が海藤に好意を抱いているらしいことに気づいていたのではないかと。
それで嫌悪を催したというのなら納得がいく。
そもそも中学の頃の言動を見るに私のことは毛虫よりも嫌いだったようだから推察するまでもないだろう。
そこまで考えたところであの口づけの場面を思い出すと、死にたいほど惨めな気持ちになった。
海藤の意図がどこにあろうと、私は少し嬉しかった。
海藤と触れ合えたこと、ファーストキスを恐らく好きであろう人から施されたこと、けっこうロマンチックな展開だったこと。
その嬉しい気持ちが、瞬時に惨めさや恐怖や悲しみで塗りつぶされる複雑な関係でなければ、きっと手放しで自惚れることができたはずだった。
その貴重な機会を恐らく永遠に手放したのだと思うと、もっと泣けてきた。
だって、海藤が私のことを好きだなんて、考えるだけで馬鹿みたいだ。
気が触れた片想いの女の妄想で片付けられる。
そんな現実は、小説のファンタジー世界より存在しえないと私には思われた。
そういうとき、私にときめきを与える物の存在が途端に鬱陶しくなる。
咲かない花なんて、持っているだけで憂鬱だ。
咲かないとわかっている花を育てる物好きな人なんてどこにいるだろう?
それとも、世の中の男女は得てして皆そういう苦労を経ているのだろうか?
私が極端に臆病なだけなのだろうか?
ずっと恋に恋していられたら良かった。
妄想と現実はこんなにも差がある。
残酷というよりも、諦めを強いられている気がした。
咲く花を見つけようとする方が間違っているのかもしれない。
*
悶々と考えていることにいい加減嫌気がさしたので、友達の舞子を誘って街へ出かけることにした。
私が憂鬱そうなのは通常運転で、かつ舞子が細かいことを気にしない性格というのもあって、ここ最近の安眠妨害な悩みは私達の間でいまだ公表されないままだった。
その方が煩わしくなかったので、私達は冬休みという至福のときをどう過ごしてやろうかと話し合うことだけにただ熱中した。
結論として、過ごす相手はいないながらもロマンチックなクリスマスの一端を味わうため、新しいコート、ないし洋服を買いに行こうという話でまとまった。
これまでの私だったら逆立ちしたって出てこない案を捻り出したことに舞子は少なからず驚いたようだった。「本のことしか頭に無いかと思っていた」という遠慮の無い意見に、特に失礼な、とは思わない。今までの私だったら確実に率先して避けるような選択肢だ。服なんて、一人で買う方がよっぽどいい。
ただ、今は海藤を思い出すような物からはとにかく逃げていたかったのだ。その一心だった。
結局何をしたって思い出すのだから無駄な試みなのに、それでも足掻きたくて必死だった。
これ以上、憂鬱だけで自分の気持ちを満たしているのは限界だった。
クリスマス間近のショッピングモールの中には、私達とおなじで冬休みに入った自由を満喫しようとしている高校生の姿もそれなりに多く、私は思わぬ場面で海藤に出会ったりしないか気が気でなくなった。こうして、いたる場面で彼を思い出しているあたり、やっぱり無駄な試みであるような気がしなくもなかったが、それでも何店舗か煌びやかな装飾のウィンドウを覗いているうちに、気分は否が応でも高揚していった。
ああでもない、こうでもないと、気の置けない友達と一緒に物色する行為は、思った以上に気分転換の役目を果たしてくれた。
結局、2、3時間を費やして購入したのは1着のコートと使いもしないだろうピンクのマニキュアきりだった。舞子は他にお洒落なボディクリームやシャワージェルを買い足していたが、二人とも戦果としては似たようなものだった。元々はっきりと欲しいものがあって訪れたわけではないので、それでも十分満足していた。こういうのは、冷やかして歩くことにこそ意味があった。
それほど安くもない買い物だったのでそろそろ財布が寂しくなり、さあ帰ろうかとバス乗り場へ向かう。待つ間の話題は友達の話から、やっぱり金沢センパイの話になったり、舞子がほとんど主導を握っていたけど、それに付き合うのは決して嫌ではなかった。何かを深く考える性分の私を別のことに引きつけてくれるだけでも、だいぶありがたいと思えた。
その流れで私は、ふと舞子に意見を貰ったらどうかという考えを思いついた。
本気とも思えなかったが、舞子が金沢センパイをある程度好きなのは間違いなかったので、望めそうもない相手に思いを向けるのはどんな心地のするものか、参考までに聞いてみたくなった。
「え?金沢センパイ?うーん、まあ、付き合えたら嬉しいよねー。それ以前にあたしを認識してもらわなきゃいけないんだけど。そこが一番難関なんだな、これが」
「でも怖くない?話しかけて、嫌われたらって」
「ばっかだなー。それが嫌なら最初から話しかけなきゃいいじゃないの。見てるだけで幸せならその程度ってことでしょ」
至極もっともだった。
そもそも舞子は、相手がどうのと反応を気にかけるようなタイプではないので、自分の気持ちに正直でいればそれで良いらしかった。
「じゃあさ、例えばなんだけど、自分のことを嫌いな人を好きになったら、どうする?」
「え、アンタ好きな人出来たの!?」
「いや、私じゃなくてさ、小学校時代の同級生でそんな子がいて、最近またよく一緒にいるみたいだから」
「へー。理解できないな。だってアタシを嫌いなんでしょ?意味わかんないもん。そんなヤツと一緒にいるなんて」
「だ、だよね」
一言で片付けられてしまった。
自分でも説明しようがないくらい理解不能なんだから、他人に理解を求めるのは酷だというのは分かる。
でもいざはっきりそう言われると思った以上にぐさりときた。
やっぱり、嫌がらせのために、海藤は……
「あー。でもさ、その嫌いなヤツって男なんだよね?じゃあ、分かんないな。男子って時々意味分かんないもん。嫌いとか言ってる子とよく話してたりさ」
「え、そんな人いるの?」
「極たまにね。ムカつくーとか言ってる女子にこそ男子ってつっかかっていくじゃない。本当にどうでもよかったら無視すりゃいーじゃん」
「でも面と向かって悪口さんざん言われてたり、嫌がらせされたりする子だったんだよ。はたから見たら本当に嫌いなんだなって思えたもの」
我がことながらそれを口にするだけでも苦痛だ。こんな苦痛を負わされるのに、相手には嫌い以外の感情があったというのだろうか?
「うーん……多分だけど、その子が相手にしなかったからじゃない?嫌いって態度で気を引きたかったとかさ。好きって態度使えばいーのに、一部の男子ってほら、馬鹿だから」
「好き?……あり得ないと思うな」
「まあ、当人達じゃなきゃわからないこととか、あるんじゃない?男と女ってさ。私だってそんな経験豊富じゃないんだし、想像でテキトーに言ってるだけだよ。てか、そもそもそんな男好きになるなんて理解できないし」
はっきりと言い切るので「じゃあ金沢センパイがそうだったらどうする?」と聞くと「センパイがそんな人のワケないじゃーん!この前だってさあ……」と、その後は延々とセンパイの素晴らしさについてご教授いただくこととなった。
*
所属する文芸部にもちろん合宿なんてものはなかったので、冬休みに外へ出る機会は多くはなかった。そもそも活動が活発な部でもないので、各々が自主トレをして意見を持ち寄るのが常だ。引きこもりに意義を与えたような部活内容でもあった。
そんな、外に出ることが少ない冬休みのたった1日2日でも、外出の際には駅を使わず、もっぱらバスを利用した。もしも駅で海藤と鉢合わせしてしまったらと考えるだけで恐ろしかったので、はなから選択肢に入れることもしなかった。
今日の外出の目的は、文芸部による集まりの交流会だった。出席するもしないも自由ということだったが、恐らく入部したての一年生をもてなすという先輩達の気遣いから発案された会だったため、参加することにしていた。
顔ぶれは私の他に、違うクラスの一年生何人かが参加表明している。
先輩がたは殆ど出席するらしかった。
宿題でもないが、その会でそれぞれの作品を持ち寄ろうという意見が出て、誰も反対しなかったから、少し恥ずかしいがなんとか形にした作品のようなものの原稿をバッグに忍ばせている。好きなもののために頭を悩ませるのは苦でもないが、誰かに披露するとなれば話は別だ。それなりに客観性を持って創作しなければならないが、貶されるのであれ、下手なりに自慢出来るようなものを持っていくことだけは念頭に置いておいた。
外に出ると、どんよりとした曇り空がこの先の天候の荒れを思わせて怖気付きそうになる。
この前舞子と一緒に買った濃紺のダッフルコートを家に帰って早速身につけたら、憂鬱な気分が少しはマシになったのを思い出し、今日も着て行こうと考える。そのまま、憂鬱の原因も忘れられたらいいのにと思うけど、どれだけお気に入りの服でもそこまでは無理だろうとわかってもいた。
眠れない夜は相変わらず続いていた。
「へえ、異世界の部族の、敵になってしまった世話人に恋しちゃう巫女のお話かぁ。イイじゃない、これ。杉田さん!メインヒーローが絵に描いたようなクズっていうのが新鮮で面白いし、自分たちの意思とは関係ない所で争いに巻き込まれていくのがドラマチックだわ。大河ものっぽい!」
そこまでクズに描いたつもりはないんだけど、という意見は取り敢えず脇に置いて、少女小説の賞を獲った経歴を持つ関川部長から手放しで褒められれば浮かれずにはいられなかった。
とりわけ少女小説の賞にはいつか応募しようと思っていた節もあり、どんな感想であれ貴重なご意見として頂戴することにしていた。
それなりに人の集まった交流会は、市の運営する文化センターの一室を借りて行われた。そこまで固苦しくはないが、場所が場所だけに羽目を外すのは難しそうだ。これでは交流会というよりもただの部活の延長線に近い。その違和感ならきっと誰もが抱いていたに違いないけど、みんな口に出したりはしなかった。
結局こういう風になることを知っていたのだろう。そしてそれを嫌だとは感じていない人が大半なのだ。
目的を同じくする仲間といる時間ほど心地良いものはない。
「少し、部族についての歴史が書き込み足りない気がしていたんです。この辺をうまく話に組み込めたら、もっと世界観に引き込ませることができる気がするんですけど……」
「それは確かにね。でも、それよりも気になることが一つあるんだけど、言っちゃっても構わない?」
「なんでしょう?」
やっぱり急拵えの作品じゃ粗が目立ったかな、と恐々としていたら、部長が指摘したのは私がまったく気にかけていないような箇所だった。
「この二人の関係、ていうか、お話の結末っていってもいいね。あんなにドラマチックな展開の果てに待っているのが別れしかないなんて、悲しすぎない?少女小説目指すなら王道は大事だよ。結局読む人はハッピーエンドを望んでいるわけだから」
ま、中には悲恋ものもあるけど、と部長は付け加えた。
納得出来ないわけじゃないけど、何がダメなのかも分からなかった。お話のケジメとして、二人を結び合わせない方が丸く収まるのに、と反発心が湧きおこる。
「タイプっていうのがあると思うんだよね。小説っていっても色々あって、もちろん全体として綺麗にまとまっている方が読みやすいに決まってる。でも中には話が破綻してるとしてもなんでか面白く読めちゃうのもあって、そういうのって大抵キャラが生きてる。……プロでもないから偉そうには言えないけど、なんていうか、杉田さんはもっと伸び伸び好き勝手に書いてもいいと思うなぁ」
「……でも、そうそうハッピーエンドで解決する話なんて、無いと思うんです。大体この2人は、誰がどう見ても結ばれたらいけない、むしろ周りに悪影響しか及ぼさないわけですから、それが分かっていて想いを成就させるなんてムシが良すぎませんか」
王道も大事だけど共感はもっと大事だ。
誰も、理解できないような主人公達を応援したいとは思わないだろう。
「それなら、この2人を敵同士にしない方がまだいいと思うよ。だってこの物語の中で解決するのはお話の顛末だけ。可哀想な男女が何を解決したかったのかは、私には全然伝わらなかったもの」
撃沈だった。
これなら、最初からダメ出しされた方がまだマシだ。最初に上げてから落とすなんて、部長もけっこう人が悪い。
でもその意見にショックを覚えるくらいには、自覚している部分があることも分かっていた。敵対している主人公の2人は、お互いの想いをすれ違わせたままそれぞれの人生を歩むことになる。
現実はそんなものに違いないけど、お話の世界では逆に違和感があった。
どれほど不幸になろうとも、物語の恋人達は想いを成就させることを優先する。私が好きな本にもそんな描写が少なくはない。
でも一時的に幸せになったとして、果たしてそれは純然たるハッピーエンドと呼べるだろうか?
その先に待っているものが破滅だと予想できても、人は一時の幸せが大事だと言うのだろうか?
悩む私に、ま、人それぞれだからと部長が軽く声をかけた。
破滅を知っていながら人を愛すより、平和な日常を望むお話が一つくらいあってもいいはずだ。
他の人に原稿を読んでもらい、私もその人の原稿を読みながら、言い聞かせるようにそんなことを思っていた。
でも確かに、急拵えが言い訳にならないような空虚さを、他の人の感想からも感じ取っていた。今まで認識していなかった穴を、誰かに指摘されたことでやっと見ることができたかのようだった。
客観視とはかくも難しい。
まずは自分の意見が一般的かどうかを見極めることから始めるべきだったと気付いたが、それが本当に必要なのかも分からなくなってきた。
物を書くということには正解がないらしい。
それでも、面白いと言ってもらうための努力を放棄しようとは思わなかった。
こうして、交流会は当初の目的とは外れた方向に白熱し、夕方には閉会した。
ある意味ではだいぶ充実した時間だったと言えるかもしれない。
帰る道すがらは鼻歌交じりだった。
*
少し暗くなった道を速足で帰ると、ようやく着いた玄関先に人影があるのに気付いて、やや構えた。キャッチセールスにしては訪問時間がやけに遅い。また屋根の修理に関する押し売りだろうかとうんざりして人相を確認したところで、ぎくりと体が固まった。
「よぉ」
少しのんびりしたような、或いは照れくさそうな響きの挨拶が宵闇に響く。
完璧に固まっている私の前に、ゆっくりと大型動物めいた足取りで私服の海藤久成が現れた。
さっきまでの鼻歌交じりな良い気分がガラリと方向転換し、一気に地底まで叩きつけられた瞬間だった。まるで斬首刑を宣告された罪人のようだ。この場をどう切り抜ければ良いのか、一つも良いアイディアなんか浮かんでこない。
なんで海藤久成が私の家の前になんか居るんだろう。
幻であって欲しかったのに、気軽に話しかけてきてそれは現実だと示された。
「どっか出かけてたの」
「…………」
「…………あんたの電話番号、知らねぇからさ、冬休みで駅にも見かけねえし、話すなら直接会うしかねーだろ」
「鈴木に住所聞いて来た」と、いつもの緑と紺のチェックのマフラーを口元に引き上げながら、彼にしては珍しく歯切れ悪そうに話している。私はその言葉の一ミリも何を言っているのか理解できず、ただ突っ立っていた。何を言ったらいいのかも分からなかった。
「あのさ、…………この前の、その、川原でのことだけど」
何を言い出す気なのかと、急に噴き出してきた汗を不快に思いながら身構える。もう、あんな失態を繰り返すことだけは絶対に阻止しなければならない。
「悪かったよ。突然。なんか、血迷ってさ。犬に噛まれたよーなもんだと思って忘れてくんないかな」
「……忘れ、る?」
「都合いいこと言ってるってのはわかってるよ。でも、俺、あんたにずっと……償いたい、とか思ってて」
「…………は?」
今度こそ本当に理解不能だった。一体目の前のこの人は誰に対して話しているのだろう?
私か?
まさか私なのか?
人は記憶喪失にでもならない限り2週間程度前のことなんか忘られるはずがないし、そもそも、償いって何のことだ。
「なに?償うって……」
「その、中学んときのこと、とか」
ということは、海藤は私が被ってきた数々の被害に対して反省を示しているというのだろうか。
「償うって、……どうするの?私に本を借りたことと何か関係あるの?」
純粋な疑問だった。
すると海藤は若干言い淀んだ後で、思いもよらないことを口にした。
「あんたを分かろうと思ったんだ。……分かる気なんかしなかったけど、あんたが好きだって言ってるモンがどんなのか知ったら、どう償ったらいいかも分かるんじゃねーかって」
だとしたらこの前のキスがその答えなのか。彼が言いたいことが、私には少しも分からない。
「…………それなら、分かったの?」
「え?」
「私が読んでる本で、どう償うか」
実のところ少しも償ってほしいなんて思っていなかった。もっと言うとすぐにでも帰って欲しかったのだが、彼があの本達によって何を得ることができたのかには興味が湧いた。
「……償えないって分かった。少なくとも本を読んだぐらいじゃ」
その答えは、少なからず私の期待を裏切った。
分からなかった末にキスを奪われたのかと思うと、とても償おうとしている人の行動には見えない。からかったのでなければなんだというのか。
「うん。分からなくていいよ。……別に償ってほしいなんて思ってないから」
「……あのキスも?」
「え?」
気付けば海藤は必要以上にこちらへ近づいて来ている。私はさらに警戒を強めた。彼の大きな体躯は、こんな時には脅威でしかない。
「あんた、少しもムカつかないの、俺に対して。なんか天罰下してやろうとか思わないわけ?」
苛立ったように語調を強めるその言い方は、まるで私に腹を立てて欲しいかのようだ。
海藤が私の思いなんて知る由もないから、疑問に思ったのは当然だろう。でも持ってない怒りを振り翳せと言われても、それは無理な話だった。
「何も。……どうしてあんなことされたんだろうって、怖くなっただけ」
海藤は一瞬、薄暗闇でも分かるぐらい顔を歪めた。いつでも自信に満ち溢れている彼のそんな表情を見たのは初めてだったので驚いてしまう。同時に、ほんの一瞬、それによる昏い喜びが体を駆け巡ったことに気づいていた。
はっきりと、傷付けたのだと分かったからだった。
「……何をしたらいい?俺は、どうしたらあんたに償える?」
歪んだ表情のまま海藤は吐き出すように言った。償って欲しいことなど何一つ無かったので、私は正直に告げる。
「して欲しいことなんて何もないよ。海藤くんが、……中学んときの、色々、反省してくれただけで嬉しい。私にしたことなんて忘れてると思ってたから」
「……あんた、マジかよ。何とも思わねーの?仕返ししてやろうとかも考えないわけ?」
理解できない、と呟いた海藤のその台詞は、そのまま私が彼に抱いた感想だった。
あの川原で嘘だと告げられた悲しみがまた襲ってきた。彼と理解し合える物など何一つ無いような気がした。
償いなんて、冗談じゃない。
「……私が貸した本を、海藤くん、面白かったって言ってくれたよね。あれ、嘘でも嬉しかったな。海藤くんとはあんまり話さなかったし、話そうって思ったこともなかったけど、それが少し悔しくなった。もっとこんな話を中学んときもしてたら、何か、変わったのかなって」
それだけでいい、と会話を引き取って、私は彼から十分な距離を取った。話すべきことなどもう何もなかった。
「今はただ、帰って欲しい。それから、……もう貸せる本は、無いと思う」
これ以上裏切られたり傷つけられたりするのは嫌だ。海藤だって、本当に反省しているんだとしたら、わざわざ過去の見たくないような傷を抉る行為はごめんだろう。
許すこともできないが、お互い関わらないで幸せに過ごせるとしたならそれに越したことはない。
(この想いは墓場まで持って行こう。だって、償いなんて、ありえない)
咲かないまま枯れようとしている花が疼く。けれど、それを見ない振りすることなら至極簡単だ。なぜなら、平穏に過ごせる毎日はいつだって手の届く所にあるからだ。
「待てよ」
それじゃ、と背中を向けて玄関に向かう私に、けれど海藤は待ったをかけた。
それがどんな顛末を辿ることになるか気づくはずもない私は、その時はまだ平穏のさなかだった。
そう。
咲かない花を抱え、咲き方も知らないでいる私はその時確かに、平穏と言える日常に揺蕩っていられたのだ。
続く
高校に文芸部なるものがあるのかどうか分からないんですが、なんとなく摂子が入りそうだなというイメージで。
あとは茶道部とか英語部とか?
この話はまだ続きます。




