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知らない火2




その後半年は部活や校内行事が忙しくなったこともあり、杉田摂子と接触する機会はなくなった。

だが、接点がなくなったわけではない。

沿線が同じだから、ホームは違っても時間帯さえ被れば1、2週間に一度は目にする機会があった。

彼女の方でも、目を逸らすかと思えばそんなことはなく、たまに視線が交わされるとぼんやり見つめ合うことも多かった。

緩い繋がりに安堵のようなモノを感じつつ、彼が知らなかったあの火は、忙しい毎日でも消されることなどなかった。ちらちらと煙を燻らして小さく長く息づいている。

どうすればいいのだろうと海藤は悩んだ。


(これで杉田摂子は用済みのはずだろ?……もういいじゃねーか)


解決したのだ。

正体は分かったはずなのに、一向に気は晴れない。

モヤモヤは以前よりずっと大きくなり、ザワザワ、ぞくぞく、そんな感覚も、杉田摂子を目にするとやたら膨らんでゆく。

欲求不満だとでもいうのだろうか。

杉田摂子相手に?

それは海藤の沽券に関わるのでぜったいに認めたくはなかった。

そもそも彼女を思って揺れる火も、恋愛感情からはいまいちズレている気がしてならない。

ではなんなのかと問われれば答えられないが、腑に落ちないので恋心とは違うと思っていた。

けれどそこで、ハタと気付いたことがあった。


(そういや俺って、誰か好きになったことあったっけ)


「ヒサ、お前さー、アヤカちゃんにもっと優しくしてやれよ。じゃないと俺に愚痴ってくるんだよー」


半泣きで訴えてくる鈴木に物想いを打ち切られ、海藤はため息混じりに言った。


「これ以上ねーってくらい優しくしてんだけど。つーかさ、お前もっとあいつとイチャついてろよ。彼氏なんだろ?いーのかよ、彼女が自分以外の男にチヤホヤされても」

「いやー、もちろん独占したいけど俺はヒサも好きだからさ」

「げ、気持ち悪。そっちの趣味ねーからな、俺」

「だってさ、ヒサと彼女共有してるって少し自慢になんだよ。周りの俺を見る目も変わるしさ~」

「ただ馬鹿にされてるだけじゃねーの?」

「ヒサに近づきたいヤツって男も女もいっぱいいんだよ」


そんなもんかね、と分かるようで分からない鈴木の考えを自分なりに解釈すると、惚れ込んだ男と惚れた女を共有していること自体に快感があるらしい。海藤にはさっぱり分からない感覚だ。

好きなら欲しいし、手に入れたら絶対誰にも触らせたくないだろうと思う。

彼の頭の中はいつだってシンプルだ。


(でも彼氏本人が言ってるしな)


据え膳なら頂いてみようかと食指が動いたのは、気紛れでなく、頭の中を杉田摂子以外のことで埋めたかったからだ。

決して恋愛感情から彼女を意識しているのではないということを、どんな方法であれ確認したかった。




「ヒサってさ、元カノどんな子と付き合ってきた?」

「付き合ったことねーよ、女となんか」

「うっそ!嘘でしょ、まさか……」

「ヤったこともねー」

「ウソだぁ~~!ドーテ!?え、だってヒサの噂スゴイよ、色んな女子と手当たり次第ってさ」

「誰のウワサなんだよそれは。俺の何を知ってんだそいつら」


楠本アヤカが海藤をヒサと呼ぶようになり、海藤が彼女をアヤと呼ぶようになって一月ほど経っていた。

その日高校の文化祭だった海藤は、初めはサッカー部の仲間や先輩と連れ立っていたが、各々途中から彼女らしき女生徒らと抜け出して行ったので仕方なしにアヤと出店を回っていた。

鈴木と彼女を共有しているという意識は低いが、今のところ女子で頻繁につるんでいるのはアヤだ。同じクラスだというのもあるし、鈴木と共通の話題を持っているので話しやすい。おまけに胸はでかいしメイクに気を使っているのもあって非常に可愛い。遠ざける理由がなかった。

唯一、近頃海藤に対する鈴木の態度がおかしいことが悩みといえば悩みか。


「つーかお前さ、鈴木んとこ行かなくていいわけ?アイツ、ホスト喫茶だかなんだかのホスト役に選ばれたからって、お前に指名してもらうって張り切ってたぞ」

「えー、だってヒサといる方が楽しいし。シンちゃん最近ソクバク多くてつまんないんだもん」


シンちゃんとは鈴木のことだ。

フルネームは鈴木伸二。


「フツーだろそれ。お前が色んな男んとこにフラフラしてっから気が気じゃないんだろ」

「ひどぉーい!他の男にフラフラなんてしてないんだけど!本命はシンちゃんだし、浮気相手はヒサだけだよ?他の男子は、ほら、アタシって女子の友達少ないからしょーがないんだもん」

「俺を浮気相手とか言ってる時点で信用ねーわ」

「だって他の男子って猿みたいなんだもーん。ヒサは胸は見てくるけど紳士だし、束縛しないし、触ってこないしね」

「…………」


隙あらば胸を見ていたことに気づかれてバツが悪い海藤は無言を返す。女体への興味は尽きないので友達とAVやエロ本で盛り上がったりするが、アヤと寝たいかと問われれば否と答える。

海藤は中学時代にはキスを済ませていてその先へ進もうとしたことがあった。けれど相手に「付き合ってくれるか」と聞かれて「いや」と答えたら張り手が飛んできたので、その機会は失われてしまった。そうして高校へ進学した。

もしかしたら、女子との経験での意味なら中学の時の方が豊富だったかもしれない。

今はサッカーと、それからある1人の女子生徒が気にかかってそれどころではない。

アヤに手を出さない理由の一つは確実にそれだ。


「最近、鈴木が俺を見る目怖いし、お前と一緒にいるの、良く思ってねーんじゃねーの?」

「だとしても、アタシは今ヒサと居たいからいいんだって」


こちらは良くないのだと言い返したい気もしたが、考えてみればコトの発端は鈴木だ。アイツが海藤にアヤに優しくしてくれと言ってきたのだから、こちらが気に病む必要など本来なら無いのだ。

けれど2人で鈴木のクラスの出し物を冷やかしに行ったら、コトは思いのほか重大になりつつあったのだと思い知らされた。


「アヤちゃん、なんで、海藤と……。これ終わったら、一緒に回る約束してたじゃん」


連れ立って現れた2人の姿に、鈴木ははっきりと嫌悪感を示した。

黒いジャケットに黒いスラックス、髪型も整えている鈴木はかなり華やかだったが、それに似つかわしくない暗い表情を浮かべて不満をあらわにした。


「えー、だって、その間他の人と回っちゃダメって言われなかったから、いいのかなって」


アヤカはまったく悪びれる様子がない。

横に立つ海藤は、内心で空を仰いでしまった。


「そんな、……」


鈴木は続く言葉を失ったようだった。

恐らく鈴木は、彼氏として自分をまず優先してもらいたかったに違いない。俺なら絶対そうだと海藤は思ったが、恋敵になってしまった自分が口を出すことでもない。


「フツーはさ、彼氏でもない男と文化祭まわらなくない?それに俺が先約してたのに」

「もー、最近シンちゃん怒りっぽいよ。だってヒサと居ていいって条件で付き合ってくれたんでしょ?別にいーじゃん、このくらい」

「このくらい、ってさ……。じゃあ、アヤちゃんはいつになったら俺を本命にしてくれんの?……俺、この先ずっと海藤の次なのかよ」

「シンちゃんが本命だよって、いつも言ってるじゃん。ヒサは公然の愛人……」

「白々しい嘘つくなよ。逆だろ?俺が愛人で海藤が本命なんだろ?海藤に近づくためなら俺なんかどうだってよかったんだろ、ただのオマケだったんだろ!」


それは俗に言う修羅場だった。

しかもかなり観衆の的になる場での。

「鈴木くんカワイソ~」「今までよく我慢したよな」とヒソヒソ話が盛り上がる中、耐えきれなくなった海藤は「あとは2人で話せよ」と退散しようとした。

だがありったけの力でアヤカが海藤の制服を引っ張たので、すぐに引き留められる。


「待ってよヒサ、行かないでよ!どうしてこういう時どっか行っちゃうの?」

「どうしてって……当事者じゃねーだろ俺」

「当事者じゃん、思いっきり!なんで分かんないの~……」

「なんで泣くんだよ」


ワケが分からない海藤は、鈴木が「アヤちゃんは最初からお前が好きなんだよ」と説明してくれてようやく状況を把握した。


(最初から鈴木を利用して俺と付き合う気だったってことか)


「ヒサが、ヒサがちょっとでも振り向いてくれたらあたしこんなことしなかったよ!知ってた?あたしヒサのこと入学式の時からずっと好きだったんだよ?でも周りの子もみんな好きだし、ヒサは誰にも本気じゃなかったし、だからあたし、シンちゃんに相談して……」


そこで付き合うという流れがよくわからない。

ギブアンドテイクということか。


「なんにしても、やっぱ関係ねーよ。俺は鈴木の肩持つから」

「そう言うと思った、ヒサは……。あたし、必死で物分りいい女友達演じてたけど、こんなのもうヤダ。傍にいたらどんどん好きになるだけだもん」


奪ってよ、とアヤカは訴えた。

鈴木よりアヤカを選べと。


(意味わかんねー)


何かを選ぶ必要があると、海藤には思えなかった。彼にとって鈴木とアヤカは同等で、友達だ。

友達とその彼女という認識しかない。


「悪いけど、鈴木に優しくしてくれって頼まれたからつるんでたとこあんだよ。最初から、俺は鈴木の頼みでお前と居たわけ」

「そんなの、分かってたよ……分かってたけど……ひどいよ!」


アヤカは泣きながら教室を出て行った。

賑やかだったホスト喫茶は、いっそ滑稽さすら感じられるほどしんと静まり返っていた。







やがて俯いていた鈴木が何も言わず教室を出たので、海藤はその後を追った。

ガヤガヤと人混みでごった返す廊下をしばらく無言で歩き、比較的人の少ない校舎の方へ行くと、化学準備室に入っていく。

彼は化学係だった。


「悪かったよ、鈴木。俺がはっきり断っておけば良かったよ」


2人っきりになって早々、海藤は謝った。

いくら本人の了承を得ているとはいえ、やはり踏み込むべきでない一線まで侵してはならなかったと後悔していたからだ。

少々不本意でもあったが、鈴木を慰めるという意味合いも含んでいた。


「なんでさぁ……そこで謝るんだよ。オレ、すげー惨めじゃん」


ぽつりと鈴木はこぼした。

何もかもを諦めているような、どこか苛立っているような声音だった。


「お前がそんなにアヤを好きだと思わなかったんだよ。俺に優しく接しろとか言ってくるし」

「俺さ、この前アヤちゃんと寝たんだよ」


鈴木は海藤の話を無視するように告白した。

瞳は床に伏せられたままだ。


「最初はさ、憧れだったアヤちゃんと付き合えるんなら海藤と仲良くしてくれたっていーやとか、俺が好きな海藤だったらもし彼女共有するんでもいーやとか、むしろ自慢できるとか、そのくらい。……でもだんだんさ、一緒にいる分、もっと欲しくなってくるんだよ。だから俺、アヤちゃんの思いも無視できなかった。俺がその気持ち一番わかってたから」

「…………」

「雰囲気に流されて寝たら、もっとダメになった。いつもお前ばっかり見てるアヤちゃんが憎くて、でも可愛くて、なんで俺じゃないんだろう、なんで俺は海藤よりダメなんだろって全部お前と比べるようになって、そのうちお前を憎んじゃいそうになって」

「鈴木……」


海藤は、なんと声を掛けたらいいか分からない。そんな風に誰かを好きになったことなどなかった。


「それなのにお前はアヤちゃんすら鼻にもかけてないなんて、俺バカみたいじゃん。せめてお前もアヤちゃん好きならケンカしたり取り合ったりできたのに」

「鈴木」

「俺もアヤちゃんも、お前から見たら滑稽でしかないんだろうな。全員同じか自分以下で、誰も好きになんねーもんな」

「…………」

「お前ってさ、海藤。強くて優しいけど、時々……すげー残酷だよ」


鈴木はその時になってひたと視線を合わせてきた。

海藤は胸に重く響いたその言葉を受け止め、睨み返す。


「どう思われようが、俺が悪かったとこあんのは事実だし、いいよ。でも一つ言い返すとしたら、お前だって残酷だ。お前自身に対して」

「…………」

「好きなヤツを俺に渡したお前が、自分に対しても、……多分アヤに対しても残酷だったんじゃねーの。そんなんじゃ、アヤが俺んとこに来んのわかるよ。……つーかギブアンドテイクだったんだろ?最初から俺に勝とうと思ってねーじゃん、お前。もし俺がアヤを好きんなってケンカしたとして、ぜってー俺が勝ってたよ」

「海藤には分かんねえよ!誰からも好かれるお前に、俺の立場もアヤちゃんの思いも、絶対に分かんねー!」

「分かんねえし、分かんなくてけっこう。……じゃ、俺行くから。もう、アヤには近づかねえからよ」


もしかしたらこれで鈴木との付き合いも終わるかもしれないと、海藤は頭の片隅で考えながら化学準備室をあとにした。







文化祭からの帰り、海藤は「楠本アヤカの二股から解放されフリーになった」と瞬く間に学校中に噂されることになり、思い悩む暇もなく数人の女子生徒からモーションを掛けられた。

そのすべてにおざなりに対応した結果、何故か隣のクラスの貞操観念の低そうな女子と一緒に帰ることになり、そしてそれ以降、鈴木とアヤとの付き合いは無くなった。

部活はインターハイ直後でも忙しかったし、テストなどと並行して目の前のことをこなしているといつの間にか時間が経って、気づけば交流がなくなっていたのだ。

鈴木とアヤカのことを振り返るたび海藤は、喧嘩両成敗と思うことにしていた。

最初から、彼らは海藤を頼りにしてお互いの関係を保っていたのだからこちらが責められる謂れはそれほどない。

だが、考えてみればアヤと一緒にいるようになったきっかけは、あわよくば彼女への興味が杉田摂子を上回ってくれないだろうかという下心から来ていた。

彼らが勝手なら、こちらも自分本位だったのだから、やはり両成敗でいいじゃないかと思える。


(最低じゃねーか。あいつらも……俺も)


友情という綺麗な言葉の裏には、誰もが自分が良ければそれで良いという現実があった。

海藤は改めて自分の価値観の底を思い知った気がしていた。


(あの一冊でなんか変わったかと思ったけど、そうそう変わるわけねーよな、やっぱ)


もしかしたら、杉田摂子みたいな透明な温度を自分も宿しているのではないだろうか。母に料理を振る舞った時、海藤は少しだけそんな気がしたものだった。それほど、何かに感化されるのは珍しかったからだ。

だがやはり、海藤を惹きつけて離さないあの瞳は彼女だけのものなのだろう。

自分は得体の知れないちっぽけな火しか持ち合わせていない。


「…………」


ふと海藤は、変わりたかったのだろうか、と自問した。

けれど浮かんでくる答えは「そんなはずがない」の一点張りで、次の瞬間にはすっぱりと忘れ去っていた。




決勝で敗退という結果を残したインターハイは過ぎ、今度は冬の国立へ向けて猛練習を始めていて、優勝も目じゃないと部員一丸となって励んでいる。そんな環境もあって、仲のいい友達以外とは交流が減っていった初冬に事は起きた。


「…………」

「…………」


いつも通り隣のクラスの女子…飯塚美朱と帰っていたら、彼女が「なんか買ってくる」と売店へ行った隙に海藤は杉田摂子と鉢合わせていた。

それはおよそ半年以上ぶりの再会だった。

目が合うことはあるものの、最近では見かけることすら滅多に無かった彼女は、黒のロングダッフルコートに身を包み、同じく黒のタイツで素足を覆っていて、薄い青のマフラーで首元を隠し、目の前に突っ立っていた。新鮮な冬の格好をしばし眺めて、海藤はなんと言ったらいいものか考え込んだ。


(そういや近くで見るの逃げられて以来だな。……つーか、)


どこか怯えるような目で、口を開いて驚いている彼女を見ているうち、前回本を貸してくれと言ったら半ば強制的に断られていたことを思い出した。

恐らくではあるが、相手はこちらをよく思っていないに違いない、そう思うと何か声を掛けなければと焦る気持ちが湧いてくる。


このまま、なんのアクションも起こさずに帰してはならない。


ずっと近くにいたアヤとも、ついさっきまで一緒だった女子とも、……いや、周りのどんな人間とも違う雰囲気を持つ杉田摂子は、やはり海藤に執着にも似た思いを抱かせるのだった。


(アヤで誤魔化せるはずねーわけだ。こんな……)


胸の奥でそっと燃える火は、知らせている。

全身を巡る焦燥や衝動、心地の悪い心臓の動悸、すべて彼女が灯したのだと。


「お前さ、」


この前のことだけではない、中学時代のことを含めて海藤を拒否しているのか、確かめようとした。

考えて出た言葉ではなかった、それでも多分、ずっと聞きたくて言い出せなかったことだ。


「まだ……」

「こ、これ!」


もし拒否しているとしたら何故この前、あの本を自分に譲ったのか、その辺も含めて聞こうとした矢先、彼女は海藤の声を遮り、普段からは考えられないほど機敏な動きでカバンに手を突っ込むと、何やら本のようなものを海藤に突き出してきた。


「あ?」


戸惑いながらも受け取って、なんだよこれ、と聞こうとしたら、杉田はすでに背中を向けて走り出していた。


「あっ、おい、杉田!」


反射的に海藤もその背中を追う。

戻ってきた飯塚美朱が「ヒサ?何してんのー?」と甘ったるい声を出して近づいてくるのに、「悪い、ちよっと!」とだけ言って視線を戻した。

そして、渡されたものの意味を考えた。


(ちゃんと覚えてたのか、俺が言ったこと。まさか俺に渡すために、今までずっと持ってたっつーのかよ?)


ただの偶然かもしれないが、杉田が渡してくれたこの本こそが、海藤が口に出さずに終わった質問への答えのような気がしていた。

そして、それが答えなのだとしても、彼女の言葉を聞きたいと思った。

答えを明示されればされるほど、新たな疑問がどんどん湧いてきた。


なんで俺に?

嫌じゃ無かったのか?

何を思ってんだ、一体。


「おい、杉田!」


化粧品のポスターが飾ってある柱の前で立ち止まっている杉田の姿を見かけ、海藤は一気に距離を詰めた。インハイ準優勝校サッカー部員の脚力は伊達じゃない。


「か、海藤……くん?」


追いかけられるとは思わずにいたのか、意外そうな吐息交じりの声。

海藤は呼吸を抑えながら切れ切れに言った。


「何回……逃げてんだよ、くそっ」


焦っている時の常で、つい悪態が出てしまう。

けれど、杉田はもう逃げ出したりはしなかった。

それに安堵して、体を折って息を整えていると、今度は何を言ったらいいものか悩みだす。


(なんで本貸そうと思ったんだとか……ベタだよな、久しぶり、とかはなんかちげぇし、じゃあ、怒ってなかったのか、とか、それもなんかなぁ……つーか、なんで逃げんだよいちいち。そんなに俺が嫌かよ、嫌………………嫌、なのかもな。……………………じゃ、なんなんだよ、この本は!)


ぐるぐる考えても頭が沸騰するだけだと、いい加減顔を上げたら、杉田摂子はこちらを静かに伺っていた。


(あ……)


やっぱりこの瞳だと海藤は思う。

いつも通り、透明な温度を保つ瞳。

海藤の心の奥底までも掬い取ってしまいそうなその瞳は、どこか怯えた色をしていて、戸惑う。

それを知った時、海藤はおい、と声を掛けていた。


「今度は貸してもらうからなっ」


やはり考えていたこととは別の言葉が飛び出したが、それを聞いた杉田摂子が「え……へ?」と間の抜けた声を出したので、まだ整わない息のまま一気に告げた。


「別にカツアゲしてぇわけじゃ……ねーし。だから、今度は……貸してくれよ」

「海藤くん……」

「必ず、杉田に……返すから」


繋がりたいのだ、その時になって海藤ははっきりと分かった。

彼女が起こす火は時々すごくウザったいし心地が悪いけれど、その先にある変化を見たいと思った。


(多分あのときも、そうだったんだ)


自分が母に料理を振る舞ったのは本の影響だと海藤は思っていたが、半分は彼女自身による影響だったのかもしれない。

その自分を、彼女がどう思うのか、知りたいのだ。

そのために、繋がっていきたい。


「うん、分かった」


杉田の答えは簡潔だった。

始めて、怯えも躊躇もない、素直な声を聞いた気がした。







杉田が渡してきたのは、有名なサッカー選手が書いた新書と分類される本だった。

自伝を含め、フィジカルに関するメソッドなどの豊富なサッカー知識と、それに付随する自己啓発論が展開される。お堅いのかと思えば写真がそれなりに使われていたり、重要な文章は太字で見やすく構成されていたり、サッカーに猛進する海藤にはぴったりの本だといえた。

とはいえ、杉田摂子のイメージからはあまりに掛け離れた内容の本だったので、まさか自分のためにわざわざ買ったのかと最初は訝しんだ。

ところが、海藤が駅の構内で読み耽っているのを見かけた友達が「あ、それ今話題になってるやつだよなー!ベストセラーの!俺も読みたかったんだー」と話しかけてきたことで、どうやらそうでもなさそうだということが判明した。

それでも、わざわざサッカー関連の本を海藤に薦めたのは、やはりそれなりに配慮してくれた結果なのだろう。実際その本は「届かなかった手紙」よりも格段に読み易かった。


「サンキュ。これ、かなりタメになったわ」


早速、駅でたまたま見かけた杉田摂子に読み終わった本を返すと、彼女は言葉少なに「どういたしまして」と受け取った。

紺色の飾り気ない学生バックに白い手が潜り、けれど何故かもう一度外へ引き戻される。

不思議に思って見ていると、その手は、本とともに海藤へ差し出されていた。


「あの、これ、もし良かったら……」

「だからいらねーって」


彼女が言わんとすることをすぐに察した海藤は先を制す。

やはり彼女にとって自分はジャイ◯ン的な存在らしいと肩を落とした。


「な、なんで……」

「あんたが言いそうなことなんてすぐ分かるって。欲しかったら自分で買うから、余計な気回すなよ」


すると、何か言いたげに口を開いたが、結局無言でバックに白い手を戻した。

なにか、いまひとつ杉田からは5メートルほど距離を取られているような気がして、海藤は釈然としない。

彼がいま杉田に望んでいるのは、捕食者と被捕食者の関係ではなくもっとフラットなものだ。

ただ普通の16歳の高校生同士として話してみたかった。


「だから……」


そこの所をそれとなく伝えてみようとした矢先、


「ヒサー!何してんの?早く行こーってば」


置いてきたはずの飯塚美朱が苛立ちも露わに呼び立ててきた。

ちょっと待ってろ、とこちらも苛立ち気味に返そうとしたら、杉田は「あの、コレ」と新しい本(今度は少し分厚い)を差し出し、そのまま行ってしまったので、渡したい言葉は言いそびれたままとなった。




「なあ、女ってどういう会話だと盛り上がんの」


杉田摂子から渡された本を読み耽りながら、海藤は隣でケータイをいじっている飯塚に聞いてみた。聞いた相手とタイミングが悪かったのか、「恋バナ?」とこちらを見もせずに返答したので、海藤は溜息を返してその話題を終わらせることにした。

今度杉田から貸してもらったのは「話題沸騰!シリーズ累計50万部突破の大河ファンタジー!」と帯に銘打たれたファンタジー小説だった。そこそこ話題作らしく、目敏い友達からは、「お!読み終わったら貸して」と声をかけられることも多々ある。時にはその本についての魅力をうんざりするほど延々語られることもあって、海藤は興味本位で聞いてみることにした。


「なあ、本好きなやつってさ。本の話してると面白いの」

「まー、自分が好きな本なら……うーん、やっぱ、本の話してるだけでも好きかな、俺は」


田辺は、海藤がつるんでる連中の中では比較的インテリで、本にも詳しかった。だが田辺は男だ、それが女にも通用するかの判断材料にするには頼りない。


「もしかしてさ、その本貸してくれたのって、女子?」

「あ?」


図星を刺され、思わずガラが悪くなる。


「い、いや、お前最近よく本読んでるだろ?今まで少しも興味なかったのに……。だから、も、もしかして好きな人の影響とか……かな~って……」


友達であれ海藤の凄みは相当迫力があるのか、田辺はずり落ちそうになる眼鏡を親指でくいっと引き上げることで恐怖を紛らわせた。海藤は少し考えて、慎重に言葉を選んで言った。


「別に。けど……貸してもらったからには、なんか言っときたいと思って」

「ま、まあ、女子でも男子でもさ、相当本読み込んでる子ならちょっと話題にするだけでも盛り上がると思うよ。お前だってサッカー好きな奴と話すと面白いだろ?それと同じだよ」

「恋バナとかじゃなくても?」

「だってお前、恋バナなんて楽しいのかよ」


全然、と言いかけて、腑に落ちた。

クエスチョンマークを頭の上に浮かばせている田辺を見ながら、そういうことかとひとりごちる。

少しも色眼鏡がない奴が杉田摂子を見れば、きっとそう思うのだろう。

どれだけ「種類が違う」としても、同じ人間同士、分かり合えないハズがないのだと。


(俺、構えてんのか)


杉田摂子と対等に話してみたいと思う自分の方こそ、もしかしたら距離を置いていたのかもしれない。少なくとも、何を話しても会話が成立しそうにない、と決めつけていたくらいには。


「それにしても、その本あと4巻は続いてんぜ?海藤、読んでる時間とかあんの?」


田辺の要らぬお世話に内心「ゲ、あいつそんなもん俺によこしたのかよ」とうんざりしたが、とりあえず「こんなんチョロいわ」と強がりを言って周りを感心させておくことにした。


だが結局その心配は杞憂で終わった。

読み始めると、550Pという分厚さが気にならなくなるほど面白かったからだ。どうやら一番最初に読んだ堅苦しいドキュメンタリー本で相当鍛えられたらしく、文章ビッシリのページを読んでもその苦行を上回るドラマ性がページをめくる手を動かした。挿絵が多いのもそれへ一役買っていた。

そうして読み終わってみれば、早く次巻が読みたいと、杉田摂子との逢瀬を待ち焦がれるほどにまでなっていた。こんなはずでは、とハタと我に返っても、やはり人気ゲームばりに練られた世界観の上質なファンタジーは海藤をしばらく虜にし、ようやく駅で杉田摂子を見かけた時には逸る気持ちを抑えることが困難なほどだった。

ホームの列から一人離れて文庫本を手にしていた杉田摂子へと足を速める。


「杉田!」

「海藤くん……」


珍しく快活な様子で声をかけてきた海藤を訝しんで、杉田が引き気味に答えた。

そんな相手の様子を見て冷静さを幾分取り戻した海藤は、いそいそとリュックから例の本を取り出す。

すると何かを察して、杉田もごそごそと自分の鞄を探り始めた。


「「これ……」」


本と声を出すタイミングが完全にかぶった。

2人は神妙な顔つきをして本を差し出し、しばらく見つめ合ったが、ややしてから杉田がそっぽを向いた。

その頬と耳は、りんごみたいに赤く染まっている。

それに気を良くした海藤は、どうにかしてこの好機を会話へ繋げようと頭をひねった。今までにない穏やかな流れに、これなら会話も通じるのでは、とさっそく田辺を信じて読んだ本の感想を述べようとした。


「杉田、これ……」


だがまたしても絶妙なタイミングで、置いてきたはずの飯塚がどこからともなく現れ、海藤を呼びつけた。


「ヒサー!?……あー!もう、こんなとこにいた」


狙っているとしか思えなかった。今度こそ飯塚に怒鳴りつけてやらねば気が済まないと意気込んだ矢先に、「それじゃ、これ持ってくね」と、杉田は本を強引に押し付けて、そそくさと行ってしまった。







杉田が貸してくれた本はファンタジー小説の続刊ではなかった。

筆者が北極の原住民と生活して様子を伝えるという、写真付きのルポドキュメンタリー本だ。

最初ははっきりと落胆の色を見せて適当に中身をパラ読みしていたが、落ち込んでいる感情を脇に置けば中々面白そうだ。

冒険小説的な側面もある内容に興味を惹かれ、気づけば授業中でも夢中で読み耽るようになっていた。

そうして本の魅力が分かっていくにつれ、海藤は、まるで本を通じて杉田摂子自身を知っていくような感覚に囚われつつあった。

この本もあの本も、彼女は目を通していて、自分と似たような感想を抱いたのかと思うと、またゾクゾクと鳩尾を駆けるあの感覚が湧き立ち、知らない火を灯す。


『ま、まあ、女子でも男子でもさ、相当本読み込んでる子ならちょっと話題にするだけでも盛り上がると思うよ。お前だってサッカー好きな奴と話すと面白いだろ?それと同じだよ』


田辺の拙いアドバイスも、ここに来ては知将の格言のように響いてくるものだから、ますます本をめくる手に熱がこもる。

本の話題なんて正直からきしだ。だが杉田が貸してくれた3冊についてなら自信を持って話題にできることだろう。

海藤はいつしか、杉田と本について語り合うこと、引いては、彼女と共通の話題で盛り上がることを想像し、その日を待ち望むようにまでなっていた。

そして海藤久成は、自分が望むことに常に正直な人間でもあったので、本を読み終えた次の日には早速行動に移していた。




(駅でなくてもいーんだよな、別に)


詰まる所、いつも杉田と話そうとして邪魔が入るのは、「偶然」彼女を見つけて「無理矢理」時間を作って話しているからで、最初から「必然的に」彼女と会い「余裕を持って」話す機会を作れば良いだけのことだった。


「海藤、くん?な、なんで、こんなとこに……」


暗い夜道でも分かりやすいほどに驚きの表情を見せた杉田摂子を前に、海藤は然もありなんと、自分で自分の行動力に驚いていた。

海藤は杉田が駅で降りてから必ず通るであろう道程に当たりをつけ、そこで待ち伏せしていたのだ。一歩間違えればストーカーとも取られかねない一連の行動にやや引いてもいたが、彼が今抱える衝動の前には何のセーブにもならない。

大きな河川の土手沿いの道は寒風で芯から冷えたが、引き返そうとは一度も思わなかった。


「待ってた」

「え?」

「これ。返そうと思って」


明らかに不審がる杉田摂子を安心させるため、取り敢えず海藤は目的の物を渡した。

受け取った杉田はようやくここで少し表情を和らげる。


「わ…わざわざ?ここで?」

「あんたの帰る時間よくわかんねーし、俺そろそろ合宿入るから、いつ返せっかわかんねーし」

「そうなんだ……なんか、ごめんね」


言い訳にしては大分おざなりだったが、あまりに驚いて瑣末なことを気にしていられないのか、杉田は割とすんなり海藤の用意した理由を信じた。

だが、ここからが本当の正念場だ。


「あんた……さ。こんな時間に、こんなひと気もねえ道帰ってんの?」


見れば、真冬という時期もあって辺りはすっかり暗闇の帳をおろしている。時計を確かめれば8時を回っていて、これから提案する「送っていく」という口実を切り出すには、シチュエーションとして打ってつけだった。


「あ、今日はたまたま……いつもはもっと早い電車に乗るし、友達もいるし」

「ふうん」


視線を外し気味に、杉田摂子はボソボソと言い訳のように答えた。

別に責めているわけでもないのに苛めているような気がしてくるのはどういうことだろう。いつも思うことであるが、こんな風だから「会話が成立しないのでは」と構えてしまうのは正直なところであった。話しやすい奴は自分の発言に後先考えたり責任を持とうとはしないものだ。真面目な奴は損をしていると、つくづく海藤は思う。


「あ…あの、今日はほんとありがと。まさか、海藤くんがこんなとこまで返しに来てくれるなんて思わなくって……なんかお礼出来ればいいんだけど、今日はもう遅いし、次に会う時までに考えておくね、それじゃ!」


どうでもいいことを考えているうちに、杉田はまたも海藤の前から逃げ出そうとしていた。

何と切り出すか言いあぐねているうち先手を打たれ、海藤は慌てて杉田を追い越して顔も見ずに言っていた。


「途中まで送る。どーせだし」

「え、でも、あの」

「道分かんねーんだから、早く来いよ」


結果的にその強引な申し出は突破口となって功を奏した。

それほど渋る様子もなく、杉田はいつもより幾分気安げな雰囲気でもって彼の後をついてきた。

考えてみれば、考えるまでもなく、海藤は何かを考えて行動を起こすことなど少ないのだからこれでいいのかと、結果オーライで自分の功績に満足した。




思い起こせば杉田摂子のような女子と帰り道を歩くのは初めてと言えるのではなかろーか。

無言で道程を消化する耐え難い時間を忍びながら、海藤は俯いたままの小柄な姿をチラチラと見遣った。身長差のせいで表情がわかりにくいが、大人しく隣に並んで歩を揃えているあたり大袈裟に思われてはいないだろうと楽観する。自分でも説明のつかない衝動なのだから突っ込まれても開き直るしかないのだが、相手は特に何とも思っていないように見えた。

それはそれで何故か苛立ったが、これから会話を広げるに当たっては好都合だ。


「その本、良かったよ」


とりあえず何の前置きもなしに、日常会話の延長線のような気楽さを含ませて話しかけた。

相手は一瞬遅れで反応し、顔を上げずに答えた。


「……あ、うん。捕った肉をそのまま食べちゃうなんて、文化の違いだよね。あ、さばいたのは生で食べたりはするけど……」


今しがた返した本の内容に触れ、杉田が珍しく饒舌に話したので海藤は密かに目を見張った。

田辺め、有力情報にも程があんだろ。内心快哉を叫んでいたし、実際叫び出したい気分だった。


「本なんて、字ばっかでなにが面白いのか全然分かんねーとか思ってたけど、あんたの貸してくれたヤツは、ちゃんと読めたし、面白かった」

「そっか。……うん。じゃあ、良かった」


見下ろして確認できるのは、真っ直ぐな黒髪の中にちょこんと覗いているつむじだけだ。

けれど、少し嬉しがっているようなのは声音だけでも手に取るように分かった。

それを知ってまた、海藤の身体の芯で、ざわりと蠢めく感覚が這い回る。気持ち悪いようで快感にも似ているそれは、高まる感情へすぐに昇華していく。

誰にも感じたことがない、ただ杉田摂子だけに反応する、彼の知らない火。


「この前の、『風待ちの国』も密かに大プッシュだったんだ。主人公が二人いて、正反対の性格だから面白くて」

「あー、あれは超ハマった。やっぱファンタジーはいいな。俺、RPG好きだから読みやすかった」

「ほんと?どっちの主人公が好きだった?」

「えーと、なんだっけ、大剣持ってて、酒癖悪い方のヤツ」

「ああ、ザッツ?元盗賊の剣士だよね」

「そう、そいつ。最初に出てくるいかにもな正統派王子様もいいけど、やっぱあーいうアウトローなのに男は惚れるわ」

「わかる、それ。正統派だけじゃ、読んでて疲れちゃうもんね」

「つーか、立ち位置が卑怯だって。敵と見せかけといて助けるとか、いいとこ取りだろ」


笑い声を含ませながら彼女は海藤の言葉に答え、反応し、相槌を打つ。

普段涼しげな声は、感情を宿すと途端に甘く耳朶に響いた。


(なんだ、これ)


ただそれだけのやり取りが海藤の心を優しく撫でた。

そしてただそれだけのことが、ひどく安心する感覚を与え、同時に彼の知らない火に薪を焚べるようにどんどんと燃え上がらせてゆく。

すとんと落ちる黒髪を揺らし、時々肩を震わせて笑いを堪えている彼女は今、一体どんな顔をしているのか。

唐突に気になっていた。

白く覗く耳は冷たさに負けて赤くなっていて、温めてやりたいとぼんやり思い至るが、すぐに掻き消す。

今、自分は何を考えた?

よく分からない衝動、何かに昇華出来そうで出来ずに燻る乱暴な気持ちが芽生え、海藤は訳がわからなかった。

いつかも、こんな衝動を覚えた。

あれは、杉田摂子に本を貸せと言って断られ、彼女の泣き顔を見た時だった。あの時も、こんな風に滅茶苦茶にしてやりたい凶暴な感覚に陥った。彼の中でざわめく「ソレ」が、正体不明の「火」だと判明した日でもある。


「…………」


いつの間にか止んでいた会話に気づいて隣を見下ろすと、杉田摂子は星空を見上げているようだった。

その目は彼が好む、いつも通り透明な温度を有する瞳。

今はその中に、煌めく夜空の光を閉じ込めている。

とても綺麗だった。


ーーー試してみようか。


ふと、海藤の中にそんな邪心が芽生えたのは、その瞳を見たせいかもしれなかった。

衝動に身を任せればどうなるのか、試してみたいと彼は思った。

相手が、杉田摂子だからということもあるのだろう。まるで普段関わり合いにならないような人種だから、友達と違って大胆になれる気がしていた。

そして、いい加減うんざりしてもいたのだ。


この火は、いつも俺を堪らない心地にさせるこれは一体なんだ。

いつまで振り回されたらいい?

こいつの何がそうさせるのか。


ーーー試してみたらいい。


その結果がどうであろうと、このまま、このわけの分からない状態を放置したまま彼女にこれ以上接触できないという予感がした。

海藤は自分でも自覚出来ないまま、割と追い詰められていた。


「嘘だよ」


星空を見上げていた杉田の視線がこちらへ移ったとき、海藤は彼が好む瞳を思う存分眺めながら言っていた。

それはやはり無意識の言葉だった。


「え?な、なに、急に……」


当然の如く動揺する杉田に構わず、海藤は続けた。


「俺はほんとは本なんか、どうだっていい」

「え?」


キラキラ輝いていた杉田の瞳は瞬時に曇って、たちまち不安の色で塗り替えられる。

それへ少し溜飲を下げながら、海藤は容赦なくその不安を煽っていった。


「杉田が読んでるから、読んだ。その本も」

「ど、どういう、こと?」


さっきまでの軽やかな様子は鳴りを潜め、涼しげな声は無惨に震えていた。

海藤の中のぞくぞくする感覚は止まらない。

宥めるように首筋を撫でて、だがもう、その先に望んだことを躊躇いはしなかった。


「…………」


首にかけていた手を、怯える杉田の方へ伸ばしながら、何故か海藤はこんな時になって中学時代の思い出を取り出していた。


『あ、これ?みだれ髪。与謝野晶子の』

『海藤くんだけはあり得ないから、安心して』


受容の後の否定は、苦い思い出だ。

けれどこんな場面になって取り出したのは、あの時もこんな衝動を抱えていたからかもしれない。


解り合いたいと思いながら、それを滅茶苦茶にしたい。

笑顔が見てみたいと思いながら、ひどく泣かせてみたい。


そんな相反する気持ちを、あのときから彼女にぶつけたかったというのだろうか。

彼の知らない火は、実はよく知っているものだったというのか。


(なら俺がやってたことって茶番だったのか?)


最初からこうすれば良かったのか。

杉田摂子はいつの間にかその瞳をきつく閉じて、海藤が引き起こした事態から逃避しようとしている。

そんなことはさせない。

ようやくここまで近づいたのだ、手の届く範囲、互いの温度が感じられる距離、華奢で柔らかそうな肢体を、思う存分確かめることが叶う場面。

伸ばした手が、水色のマフラーから僅かに覗く首筋にたどり着く。冷え切った海藤の手の平に体を震わせた、儚げな仕種に突き動かされたように、海藤はその顔を上向かせていた。

その不安げな表情を見たとき、過去、ブスだ何だと揶揄っていた自分を即座に翻していた。


(馬鹿かよ、俺)


或いはガキだった、天然もいいとこだ。

「知らない火」と呼んできたもの、不可解だったその正体は。


「!?」


杉田がびくりと反応したのを思いっきり無視して、海藤は続けた。

ただ唇を合わせるだけのキスを。


(ただ、欲情してたんじゃねーか)


その瞬間、海藤の中で燃え上がった炎は、すでに知らない火ではなくなっていた。はっきりと形を変え、淫靡な熱として全身に広がった。

分かりやす過ぎて恥ずかしいほどだった。

だがその羞恥を押さえ込んでしまうほど、杉田摂子の甘い唇は少し湿って柔らかで、離れがたかった。食いたいとすら思ったし、そのまま舌を這わせなかった自分に賞賛を送りたいくらい誘惑は甘美だ。

海藤は自制心を試された。

スポーツで発散されている筈だった性欲が今この時になって出口を求め、一挙に押し寄せてくるかのようだった。

そのめくるめく官能は当然のようにその先の行為へと身体を促し、海藤はやっとの事で自制を取り戻すと、弾かれたように柔い唇から離れていった。


「あっ……」


驚きが口から漏れたのは、見下ろした杉田摂子が目を見開いて涙を流し、呆然としていたからだ。

咄嗟に言い訳めいた言葉が口をつく。


「いや、今のはなんつーか……わりぃ、じゃなくて、お前のこと、その、……」


さすがに馬鹿正直に「あんたとキスがしたくなった」とは言えないので、珍しくしどろもどろになって言い淀んでいると、彼女は苦しそうに胸を押さえて視線を逸らしている。


「杉田……?」


そうして、彼女は一度も海藤の方を見ないままそこから駆け出していった。


「あ、おい!杉田!待てよ」


自分も駆け出そうとした海藤は、けれど彼女を追いかけて一体何を言えばいいのかまったく思いつかず、二の足を踏んだまま「杉田!」とだけ声を掛ける。

もちろん彼女は振り返らなかった。

火照った体は瞬時に冷え切って、冬の澄んだ星空が皮肉のように美しく光って見えた。

その美しい光を閉じ込めて出来たような涙を杉田摂子は流していて、それを手に入れたいと思った自分はもうどうしようもないのかもしれないと、海藤はその場に立ち尽くす。

途方に暮れていたが後悔は無かった。


「杉田……摂子」


確かめるように呟いた名前を、付随する火の正体を、もう海藤は否定しようとは思わなかった。

何度も言うが、彼は物事を単純に二極化して考えることを好んでいて、その上すぐ行動に移すのを良しとする。

幼い頃からその姿勢は変わらないし変えようとした試しもない。

そうすると次に取る行動はもう決まっているも同然だ。


望んだものは手に入れる。

そして誰にも触らせないし、自分だけのものにする。


差し当たってあの特徴的な瞳は、目下手に入れたいものの最優先だった。

自分が泣かせるならばいくらでも泣けばいいと非情で自分勝手な感想を抱きながら、海藤はその場を後にした。

ぶすぶすと奥底で燻る火は首を擡げる機会を伺い、地中深くへ潜り込んで行った。









続く





すみませんがまだまだ続きます。




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