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営業一位のライバル同期の本音が聞こえて困っています  作者: 春野スミレ


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NO.4 知りたいのに知りたくない

 月曜の朝、澪はいつもより少しだけ早く会社に着いた。


 週明けのオフィスはまだ静かで、コピー機の起動音と、誰かが淹れたコーヒーの匂いだけが薄く漂っている。自席にバッグを置き、ノートパソコンを立ち上げながら、澪は小さく息を吐いた。


 結局、昨日もあまり落ち着かなかった。

 報告書をまとめていればそのうち仕事に集中できると思ったのに、気づけば出張のことばかり思い出していた。


 こんなの、どう考えてもよくない。

 澪は無理やり意識を切り替えるように、メールを開いた。


 仕事しないと。

 そう思った矢先。


「おはよう、朝比奈」


 聞き慣れた声が頭上から落ちてきた瞬間、澪の指先がぴたりと止まった。

 神谷だった。

 いつものスーツ姿。いつもの落ち着いた顔。

 何も変わらない、はずなのに、澪の方だけが妙に構えてしまう。


「……おはよう」


 返事がほんの少し遅れた。

 神谷はそれに気づいたのか、デスク脇に立ったまま軽く首を傾げる。


「何、眠い?」


「ちょっとだけ」


「ふーん」

「午後、よろしくな」


 それだけ言って、神谷は自分の席へ向かった。

 たったそれだけのやり取りなのに、澪の心臓は妙に落ち着かない。


 今までなら、軽口のひとつくらい投げ返せたはずなのに、今日はそれすら少し難しい。

 神谷はそんな澪の内心など知らない顔で、パソコンを立ち上げ、メールを確認し始めている。


 その横顔を見た瞬間、澪は慌てて視線をモニターへ戻した。

 ほんとに、何を意識してるんだろう。

 自分で自分に呆れながら、澪は開いたままのメールに目を落とす。


 けれど文字は頭に入ってこなかった。

 少ししてから、神谷がチャットを飛ばしてくる。


『午後の会議室、押さえといた』


 ただの業務連絡。

 なのに、その短い一文にまで少しだけ気持ちが揺れる自分がいて、澪は眉を寄せた。


『了解』


 それだけ返して、画面を閉じる。

 神谷は今日も、たぶんいつも通りだ。

 変なのは、自分だけ。

 その事実が、朝からじわじわと澪を落ち着かなくさせていた。


 午前中は、思っていた以上にあっという間に過ぎた。

 メールを返し、出張の経費を申請し、たまっていた細かな確認を片づけていく。仕事をしているあいだは、まだいい。手を動かしている限り、余計なことを考えずに済む。

 それでも、ふとした瞬間に視界の端へ神谷が入るだけで、胸の奥がまた妙にざわついた。


 昼休みが近づいて、オフィスの空気が少しだけ緩み始めた頃だった。


「神谷さん、ちょっといいですか?」


 明るい声に、澪は手元の書類から顔を上げた。

 声をかけたのは、隣の課の女性社員だった。たしか総務寄りの仕事をしている人で、神谷と何度かやり取りしているのを見たことがある。年齢は澪とそう変わらないはずだ。柔らかい色のブラウスに、控えめに巻いた髪。いかにも感じのいい人だった。


 神谷はパソコンから目を上げる。


「どうしました?」


「先週お願いしてた件なんですけど、ちょっと見てもらえます?」


「今ですか?」


「急ぎではないんですけど、お昼前に確認できたら助かるなって」


 神谷は「じゃあ少しだけ」と立ち上がった。

 そのまま女性社員の席まで歩いていって、隣に立つ。画面を覗き込みながら何かを説明していて、相手は何度も頷いていた。


 いつもの神谷だ。

 やわらかくて、感じがよくて、頼りになる。

 それなのに、今日に限ってその光景が妙に気になった。


 澪は資料をめくるふりをしながら、ついそちらへ意識を向けてしまう。


「ここ、私の処理の仕方がまずかったですよね」


「いや、そこまでは言わないですけど、この順番だとたぶん手戻り増えます」


「やっぱりそうですよね。神谷さんに見てもらってよかった」


 女性社員がふっと笑う。

 神谷も穏やかに笑い返す。

 それだけのことなのに、妙に胸がざわついた。


 何これ、と澪は自分の中で眉をひそめる。

 神谷が女性社員に頼られているなんて、今に始まったことじゃない。誰にでも丁寧で、仕事もできて、距離の取り方もうまい。

 そんな事、前から知っているのに。


 女性社員は少し声を潜めるようにして言った。


「……あの、神谷さん」


「はい?」


「今度、お礼させてくださいよ」


「お礼?」


「飲みとか。もしご迷惑じゃなかったら」


 その言葉が、思ったよりはっきり耳に入った。

 澪の指先が止まる。


 別に、珍しいことじゃない。

 神谷が誘われるのだって今さらだ。むしろ今まで何度もあったはずだ。

 それなのに。


 ほんの少し指先が触れれば、わかるかもしれない。

 神谷があの子をどう思っているのか。


 そこまで考えて、澪はぎゅっと唇を閉じた。

 知りたい。

 でも、知りたくない。


 もし神谷があの子に好意を持っていたら。


 そう思った瞬間、椅子から立ち上がることすらできなくなった。

 澪は視線を落とし、開いたままの書類へ無理やり目を戻す。

 文字はほとんど頭に入ってこなかった。


 神谷が何か答える。

 けれどその声は周囲のざわめきに紛れて、よく聞こえない。


 しばらくして、神谷が自席へ戻ってくる気配がした。

 澪は何もなかったふりで資料をめくる。

 心臓だけが、少し嫌になるくらい早かった。


「朝比奈」


 不意に声をかけられて、澪は顔を上げる。


「……何」


「昼食べたら会議室Cな」


「わかった」


「遅れんなよ」


「……うん」


 いつもなら反論が来るところを素直に頷かれ、神谷は不思議そうな顔をしていた。

 しばらく立ち止まっていたが、澪の視線がパソコンから離れないのを見ると、何も言わず自分の席へ戻っていった。


 澪は視線を落としたまま、そっと息を吐く。

 あんな御守もらわなければ、こんな気持ちになることなんてなかった。

 自分の気持ちに気づくことなんて……。


***


 昼休みを挟んでも、澪の気持ちは少しも落ち着かなかった。

 手元のサンドイッチを食べながら、何度も「仕事に集中しよう」と言い聞かせた。


 大阪の案件は大事だし、午後の会議もちゃんと進めなければならない。そんなことはわかっている。

 わかっているのに、神谷が女性社員に向けていた穏やかな笑顔まで思い出してしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。


 時計が午後一時を指す少し前、澪はノートパソコンと資料を持って会議室Cへ向かった。

 中に入ると、神谷はもう先に来ていた。

 テーブルの上に資料を広げ、ノートパソコンを立ち上げている。


「おつかれ」


 顔を上げた神谷が、いつも通りの調子で言う。


「……おつかれ」


 澪は向かいの席に座りながら、視線をなるべく合わせないようにした。

 会議室は静かで、空調の音だけが小さく響いている。二人きりになると、午前中にごまかしていた落ち着かなさがまた表に出てきそうだった。


 神谷はそんなことには気づかないふうに、手元の資料を澪の方へ滑らせる。


「これ、叩き台。先方の追加質問を前提に、導入初期のサポート体制を少し細かめに入れた」


「……ありがとう」


 資料を開く。

 さすがに仕事は早い。

 週末の会食で出た懸念点も、役員の反応もきれいに整理されていて、そこに追加確認まで自然に織り込まれていた。


「ここ、問い合わせ件数の想定、もう少し保守的でもいいかも」


 資料を見ながら澪が言うと、神谷はすぐに頷いた。


「俺も思った。小西さん、あの感じだと導入初期は細かく見てくる」


「うん。たぶん数字が強すぎると逆に不安にさせる」


「じゃあ朝比奈の方で、現場の感覚に合わせて少し調整できる?」


「まかせて」


「助かる」


 さっきまでぎこちなかったのに、仕事はいつも通りスムーズに進むことが、自分でもなんだか不思議だった。

 澪はキーボードを打ちながら、そんな事を思っていた。


「朝比奈」


 ふいに名前を呼ばれて、澪の指が止まる。


「何」


「そこ、誤字」


 神谷がパソコンの画面を覗き込み指さした。

 すぐ側に神谷の顔がある。

 澪の心臓が跳ねた。


「……ごめん」


 そう言って少しだけ体勢をずらす。

 神谷は少しだけ首をかしげた。


「何か今日、変じゃない?」


 不意にそう言われて、澪は思わず顔を上げた。


「……何が」


「いや、なんかいつもより素直っていうか」


 神谷はペンを回しながら、澪を見る。


「出張のあとだから疲れてるのかと思ったけど、それだけじゃない感じする」


「気のせいじゃない?」


「そうかな」


 神谷はそれ以上追及せず、会議は滞りなく進んだ。

 資料を修正し、部長に出す報告の順番を整え、今後の追加対応を洗い出す。

 会議が終わると、神谷が資料をまとめる。


「じゃあ、これ部長に持ってく?」


「そうだね」


 澪はノートパソコンを閉じながら、そっと息を吐いた。

 神谷と二人でも、いつも通り仕事はできる。

 それなのに、それ以外のことだけが、少しずつ噛み合わなくなっていた。


 二人で資料を持って会議室を出る。

 午後のフロアは、昼前とはまた違う慌ただしさがあった。

 その中を神谷と並んで歩いているだけなのに、澪は妙に落ち着かない。

 部長のデスクへ向かう途中、神谷が小さく言う。


「さっきの修正、いい感じだった」


「そう?」


「うん。現場の負荷感、あのくらいの言い方のほうが刺さる」


「ならよかった」


 仕事の話なら、まだ平気だ。

 澪はそう思いながら、部長席の前で足を止めた。


「部長、少しよろしいですか」


 神谷が声をかけると、部長はモニターから顔を上げた。


「お、進んだか」


 二人は並んで簡潔に報告する。

 先方の反応、追加で聞かれていた点、それに対する整理案。神谷が全体をまとめ、澪が現場側の温度感を補足する。短いやり取りだったが、部長はすぐに内容を把握したらしく、資料にざっと目を通して頷いた。


「いいな。ここまで詰められてるなら十分戦える」


「ありがとうございます」


「今日中にこの形で一回共有回すぞ。朝比奈、現場側の文言だけもう少し柔らかくできるか?」


「はい」


「神谷は数字の裏取り、もう一段だけ頼む」


「了解です」


 必要な確認を終えると、部長は満足そうに資料を返してきた。


「お前ら、やっぱ組ませると早いな」


 その何気ないひと言に、澪の胸が小さくざわつく。

 神谷は「どうも」と軽く笑って受け流し、澪も曖昧に会釈した。

 仕事として言われているだけなのに、喜んでしまった自分が嫌だった。


 部長席を離れて、二人で廊下へ出る。

 少し人気の少ない角を曲がったところで、神谷が手元の資料を整えながら言った。


「上手く行きそうでよかったな」


「そうだね、最後まで気は抜けないけど」


「だな」


 彼の声が、やけに優しく聞こえた。

 澪は照れくささをごまかすように、資料を抱え直した。

 その動きに、神谷がふと視線を向ける。


「朝比奈」


「ん?」


 神谷が自然に手を伸ばした。


「そこ、何かついてる」


 その動きはあまりにも何気なくて、きっといつもの澪なら気にも留めなかった。

 けれど今日は違った。

 触れられたら、また聞こえるかもしれない。


 知りたくないことまで。


 そう思った瞬間、身体が勝手に反応した。


「っ……」


 澪はびくりと肩を引き、神谷の手を払ってしまった。

 

 その一瞬で空気が変わるのがわかった。

 神谷の手が宙で止まる。

 澪自身も、自分が何をしたのか理解して、息を止めた。


「……ごめん」


 先に口を開いたのは、神谷の方だった。

 その声が静かすぎて、澪は余計に顔を上げられない。


「いや、違……」


 違う、と言いたいのに、その先が続かない。

 なんて説明すればいい?

 あなたの本心が知りたくなくて避けちゃいました、なんて言えるわけがなかった。


 神谷は一拍だけ黙ってから、困ったように小さく笑った。


「俺、出張で少しは距離縮まったと思ってたんだけど」


 その声音は、どうしていいかわからないまま口にしたみたいな、寂しさがあった。


 澪はようやく顔を上げる。

 神谷はいつも通りの笑顔にもどっていた。

 でも、ほんの少しだけ、悲しそうに見える気がした。


「神谷、私は……」


 何か言わなければと思うのに、言葉がまとまらない。

 神谷はそんな澪を見て、かすかに首を振った。


「いいよ」

「仕事戻ろう」


 それだけ言って、神谷は手を引いた。

 そのまま先に歩き出す背中を、澪は追えなかった。


 ただ、彼を傷つけてしまった罪悪感だけが残った。


***


 火曜日も、水曜日も、二人の空気はどこかぎこちないままだった。


 必要な会話はする。

 資料の修正も確認も、滞りなく。


 けれど、そのやり取りは最低限だった。

 前みたいに神谷が軽く冗談を挟んでくることは減って、澪もまた、それに言い返す余裕がなかった。


 神谷は普段通りに見えた。

 周りにはきっと、何も変わっていないように映っていたと思う。


 でも澪にはわかった。

 少しだけ、距離を取られている。

 たぶん、神谷なりの気遣いなのだろう。


 避けたのは、自分だ。

 それなのに、神谷が本当に一歩引くと、どうしようもなくさみしい。

 そんなふうに思う資格なんてないのに。


 水曜日の昼過ぎ、部長の内線が鳴ったのは、澪が追加資料の文言を見直している時だった。


 電話を取った部長の表情が、途中でふっと明るく変わる。


「はい、はい。ありがとうございます。では、こちらもすぐに社内で共有します」


 受話器を置いた瞬間、部長が大きく息を吐いた。


「……よし」


 そのひと言に、何人かが反応して顔を上げる。

 部長はすぐにこちらを振り返った。


「大阪、正式に決まったぞ」


 一拍遅れて、フロアの空気がぱっと変わった。


「え、本当ですか?」

「やった!」

「すごい、あの案件取れたんですか?」


 後輩たちの声が一気に重なって、あちこちから拍手まで起こる。

 澪は一瞬だけ現実感がなくて、ただ部長の顔を見つめていた。


 決まった。

 ちゃんと、結果になった。

 あれだけ時間をかけて、ヒアリングをして、組み立てて、詰めてきたものが、ようやく形になったのだと思うと、じわじわと実感が追いついてくる。


「朝比奈、神谷」


 部長に呼ばれて、二人はほぼ同時に立ち上がった。


「今回のはでかいぞ。よくやった」


「ありがとうございます」


 神谷が先に頭を下げる。

 澪も少し遅れて「ありがとうございます」と続けた。

 周りからも口々に「おめでとうございます」と言われる。


 それに笑って応じながら、澪は無意識に神谷の方を見た。

 神谷も、こちらを見ていた。

 一瞬だけ目が合う。


「……決まったな」


 神谷が微笑んで言う。

 その声は静かで、落ち着いていた。


「うん。よかった」


 澪も、それだけ返した。

 本当ならもっと嬉しいはずなのに。

 もっと自然に笑えたはずなのに。


 たった一往復の会話で終わってしまったことが、今は少しだけ苦しかった。

 神谷はすぐに部長の方へ向き直り、今後の進め方の確認に入る。


「契約の細かいところ、いつ頃詰めます?」


「営業側の初動だけ先に整理しとけ。明日先方ともう一回擦り合わせる」


「了解です」


 案件はうまくいった。

 それなのに、二人の関係だけが後退したように思えた。


***


 その日の夕方、部署の何人かで軽く飲みに行くことになった。

 部長が「今日は祝勝会だ」と上機嫌に言い出して、そのまま流れで十数人が集まる。

 店に入った時点ですでに空気は明るかった。


「いやー、ほんとよかったですよね」

「あの案件、難しいって言われてましたもんね」

「さすがに今回は痺れました」


 生ビールのグラスが並んで、乾杯の声が上がる。

 部長も珍しく最初から機嫌がいい。


「今回は神谷と朝比奈にかなり助けられたな」

「いやほんと、この二人組ませとけば安心感あるもんな」

「ワンツーコンビですからね」


 その言葉に、周りがまた笑った。

 澪も笑顔を作ってグラスを持ち上げる。そうしながら、胸の奥だけが少し鈍く痛んだ。

 今の二人に、その言葉は少しだけ眩しすぎる。


 神谷は向かいの席で、いつも通り穏やかに笑っていた。

 部長や部署の皆と楽しそうに談笑している。何も変わっていない。


 でも、澪にだけは違った。

 自分には、あまり話しかけてこない。

 いつもだったら絡んでくるのに。

 

 自分から避けたくせに。

 拒んだのは自分なのに。

 こうして少し距離を置かれたことを寂しいと思っている。


 卑怯だな、と澪は思う。

 テーブルの向こうで、神谷が後輩に何かを聞かれている。


「神谷さん、会食の時ってやっぱ酒強くないとダメですか?」


「別に強さだけじゃないよ。飲まなくても回せる人は回せるし」


「でも神谷さん強いですよね、朝比奈さんも」


 突然名前を呼ばれてはっとする。

 少しだけ神谷と視線が合う。すぐに逸らしたが、先日の会食が脳裏に浮かぶ。


――これ以上、飲ませたくない。


 あの声まで思い出してしまって、澪は慌ててグラスに口をつけてから答える。アルコールの味はするのに、さっきから何を飲んでもあまり味がしなかった。


「いやいや!私は普通だよ」

「今回は神谷に助けられちゃったしね」


「え!そうなんですか!神谷さんそういうところもかっこいいなぁ」


 大阪の話をすると、後輩はさらに神谷に尊敬の眼差しを向け話しだした。

 ゆっくりとその会話からフェードアウトすると、不意に隣から声が落ちる。


「朝比奈さん、今日は静かですね」


 隣に座った後輩が、不思議そうにこちらを見ていた。


「そう?」


「いつもなら、もうちょっと部長にツッコんでる気がします」  


「成功を噛み締めてるの」


「それはそうですね!ホントお疲れ様でした」


 後輩が笑いながらグラスを持ち上げる。

 澪はそのグラスに自分のグラスを合わせる。


「ありがとう」


 小さくガラスが当たる音がする。

 澪はそのままぬるくなったビールを飲み干した。


 たしかに今日はいつもより口数が少ない自覚があった。

 下手に神谷の方を見ないようにしているし、声をかけることもない。

 そんな自分が、側から見ても不自然ではないかと気になって、余計に動けなくなった。


 今日は飲んで忘れよう。


 そう思って店員を探そうと周囲を見渡す。

 その時向かいで神谷の声がした。


「すみませーん」


 軽く手を挙げて店の人を呼ぶ。そしてこちらを見た。


「朝比奈何飲む?同じの?」


 こんな時でも自分を気にかけてくれる神谷を見ていると、どうしようもなく胸が苦しい。


「……うん、大丈夫。ありがとう」


 やっとのことで返すと、神谷は微笑んで「了解」と言って、他の人のドリンクもまとめて注文した。


 祝勝会は、酒も入り段々と盛り上がりをみせる。

 空気がだいぶ緩んできた頃、誰かが明るい声を上げた。


「せっかくだし、このまま二軒目いきます?」


 その一言に、テーブルの空気がまた少し浮き立つ。


「いいですね、行きましょうよ」

「まだ全然飲めますって」

「神谷さんも行きますよね?」


 あちこちからそんな声が上がって、部長まで機嫌よく頷いている。


 澪は反射的に神谷の方を見る。


 もしかしたら。

 もう少しだけ一緒にいられるかもしれない。

 今さらでも、何か話せるかもしれない。

 そんな淡い期待が、胸の奥にほんの少しだけ灯る。


 けれど神谷は、そのざわめきの中で一瞬だけ視線を伏せ、それから穏やかに笑った。


「すみません、俺は今日はお先に失礼します」


 場の空気を壊さない、いつも通りのやわらかい声だった。


「え、神谷さん帰っちゃうんですか?」

「まあ、今回かなり飲んでましたもんね」

「それに、働き詰めでしたし」


「じゃあ、神谷はゆっくり休め」


 部長が最後に笑ってそう言うと、周りも「そうですね」と頷いた。

 神谷は軽く会釈する。


「ありがとうございます。みなさんはぜひ楽しんでください」


 空いたグラスや皿を見回して、誰からともなく「じゃあ、いったん出ますか」という声が上がった。


 店内の空気はまだ熱を持っていたけれど、みんな二軒目へ行く気で、椅子を引く音やコートを取る音が重なり始める。

 澪も慌ててバッグを取って立ち上がった。


 神谷が帰る前に、何かひと言でも話しかけたい。

 そう思うのに、彼の方を見るだけで喉が詰まる。


 神谷は席を立つと、いつもの落ち着いた手つきでジャケットを羽織った。


 何も変わらないように見える。

 けれど、澪の方にはやっぱり、少しも踏み込んでこない。

 会計を済ませて、ぞろぞろと店の外へ出る。


 夜風が頬に当たって、店の中でぼんやりしていた頭が少しだけ冴えた。


「二軒目、駅前のほうにします?」

「あ、あそこまだ開いてるんじゃないですか」

「じゃあ移動するか」


 後輩たちが楽しそうに話し始め、部長も上機嫌でその輪に混ざる。

 神谷は少し後ろで、周囲に合わせるように笑っていた。


 澪はその横顔を見て、ぎゅっとバッグの持ち手を握る。

 今ならまだ、声をかけられる。

 みんなが動き出す前に、たった一言でも。


 ごめん。

 月曜日の。

 違うの。


 言いたいことはあるのに、どれも形にならない。


 神谷がふと、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面を確認して、それから部長の方へ歩み寄る。


「部長、僕ここで失礼します」


「おう、気をつけて帰れよ」


「ありがとうございます」


 そのまま後輩たちにも軽く会釈する。


「また今度、ゆっくり」


「はい、おつかれさまです」


 澪のすぐ近くまで来て、神谷が足を止める。

 ほんの一瞬だけ、目が合った。

 心臓が、嫌なくらい大きく跳ねる。


「……朝比奈も、飲みすぎるなよ」


「……うん」


 やっとのことで返した声は、自分でも情けないくらい小さかった。

 神谷はそれ以上何も言わず、ほんの少しだけ口元をゆるめると、踵を返した。


 店先の明かりを離れて、夜の歩道へ出ていく背中。

 でも澪は、その場から動けなかった。


 周りでは「じゃあ次、あっち行きましょう」と二軒目へ向かう声がしている。

 そのざわめきの中で、神谷の背中だけがやけに遠く見えた。


 澪は唇をきつく結んだまま、神谷が角を曲がる直前まで、その背中を見つめていた。

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