NO.3 ホテルが同じ部屋なんて聞いてません
しばらくしてフロントから名前を呼ばれると、神谷は手にしていたスポーツドリンクを袋に戻し立ち上がった。
カウンターへ向かう彼の後について行く。
チェックインの手続きはすぐに終わるかと思ったのに、フロント係の女性は端末を見たまま、ふと表情を曇らせた。
「……申し訳ございません」
そのひと言で、澪はなんとなく嫌な予感がした。
女性は丁寧に頭を下げる。
「ご予約の件なのですが、こちらの手配ミスで、本日はツインルーム一室のみのご案内となってしまいまして……」
一瞬、意味が頭に入ってこない。
「え」
思わず小さく声が漏れた。
フロント係は慌てたように続ける。
「本来であればお二部屋ご用意すべきところ、こちらの確認不足でして……大変申し訳ございません。近隣も本日は満室で、すぐに別のお部屋をご案内するのが難しく……」
澪は隣を見た。
神谷は一瞬だけ目を細めたものの、ほとんど間を置かずに口を開く。
「ベッドは二つあるんですよね」
「はい。シングルベッド二台のツインルームでございます」
「なら大丈夫です」
あまりにさらっと言われて、澪は余計に動揺した。
確かにそこまで困ることでもないが。
今日の出来事を考えると、同じ部屋というのはいささか気まずかった。
それに加え、神谷が何でもないふうに落ち着いているのも癪に障る。
「申し訳ございません。お詫びに、明日の朝食は無料でご用意させていただきます」
「ありがとうございます」
フロント係は何度も謝りながら、神谷にカードキーを渡した。
エレベーターに乗り込むと、外の音が遮断され沈黙が二人を包んだ。
いつもだったら、神谷がふざけて話しかけてくるのに今は何も言わない。
澪も自分から話しかける気になれなくて、ただだまっている。
階数を示す数字が静かに上がっていく。
エレベーターの到着音がして、二人は廊下へ出る。
案内された部屋番号の前で神谷がカードキーをかざし、ドアを開けた。
ドアが開いて、先に中へ入った神谷が照明をつける。
ビジネスホテルらしい、すっきりとした室内だった。壁際のデスクに小さなテレビ、奥にはシングルベッドが二つ、少し間を空けて並んでいる。
澪は部屋を見渡して、心の中だけでそっと息をついた。
ベットは別。
神谷はコンビニの袋をデスクの上に置いて、ジャケットを脱いだ。昼間とは違ったラフな姿に、澪は不意に落ち着かなくなる。
何でもない顔でキャリーケースを壁際へ寄せながら、神谷がコンビニ袋に目をやる。
そこで初めて口を開いた。
「アイス、溶ける前に食べる?」
何気ない提案に少しだけ安堵する。
「……そうだね」
澪もバックを置き、デスクの脇にある椅子に腰を下ろした。
神谷は側まで来ると、コンビニ袋の中からアイスを取り出し澪に渡す。
「はい、朝比奈の」
そして即席味噌汁を取り出し澪を見て微笑んだ。
「これ、ありがとな」
「めっちゃ助かる」
そう言いながら、机の上の湯沸かし器に水を入れスイッチを押す。
初めは動揺しない神谷に対して少しムカついたが、今はいつも通りの対応で良かったと思い始めていた。
「いや、今日は迷惑かけちゃったからさ」
「私の方こそありがとね」
段々と澪も緊張しているのがアホらしくなり、自分のアイスの蓋を開ける。少し柔らかくなっていたけれど、食べるにはちょうどよさそうだった。
神谷は沸いた湯を味噌汁に注いで軽くかき混ぜた。
立ちのぼる湯気に目を細める。
「やっぱり飲んだあとは味噌汁だよな」
「さすがわかってるね」
ちょっと褒められただけなのに、澪は思わず口元を緩めた。
「でしょ」
そう返すと、神谷が小さく笑った。
その笑い方が、会社で見るものより少しだけ力が抜けていて、澪はなんとなく視線を外した。
神谷は味噌汁をひと口飲んで、「うま」と小さく呟いた。
澪もアイスをひと口すくう。口の中にひんやりとした甘さが広がって、火照っていた身体の内側がようやく少し落ち着いた。
しばらくは、二人の小さく食べる音だけが続いた。
静かだったけれど、気まずい沈黙ではなかった。むしろ会食の席でずっと張っていた糸が、ようやく少し緩んだような、そんな静けさだった。
神谷が味噌汁のカップを机に置く。
澪はふと、手元のアイスに視線を落とした。
「……一口食べる?」
神谷が目を丸くする。
「いいの?」
「さっき食べたそうだったし」
「やった!」
神谷が嬉しそうに笑って口を空けて待っている。
……?食べさせて欲しいってこと??
酔っているのか、いつもよりかなり素直だ。
澪は一瞬迷ってから、アイスを木のスプーンですくい彼の口の中に入れた。
「うん。あまくておいしい」
神谷はただただ満足そうである。
一方澪は、それだけのことで頬が熱くなるのを感じた。
普段だったら絶対しないようなこと。
今日一日でほんの少しだけ、彼との距離が縮まったように感じたのかもしれない。
もしくは酔いがそうさせたのか。
「ありがと」
神谷はそう言うと、残りの味噌汁を飲みだした。
さっきまで感じていた緊張感が、少しだけ別の形になって戻ってきた気がした。
「ごちそうさま!」
「生き返ったわ〜」
彼は食べ終わった味噌汁のカップをゴミ箱に入れながら、澪に礼を言う。
会社にいる時とは違う素直な神谷が、ちょっとだけ可愛い、なんて思ってしまった。
「朝比奈、先シャワーどうぞ」
なんでも無いように彼が言う。
さっきからざわついていた心が、いっそう際立った。
澪は少しだけ早まった鼓動に気づかないふりをして返す。
「ああ、ありがとう」
それから、残っていた溶けかけのアイスを流し込む。
神谷は鞄からノートパソコンを取り出し、今日の報告書を書きだした。
澪はキャリーケースの中から、下着と化粧水などが入ったポーチを取り出し、ベットの上に置いてあったナイトウェアを手に持つ。
「じゃあ、お先にいただくね」
そう言って神谷の方をちらっと見た。
彼はこちらを見ずに、パソコンを打っている。
「おう、いってらっしゃい」
何となく気恥ずかしくなって、澪はそそくさとバスルームに向かった。
バスルームのドアを閉めた瞬間、澪は小さく息を吐いた。
鏡に映る自分の顔は思っていたより赤かったが、酒のせいだと言い聞かせる。
「……何やってるんだろ、私」
小さく呟いて、服を脱ぐ。
何も考えたくないのに、壁一枚挟んだ向こうに神谷がいると思うと全く落ち着かない。
短めにシャワーを済ませて、ナイトウェアに袖を通す。
膝下まであるゆったりしたワンピースみたいな形の、一般的なもの。
寝るためだけに作られたその服は、少しだけ心もとない気がした。
ドアノブに掛けた手が僅かにためらう。
別に、神谷は何も気にしないだろう。
そう思って澪はバスルームを出た。
部屋の中は静かだった。
神谷はベッドからデスクに移動して、ノートパソコンに向かっていた。
部屋の照明に照らされた横顔は、仕事中よりいくらか力が抜けている。
澪は視線を逸らすように髪をタオルで拭く。
「お待たせ」
神谷が目を合わせずに言う。
「ん、おかえり」
それだけなのに、少しだけ間があった気がして、澪は妙に気になった。
部屋を見渡してドライヤーを探す。
「ドライヤーってどこかにあったかな?」
澪がデスクのほうに近寄っていくと、神谷が引き出しを空けた。
「ここにあったよ」
神谷は引き出しの中のドライヤーを手に取ると、そのまま澪の方へ差し出す。
「はい」
その瞬間指先が触れた。
またあの声ともつかない物が流れ込んでくる。
――いくらなんでも無防備すぎだろ。
「……っ」
澪の手が止まる。
頭の中だけが一気に熱くなる。
いや、何考えてんの。
心の中でそう叫ぶのが精一杯だった。
顔に出ていないことを祈りながらドライヤーを受け取る。
「ありがと」
なんとかそれだけ言うと、神谷は「ああ」と短く返した。
そして、やけにあっさりと視線を外す。
「じゃ、俺も入ってくるわ」
さっきまでノートパソコンに向かっていたのに、まるで急に思い出したみたいにそれを閉じる。
神谷は着替えを適当に掴むと、そのままバスルームへ向かった。
「ちゃんと乾かしとけよ」
ドアの前でそれだけ言って、振り返りもせずに中へ消える。
ぱたん、とドアが閉まった。
澪はしばらくその場に立ち尽くしたまま、手の中のドライヤーを見下ろす。
「……何それ」
誰に向けるでもなく、澪は小さく呟いた。
心臓がうるさい。
そんな鼓動の音をかき消すようにドライヤーのスイッチを入れた。
鏡に映る自分の耳が、赤い。
酒のせい。疲れてるせい。
そう思いたい。
それなのに、バスルームの向こうから聞こえるかすかな水音まで妙に意識してしまって、澪はますます落ち着かなくなった。
さっきまで普通に行けると思ったのに。もはや全然大丈夫じゃなかった。
ドライヤーを握る手に、少しだけ力が入った。
髪を乾かし終える頃には、さっきより少しだけ呼吸が落ち着いていた。
ドライヤーを机の上にまとめて、澪は自分のベッドの縁に腰を下ろす。
スマートフォンを手に取ってみるものの、画面を眺めても内容はほとんど頭に入ってこない。ニュースの見出しが流れていくのを、ただ指先でぼんやり追うだけだ。
バスルームの向こうから水音が止む。
それだけで、また心臓が妙に跳ねる。
澪は慌ててスマートフォンを伏せ、ベットに潜り込んだ。
やがて、バスルームのドアが開く。
反射的にそちらを見てしまってから、澪は一瞬遅れて視線を逸らした。
濡れた髪をタオルで拭きながら出てくる姿は、不覚にもかっこいいと思ってしまった。
神谷はベットに横になってる澪をみて言う。
「朝比奈、もう寝る?」
「……たぶん」
自分でも少し素っ気ない返事になったと思った。
けれど神谷は気にした様子もなく、「そっか」と短く返し、ベッド脇に置いたペットボトルを手に取る。
キャップを開けて水をひと口飲んでから、神谷は少しだけ考えるように間を置いた。
「今日は、ほんと助かった」
澪は、壁のほうを向いていた顔を神谷に向けた。
掛け布団の端を指でつまむ。
「……こっちこそ。神谷がいたから、うまくいったと思う」
澪もいつもよりほんの少しだけ、素直に言葉が出た。
神谷は自分のベッドに腰を下ろしながら、澪をちらりと見る。
「酔い、大丈夫そう?」
「大丈夫」
「神谷こそ」
「俺も大丈夫。味噌汁もらったしね」
彼はいつもとはちがった優しい笑みを澪に向けた。
それが気恥ずかしくて、澪は半ば逃げるように掛布を口元まで引き上げた。
「……私、先に寝るね」
「おやすみ」
神谷が小さく笑う気配がする。
澪が壁の方へ身体を向けると、少し遅れて神谷の声が落ちてくる。
「おやすみ、朝比奈」
その声があまりにも優しくて、澪は目を閉じたまま小さく息を止めた。
眠りたいのに全く眠れる気がしなかった。
ドライヤーの音がしばらく続いたあと、隣のベッドに神谷が入る気配がした。
シーツの擦れる音。水を置く小さな物音。
澪は布団の中でそっと目を閉じ直す。
神谷相手にこんな感情が芽生えるなんて、やっぱりおかしい。
全部御守のせいだ。
こんな事なら寄り道なんてしなければ良かった。
そんな事をグルグルと考えている間にも夜は更けていった。
***
翌朝、澪が目を覚ましたのは、かすかな水音のせいだった。
意識が浮かび上がるにつれて、ユニットバスの向こうから聞こえてくるシャワーの音だとわかる。
白いカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
目覚ましが鳴るより、少し早い。
「……ん」
小さく寝返りを打ってから、澪ははっと目を開けた。
ここは自分の部屋じゃない。
大阪のホテルで、神谷と同じ部屋で、昨日は会食があって、そのあとアイスを食べて、ドライヤーを渡されて、変な声が聞こえて。
そこまで一気に思い出して、澪は掛け布団の中で小さく固まる。
バスルームの水音が止んだ。
まずい、と思った時にはもう遅い。
ドアが開いて、神谷がタオルで髪を拭きながら出てくる。
「……あ」
寝起きで掠れたような声が、澪の喉から勝手に漏れた。
神谷も澪が起きていることに気づいたらしく、一瞬だけ視線がぶつかる。
その直後、神谷はほんのわずかに目を逸らした。
「おはよう」
いつも通りの声。
けれど、その一拍の間と視線の逃がし方が妙にぎこちなくて、澪は逆にどきりとした。
「……おはよう」
返しながら、ようやく自分の状態に気づく。
寝返りを打ったせいで、部屋着の襟元が少しずれていた。髪も乱れている。
「っ」
澪は慌てて襟元を押さえ、身体を起こした。
神谷はそれ以上こちらを見ないようにするみたいに、タオルを畳んでデスクの方へ置く。
「……先、使う?」
「洗面所」
少しだけ間を置いてから、神谷が言う。
その言葉で、澪はさらに顔が熱くなった。
「あ、うん。ありがと」
逃げるみたいにベッドを降りる。
昨日よく眠れなかったせいで、少しだけ身体が重い。
起きたての自分は想像以上に無防備だったらしい。
洗面所に駆け込んで、ドアを閉める。
鏡の前に立った澪は、思わず小さく息を吐いた。
「……最悪」
神谷相手に、寝癖のついた髪や寝起きの顔を晒してしまうなんて。
あんな反応をされると、こっちまで変に意識してしまう。
慌てて顔を洗い、髪を整える。スキンケアをして、軽くメイクをして、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃には、洗面台の鏡に映る自分もいつもの姿に近づいていた。
大丈夫。いつも通り。
そう思ってドアを開けると、神谷はネクタイを手にしたまま窓際に立っていた。
こちらに気づいて振り向く。
「復活した?」
「何それ」
「いや、さっき完全に寝起きだったから」
いつも通りの軽口に少しだけほっとした自分がいた。
「朝食、どうする?」
澪は一瞬だけ考えてから、小さく首を振る。
「私はいいかな」
「だと思った」
「何その言い方」
「朝比奈は、朝弱いみたいだし」
からかうような神谷の言葉が、いつもよりイラつかないのはなぜだろう。
「……昨日は飲み過ぎたから」
神谷はネクタイを締めて微笑む。
「だな。俺も腹減ってないし駅でコーヒーでも買うか」
「うん」
澪は素直に頷いてキャリーケースに、散らばっていた細々したものをまとめる。
神谷もデスクの上を片づけて、ペットボトルを飲み干しゴミ箱に捨てた。
「忘れ物ない?」
ドアの外で神谷が振り返る。
「大丈夫」
この部屋に来た時はどうなるかと思ったが、いざ帰るとなると少しだけ名残惜しい気がする。
そんな事を感じている時点でもはや今まで通りではなかった。
フロントで朝食券を丁寧に辞退して、チェックアウトを済ませる。
朝の光は明るくて、夜よりも街の輪郭をはっきり見せていた。
タクシーを拾って新大阪駅へ向かう間、二人の会話はほとんど仕事のことだけだった。
「役員の反応、どう思った?」
窓の外を見たまま、神谷が聞く。
「かなり前向きだと思う」
澪はすぐに答える。
「ただ、やっぱり現場導入時の負荷は最後まで気にしてた。月曜までに、初期サポートの流れをもう少し具体化した方がいいかも」
「だな。問い合わせの想定件数ももう一段数字で出せる」
「小西さんはかなり乗り気だったし、そこ押さえればいける気がする」
「うん」
ホテルでの雰囲気とは打って変わり、完全に仕事モードにもどる。
休日の新大阪駅は、昨日よりも人が多かった。
改札へ向かう途中で、神谷が立ち止まる。
「朝比奈も飲むよな?俺かってくるよ」
神谷は構内にあるカフェを指さす。
「いや……。私も一緒に行く」
何となく、一緒にいたくて澪は言う。
神谷は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「そう?じゃあ、いこっか」
二人で飲み物を買ってホームへ上がる。
帰りの新幹線は、昨日よりも少しだけ静かに感じた。
澪はカフェラテのカップをペットボトルホルダーに入れると、シートに深く腰掛けた。
発車のアナウンスが流れ、ほどなくして車体がゆっくりと動き出す。ホームが後ろへ流れていくのを見ながら、澪はラテをひと口飲んだ。
もう東京に帰るだけ。
そう思った途端、昨夜からの睡眠不足と、商談の疲れと、妙に神経を使った反動が、いっぺんに押し寄せてくる。
神谷はそんな澪を横目で見て、小さく笑った。
「眠そうだね」
「……少しだけ」
「寝れば」
「新幹線で寝るの、何か悔しい」
「何で」
低く笑う声がして、澪は薄く目を閉じた。
その声が少しだけ心地よくて、それがまた悔しい。
走り出した新幹線は、規則正しい揺れで身体をゆっくりと運んでいく。車内は静かで、時折ページをめくる音や、どこかで小さく咳をする声が聞こえるくらいだった。
昨日の朝、東京駅で神谷と合流したところから、まだ二十四時間しか経っていない。
それなのに、ひどく長い一日だった気がした。
寝るつもりなんてなかったのに、身体の方がもう限界だと言っている。
澪の意識は少しずつ沈んでいった。
あたたかくて心地良い。
ずっとこうしていたいとぼんやりとした頭で思う。
その時、頭の奥に、かすかに声が落ちてきた。
――気、抜けすぎだろ。
呆れたようで、でもやわらかい。
夢の続きのような。
「……ん」
澪はうっすら目を開けた。
視界の端に見えたのは、ネイビーのジャケットの肩口だった。
少し遅れて、自分が神谷の肩にもたれているのだと理解する。
「っ」
反射的に身体を起こした。
隣で神谷がこちらを見る。
「起きた?」
あまりにも自然な声で言うから、澪は余計に顔が熱くなる。
「な、何で……」
「何でって」
神谷は少しだけ笑った。
「勝手にもたれてきたの、そっちだけど」
どれくらいの時間そうしていたのかもわからない。
「ご、ごめん」
「起こしてくれればよかったのに」
「別に」
「気持ちよさそうに寝てたから」
さらりと返されて、澪はそれ以上何も言えなくなる。
さっき聞こえた声が夢だったのか、神谷の本音だったのか、確かめるすべはない。
ただただ恥ずかしい。
澪は慌てて視線を窓の方へ向けた。
外には、東京に近づいた見慣れた街並みが流れている。
「……忘れて」
「なんでよ」
神谷は少し笑って答えるとそれ以上は続けなかった。
二人のあいだに沈黙が落ちる。
気まずいのは澪だけで、神谷はいつも通り落ち着いているように見えた。
到着のアナウンスが流れ、車内の空気が動き出す。
周囲の乗客たちも、荷物を手元に引き寄せたり、スマートフォンをしまったりし始めていた。
神谷が立ち上がって、上の棚から澪のキャリーケースを下ろす。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけのやり取りが、なぜか少しだけくすぐったい。
東京駅に着いてホームへ降りると、出張の余韻は一気に人波の中へ溶けていった。
改札へ向かう途中で、神谷が言った。
「朝比奈」
「ん?」
「月曜、午後いちで時間取れる?」
「たぶん空いてる」
「じゃあ大阪の件、その時整理しよう」
「了解」
そこで会話は一度切れる。
けれど神谷は少し歩調を緩めて、澪の方を見た。
「ちゃんと休めよ」
「……神谷も」
澪が返すと、神谷は短く「おう」とだけ言った。
改札の手前で自然に足を止める。
「じゃあまた月曜」
「うん、おつかれさま」
神谷は片手を軽く上げて、そのまま人混みの中へ消えていった。
澪はしばらく、その背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
***
家に着くと、澪はスーツケースを開いて片付けを始めた。
洗濯をしようと取りだした服の中から、ホテルのアメニティが出てくる。
澪は一瞬固まり、出張であったことを思い出した。
昨日は朝から変だった。
神谷の声のようなものが聴こえて、ホテルでは同じ部屋で、帰りの新幹線では肩まで借りてしまった。
「……やめよう」
小さく呟いて、無理やり手を動かす。
出張は終わった。
神谷は今まで通りむかつく同期だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
スマートフォンが鳴ったのは、ちょうど洗濯機を回し終えた時だった。
澪は何気なく画面を見て、それからぴたりと動きを止める。
表示されていたのは、神谷の名前だった。
神谷湊
その名前を見ただけで、胸の奥が小さく跳ねる。
「……ただの業務連絡でしょ」
誰に言い訳するでもなく呟いてから、メッセージを開く。
『おつかれ。大阪案件、先方から追加で確認きてた』
『資料こっちで叩き台作る。月曜日の午後いち確認しよう』
内容は完全に仕事だった。
澪はスマートフォンを持ったまましばらく画面を見つめる。
返信しようとして、指が止まる。
何をそんなに迷う必要があるのだろう。
いつもなら、了解とだけ返せば済む話だ。
それなのに今日は、文面を打っては消して、また打ち直す。
たったそれだけのことに、自分でも引くくらい時間がかかった。
結局、澪が返したのはひどく普通の一文だった。
『了解。月曜よろしく』
送信してすぐに、少しそっけなかったかと心配になる。
澪は思考を無理やり停止してスマートフォンを伏せた。
洗濯機の回る音が、部屋の中に一定のリズムで響いている。
神谷のことを考えすぎている。
彼はむかつく同期。今までもこれからも。
そう思いたいのに。
澪はソファに座り込み、クッションを抱えた。
「……ちょっと、まずいかも」
ぽつりと漏れた声は、洗濯機の音にあっさりと紛れた。




