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営業一位のライバル同期の本音が聞こえて困っています  作者: 春野スミレ


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3/5

NO.3 ホテルが同じ部屋なんて聞いてません

 しばらくしてフロントから名前を呼ばれると、神谷は手にしていたスポーツドリンクを袋に戻し立ち上がった。


 カウンターへ向かう彼の後について行く。

 チェックインの手続きはすぐに終わるかと思ったのに、フロント係の女性は端末を見たまま、ふと表情を曇らせた。


「……申し訳ございません」


 そのひと言で、澪はなんとなく嫌な予感がした。

 女性は丁寧に頭を下げる。


「ご予約の件なのですが、こちらの手配ミスで、本日はツインルーム一室のみのご案内となってしまいまして……」


 一瞬、意味が頭に入ってこない。


「え」


 思わず小さく声が漏れた。

 フロント係は慌てたように続ける。


「本来であればお二部屋ご用意すべきところ、こちらの確認不足でして……大変申し訳ございません。近隣も本日は満室で、すぐに別のお部屋をご案内するのが難しく……」


 澪は隣を見た。

 神谷は一瞬だけ目を細めたものの、ほとんど間を置かずに口を開く。


「ベッドは二つあるんですよね」


「はい。シングルベッド二台のツインルームでございます」


「なら大丈夫です」


 あまりにさらっと言われて、澪は余計に動揺した。

 確かにそこまで困ることでもないが。

 今日の出来事を考えると、同じ部屋というのはいささか気まずかった。

 

 それに加え、神谷が何でもないふうに落ち着いているのも癪に障る。


「申し訳ございません。お詫びに、明日の朝食は無料でご用意させていただきます」


「ありがとうございます」


 フロント係は何度も謝りながら、神谷にカードキーを渡した。


 エレベーターに乗り込むと、外の音が遮断され沈黙が二人を包んだ。


 いつもだったら、神谷がふざけて話しかけてくるのに今は何も言わない。

 澪も自分から話しかける気になれなくて、ただだまっている。

 

 階数を示す数字が静かに上がっていく。

 エレベーターの到着音がして、二人は廊下へ出る。

 案内された部屋番号の前で神谷がカードキーをかざし、ドアを開けた。


 ドアが開いて、先に中へ入った神谷が照明をつける。

 ビジネスホテルらしい、すっきりとした室内だった。壁際のデスクに小さなテレビ、奥にはシングルベッドが二つ、少し間を空けて並んでいる。


 澪は部屋を見渡して、心の中だけでそっと息をついた。

 ベットは別。


 神谷はコンビニの袋をデスクの上に置いて、ジャケットを脱いだ。昼間とは違ったラフな姿に、澪は不意に落ち着かなくなる。


 何でもない顔でキャリーケースを壁際へ寄せながら、神谷がコンビニ袋に目をやる。

 そこで初めて口を開いた。


「アイス、溶ける前に食べる?」


 何気ない提案に少しだけ安堵する。


「……そうだね」


 澪もバックを置き、デスクの脇にある椅子に腰を下ろした。

 神谷は側まで来ると、コンビニ袋の中からアイスを取り出し澪に渡す。


「はい、朝比奈の」


 そして即席味噌汁を取り出し澪を見て微笑んだ。


「これ、ありがとな」

「めっちゃ助かる」


 そう言いながら、机の上の湯沸かし器に水を入れスイッチを押す。

 初めは動揺しない神谷に対して少しムカついたが、今はいつも通りの対応で良かったと思い始めていた。


「いや、今日は迷惑かけちゃったからさ」

「私の方こそありがとね」


 段々と澪も緊張しているのがアホらしくなり、自分のアイスの蓋を開ける。少し柔らかくなっていたけれど、食べるにはちょうどよさそうだった。

 

 神谷は沸いた湯を味噌汁に注いで軽くかき混ぜた。

 立ちのぼる湯気に目を細める。


「やっぱり飲んだあとは味噌汁だよな」

「さすがわかってるね」


 ちょっと褒められただけなのに、澪は思わず口元を緩めた。


「でしょ」


 そう返すと、神谷が小さく笑った。

 その笑い方が、会社で見るものより少しだけ力が抜けていて、澪はなんとなく視線を外した。


 神谷は味噌汁をひと口飲んで、「うま」と小さく呟いた。

 澪もアイスをひと口すくう。口の中にひんやりとした甘さが広がって、火照っていた身体の内側がようやく少し落ち着いた。

 しばらくは、二人の小さく食べる音だけが続いた。


 静かだったけれど、気まずい沈黙ではなかった。むしろ会食の席でずっと張っていた糸が、ようやく少し緩んだような、そんな静けさだった。


 神谷が味噌汁のカップを机に置く。

 澪はふと、手元のアイスに視線を落とした。


「……一口食べる?」


 神谷が目を丸くする。


「いいの?」


「さっき食べたそうだったし」


「やった!」


 神谷が嬉しそうに笑って口を空けて待っている。


 ……?食べさせて欲しいってこと??


 酔っているのか、いつもよりかなり素直だ。

 澪は一瞬迷ってから、アイスを木のスプーンですくい彼の口の中に入れた。


「うん。あまくておいしい」


 神谷はただただ満足そうである。

 一方澪は、それだけのことで頬が熱くなるのを感じた。


 普段だったら絶対しないようなこと。

 今日一日でほんの少しだけ、彼との距離が縮まったように感じたのかもしれない。

 もしくは酔いがそうさせたのか。


「ありがと」


 神谷はそう言うと、残りの味噌汁を飲みだした。

 さっきまで感じていた緊張感が、少しだけ別の形になって戻ってきた気がした。


「ごちそうさま!」

「生き返ったわ〜」


 彼は食べ終わった味噌汁のカップをゴミ箱に入れながら、澪に礼を言う。

 会社にいる時とは違う素直な神谷が、ちょっとだけ可愛い、なんて思ってしまった。


「朝比奈、先シャワーどうぞ」


 なんでも無いように彼が言う。

 さっきからざわついていた心が、いっそう際立った。

 澪は少しだけ早まった鼓動に気づかないふりをして返す。


「ああ、ありがとう」


 それから、残っていた溶けかけのアイスを流し込む。

 神谷は鞄からノートパソコンを取り出し、今日の報告書を書きだした。


 澪はキャリーケースの中から、下着と化粧水などが入ったポーチを取り出し、ベットの上に置いてあったナイトウェアを手に持つ。


「じゃあ、お先にいただくね」


 そう言って神谷の方をちらっと見た。

 彼はこちらを見ずに、パソコンを打っている。


「おう、いってらっしゃい」


 何となく気恥ずかしくなって、澪はそそくさとバスルームに向かった。

 バスルームのドアを閉めた瞬間、澪は小さく息を吐いた。


 鏡に映る自分の顔は思っていたより赤かったが、酒のせいだと言い聞かせる。


「……何やってるんだろ、私」


 小さく呟いて、服を脱ぐ。

 何も考えたくないのに、壁一枚挟んだ向こうに神谷がいると思うと全く落ち着かない。


 短めにシャワーを済ませて、ナイトウェアに袖を通す。

 膝下まであるゆったりしたワンピースみたいな形の、一般的なもの。

 寝るためだけに作られたその服は、少しだけ心もとない気がした。


 ドアノブに掛けた手が僅かにためらう。

 別に、神谷は何も気にしないだろう。

 そう思って澪はバスルームを出た。


 部屋の中は静かだった。

 神谷はベッドからデスクに移動して、ノートパソコンに向かっていた。

 部屋の照明に照らされた横顔は、仕事中よりいくらか力が抜けている。

 澪は視線を逸らすように髪をタオルで拭く。


「お待たせ」


 神谷が目を合わせずに言う。


「ん、おかえり」


 それだけなのに、少しだけ間があった気がして、澪は妙に気になった。

 部屋を見渡してドライヤーを探す。


「ドライヤーってどこかにあったかな?」


 澪がデスクのほうに近寄っていくと、神谷が引き出しを空けた。


「ここにあったよ」


 神谷は引き出しの中のドライヤーを手に取ると、そのまま澪の方へ差し出す。


「はい」


 その瞬間指先が触れた。

 またあの声ともつかない物が流れ込んでくる。


――いくらなんでも無防備すぎだろ。


「……っ」


 澪の手が止まる。

 頭の中だけが一気に熱くなる。


 いや、何考えてんの。


 心の中でそう叫ぶのが精一杯だった。

 顔に出ていないことを祈りながらドライヤーを受け取る。


「ありがと」


 なんとかそれだけ言うと、神谷は「ああ」と短く返した。

 そして、やけにあっさりと視線を外す。


「じゃ、俺も入ってくるわ」


 さっきまでノートパソコンに向かっていたのに、まるで急に思い出したみたいにそれを閉じる。

 神谷は着替えを適当に掴むと、そのままバスルームへ向かった。


「ちゃんと乾かしとけよ」


 ドアの前でそれだけ言って、振り返りもせずに中へ消える。

 ぱたん、とドアが閉まった。


 澪はしばらくその場に立ち尽くしたまま、手の中のドライヤーを見下ろす。


「……何それ」


 誰に向けるでもなく、澪は小さく呟いた。

 心臓がうるさい。

 そんな鼓動の音をかき消すようにドライヤーのスイッチを入れた。


 鏡に映る自分の耳が、赤い。

 酒のせい。疲れてるせい。

 そう思いたい。


 それなのに、バスルームの向こうから聞こえるかすかな水音まで妙に意識してしまって、澪はますます落ち着かなくなった。


 さっきまで普通に行けると思ったのに。もはや全然大丈夫じゃなかった。

 ドライヤーを握る手に、少しだけ力が入った。


 髪を乾かし終える頃には、さっきより少しだけ呼吸が落ち着いていた。

 ドライヤーを机の上にまとめて、澪は自分のベッドの縁に腰を下ろす。


 スマートフォンを手に取ってみるものの、画面を眺めても内容はほとんど頭に入ってこない。ニュースの見出しが流れていくのを、ただ指先でぼんやり追うだけだ。


 バスルームの向こうから水音が止む。

 それだけで、また心臓が妙に跳ねる。

 澪は慌ててスマートフォンを伏せ、ベットに潜り込んだ。


 やがて、バスルームのドアが開く。

 反射的にそちらを見てしまってから、澪は一瞬遅れて視線を逸らした。

 濡れた髪をタオルで拭きながら出てくる姿は、不覚にもかっこいいと思ってしまった。


 神谷はベットに横になってる澪をみて言う。


「朝比奈、もう寝る?」


「……たぶん」


 自分でも少し素っ気ない返事になったと思った。

 けれど神谷は気にした様子もなく、「そっか」と短く返し、ベッド脇に置いたペットボトルを手に取る。


 キャップを開けて水をひと口飲んでから、神谷は少しだけ考えるように間を置いた。


「今日は、ほんと助かった」


 澪は、壁のほうを向いていた顔を神谷に向けた。

 掛け布団の端を指でつまむ。


「……こっちこそ。神谷がいたから、うまくいったと思う」


 澪もいつもよりほんの少しだけ、素直に言葉が出た。

 神谷は自分のベッドに腰を下ろしながら、澪をちらりと見る。


「酔い、大丈夫そう?」


「大丈夫」

「神谷こそ」


「俺も大丈夫。味噌汁もらったしね」


 彼はいつもとはちがった優しい笑みを澪に向けた。

 それが気恥ずかしくて、澪は半ば逃げるように掛布を口元まで引き上げた。


「……私、先に寝るね」

「おやすみ」


 神谷が小さく笑う気配がする。

 澪が壁の方へ身体を向けると、少し遅れて神谷の声が落ちてくる。


「おやすみ、朝比奈」


 その声があまりにも優しくて、澪は目を閉じたまま小さく息を止めた。

 眠りたいのに全く眠れる気がしなかった。


 ドライヤーの音がしばらく続いたあと、隣のベッドに神谷が入る気配がした。

 シーツの擦れる音。水を置く小さな物音。


 澪は布団の中でそっと目を閉じ直す。


 神谷相手にこんな感情が芽生えるなんて、やっぱりおかしい。

 全部御守のせいだ。

 こんな事なら寄り道なんてしなければ良かった。


 そんな事をグルグルと考えている間にも夜は更けていった。


***


 翌朝、澪が目を覚ましたのは、かすかな水音のせいだった。

 意識が浮かび上がるにつれて、ユニットバスの向こうから聞こえてくるシャワーの音だとわかる。


 白いカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

 目覚ましが鳴るより、少し早い。


「……ん」


 小さく寝返りを打ってから、澪ははっと目を開けた。

 ここは自分の部屋じゃない。

 大阪のホテルで、神谷と同じ部屋で、昨日は会食があって、そのあとアイスを食べて、ドライヤーを渡されて、変な声が聞こえて。


 そこまで一気に思い出して、澪は掛け布団の中で小さく固まる。

 バスルームの水音が止んだ。

 まずい、と思った時にはもう遅い。

 ドアが開いて、神谷がタオルで髪を拭きながら出てくる。


「……あ」


 寝起きで掠れたような声が、澪の喉から勝手に漏れた。

 神谷も澪が起きていることに気づいたらしく、一瞬だけ視線がぶつかる。

 その直後、神谷はほんのわずかに目を逸らした。


「おはよう」


 いつも通りの声。

 けれど、その一拍の間と視線の逃がし方が妙にぎこちなくて、澪は逆にどきりとした。


「……おはよう」


 返しながら、ようやく自分の状態に気づく。

 寝返りを打ったせいで、部屋着の襟元が少しずれていた。髪も乱れている。


「っ」


 澪は慌てて襟元を押さえ、身体を起こした。

 神谷はそれ以上こちらを見ないようにするみたいに、タオルを畳んでデスクの方へ置く。


「……先、使う?」

「洗面所」


 少しだけ間を置いてから、神谷が言う。

 その言葉で、澪はさらに顔が熱くなった。


「あ、うん。ありがと」


 逃げるみたいにベッドを降りる。

 昨日よく眠れなかったせいで、少しだけ身体が重い。

 起きたての自分は想像以上に無防備だったらしい。


 洗面所に駆け込んで、ドアを閉める。

 鏡の前に立った澪は、思わず小さく息を吐いた。


「……最悪」


 神谷相手に、寝癖のついた髪や寝起きの顔を晒してしまうなんて。

 あんな反応をされると、こっちまで変に意識してしまう。


 慌てて顔を洗い、髪を整える。スキンケアをして、軽くメイクをして、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃には、洗面台の鏡に映る自分もいつもの姿に近づいていた。


 大丈夫。いつも通り。


 そう思ってドアを開けると、神谷はネクタイを手にしたまま窓際に立っていた。

 こちらに気づいて振り向く。


「復活した?」


「何それ」


「いや、さっき完全に寝起きだったから」


 いつも通りの軽口に少しだけほっとした自分がいた。


「朝食、どうする?」


 澪は一瞬だけ考えてから、小さく首を振る。


「私はいいかな」


「だと思った」


「何その言い方」


「朝比奈は、朝弱いみたいだし」


 からかうような神谷の言葉が、いつもよりイラつかないのはなぜだろう。


「……昨日は飲み過ぎたから」


 神谷はネクタイを締めて微笑む。


「だな。俺も腹減ってないし駅でコーヒーでも買うか」


「うん」


 澪は素直に頷いてキャリーケースに、散らばっていた細々したものをまとめる。

 神谷もデスクの上を片づけて、ペットボトルを飲み干しゴミ箱に捨てた。


「忘れ物ない?」


 ドアの外で神谷が振り返る。


「大丈夫」


 この部屋に来た時はどうなるかと思ったが、いざ帰るとなると少しだけ名残惜しい気がする。

 そんな事を感じている時点でもはや今まで通りではなかった。


 フロントで朝食券を丁寧に辞退して、チェックアウトを済ませる。

 朝の光は明るくて、夜よりも街の輪郭をはっきり見せていた。


 タクシーを拾って新大阪駅へ向かう間、二人の会話はほとんど仕事のことだけだった。


「役員の反応、どう思った?」


 窓の外を見たまま、神谷が聞く。


「かなり前向きだと思う」


 澪はすぐに答える。


「ただ、やっぱり現場導入時の負荷は最後まで気にしてた。月曜までに、初期サポートの流れをもう少し具体化した方がいいかも」


「だな。問い合わせの想定件数ももう一段数字で出せる」


「小西さんはかなり乗り気だったし、そこ押さえればいける気がする」


「うん」


 ホテルでの雰囲気とは打って変わり、完全に仕事モードにもどる。

 休日の新大阪駅は、昨日よりも人が多かった。

 改札へ向かう途中で、神谷が立ち止まる。


「朝比奈も飲むよな?俺かってくるよ」


 神谷は構内にあるカフェを指さす。

 

「いや……。私も一緒に行く」


 何となく、一緒にいたくて澪は言う。

 神谷は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「そう?じゃあ、いこっか」


 二人で飲み物を買ってホームへ上がる。

 帰りの新幹線は、昨日よりも少しだけ静かに感じた。


 澪はカフェラテのカップをペットボトルホルダーに入れると、シートに深く腰掛けた。

 発車のアナウンスが流れ、ほどなくして車体がゆっくりと動き出す。ホームが後ろへ流れていくのを見ながら、澪はラテをひと口飲んだ。


 もう東京に帰るだけ。

 そう思った途端、昨夜からの睡眠不足と、商談の疲れと、妙に神経を使った反動が、いっぺんに押し寄せてくる。

 神谷はそんな澪を横目で見て、小さく笑った。


「眠そうだね」


「……少しだけ」


「寝れば」


「新幹線で寝るの、何か悔しい」


「何で」


 低く笑う声がして、澪は薄く目を閉じた。

 その声が少しだけ心地よくて、それがまた悔しい。


 走り出した新幹線は、規則正しい揺れで身体をゆっくりと運んでいく。車内は静かで、時折ページをめくる音や、どこかで小さく咳をする声が聞こえるくらいだった。


 昨日の朝、東京駅で神谷と合流したところから、まだ二十四時間しか経っていない。

 それなのに、ひどく長い一日だった気がした。


 寝るつもりなんてなかったのに、身体の方がもう限界だと言っている。

 澪の意識は少しずつ沈んでいった。


 あたたかくて心地良い。

 ずっとこうしていたいとぼんやりとした頭で思う。

 その時、頭の奥に、かすかに声が落ちてきた。


 ――気、抜けすぎだろ。


 呆れたようで、でもやわらかい。

 夢の続きのような。


「……ん」


 澪はうっすら目を開けた。

 視界の端に見えたのは、ネイビーのジャケットの肩口だった。

 少し遅れて、自分が神谷の肩にもたれているのだと理解する。


「っ」


 反射的に身体を起こした。

 隣で神谷がこちらを見る。


「起きた?」


 あまりにも自然な声で言うから、澪は余計に顔が熱くなる。


「な、何で……」


「何でって」


 神谷は少しだけ笑った。


「勝手にもたれてきたの、そっちだけど」


 どれくらいの時間そうしていたのかもわからない。


「ご、ごめん」

「起こしてくれればよかったのに」


「別に」

「気持ちよさそうに寝てたから」


 さらりと返されて、澪はそれ以上何も言えなくなる。

 さっき聞こえた声が夢だったのか、神谷の本音だったのか、確かめるすべはない。

 ただただ恥ずかしい。

 澪は慌てて視線を窓の方へ向けた。

 外には、東京に近づいた見慣れた街並みが流れている。


「……忘れて」


「なんでよ」


 神谷は少し笑って答えるとそれ以上は続けなかった。

 二人のあいだに沈黙が落ちる。

 気まずいのは澪だけで、神谷はいつも通り落ち着いているように見えた。


 到着のアナウンスが流れ、車内の空気が動き出す。

 周囲の乗客たちも、荷物を手元に引き寄せたり、スマートフォンをしまったりし始めていた。

 神谷が立ち上がって、上の棚から澪のキャリーケースを下ろす。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 それだけのやり取りが、なぜか少しだけくすぐったい。

 東京駅に着いてホームへ降りると、出張の余韻は一気に人波の中へ溶けていった。


 改札へ向かう途中で、神谷が言った。


「朝比奈」


「ん?」


「月曜、午後いちで時間取れる?」


「たぶん空いてる」


「じゃあ大阪の件、その時整理しよう」


「了解」


 そこで会話は一度切れる。

 けれど神谷は少し歩調を緩めて、澪の方を見た。


「ちゃんと休めよ」


「……神谷も」


 澪が返すと、神谷は短く「おう」とだけ言った。

 改札の手前で自然に足を止める。


「じゃあまた月曜」


「うん、おつかれさま」


 神谷は片手を軽く上げて、そのまま人混みの中へ消えていった。

 澪はしばらく、その背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


***


 家に着くと、澪はスーツケースを開いて片付けを始めた。

 洗濯をしようと取りだした服の中から、ホテルのアメニティが出てくる。


 澪は一瞬固まり、出張であったことを思い出した。


 昨日は朝から変だった。

 神谷の声のようなものが聴こえて、ホテルでは同じ部屋で、帰りの新幹線では肩まで借りてしまった。


「……やめよう」


 小さく呟いて、無理やり手を動かす。


 出張は終わった。

 神谷は今まで通りむかつく同期だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。


 スマートフォンが鳴ったのは、ちょうど洗濯機を回し終えた時だった。

 澪は何気なく画面を見て、それからぴたりと動きを止める。

 表示されていたのは、神谷の名前だった。


 神谷湊


 その名前を見ただけで、胸の奥が小さく跳ねる。


「……ただの業務連絡でしょ」


 誰に言い訳するでもなく呟いてから、メッセージを開く。


『おつかれ。大阪案件、先方から追加で確認きてた』

『資料こっちで叩き台作る。月曜日の午後いち確認しよう』


 内容は完全に仕事だった。

 澪はスマートフォンを持ったまましばらく画面を見つめる。

 返信しようとして、指が止まる。


 何をそんなに迷う必要があるのだろう。

 いつもなら、了解とだけ返せば済む話だ。

 それなのに今日は、文面を打っては消して、また打ち直す。

 たったそれだけのことに、自分でも引くくらい時間がかかった。

 結局、澪が返したのはひどく普通の一文だった。


『了解。月曜よろしく』


 送信してすぐに、少しそっけなかったかと心配になる。

 澪は思考を無理やり停止してスマートフォンを伏せた。


 洗濯機の回る音が、部屋の中に一定のリズムで響いている。


 神谷のことを考えすぎている。

 彼はむかつく同期。今までもこれからも。


 そう思いたいのに。


 澪はソファに座り込み、クッションを抱えた。


「……ちょっと、まずいかも」


 ぽつりと漏れた声は、洗濯機の音にあっさりと紛れた。


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