NO.2 大阪主張は波乱の予感です
指定された号車に乗り込むと、車内はすでに七割ほど埋まっていた。
平日の朝らしく、スーツ姿の乗客が多い。ノートパソコンを開いている人、すでに目を閉じている人、イヤホンをつけたまま窓の外を見ている人。新幹線特有の、少し乾いた空気と静かなざわめきが車内に満ちていた。
澪は座席番号を確認しながら通路を進む。
神谷が先に立ち止まり、手元のチケットを見てから、当然みたいな顔で窓側の席を示した。
「朝比奈、奥座りなよ」
「……え、いいの?」
「うん、俺どっちでもいいし」
神谷は短く言って、自分は通路側に荷物を置いた。
澪は一瞬だけためらってから、「じゃあ遠慮なく」と小さく返して窓側へ滑り込む。
コートを脱いで膝に置き、バッグを足元にしまいながら、また小さな優しさに気づいてしまい、落ち着かなくなった。
神谷はそんな澪の内心など知るはずもなく、上の荷物棚に自分のバッグと、澪のキャリーケースを上げてから席に着いた。
ホームでの一件が、まだ頭から離れなかった。
――ほんと、目を離せないんだよな。
あれは何だったのか。
聞き間違いか。あるいは、後輩に変なことを言われて、無駄に神谷のことを意識しまったための幻聴か。
雑念を振り払うように首を振る。
澪はすぐにバッグからクリアファイルを取り出した。会議室で整理した資料に、昨夜もう一度目を通したメモを挟んである。
何か見ていないと落ち着かない。
「朝比奈」
不意にすぐ横から呼ばれて、澪はびくっと肩を揺らした。
「な、何」
「驚きすぎ」
澪が目を見開くと、神谷は少しだけ笑いながら言った。
「資料見るなら、これも」
そう言って神谷は自分のタブレットを軽く持ち上げた。
「役員の発言まとめ。朝のうちに見直そうと思って」
「移動時間あるし」
そう言いながら、神谷は画面を澪の方へ傾ける。
ごく自然な動作で、肩が少し触れそうになる。その距離の近さに、澪は反射的に身体を縮めた。
神谷は気づいているのかいないのか、画面をスクロールしながら淡々と説明する。
「この人、前回はコストの話ばっかりしてたけど、実際は運用の負担をかなり気にしてる。たぶん今日もそこ突いてくる」
「で、こっちは数字出しすぎると逆に警戒される。朝比奈が拾った現場側の声、最初に出した方がいいかもな」
「そうだね」
澪は神谷の横顔を見ないようにしながら、タブレットの文字列に視線を落とした。悔しいけれど、こういう時の神谷は本当に頼りになる。
仕事の話をしていれば、余計な感情は消える……はずだ。
車内アナウンスが流れ、やや遅れて新幹線がゆっくりと動き出す。窓の外のホームが少しずつ後ろへ流れていくのを、澪は無意識に目で追った。
「今日、成功させような」
「そうだね」
「まあ、俺らの二人なら大丈夫でしょ」
神谷が小さく笑う。
その笑い方が、いつものようでいて、今は少しだけ心臓に悪い。自信満々すぎて、ちょっとむかつく。それでも少しだけ緊張がほぐれた。
澪は資料に目を戻した。
二人のあいだには資料の紙の擦れる音と、規則正しい走行音だけが残った。
新大阪に着く頃には、澪の頭もだいぶ仕事に切り替わっていた。
移動中ずっと資料を見ていたせいで、ホームに降りた瞬間、少しだけ目の奥が熱い。それでも、東京駅での妙な出来事は、新幹線の走行音と一緒にどこかへ流れていった。
改札を抜けると、神谷がすぐにタクシー乗り場の方へ視線をやった。
「時間、ちょうどいいな」
「道混んでそうだし、早めに来て正解だね」
「朝比奈がカフェラテこぼしてたら間に合わなかったかもな」
いつもの様にふざけてくる神谷に、視線だけを冷たく返す。
タクシーに乗り込むと、神谷はすぐに先方の住所を告げ、シートに背を預けた。大阪の街並みが窓の外を流れていく。
見慣れない道なのに、不思議と気持ちは落ち着いていた。
「現場責任者の反応、どうだった?」
神谷が前を向いたまま言う。
「前回まではかなり前向きだった。現場への負担が増えないなら、導入したいって」
「懸念は?」
「最初の運用と、トラブル時の対応。そこを丁寧に詰めればいけると思う」
「了解。役員にはコストより、導入後の安定運用を先に見せよう」
「うん。その方が刺さるはず」
会話は短いのに、噛み合う。
こういう時だけは、悔しいほどやりやすい。
タクシーを降りて、先方のビルのエントランスへ向かう。ガラス張りの高い建物は、地方の本社というより小さな要塞みたいで、澪は無意識に背筋を伸ばした。
「緊張してる?」
隣を歩きながら、神谷が何でもない調子で聞いた。
「してない」
「嘘つけ」
「なんでよ」
「だって、前でかい案件行く前、会社のロビーで死にそうな顔してるの見たし」
神谷はにやにやとしながら澪の顔を覗き込んだ。
嘘……いつのこと?見られてた?
澪は気にしてないふうに返す。
「いつの話よ」
「もう大丈夫だって」
「だといいけど」
「緊張しすぎて焦るなよ」
神谷はそう言って、先に自動ドアを抜ける。
いつもの少しだけ意地悪な言い方だった。
ロビーはひんやりと静かで、磨かれた床が靴音をきれいに返してくる。受付で名刺を渡し、担当者が来るまで少し待つように言われた。
壁際のソファに並んで腰を下ろすと、澪はバッグから資料を取り出して最後の確認を始める。
ページをめくる指先は、思ったより落ち着いていた。
仕事の前のこの張りつめた感じは嫌いじゃない。神谷も横でタブレットを開き、必要な情報だけを追っている。
「朝比奈」
「ん?」
「最初の導入、三分で切れる?」
「いける」
「少しだけ柔らかめで頼む」
「わかってる。神谷こそ、数字押しつけすぎないでよ」
「努力する」
神谷が口元だけで笑う。
澪もつられて少しだけ口元を緩めた、その時だった。
ぱらり、と手元の資料が一枚落ちる。
「あ」
床に落ちる前に、神谷がさっと身を乗り出して拾った。
紙を受け取ろうとして伸ばした澪の指先が、その手に触れる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、例の御守が熱を持った気がした。
次の瞬間、また澪の頭の奥に、あの声とも感覚ともつかないものが流れ込んでくる。
――良かった。ちょっとは緊張解れてそうだな。
澪の動きが止まった。
「朝比奈?」
神谷が拾った紙を差し出したまま、怪訝そうに澪を見る。
「……え」
小さく漏れた声は、自分でも間が抜けていた。
「何」
「……いや」
違う。
今のは、神谷が言ったわけじゃない。口は動いていなかったし、表情だっていつも通りだった。
なのに、たしかに神谷のものだった。
慌てて紙を受け取ると、神谷は小さく肩をすくめた。
「やっぱり緊張してる?」
「してない」
思わず言い返してから、澪は自分の声が少しだけ上ずっていることに気づく。
神谷はそこまで気にしていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、それ以上は追及しなかった。
「まあいいけど」
神谷はタブレットを閉じながら言う。
「担当、来た」
顔を上げると、スーツ姿の男性がエレベーターの方からこちらへ歩いてくるところだった。先方の総務担当らしい。澪は慌てて資料を整え、バッグの中へ戻す。
鼓動が少し早い。
それが、商談前の緊張のせいなのか、神谷の声のせいなのか分からなかった。
「行くぞ」
神谷が立ち上がる。
澪も一拍遅れて立ち上がり、その背中を追った。
今の、何。
けれど考える暇はもうなかった。
目の前の仕事を全力でやる。
***
通された会議室は、想像していたより広かった。
壁際に観葉植物が並び、中央に長い楕円形のテーブルが置かれている。大きな窓の向こうには大阪の街並みが広がっていたが、澪はそこを見る余裕もなく、案内された席に腰を下ろした。
ほどなくして、先方の担当者たちが入ってくる。
現場責任者の小西、総務部の担当者、それから役員らしい年配の男性が二人。
前回までの打ち合わせより一段階空気が硬い。最終提案だということを、改めて肌で感じた。
名刺交換を終え、簡単な挨拶が済むと、澪はノートパソコンを開いた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。これまで伺ってきた現場運用上の懸念点を踏まえて、導入後の運用負荷を抑えつつ、安定的に活用いただくための形をご提案できればと思っております」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
最初の数分で空気を作る。これは澪の役目だ。
相手の不安を先回りして拾い、こちらがちゃんと見ていることを伝える。資料を一枚ずつめくりながら、澪は事前ヒアリングで得た情報を丁寧に繋いでいった。
「前回、小西様からは“現場で新しいオペレーションが増えることへの抵抗感”についてお話をいただきました。そこを踏まえて、初期導入時は既存フローを極力崩さない設計を前提にしています」
「また、トラブル時の対応についてもご不安があると伺っておりましたので、サポート体制と一次切り分けの流れを、今回は具体的な運用イメージまで落としてお持ちしました」
相手の視線が資料の一点に集まる。
澪はそこを逃さず、必要なところだけを端的に補足した。
小西が小さく頷く。
「前回お話しした部分、かなり反映していただいてますね」
「はい。現場で運用いただく方が納得できない形だと、結局うまく回らないと思っていますので」
そこから先は、少しずつ会話形式になった。
質問が飛び、澪が拾い、必要な情報だけを返す。導入時の教育コスト、既存システムとの接続、トラブル対応の初動。どれも簡単な話ではないが、事前に想定していた範囲だった。
役員の一人が資料を閉じる。
「現場側の運用はわかりました。ただ、結局はコストとのバランスですよね。ここまで手厚くすると、導入費用がかさむのではないですか」
その問いに、会議室の空気がわずかに締まる。
ここだ、と澪は思った。
そして、隣の神谷がほんの少しだけ姿勢を変えたのがわかる。
「その点につきましては」
神谷が、静かに口を開いた。
声のトーンは低く落ち着いていて、押しつけがましさがない。
けれど、場の主導権を自然に引き取るうまさがあった。
「初期費用だけを見ると、安価な選択肢はいくつかあります。ただ、御社の場合は運用定着までの負荷をどう下げるかが一番大きい課題だと考えています」
「今回のご提案は、その定着コストまで含めて全体最適で設計しています。短期的な価格だけで比較していただくより、半年後、一年後に現場でどう回っているかを見ていただいた方が、むしろ差が出るはずです」
神谷は資料の別ページを開き、数字と導入スケジュールを並べて見せる。
「こちらが、他社導入事例を踏まえた立ち上がり時の負荷推移です。初期にサポートを厚くすることで、三か月目以降の問い合わせ件数がかなり落ちています。結果として、御社側の人的負担も総コストも抑えられる見込みです」
役員の視線が、再び資料へ落ちる。
神谷はそこから先、必要以上に喋らなかった。数字は数字として示し、最後の判断材料だけをきれいに置いていく。澪はその横顔を見ながら、営業一位の座は伊達じゃないと思う。
「それに」
神谷が一拍置いてから、澪の方へ軽く視線を寄越した。
「現場への落とし込みについては、朝比奈がここまで丁寧にヒアリングを重ねてきています。机上の提案だけではなく、実際の運用を見た形で詰められているのが、今回の強みだと思っています」
唐突に名前を出されて、澪は一瞬だけ目を瞬いた。
けれど表情には出さず、そのまま引き取る。
「ですので、導入後に“想定と違った”というズレはかなり小さくできると思っています」
「必要であれば、運用初期は現場責任者の方と定例で接続し、実際の負荷を見ながら調整をかけます」
そこから空気は少しずつ変わった。
硬かった質問が具体的な検討の話へ変わり、懸念は否定ではなく確認の色合いを帯びる。総務担当者がメモを取り、小西が「その運用なら現場も回せそうです」と口にした時、澪は内心でようやくひとつ息を吐いた。
最後に役員の一人が言う。
「よく練っていただいているのはわかりました。現場と経営、両方の視点がきちんと入っていますね」
「ありがとうございます」
澪が頭を下げると、隣で神谷も同じように会釈した。
会議が終わる頃には、最初の硬さはだいぶ薄れていた。
資料を閉じ、パソコンをしまいながら、澪は肩の奥に溜まっていた緊張がようやくほどけていくのを感じる。まだ正式な返答をもらったわけではない。けれど感触は悪くない。むしろ、かなりいい。
先方の担当者たちと一緒に会議室を出る。エレベーター前で見送りの挨拶をしていると、小西が笑いながら澪に向かって言った。
「朝比奈さん、今日も説明わかりやすかったです。現場のこと、ちゃんとわかって話してくれてるのがありがたいですね」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
自然に返しながらも、澪は胸の内で小さく安堵する。
やるべきことはできた。そう思えた。
その隣で、役員のひとりが神谷にも視線を向けた。
「神谷さんのまとめ方もよかったですね。数字だけじゃなくて、判断しやすい見せ方になっていた」
「ありがとうございます」
神谷はいつもの調子で穏やかに返す。
そして、そのままの流れで総務部の担当者が言った。
「もしお時間よろしければ、このあと軽くお食事でもいかがですか。せっかく大阪まで来ていただいたので」
澪は一瞬だけ表情を止めた。
仕事だ。
断る理由はない。
そう頭ではわかっているのに、商談を終えたばかりの身体には、正直少し重かった。けれどここで渋るのも違う。澪はすぐに笑顔を作る。
「ありがとうございます。ぜひ」
そう答えた瞬間、隣で神谷がごくわずかに黙った気がした。
ほんの一拍。
気のせいかもしれないほど短い間。
澪がそちらを見るより先に、神谷はいつもの顔で口を開く。
「ありがとうございます。ご一緒させてください」
その声音は穏やかで、いつも通り少しの乱れもなかった。
***
店は、駅から少し離れた落ち着いた和食居酒屋だった。
木の引き戸をくぐると、照明はやや暗く、奥の厨房から出汁の香りが流れてくる。会食向きのちょうどいい空気だ。
席に通されると、自然な流れで上座に役員、その隣に総務担当、向かいに神谷、そして現場責任者の小西が澪の隣に腰を下ろした。
「朝比奈さん、今日は本当にありがとうございました」
乾杯のあと、早々にそう言われて、澪は笑顔でグラスを置いた。
「こちらこそです。前回までにかなり細かくお話を伺えたので、こちらも提案に落とし込みやすかったです」
「いやいや、あそこまで現場のことをちゃんと汲んでもらえるとは思ってなくて」
「嬉しいです。現場で使われるものですから、そこが一番大事だと思ってます」
こういう距離の作り方は慣れている。
相手に話しやすい温度を作りつつ、必要な言葉は外さない。笑いすぎず、固くなりすぎず。澪は営業として、そのあたりの塩梅をよく知っていた。
「朝比奈さん、ほんと感じいいよねえ」
「うちの若い子たちにも見習わせたいくらいですよ」
「彼氏とかいるんですか?」
不意に混ざった私的な質問にも、澪は表情を変えなかった。
「今は仕事が恋人なので、そのへんはだいぶ放置気味です」
やわらかく返すと、場がどっと笑う。
料理が運ばれてきて、話題は導入後の体制や大阪の支社事情へ移っていく。酒も進み、最初のよそゆきの空気は少しずつほどけていった。
「朝比奈さん、結構いける口ですね」
二杯目のグラスを置いたところで、小西が感心したように言った。
「そんなに強くはないですよ」
「いやいや、全然顔に出てない」
「出したら負けかなと思って」
「はは、さすが営業マンですね」
また笑いが起きる。
澪も笑いながら、勧められた料理に箸をつける。
小西が料理を取り分けながら、何度か近い距離で話しかけてきた。
酔っているせいか、ほんの少しだけボディタッチが多いような気もする。
向かいでは神谷が役員に酒を勧められながら、導入後の支援体制について質問を受けている。返しがうまく、空気を壊さず、でも要点はちゃんと押さえている。そういうところは、やっぱり頼りになるし、本人には言わないけれど尊敬もしている。
ふと、卓上の小鉢を取ろうとした指先が神谷の手に軽く触れた。
ジャケットの内ポケットに入れいた御守が熱くなる。
――そんな触らせてんじゃねぇよ。
澪は一瞬だけ息を止めた。
「朝比奈さん?」
小西に呼ばれて、はっと顔を上げる。
「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。美味しくて油断しました」
冗談めかして返すと、また場がやわらぐ。
違う、今のは神谷の口から出たわけじゃない。
向こうは役員の話に頷いていただけだ。なのに、また聞こえた。あの、心に直接響くような声。
酔ったせいで幻聴を聞いているだけだ。
そう思うのに、心臓は少しだけ落ち着かなかった。
会食はそのあともしばらく続いた。
けれど、四杯目を飲み終え、日本酒を飲みだした時点で少しだけ酔いが回ってきた。
頬が火照って思考がまとまらなくなってくる。
そろそろまずいな。
「朝比奈さん、ほんと気持ちよく飲みますね」
「私、お酒は大好きなんです」
澪はそんな感情おくびにも出さず、笑顔でグラスに手を添える。
「いいですねえ。じゃあもう一杯いきましょう」
徳利が持ち上がる。
もう一杯だけなら。
そう思ったその時だった。
「その続き、俺が付き合わせていただいてもいいですか?」
向かいから、神谷がすっとお猪口を差し出す。
「こいつ飲みすぎると暴れ出すんで」
また場がどっと笑いに包まれる。
言い方はともかく、澪を助けてくれたようだ。
「それは困りますね」
「ちょっと見てみたいですが」
そう言いつつ役員たちは、神谷のお猪口に気持ちよく酒を注ぎ始めた。
澪は少し照れたように笑って見せて、「すみません」と呟いた。
こっそりと視線を神谷に向ける。
彼は役員たちと笑顔で話を続けていた。
ほんの少し、グラスをもつ手の甲が神谷の手に触れた。
御守が熱を持つ。
――飲み過ぎだろ。本当無茶するんだから。
澪は思わず目を逸らす。
神谷は何事もない顔で、注がれた日本酒を飲み干していく。
これは、御守のせいなの?
ただの私の妄想?
それとも……。
これが本当に彼の声なのだとしたら。
頬が熱い。
酒のせいか、そうじゃないのか、自分でもよくわからなかった。
「朝比奈さん、大丈夫ですか?」
小西にそう聞かれて、澪ははっと笑顔を作った。
「大丈夫です。ちょっと酔ったかもしれません」
「じゃあお水頼みましょうか」
「ありがとうございます」
そう返しながら、澪はもう一度だけ向かいを見た。
神谷は視線に気づいたのか、ほんの一瞬だけこちらを見返して、何でもない顔で小さく眉を上げる。
彼が何を考えているのか、無意識に想像してしまう自分がなにより厄介だった。
そのあとも会食はしばらく続いたが、空気はすっかり和やかだった。
役員たちの話題は導入後の体制から大阪の支社事情へ移り、やがて出張の多さや新幹線の混み具合といった、他愛のない話に変わっていく。
「いやあ、今日は本当にいい話が聞けました」
最後に役員のひとりがそう言って立ち上がる。
「ありがとうございます。正式なお返事は社内で調整して改めてになりますが、かなり前向きに検討したいと思っています」
その言葉に、澪は胸の内で小さく息をついた。
まだ決まったわけではない。けれど、ここまで来られたのは大きい。
「本日はありがとうございました」
澪と神谷がそろって頭を下げると、先方も機嫌よく会釈を返した。店先で簡単な挨拶を交わし、ようやく会食が終わる。
店の外に出た瞬間、夜の空気が熱を帯びた頬をすっと撫でた。
「はあ……」
無意識に息が漏れる。
緊張が解けて、ようやく気を張らなくてよくなったと安堵した。
隣で神谷が少しだけ笑う。
「おつかれ」
「神谷こそ」
街灯の明かりの下で見る神谷の横顔は、店の中と変わらず落ち着いていた。少しも酔っているようには見えない。さっきまであれだけ飲んでいたくせに、どういう肝臓をしているのだろうと本気で思う。
ホテルまでは歩いて十分ほどだと、店を出る時に総務担当が教えてくれていた。夜の大阪の街は東京より少しだけ空気がやわらかくて、酔った身体には心地よかった。
しばらく無言で歩いてから、澪は小さく口を開く。
「……さっきは、ありがと」
「何が」
神谷はとぼけたように視線を寄越す。
「お酒、代わりに飲んでくれた」
「別に」
「朝比奈が限界近い顔してたから、ちょっと止めただけ」
「……そんな顔してた?」
「うん、俺じゃなきゃ見逃してたね」
澪が眉を寄せると、神谷はまた少しだけ笑った。
「でもまあ、よく頑張ったじゃん」
「プレゼンも含めてさ」
「何か上から目線じゃない?」
文句を言いながらも、澪は少しだけ優しい気持ちになった。
なんだかんだ頼りになる男だと改めて思う。
「ちょっと無理させたよね、ごめん」
ぽつりとそう言うと、神谷はすぐに首を振った。
「別に。俺、酒強いから」
いつもの軽い口調。
けれど、その言葉の終わりとほとんど同時だった。
歩道の少し高くなった縁石に靴先が引っかかったのか、神谷の身体がほんのわずかによろめく。
「ちょっ…!」
澪は反射的に、その袖を掴んだ。
触れた瞬間、ジャケットの内ポケットの御守がまた熱を持つ。
次の瞬間、頭の奥に、あの声が落ちてきた。
――お前が困ってるの、見てられないから。
澪の呼吸が止まる。
「……おっと、悪い」
神谷が振り返る。
澪は慌てて手を離した。
神谷は少しだけ黙ってから、少し気まずそうに笑いながら視線を逸らした。
「ちょっとだけ、きたかも」
澪は動揺していることを気付かれないように、努めて平静に返す。
「やっぱり」
「寝れば治るよ」
少しだけ一緒にいるのが気まずくなって澪は言う。
「私、コンビニでお水買ってくる」
「神谷は先にチェックインしておいて」
神谷は少しだけ目を見開いて返す。
「え。じゃあ俺も一緒に行くよ」
「いいから」
少しだけかぶせ気味に否定して、澪は道路の向かいに視線を向ける。
「他に欲しいものある?」
神谷はまだ何か言いたそうだったが素直に頷いた。
「いや、大丈夫。ありがとな」
「何か必要な、物があったら連絡して」
そう言い残して、澪はそのまま足早に横断歩道へ向かった。
信号はちょうど青に変わったところで、夜の車道を渡る風が少しだけ冷たい。さっきまで頬にのぼっていた熱が、ようやくまともな温度に戻っていく気がした。
コンビニの自動ドアが開く。
店内に流れる軽い音楽が、さっきまでの会食の空気を一気に遠ざけた。
澪はカゴを持つでもなく、冷蔵ケースの前で立ち止まった。
さっきといい、あの声はいったい何だったのか。
この御守が関係していることは間違いない気がする。
澪は胸ポケットに入れた御守を優しく押さえた。
神谷の本音?なのか?
それとも私の願望?
でもそれって、私があいつに守ってもらいたいって思ってるってことにならないだろうか?
酔いもあって余計にまとまらない思考を巡らせる。
答えは出ないので、澪は考えるのを諦めミネラルウォーターを二本手に取った。
少し迷って、スポーツドリンクも一本カゴに入れる。
それとレジに向かう途中で目に入ったお味噌汁と、自分用のアイスも追加する。
会計を済ませて店を出る。
澪はそれ以上自分の考えを追いかけないように、足早にホテルへ戻った。
***
自動ドアの向こう、ロビーのソファに神谷はいた。
チェックインはまだ終わっていないらしく、フロントから少し離れた場所でスマートフォンを見ている。
ネクタイを少しだけ緩めて、ソファの背にもたれているその姿は、いつものきっちりとしたものとは違って親近感を覚えた。
澪に気づくと、神谷が顔を上げる。
「早かったな」
「すぐそこだったし」
澪は袋を持ったまま近づいて、そのままミネラルウォーターとスポーツドリンクを差し出した。
「はい」
「……何これ」
「お水と、あと一応。二日酔いにはこれだよね」
神谷は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しおかしそうに笑う。
「気が利くじゃん」
「まあね」
自分が優位になったような気分になって澪は自慢げに笑った。
神谷が袋の中を見ていると、澪用に買ったアイスに気がついたらしい。
「これは?」
「それは私の!」
食い気味に言うと、神谷は無邪気に笑った。
「なんだ残念」
「食べたかったら言えばよかったのに」
澪は少しだけ意地悪く返してみたが、神谷はそれ以上何も言わなかった。
ただ澪の事を見つめていた。
ロビーの時計が、静かに時を刻んでいる。
フロントではまだ何やら確認が続いていて、すぐには呼ばれそうにない。
澪は手持ち無沙汰をごまかすように、自分の水のキャップを開けた。
「……神谷」
「ん?」
「今日は、おつかれさま」
「朝比奈も」
それだけの短いやり取りなのに、妙に静かで、妙に優しい。
今まで神谷は澪にとって、『感じのいい腹立つ同期』だった。
だけど今日一日、彼の声を聞いてそれ以上のものを感じ始めていた。
ロビーの明かりの下でスポーツドリンクのボトルを持つ神谷を見ながら、澪は小さく息を吐く。
御守のせいなのか。
酒のせいなのか。
考えがまとまることはなかった。




