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営業一位のライバル同期の本音が聞こえて困っています  作者: 春野スミレ


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1/5

NO.1 最悪の出張が決まりました

 月初の朝は、営業部全体が少しだけ浮き足立つ。

 その理由は単純だ。前月の成績が、数字になって張り出されるから。


 コピー機の横の掲示スペースには、始業前だというのに人だかりができていた。

 コーヒー片手に覗き込む者、名前を見つけて声を上げる者、すでに結果を知っていたらしい上司に冷やかされている者。

 いつもの光景なのに、朝比奈はこの時間があまり好きじゃない。


 好きじゃないくせに、毎月まっさきに見に来てしまう自分も、少し嫌だった。


「朝比奈さん、今月もすごいですね」


 後輩にそう声をかけられて、朝比奈は曖昧に笑った。

 視線はもう、紙の上の上から二番目に吸い寄せられている。

 そのひとつ上には、今月も変わらず神谷の名前があった。


「……っ」


 思わず舌打ちしそうになって、かろうじて飲み込む。

 先月より差は縮まっている。件数も単価も十分すぎるほど良かったはずだ。それなのに、結果はまた同じ並びだ。


一位、神谷 湊。

二位、朝比奈 澪。


 見飽きた並びだった。


「いやー、さすが神谷さんっすね。三か月連続一位じゃないですか?」

「先方の役員まで掴んでたって聞きましたよ」

「朝比奈さんもすごいですけど、神谷さんやっぱ安定感えぐいな」


 背後から聞こえてくる声に、澪はふうっと細く息を吐いた。

 わかっている。神谷はすごい。悔しいけど、それは認めるしかない。


 顔がよくて、愛想もいい。目上受けも取引先受けも抜群。

 資料は見やすく、詰めは細かく、最後のひと押しがうまい。

 営業として隙がない。

 ついでに、こういう場で褒められても「運がよかっただけですよ」なんて涼しい顔で返すところまで抜かりない。


 感じがいい。腹が立つくらいに。


「すごいじゃん」


 すぐ後ろから落ちてきた声に、澪は振り返らずに眉を寄せた。

 顔を見なくても分かる。


「今月も二位だ」


「煽ってるの?」


 振り向くと、神谷は片手に缶コーヒーを持ったまま、いかにも余裕のある顔で立っていた。

 ネクタイはきっちり締まっていて、髪もいつも通り整っている。無駄に顔がいいところもむかつく。


 澪が睨むと、神谷はいたずらっぽく笑った。


「そんなわけないよ」

「本当にすごいと思ってる」


「来月は負けないから」


 澪は小さく息を吐いて、もう一度貼り紙に目をやった。

 神谷が隣に並ぶ気配がする。


「でも、先月より取れてるだろ。あの医療法人の案件、おまえが拾ってなかったら無理だったし」


「……え?」


「何」


「……褒めても何も出ないわよ」


 思わずそう返すと、神谷は喉の奥で少しだけ笑った。


「ま、来月も俺が一位だけどね」


 こういうところだ。

 フォローしたかと思えば、きっちり煽ってくる。

 澪の負けず嫌いを面白がっている節がある。


「そんなに眉間にしわ寄せてると取れなくなるぞ」


 神谷が覗き込むように言ってくる。


「余計なお世話よ」


 澪は小さく息を吐いて、視線だけを神谷に向ける。


「……来月は勝つから」


 そんな捨て台詞を吐いて自分のデスクに戻っていった。


***


 澪が自分のデスクへ戻ると、隣から後輩の明るい声が飛んできた。


「朝比奈さんと神谷さんって、ほんと仲いいですよね」


 澪は勢いよく後輩の方を見る。


「…そんな事ないと思うけど」


 引きつった笑みを浮かべて返すと、後輩は楽しそうに身を乗り出した。


「だって神谷さん、朝比奈さん相手の時だけちょっと子供っぽいと言うか、素が出てる感じで」


「それは単に、私が同期だからじゃない?」


「それも含めて、です。なんか距離近いなって」


 そう言われて、澪は一瞬だけ言葉に詰まる。

 周りからそんなふうに見えているとは思わなかった。


「神谷さんって、イケメンだし、優しいし、頼りになるし、絶対モテますよね。たぶん狙ってる女性社員、けっこういますよ」


「……まあ、いそう」


 顔だけで言えば確かにイケメンだ。

 でもそれ以上にむかつくほうが多い。

 気にせず後輩は続ける。


「でも朝比奈さんと付き合うなら、納得しちゃいます」

「美男美女カップルですもん!」


「やめてよ」


 澪は苦笑して首を振る。


「そんなんじゃないし」


「ほんとですか?」


「ほんと。あいつ、私には結構意地悪だし」


 彼女はまだぶつぶつと何かを言っていたが、澪は聞こえないふりをした。


「変なこと言ってないで、仕事しなさい」


「はーい。でも私、二人のこと推してますから!」


 後輩は言いたいことを言えて満足だというように、デスクに向き直った。

 

 澪も気を取り直して、ノートパソコンを立ち上げる。

 仕事を始めようとした視界の端で、斜め前の席にいる神谷が後輩に何か説明しているのが見えた。


 要点をわかりやすく、相手の表情を見ながら言葉を選んでいるのが遠目にもわかる。後輩が何度も頷いているのを見て、澪はそっと眉を寄せた。


 自分でも分かっている。

 自分よりも何でも上手くこなせる神谷が正直羨ましかった。


 ……こんなんじゃだめ。来月こそ頑張らないと。


 澪は雑念を振り払うように首を横に振った。

 その時、後ろから声がかかる。


「朝比奈さん、部長が会議室呼んでます」


 総務部の女性に呼ばれ、顔を上げた。


「今ですか?」


「はい。神谷さんも一緒にって」


 思わず神谷の方を見ると、彼と目が合った。

 何となく気まずくてすぐに目を逸らす。


 澪は「ありがとうございます」と返すと、一人で会議室へ向かった。


 会議室に着くと、一足遅れて神谷が来た。


「一緒に来れば良かったのに」


 彼は拗ねたように言った。


「別にどっちでもいいんじゃない?」


 さっき後輩から言われた事を意識しているのか、二人きりなのが妙に落ち着かなかった。


 幸運にも、私たちを呼び出した部長はすぐにやってきた。

 そして二人を順番に見る。


「揃ってるな。じゃあ手短にいく」


 部長はそう言って、テーブルの上に一冊のファイルを置いた。

 表紙に印字された会社名を見て、澪は背筋を少し伸ばす。

 

 西日本エリアで医療機器を扱う大手企業。先月から何度か打ち合わせを重ねていた案件だ。

 先方の反応は悪くなかったが、競合も強く、最後の詰めでどう転ぶかわからないと思っていた。


「来週、先方の大阪本社で最終提案をやる」


  部長はページをめくりながら続けた。


「今回はこちらから二人出す。神谷と、朝比奈」


 澪は一拍遅れて、「はい」と返した。

 大阪出張。神谷と二人で。


 視線を上げると、神谷はいつもの落ち着いた顔で「承知しました」と答えていた。

 部長は淡々と説明を続ける。


「神谷はクロージングが強い。最終の条件整理と先方役員への押し込みはお前がやれ。朝比奈は前段でだいぶ空気を作ってる。現場責任者の信頼も取れてるから、そのまま関係値を崩さず引っ張ってくれ」


  少し間を置いて、部長はにやりと言った。


「正直、お前たち二人なら勝てる案件だと思っている」


 澪は膝の上で両手を握りしめた。

 自分に掛けられた期待と、プレッシャーに胸が高鳴る。

 相棒が神谷なのは複雑な気持ちだが、仕事だけで言えばこれ以上ないほど心強かった。


「移動は前日入りじゃなく当日朝でいい。昼すぎから商談だ。詳細は今日中に秘書課から飛ぶはずだ」


  部長は二人を見比べる。


「社にとっても大事な案件だ。お前たちならできると信じている」


 部長の言葉に、澪は「はい」としっかり返した。

 隣で神谷も同じように返事をする。

 それを確認して、部長は満足そうに頷いた。


「よろしく頼む。細かい準備はそれぞれ進めておいてくれ」


 そう言い残して会議室を出ていく。

 ドアが閉まると、急に部屋の中が静かになった。


 澪は目の前のファイルに視線を落とす。

 大きな案件だ。競合も強い。けれど、だからこそ燃える。

 絶対に取りたい。


「今日中に先方の役員情報、もう一回整理しとく」


 先に口を開いたのは神谷だった。

 さっきまでの軽口とは打って変わって、声は落ち着いている。


「朝比奈は現場責任者側の反応、もう一回まとめてくれる?」


「……わかった」


「あと、前回のヒアリングメモも共有して」


「言われなくても」


 澪がそう返すと、神谷はほんの少しだけ口元を緩めた。


「頼りにしてる」


 ……こういう時だけ素直なんだよな。


 澪は何も返さずに、ファイルをまとめて席を立つ。

 神谷もそれに続いた。


 並ぶなら中途半端ではいたくない。

 神谷の隣で足を引っ張る気はない。


 会議室のドアノブに手をかけながら、澪は小さく呟いた。


「神谷のことも頼りにしてるから……」


「ん?何か言った??」


 澪の声は神谷には届かない。


「何でも」


 そう返して、二人は会議室を後にした。


***


 会議室を出たあとも、午後の澪は忙しかった。


 現場責任者とのこれまでのやり取りを見返し、先方が何に一番重きを置いているのかを改めて整理する。

 競合との差別化、導入後のサポート体制、現場の負担感。資料の見せ方ひとつで印象は変わる。

 神谷と組むからには、営業として恥ずかしくない準備をしておきたかった。


 途中、神谷から役員情報をまとめたファイルがチャットで飛んできた。

 必要な情報だけがきれいに並んでいて、無駄がない。さすがだ、と思うと同時に少し悔しい。


 それでも澪はすぐにヒアリングメモを整え直し、補足をつけて送り返した。

 すぐに既読がつき、メッセージが返ってくる。


 助かる。


 短くひと言。

 それだけのことで思わず口元が緩みかけて、澪は慌てて画面から目を逸らした。


 仕事が終わる頃には、窓の外はすっかり夕方の色に変わっていた。

 フロアのあちこちでパソコンを落とす音がして、誰かが「お先です」と声を上げる。


 澪もノートパソコンを閉じて、軽く肩を回した。集中していたせいか、首のあたりがじわりと重い。

 けれど不思議と嫌な疲れではなかった。


「朝比奈さん、お先に失礼します」


 後輩に声をかけられて、澪は顔を上げる。


「お疲れさま」


「朝比奈さんも、無理しすぎないでくださいね」


「ありがとう。そっちもね」


 柔らかく返してから、自分もバッグを持って立ち上がる。

 ふと斜め前の席を見ると、神谷の姿はもうなかった。


 先に帰ったのだろう。

 それが当たり前のことなのに、ほんの少しだけ拍子抜けした自分に、澪は内心で首をひねる。


 何を期待しているの。

 別に一緒に帰るわけでもないのに。


 エレベーターを降り、ビルの外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。昼間より少し気温が下がっていて、火照った頭にはちょうどいい。

 通りには仕事帰りの人が行き交い、信号待ちの列ができている。いつもの帰り道。いつもの街。


 けれど今日は、少しだけまっすぐ帰る気になれなかった。

 澪は人の流れからそっと外れ、少しだけ遠回りする道を選んだ。


 会社の近くには古い建物が少しだけ残っている。再開発の高いビルの谷間に、細い路地や小さな店が挟まっていて、そこを歩くと時間の流れがほんの少し緩む気がした。


 角を曲がったところで、ふと石段が目に入る。

 小さな鳥居。控えめな灯り。

 通りからほんの少し入っただけなのに、そこだけ音が遠い。


「……こんなところに神社なんてあったんだ」


 ひとりごちて、澪は足を止めた。

 少し迷ってから石段を上る。


 境内は思ったよりもこぢんまりとしていて、けれど手入れは行き届いていた。

 古い木の匂いと、夕方の冷えた空気が混ざっている。

 さっきまで頭の中にあった仕事のざわめきが、ほんの少しずつ遠のいていくのがわかった。


 賽銭箱の前に立って、小銭を入れる。

 二礼二拍手一礼。

 何を願えばいいのか少し迷って、結局浮かんだのはひどく単純な言葉だった。


 来月こそ、勝ちたい。

 神谷に。

 できれば気持ちよく、文句のつけようがない形で。

 目を開けた時、背後から不意に声がした。


「難儀じゃな」


 澪はびくりとして振り返る。


 社務所のほうから、年配の男がゆっくり歩いてきていた。

 白い装束に袴姿。年齢は六十をとうに越えていそうなのに、足取りは妙に軽い。この神社の宮司だろう。


「……そんなに険しい顔してました?」


「そうだのう」

「まだまだ自分の心に素直になれないんじゃな」


 何のことか全く分からないけれど、見透かされたみたいで少し落ち着かない。


 澪が何も返せないでいると、宮司は袖の中から小さな御守を取り出した。


 深い藍色の布地に、銀糸の刺繍。派手ではないのに目を引く色だった。房の代わりに細い組紐が結ばれていて、どこか古びた雰囲気がある。


「これを持っていくとよい」


「……なんですか?」


 澪は差し出された御守を見つめたまま首を傾げる。


「縁にまつわるものじゃ」


 宮司は御守を差し出したまま、穏やかに続ける。


「心の霧が晴れるじゃろう」


 相変わらずよく分からない。

 澪は少しだけ迷ってから、そっと手を伸ばした。

 御守は見た目よりも少しだけ重く、掌の上で不思議にしっくりきた。


「……願い事が叶うってことですか?」


 宮司は優しげな表情を崩さず答える。


「それが心から望むことならな」


 澪は御守を見下ろした。

 藍色の布。銀の刺繍。


――神谷に勝てるってことかな。


「……ありがとうございます」


 澪が礼を言うと、宮司はもう社務所の方へ背を向けていた。

 そして独り言のように呟いた。


「若いのう」


 宮司の姿を見送ると、澪は貰った御守をバッグの内ポケットにしまった。

 寄り道先での思わぬ展開だったが、ちょっとだけ心が安らいだ気がする。


 境内を出る頃には、空はすっかり夜の色になっていた。


***


 玄関のドアを閉めた途端、外のざわめきがふっと遠のく。

 一人暮らしの部屋は静かで、会社にいた時の緊張がようやくゆるんでいくのがわかった。


 ジャケットを脱いでソファの背に掛け、キッチンでグラスに水を注ぐ。喉を潤してひと息ついてから、澪はバッグを開けた。


 財布、社員証、スマートフォン。

 その隣に、さっきもらった御守がある。

 願い事が叶う。心の霧が晴れる。

 そんな曖昧な言葉を、なんだか信じてしまった。


「……気休めだよね」


 自分に言い聞かせるように呟いて、御守をテーブルの上に置く。


 明日から大阪出張だ。

 そんなものに意味があってもなくても、やることは変わらない。当日はいつも通りやるだけだ。


 澪はクローゼットを開けて、小さめのキャリーケースを引っ張り出した。


 二日分の着替え、仕事用のブラウス、ストッキング、化粧ポーチ、充電器。必要なものをひとつずつ並べていく。

 こういう単純な作業をしていると、余計なことを考えてしまう。


 お昼の後輩の言葉。

――美男美女カップルですもん!


 澪はブラウスを畳む手を止めて、小さく首を振る。

 神谷は仕事ができるし、頼りになるのも事実だ。

 だが今まで一度も恋愛対象として見たことは無かった。

 

「……何考えてるのかしら」


 なんだか無駄に神谷を意識してしまった自分が嫌になった。


 荷物を詰め終えて、キャリーケースのファスナーを閉める。

 ついでに、出張用の資料もまとめてバッグに入れ直した。

 内ポケットに御守を戻すか少しだけ迷って、結局そこにそっと滑り込ませる。


 ただのお守りだ。

 けれど、少しはこのモヤモヤした気持が晴れるならと自分に言い聞かせた。

 明日の商談で余計な雑念が入ることだけは避けたい。


 澪はそのままベッドに倒れ込んだ。

 天井を見上げると、白い光が静かに広がっている。


 明日から神谷と二人で出張。

 ただの仕事なはずなのに、胸の奥が妙にそわそわして落ち着かなかった。


 その夜は、なかなか寝つけなかった。


***


 翌朝、目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光は白くて、まだ街が動き出す前の静けさがある。


 枕元のスマートフォンを見ると、通知がひとつ入っていた。

 神谷からだった。


『おはよう、遅刻すんなよ』


 メッセージに、澪はしばらく無言で画面を見つめたあと、ようやく眉を寄せる。


「……誰のせいでちょっと寝不足だと思ってるのよ」


 もちろんそんな事送るわけにもいかず、澪は代わりに短く打ち込む。


『わかってる、そっちこそ遅れないでね』


 送信した瞬間、既読がついた。


 同時に、絶妙な顔の猫が親指を立てているスタンプが送られてくる。


 今までプライベートでメッセージをやり取りしたことがなかったので、そんなスタンプを持っていることが意外だった。

 少しだけ笑いそうになった自分がいて、澪は慌ててスマホを伏せる。


 身支度を整え、最後にバッグを持ち上げる。

 内ポケットに入れた御守が、そこにちゃんとあるのを確かめてから、澪は玄関のドアを開けた。


 出張なんて、ただの仕事だ。

 神谷と一緒だろうと、いつも通りやればいい。


***


 東京駅は、朝からすでに人で溢れていた。

 平日らしくスーツ姿の会社員が多いが、旅行客らしい人影もちらほら混じっている。

 構内アナウンスの声、キャリーケースの車輪の音、どこかから漂ってくるコーヒーの香り。澪は人の流れを避けるように歩きながら、スマートフォンで時間を確認した。


 待ち合わせの十分前。

 少し早いくらいだと思っていたのに、集合場所の柱の前にはもう神谷がいた。


 ネイビーのスーツに黒のトレンチコート。肩にビジネスバッグを掛けて、スマートフォンを片手に立っている。

 こちらに気づくと、神谷は画面から目を上げた。


「おはよう」


「おはよう、はやかったわね」


 澪が近づくと、神谷は視線を落として彼女の手元を見る。


「それ、重くない?」


「え?」


「バッグ。資料、キャリーケースに入れなかったの?」


 澪も自分のバッグに視線を移す。


「ああ」

「ちょっと新幹線で資料の確認したくて」


「俺も資料見せてもらいたいし、持とうか?」


 新幹線のチケットを確認しながら言う声音は、ひどく自然だった。

 こういう何気ない気遣いを、神谷はわりと平気でする。


「大丈夫よ」

「お気遣いありがとう」


「そう?」

「まあ、お前怪力だしね」


 ひと言余計だが。

 ちょっとでも見直した自分があほらしいと思いつつ澪は改札を通った。

 神谷がふと立ち止まり振り返る。


「ホーム行く前にコーヒー買うけど、朝比奈は?」


「じゃあカフェラテを」


「了解」


 神谷はそれだけ言って売店の方へ向かった。


――やっぱりちょっとは見直してあげようかな。


 澪がそんな事を思っている間に、神谷は紙カップを二つ持って戻ってきた。片方を差し出され、澪は礼を言って受け取る。


「ありがと」


「熱いから気をつけて」


 澪は小さく頷いて、蓋の飲み口に口をつけた。ちょうどいい温度で、少しだけ肩の力が抜ける。


「……こういうところだけ、無駄に気が利くのよね」


「褒めてる?」


「半分くらいは」


「残り半分は?」


「むかつく」


「ひど」


 神谷が笑う。

 澪もつられて少し笑ってしまった。


 発車時刻が近づき、二人は改札を抜けてホームへ向かう。朝のホームは人が多く、乗車位置にはすでに長い列ができていた。


 澪は神谷の少し後ろを歩いて、列に並ぼうとした。

 その時、横から早足で通り過ぎた男の肩が、澪の腕に軽くぶつかる。


「あ……」


 一瞬、身体がよろめいた。

 その腕を、すぐ隣から伸びてきた手が掴む。


「危なっ」


 ぐい、と引かれて、澪の肩が神谷の腕に軽くぶつかった。紙カップの中身が少しだけ揺れる。


「ちゃんと前見て」

「服にこぼしたらヤバいだろ」


 呆れたような声。

 いつも通りの、少しだけ意地悪な言い方。

 なのに、その瞬間だった。


 バッグの内ポケットのあたりが、熱くなった気がした。

 次の瞬間、澪の頭の奥に、言葉とも感覚ともつかないものがふっと流れ込んでくる。


――ほんと、目を離せないんだよな。


 息が止まった。


「……朝比奈?」


 神谷の声に、はっと顔を上げる。

 神谷は眉を寄せて澪を見ていた。いつもの落ち着いた顔。少し心配そうで、でもそれ以上のものは何も見せていない。


「大丈夫?」


「え……」


 間の抜けた声が漏れる。


「今、何か……言った?」


 自分でも変なことを聞いていると思った。

 神谷は一瞬だけ目を細め、それから小さく首をかしげる。


「ちゃんと前見てって」


「その後」


「その後?」


 よく分からない質問に彼は困惑していた。

 澪もまた、今何が起きたのか考え込んでいる。


「朝比奈?」


 もう一度、神谷が呼ぶ。

 澪は数秒遅れて、こくりと頷いた。


「……大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」


「そう?」


「うん」


 神谷はまだ何か言いたげだったが、それ以上は聞かずに手を離した。触れていたところだけが、妙に熱い。


 ちょうどその時、新幹線がホームに滑り込んできた。風が巻き起こり、アナウンスの声が重なる。


 澪は無意識にバッグの上から御守のある場所を押さえた。

 布越しに、まだ微かな熱が残っている気がした。


 今の、何。


 神谷はもう何事もなかったように前を向いている。

 けれど澪だけが、その場に取り残されたみたいに動けなかった。


 あれって……、神谷の声??


「……どういうこと?」


 小さく漏れた声は、新幹線の到着音にあっさりかき消された。

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