NO.5 自分の言葉で確かめたい
神谷の背中が、店の灯りの向こうへ消えていく。
このまま帰したら、たぶんもうだめだ。
そう思った途端、身体が勝手に動いていた。
「すみません、私もちょっと……!」
後ろで誰かが「あれ、朝比奈さん?」と声を上げた気がしたけれど、もう振り返れなかった。バッグを握り直して、澪はそのまま走り出す。
夜の空気が一気に頬へぶつかる。
店の明かりから離れた歩道の先に、神谷の後ろ姿が見えた。
歩幅が大きい。
あの人、普段からこんなに足速かったっけ。
「神谷!」
思っていたより大きな声が出た。
神谷の肩がぴくりと動いて、ゆっくり振り返る。
「……朝比奈?」
驚いた顔をしている。
そりゃそうだ。自分だって、追いかけてきたことにまだ半分くらい驚いている。
澪は少しだけ息を切らしながら、神谷の前で立ち止まった。
「どうした」
「……っ、ちょっと」
「ちょっと?」
街灯の下で見る神谷の顔は、店の中にいた時より静かだった。さっきまでの賑やかな空気がもう遠くて、ここだけ切り取られたみたいに感じる。
何か言わなきゃと思うのに、追いついたことで精一杯で、頭の中が真っ白になる。
神谷が少しだけ眉を寄せる。
「何かあった?」
その声音がやさしくて、澪は余計に焦った。
違う。
何か言いたくて追いかけてきたのに、肝心の言葉が出てこない。
「……あの」
「うん」
「もう少しだけ、付き合ってくれない?」
ようやく絞り出した声は、思っていたより小さかった。
神谷が一瞬だけ目を瞬く。
「付き合うって」
「その、飲み直すとか」
澪は自分でも何を言っているのかわからなくなりながら、言葉を足した。
「さっき、あんまり話せなかったし」
神谷はすぐには答えなかった。
その沈黙がやけに長く感じられて、澪は慌てて視線を逸らす。
「無理ならいい」
「いや」
神谷の声が、静かに澪を止めた。
「無理じゃない」
そのひと言に、胸の奥が少しだけほどける。
神谷はポケットに片手を入れたまま、澪を見ていた。
店の前では見せなかった、少しだけ戸惑ったような顔。それでも、目を逸らさない。
「……朝比奈から誘ってくれるなんて、ちょっと意外」
「悪い?」
「別に」
神谷はかすかに口元を緩める。
その表情を見て、澪は少しだけ息を吐いた。
「近くでいい?」
「うん」
「じゃあ、行くか」
神谷が歩き出す。
今度は澪も、ちゃんとその隣に並んだ。
夜道を二人で歩く。
避けられなかった安心感より、緊張が強くなってくる。
勢いで誘ったが、この先どうするのかは何も決めていない。
「朝比奈」
「……何」
「俺と話したかったの?」
少しだけ笑いを含んだ声に、澪はそっと視線を返す。
「ちょっとだけね」
いつもだったら何か言い返していたと思う。
けれど今は素直になりたかった。
神谷は予想とは違う返しに少し驚いていたが、それ以上は追及しなかった。
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。
その中で、澪の鼓動だけが大きく鳴っていた。
少し歩いた先に、こぢんまりとしたバーが見えた。
派手すぎず、仕事帰りでも入りやすそうな店だ。神谷が立ち止まって、看板を一瞥する。
「ここでいい?」
「……うん」
澪が頷くと、神谷はドアを開けた。
温かな照明が、外の夜気とは違うやわらかな空気を流してくる。
澪は小さく息を整えてから、そのあとに続いた。
店の中は、思っていたより静かだった。
カウンターが数席と、二人掛けのテーブルがいくつか。照明は控えめで、低く流れるジャズがかすかに耳に残る。さっきまでいた居酒屋の賑やかさが嘘みたいに遠かった。
神谷が店員に二人だと告げると、奥の小さなテーブル席へ案内された。
向かい合って座る。
それだけで、また心臓が走り出す。
「何飲む?」
先に口を開いたのは神谷だった。
澪はメニューを開いてみたものの、並んだカクテルの名前を見ても正直よくわからない。
「……こういうの、あんまり詳しくなくて」
「じゃあ、飲みやすいやつにする?」
「私が好きそうなの選んで」
「それ、責任重いな」
少しだけ笑ってから、神谷はメニューを閉じた。
「甘すぎないほうがいい?」
「うん」
「じゃあ、チャイナブルーあたりにしとく?」
「名前かわいい」
「そこ大事なんだ」
「大事だよ」
店員が来ると、神谷は自分の分にウイスキーのロックを頼み、澪にはチャイナブルーを注文した。
店員が去っていくと、また静けさが戻る。
神谷はテーブルの上で指を軽く組んだまま、店内を見回していた。
澪は覚悟を決めて口を開く。
「……ごめん」
神谷の視線がこちらに向くのがわかった。
「この前」
澪は視線をテーブルに落としたまま続ける。
「廊下で、手……払ったやつ」
神谷はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙のあと、低い声が返ってくる。
「うん」
「あんなふうにするつもりじゃなかったの」
「……」
「ちょっと、自分でも整理できてなくて」
「うん」
「避けたかったわけじゃない」
そこまで言ったところで、ちょうど飲み物が運ばれてきた。
神谷の前には、琥珀色のウイスキー。
澪の前には、薄い青に光るカクテルが置かれる。氷が光を透かして、やけに綺麗だった。
神谷はウイスキーのグラスに手をかけて静かに言った。
「正直、傷ついた」
澪の指先がぴくりと止まる。
神谷はすぐに、少しだけ口元を緩めた。
「結構へこんだし」
「嫌われたかと思った」
「それは違う」
澪は思わず顔を上げた。
「嫌いじゃない」
神谷はその返事に、ふっと肩の力を抜いたように見えた。
「ならよかった」
少しだけ、いつもの調子に近い、からかうような言い方。
澪は視線を落とした。
こういうふうに言われると、余計に何を返せばいいのかわからなくなる。
空気を変えるように神谷が言う。
「それ、飲んでみれば」
澪はテーブルの上にある青い液体が入ったグラスに視線を落とす。
「これ……、かわいいね」
神谷は小さく笑って、自分のグラスを持ち上げた。
「じゃあ改めて。案件、おつかれ」
「……おつかれ」
グラスを軽く合わせる。
澪はカクテルをひと口飲んだ。思ったよりさっぱりしていて、ライチの華やかな香りが鼻から抜ける。
神谷も静かにウイスキーを口に含む。
「どう?気に入った?」
澪は手元のグラスをゆっくり回しながら答える。
「うん。飲みやすい」
「よかった」
神谷は優しく微笑む。
ほんの少し、二人の間の空気が和らいだ。
「神谷はそういうの詳しいんだ」
「まあ、多少は」
「なんか大人っぽいこと言ってる」
「何だよ、それ」
前みたいな気軽なやり取りが戻ってきて、澪は小さく息をついた。
「……大阪の件、ほんと決まってよかったね」
「だな」
「最後、かなりひやひやしたけど」
「朝比奈が現場側ちゃんと押さえてたからだろ」
「神谷がまとめてくれたからでしょ」
「珍しく素直」
「今日はそういう日なの」
「へえ」
神谷は少しだけ目を細めて、グラスを傾けた。
いくつかグラスを重ねる頃には、二人の間の緊張も無くなりかけていた。
けれど、肝心のことはまだ何ひとつ切り出せないでいた。
会計を済ませて店を出ると、夜風が頬を撫でた。
表通りの明るさから離れた道は思ったより静かで、遠くを走る車の音だけが細く響いている。街灯に照らされた歩道を、二人で並んで歩き出した。
店の中で元に戻りかけていた距離が、また遠くなる。
二人の間に再び沈黙が落ちる。
神谷は何も言わず、澪の隣を歩いている。
本題を切り出すには、澪の覚悟がまだ足りなかった。
視界の端で神谷のコートの裾が揺れる。歩幅が少し大きいのに、ちゃんと澪の速さに合わせてくれているのがわかって、胸の奥がまたざわついた。
「……」
何度目かわからない深呼吸をした時だった。
「朝比奈」
低い声が、夜の空気を静かに揺らす。
神谷は少しだけ目を細めて、それから前方を顎で示した。
街路樹の向こう、小さな公園があった。深夜に近い時間のせいか人影はなく、入口の脇に古いベンチがひとつ置かれている。
「ちょっと座らない?」
あまりにも自然にそう言われて、澪は一瞬だけ目を瞬いた。
きっと自分が何かを切り出せないのを見抜いていたのだろう。
そういう優しさが、本当にずるい。
「……うん」
澪が頷くと、神谷はそれ以上何も言わず、公園の方へ歩き出した。
ベンチに並んで腰を下ろす。
冷えた木の感触が、じんわりと太ももに伝わった。
夜の公園は静かだった。
遠くで車の音が流れて、風が木の葉を揺らす。そのかすかな音のあいだに、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いている気がした。
澪は覚悟を決めるように膝の上で指を握りしめる。
「神谷は……」
喉が少し震える。
それでも、今度は止まらなかった。
「私のこと、どう思ってるの?」
言ってしまった瞬間、胸の奥がすうっと冷える。
もう戻れない。
隣で神谷がわずかに息を止める気配がした。
ややあって、低い声が返ってくる。
「……なんで?」
澪は唇をきゅっと結んだ。
神谷は少しだけ笑う。
いつもの軽口みたいで、でも、その奥に緊張が混じっているのがわかった。
「俺のこと、ムカつくって言ってなかった?」
からかうみたいな言い方。
澪はようやく顔を上げた。
神谷の横顔は、いつもより少しだけ真剣で、だから余計に苦しくなる。
「……いや」
それしか言えなかった。
感情が上手く言葉にならない。
澪は無意識に手を伸ばしかけた。
ほんの少し、触れれば。
またあの声が聞こえるかもしれない。
この苦しさから解放されたい。
けれど、その手は途中で止まった。
「……っ」
澪は息を詰めて、自分でその手首を掴む。
だめだと思った。
この御守のせいで、勝手に神谷の心を盗み見て、勝手に動揺して、勝手に傷つけた。
もうそんな事したくなかった。
神谷はそんな澪の仕草を、黙って見ていた。
二人の間に沈黙が落ちる。
澪にはそれがひどく長く感じられた。
次の瞬間、神谷の腕が澪の背中へ回る。
「え……」
驚く間もなく、澪は引き寄せられた。
胸の中に収まるみたいに抱きしめられて、息が止まる。
神谷の体温が近すぎて、思考がうまく動かない。
「朝比奈」
耳元で呼ばれる声が低い。
澪が顔を上げるより先に、神谷がそっと唇を重ねた。
やさしく触れて、それから少しだけ深くなる。
澪は目を閉じるのも忘れそうになって、遅れてまぶたを伏せた。
頭の奥が熱い。
胸の奥がぐしゃぐしゃに甘い。
触れたら、また聞こえると思っていた神谷の声はもう何も聞こえなかった。
ただ、神谷の腕の強さと、唇のぬくもりだけが、ひどくはっきりしていた。
唇が離れたあとも、神谷はすぐには距離を取らなかった。
額が触れそうな近さで、澪を見つめる。
「俺は」
その一言で、澪の呼吸がまた止まる。
神谷はもう笑っていなかった。
逃げもごまかしもない顔で、まっすぐに言う。
「俺は、ずっとお前のこと好きだった」
澪は何も言えなかった。
聞きたかったはずなのに。
知りたくて、怖くて、それでも知りたかった答えが、こんなにも真っ直ぐ返ってくるなんて思っていなかった。
「……うそ」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
神谷が少しだけ眉を上げる。
「嘘ついてどうすんの」
「だって……」
「だって?」
「そんなの、知らない」
澪の声は震えていた。
神谷はふっと息を吐いて、それでも腕を離さない。
「気づいてなかったの、お前だけだろ」
その言い方が少し意地悪で、でもたまらなく優しい。
澪は泣きそうになるのをこらえて、胸元に手をやった。
御守はそこにある。
でも、もう何も教えてくれない。
澪はそっと神谷のシャツを掴む。
「私も」
「……うん」
「たぶん、ずっとじゃないけど」
「そこ正直だな」
「でも……、好き」
言ってしまったあとで、顔が熱くなる。
神谷は一瞬だけ目を見開いて、それからまたからかうみたいに笑った。
「朝比奈、顔真っ赤」
「見ないで」
たまらず顔を背けると、神谷が少しだけ身を寄せる気配がした。
「だめ」
「ちゃんと見せて」
低い声でそう言われて、澪の心臓がまた大きく跳ねる。
「やだ」
「やだじゃない」
澪が抗議すると、神谷は少しだけ意地悪く笑った。
神谷はそっと澪の顎に指をかける。逃がさないみたいに、やさしく顔を戻される。
「だって、そんな顔してる朝比奈、俺しか見れないし」
「……っ」
その言い方は反則だった。
視線がぶつかる。
近い。
近すぎる。
澪はもう耐えきれなくて、目を伏せた。
「ほんと、かわいい」
「もう、やめて……」
「やめない」
「今まで散々振り回されたんだから、このくらい我慢して」
「そんなつもりじゃ……」
「知ってる」
そのひと言だけ急にやさしくて、澪はまた胸が詰まる。
次の瞬間、神谷がもう一度澪を引き寄せた。
今度のキスは、さっきより少しだけ深くて、少しだけ甘かった。
確かめるみたいにゆっくり重なって、澪は神谷のシャツを掴む手に思わず力を込める。
息が苦しくなる直前で、神谷がわずかに唇を離した。
額が触れそうな近さのまま、神谷が澪を見る。
「まだ恥ずかしい?」
澪はもう顔を上げられなくて、小さく頷く。
神谷がまた笑う。
「じゃあ、慣れて」
その返しがまたずるくて、澪はとうとう神谷の胸元に額を押しつけた。
「……もう、ほんと無理」
神谷はそんな澪を抱き寄せたまま、満足そうに息をついた。
「会社ではいつも通りにしてよね」
恥ずかしさを紛らわすように澪が言う。
神谷は一瞬きょとんとしたあと、喉の奥で笑った。
「今さら何それ」
「大事なの」
「はいはい」
「絶対だよ」
「善処します」
「それ信用ならないんだけど」
そんなやり取りさえも、少しだけ甘く聞こえた。
神谷は肩を揺らして笑っている。さっきまでの真剣な顔が少しだけほどけて、ようやくいつもの神谷に近い表情に戻った。
けれど、もう前と同じではないことを澪は知っている。
神谷がそっと手を差し出す。
澪は一瞬だけ迷ってから、その手を取った。
指先が触れても、もう何も聞こえない。けれど不安はなかった。神谷の手の温度が思ったより少し高くて、それだけで十分だった。
二人で公園を出る。
夜風は冷たいのに、手のひらの内側だけがやけにあたたかい。街灯の下を並んで歩くたび、繋いだ手が小さく揺れた。
神谷は少し前を向いたまま言う。
「いつも通り、ね」
「朝比奈の方こそちゃんとできる?」
「出来るに決まってる」
澪が少しだけムッとして返すと、神谷が急に立ち止まり顔を近づけてきた。
思わず顔を背ける。
「やっぱり無理だよ、顔真っ赤だもん」
「それは……!神谷が変なことするから!」
神谷はいたずらっぽく笑って言った。
「まあ、頑張ってね」
澪は何も言い返せなかった。
ただ、熱くなった頬を触って不服そうに黙ることしか。
駅前が近づくにつれて、人の気配が少しずつ増えていく。終電を気にする声、タクシーのライト、コンビニの明るさ。
改札の前で、二人は足を止める。
「じゃあ、また明日」
少しだけ離れがたかったが、手を繋いだまた澪が言う。
神谷はすぐには頷かなかった。少しだけ意地の悪い目をして、澪を見る。
「明日さ」
「朝比奈にそんな顔されたら、耐えられる自信ない」
そんなに顔に出ていたのか。
澪は一瞬言葉を失って、それから小さく神谷の腕を叩いた。
「もういい。帰る」
「うん、おやすみ」
「……おやすみ」
手が離れる。
でも、そのぬくもりはしばらく掌に残ったままだった。
***
翌朝、澪はいつもより少しだけ早く会社に着いた。
鏡で何度も表情を確認して、深呼吸までしてきたのに、エレベーターを降りた瞬間から落ち着かない。昨夜のことが夢じゃなかった証拠みたいに、唇にまだ熱がのこっている気がする。
仕事しよう。
いつも通り。
そう言い聞かせながら自席に向かう。
「おはよう、朝比奈」
背後から落ちてきた声に、澪の肩がぴくりと揺れた。
振り返ると、神谷が立っていた。
いつものスーツ姿。いつもの落ち着いた顔。
「……おはよう」
なんとか返すと、神谷はほんの少しだけ口元を緩めた。
「何、その間」
「別に」
「全然いつも通りじゃないけど」
「うるさい」
澪が小さく睨むと、神谷は何でもない顔でデスクに書類を置いた。
「午後、部長に昨日の進捗共有するから」
「うん」
「その前に資料見せて」
「わかった」
仕事の話ならいつも通りできそう。
そう思った矢先。
神谷は書類を渡すふりをして少しだけ身を寄せると、周りには聞こえない声で囁いた。
「俺、ちゃんといつも通りにしてるだろ。偉い?」
澪は一瞬で顔が熱くなる。
「……っ」
何か言い返すより先に、神谷はもう離れていた。何事もなかったみたいに自分の席へ向かっていく背中が、やたら涼しい。
やっぱり神谷がムカつくのは相変わらずみたいだ。
澪はそっと息を吐いて、モニターを立ち上げる。
キーボードの音、電話の声、コーヒーの匂い。全部前と同じなのに、自分の世界だけ少し違って見える。
澪は小さく口元を緩めてから、開いた資料に目を落とす。
今日もたぶん、忙しい。
それでも、前ほど悪くはなかった。
普段通りにしたいのにできない会社での1日を描いた番外編1と、週末の金曜日に飲みに行って神谷のお家にお泊まりする番外編2も鋭意制作中です!!ぜひお付き合いください〜




