第55話: 帰還の途――不気味に揺れる精霊の歌
カエン大陸を後にし、一行は再びジークフリートが創造した「氷の覇道」の上を走る魔導馬車の中にいた。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの白銀の世界。だが、その氷は数日前のような絶対的な静止を失い、海流に合わせて微かに、不気味に揺れている。
「……旦那様。本当にお疲れではないですか? 行きよりも少し、顔色が優れないように見えますけれど」
馬車の中、リリアーナが心配そうにジークフリートの顔を覗き込む。
彼女は彼の右手を、まるで宝物でも扱うかのように両手で包み込んでいた。
「……案ずるな。昨夜、君を抱いたまま少し夜更かしをしただけだ。……リリアーナ、そんなことよりも、この氷のバラを見ろ。君の瞳に似た、美しい色に仕上げた」
ジークフリートは努めて平然を装い、左手で空中に小さな氷の細工を作り出した。
本来なら瞬時に、思考の速度で完成するはずの芸術品。だが、その氷の薔薇は、完成した端から微かな亀裂が走り、結晶の輝きがどこか濁っている。
ジークフリートの視線が、リリアーナに握られた自分の「右腕」に落ちた。
そこからは、もはや魔力の波動が感じられない。ただの肉体としての温もりだけが、リリアーナの熱に溶かされるようにしてそこに存在している。
(……これほどか。……概念の浸食が、これほどまでに早いとはな)
内心の焦燥を悟らせぬよう、ジークフリートはリリアーナを抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。彼女から伝わる生命の鼓動が、消えゆく自分の存在を繋ぎ止める唯一の錨のように感じられた。
「……パパ。あんまりイチャイチャしてると、ママが疲れちゃうよ」
向かい合わせに座るエリアスが、不機嫌そうな声を出す。
だが、その瞳は笑っていない。彼はジークフリートの左手の僅かな震えを、一瞬たりとも見逃していなかった。
「……エリアス。お前は外の様子でも見ていろ。……ブリギッテが、先ほどから魔力の乱れを報告してきている」
「言われなくても。……ステラ、どう? まだ『歌』は聞こえる?」
エリアスの隣で、ステラが青ざめた顔で耳を塞いでいた。
「……はい。……精霊たちが、歌っているんじゃありません。……泣いているんです。……『食べられる』って。……足元から、何かが這い上がってきているって……!」
ステラの叫びと同時に、馬車が激しく跳ね上がった。
ズゥゥゥゥゥン!!
氷の道が、下から突き上げられた巨大な衝撃によって粉砕される。
ジークフリートは瞬時にリリアーナを抱き抱え、崩壊する馬車から外へと飛び出した。
氷原の上に降り立った彼らの前に現れたのは、深淵の軍勢の生き残り――いや、より進化した異形だった。
海水を漆黒の油のように纏い、全身が「穴」だらけの巨大な魚のような魔物。それが数十匹、氷を食いちぎりながら這い出してくる。
「……不浄な魚風情が。……わきまえろ」
ジークフリートが右手を突き出す。
本来なら、その一動作で海ごと凍りつき、敵は永遠の静寂に沈むはずだった。
だが。
……しん、とした沈黙。
ジークフリートの右腕からは、一欠片の魔力も放たれなかった。
魔物たちは好機と見て、一斉に牙を剥いて飛びかかる。
「……っ!?」
ジークフリートの瞳に、初めて明確な動揺が走った。
その瞬間、彼の前に黄金の壁が割り込んだ。
「どいて、パパ! そんな雑魚、僕の暇つぶしにもならないよ!」
エリアスがジークフリートを突き飛ばすようにして前に出ると、両手から凄まじい密度の「凍らない焔」を放射した。
黄金の炎が海面を走り、飛びかかってきた魔物たちを一瞬で炭化させる。
「……ふぅ。パパ、今の見た? 僕の焔、パパの氷を『避けて』焼くように調整したんだ。わざと魔力をぶつけなかったから、パパが技を出す必要もなかったでしょ?」
エリアスは勝ち誇ったように振り返り、リリアーナにウィンクしてみせた。
ジークフリートを助けたのではなく、「パパの見せ場を奪ってやった」という息子の生意気な振る舞いに見せかけた、完璧な隠蔽工作だった。
「まあ、エリアス。……なんて危ないことを。旦那様が片付けるまで待っていればよかったのに」
リリアーナは苦笑しながら、再びジークフリートの傍に駆け寄る。
「……旦那様? 大丈夫ですか?」
「……ああ。……エリアスの言う通り、少し油断した。……生意気な息子を持ったものだ」
ジークフリートは、感覚のない右手をマントの下に隠し、エリアスの背中を見つめた。
エリアスは、パパの視線に気づきながらも、わざと横を向いてステラに声をかける。
「……ステラ。今の、全部消えたよね?」
「……ええ。……でも、エリアス様。……今の魔物たちは、ただの『先触れ』です。……本体は、まだ……」
ステラが顔を向けたのは、カエン大陸の方ではない。
自分たちの故郷――アイスベルク帝国がある、北の空だった。
そこには、ジークフリートが作ったはずのオーロラではない、血のように赤い光が空を裂くようにして揺らめいていた。
「……あっちで、精霊たちが叫んでいます。……『皇帝のいない間に、家が燃えている』って……」
リリアーナの手が、ジークフリートの右腕の上で止まった。
彼女は、夫の右手が「温かい」のではない。
もはや「自分と同じ魔力の脈動」を一切発していないという事実に、今、気づき始めていた。
第55話、お読みいただきありがとうございました。
エリアス君の機転……! 「パパの弱体化」を「自分の生意気さ」でカバーする姿に、男の成長を感じますわ。
しかし、リリアーナ様の直感は誤魔化せません。そして、留守にしている帝国に迫る新たな影。
家族の「平和」が、内側からも外側からも削られ始めています……!
* 「エリアス君、最高の息子すぎる! パパとのアイコンタクトに痺れた!」
* 「閣下の右手がもはや『魔力を持っていない』なんて、リリアーナ様が気づいたらどうなるの……」
* 「帝国の異変!? 聖域に何が起きているのか気になります!」
と感じてくださった方は、ぜひ【ブックマーク】の継続、そして第3部への【評価】をお願いします!
皆様の応援が、家族を繋ぎ止める最後の氷の楔となります。
次回、第56話「帝都強襲――空を焼く漆黒の雨」
霧島 結衣でした。




