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第54話: 代償の兆し――凍てつかない右腕

深淵の霧が晴れ、カエン大陸の夜空には偽りのない星々が戻っていた。

 皇帝の寝室。リリアーナは覚醒の疲労からか、ジークフリートの腕の中で安らかな寝息を立てている。その瞳に刻まれた黄金の紋章は、今は瞼の裏で静かにその熱を潜めていた。


「……ふぅ」


 ジークフリートは、愛おしげにリリアーナの髪を撫でた後、そっと彼女を寝台に残して立ち上がった。

 バルコニーから差し込む月光の下、彼は自分の「右腕」をじっと見つめる。


 氷神ユミルの恩寵を受け、触れるものすべてを絶対零度の死へと誘うはずのその手が、微かに震えていた。


「……パキ……パキパキ……」


 ジークフリートが集中を高め、魔力を右手に集束させる。

 本来ならば、彼の意思一つで空気中の水分が結晶化し、美しい氷の華が咲き誇るはずの光景。だが、そこに現れたのは、ひび割れた不格好な氷の破片だった。

 それさえも、数秒と持たずに「溶解」していく。


 ――熱など、どこにもないはずなのに。


「……溶ける、だと?」


 ジークフリートの顔が驚愕に歪む。

 彼の氷は、概念的な「静止」だ。物理的な温度によって溶けるような軟弱なものではない。

 それがいま、自らの体温――いや、リリアーナの運命を肩代わりした際に引き受けた「何か」によって、内側から崩壊を始めていた。


「……パパ。何やってるの、こんな夜中に」


 背後から、低く、けれど鋭い声が響いた。

 エリアスだ。彼は部屋の隅、影の中から音もなく現れ、ジークフリートの右腕をじっと見つめていた。


「……エリアスか。寝ていろと言ったはずだ」


「ママが心配で眠れるわけないでしょ。……それより、その腕。パパの魔力が、変な音を立ててるよ」


 エリアスはジークフリートの傍らに歩み寄り、その右手に触れようとした。

 ジークフリートは反射的に手を引いたが、エリアスの目は誤魔化せなかった。


「……隠さないで。僕の半分はパパの氷なんだから、わかるよ。……パパ、その腕、『凍らなくなってる』んじゃなくて……『消えてる(・・・・)』んだね」


 エリアスの言葉に、ジークフリートは沈黙で答えた。

 

 そう、右腕の魔力回路が、まるで存在そのものを抹消されるかのように、白く透き通っていた。

 リリアーナが「生贄」という宿命から脱却し、自律した太陽となった。

 その歪みを正そうとする世界の理が、彼女をこの世に繋ぎ止めた「楔」であるジークフリートの存在を、代わりに消滅させようとしているのだ。


「……リリアーナには、言うな」


「わかってるよ。ママが知ったら、また自分を責めて、無理やり熱を使っちゃう」


 エリアスはジークフリートの隣に並び、父親と同じように夜の海を見据えた。

 十五歳の少年の横顔には、もはや甘えはない。あるのは、父の弱さを共有し、それを共に背負おうとする「男」の覚悟だった。


「……パパ。一つだけ約束して。……限界が来る前に、僕に言って。パパが消えたら、ママを守れるのは僕しかいないんだから」


「……生意気なことを。……私が消えるなど、万に一つもない。……この腕一本、世界の理にくれてやるくらいで、私はあいつ(リリアーナ)を放しはしない」


 ジークフリートは、感覚の薄れ始めた右手を無理やり握りしめた。

 

 翌朝。

 目を覚ましたリリアーナは、いつものように自分の隣で完璧な微笑を浮かべる夫の姿を見て、幸せそうに微笑んだ。


「おはようございます、ジークフリート様」


「ああ、おはよう。リリアーナ。……気分はどうだ?」


「ええ、とても清々しいですわ。……あら、旦那様。今朝は一段と、手が『温かい』のですね?」


 リリアーナが、ジークフリートの右手を両手で包み込み、頬を寄せる。

 その手は、かつてのような氷の冷たさを失い、人間に近い体温を宿し始めていた。

 

 ジークフリートは、リリアーナに悟られぬよう、一瞬だけエリアスと視線を交わした。

 エリアスは黙って頷き、朝食の準備をする侍女たちを呼びに行った。


「……そうか。君が温かくなったから、私もそれに合わせただけだ。……さあ、リリアーナ。朝食にしよう。……今日は、カエンの大陸を離れ、帝国への帰路につくぞ」


 愛する妻の笑顔を守るため、ジークフリートは自らの体が「虚無」に蝕まれ始めていることを隠し通す。

 それは、世界で最も甘く、そして最も残酷な、父と息子の「秘密の盟約」の始まりだった。

第54話、いかがでしたでしょうか。

「氷」の象徴だったジークフリート様の手が温かくなる……。それは喜ばしいことではなく、彼の存在そのものが削られているという恐怖。

そして、それをいち早く察知し、父を支えるエリアス様の頼もしさ! アイスベルク家の絆が、新たな局面を迎えました。


* 「閣下、リリアーナ様の前で完璧に振る舞う姿が切なすぎます……!」

* 「エリアス君、パパの異変に気づいて『秘密の共有』をするなんて、もう立派な相棒ですね」

* 「リリアーナ様の『手が温かい』という無邪気な言葉が、こんなに刺さるとは……」


と感じてくださった方は、ぜひ【ブックマーク】の継続、そして第3部への熱い【評価】をお願いします!

皆様の応援が、ジークフリート様の消えゆく存在を繋ぎ止める力となります。


次回、第55話「帰還の途――不気味に揺れる精霊の歌」

霧島 結衣でした。

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