第49話: 精霊の預言――赤く染まる外海の異変
「……来る。来ます、エリアス様。……逃げて、と。みんな、逃げてと言っています……!」
宵闇の廊下、エリアスの腕の中で、ステラは激しく身を震わせていた。
彼女の琥珀色の瞳は、今ここにない「何か」を映しているかのように虚ろで、その細い指先はエリアスの服の袖を白くなるまで握りしめている。
「ステラ? 落ち着いて、何が来るの? ここはパパが作った世界で一番硬い氷のパレスだ。何が来ても、僕が――」
エリアスの言葉は、突如として響いた「音」によって遮られた。
――ピキィィィィン……。
それは、ジークフリートがこのパレス全体に張り巡らせた、神の領域に等しい防護結界が「軋む」音だった。
エリアスの顔から色が消える。
この世に、パパの氷を内側からではなく、外側から物理的に侵食できる存在などいるはずがなかった。
「……ステラ、僕から離れないで」
エリアスは彼女を抱きかかえるようにして、再び皇帝の私室へと引き返した。
重厚な扉を蹴破るようにして飛び込むと、そこには既にバルコニーに立ち、遥か彼方の水平線を凝視しているジークフリートと、その傍らで不安げに胸を押さえるリリアーナの姿があった。
「パパ! 今の音……!」
「……ああ。私の結界の表面が、腐食し始めている。……それも、魔力ではない。もっと禍々しい、根源的な『飢え』のようなものにな」
ジークフリートの声は、これまで聞いたこともないほど低く、冷たかった。
彼は振り返り、エリアスに抱えられたステラを鋭く見つめる。
「娘。お前には何が見えている。精霊たちが何と言っている」
「……海が、死ぬと言っています。……あの日、カエンの巫女様がリリアーナ様を欲しがったのは、自国の太陽を守るためだけではありませんでした。……もっと暗い、海の底から湧き上がる『闇』を押し戻すための、熱源が必要だったのです」
ステラが震える指で、バルコニーの先を指差した。
月光に照らされた外海。
ジークフリートが数日前に作り上げた、あの美しく強固な「氷の覇道」が――赤く染まっていた。
それは夕映えの赤ではない。
海そのものが、まるで巨大な生物の体内を流れる「血」のように、どす黒い朱色へと変貌していたのだ。
そして、その血の海を割るようにして、幾千、幾万もの「異形の影」がこちらへと向かってきている。
「パパ、あれは……魔物なの?」
「……いや。魔力も魂も感じられない。……ただの『動く死』だ」
ジークフリートが右手をかざすと、大陸全土を覆うほどの巨大な氷の槍が夜空に出現した。
だが、その槍を放つよりも早く、海面が爆発した。
巨大な、あまりにも巨大な「触手」のような影が海から突き出し、ジークフリートの氷の道を、飴細工のように容易く砕いてみせたのだ。
「……っ、エリアス! リリアーナを連れて奥へ行け!」
「嫌だ! 僕も戦う! ステラが言ってるんだ、あいつらはママを狙ってるって!」
エリアスの手から、黄金の焔がかつてない激しさで噴き出す。
その光に照らされた「敵」の正体を見て、リリアーナは息を呑んだ。
それは、古代の神話に語られる、神に捨てられた失敗作。
「深淵の軍勢」――。
彼らは魔力を一切持たず、ただ周囲の熱と命を吸い尽くすことで増殖する、この世界の天敵。
「……私の楽園を、我が物顔で蹂躙しようとはな」
ジークフリートの灰青色の瞳が、極限の殺意を帯びて白銀に輝く。
「……リリアーナの髪一本、エリアスの爪一つ、その穢れた泥に触れさせると思うな。……大陸ごと、虚無の底へ凍りつかせてやる」
カエン帝国との戦いは、まだ前哨戦に過ぎなかった。
世界を救い、王となった家族の前に、ついに「世界の真の理」を嘲笑う絶望が、その姿を現した。
第49話、お楽しみいただけましたでしょうか。
ついに現れた、魔力を持たない「動く死」の軍勢。
最強のジークフリート様にとって、魔力を吸い取れない(=熱量のみを奪い合う)相手は、これまでにない相性の悪い難敵となります。
* 「閣下の氷の道が壊された……!? 敵の絶望感が半端ない!」
* 「ステラちゃんの予言能力、これからめちゃくちゃ重要になりそう」
* 「エリアス君、ママを守るためにパパと並んで戦う姿……熱すぎますわ!」
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次回、第50話「深淵の触手――凍てついた海を朱に染めて」
霧島 結衣でした。




