汚れ落とし
「いやぁぁあああっ!! 乱暴にしないでぇぇえ!!!」
アパートの狭いユニットバスで、アニーの甲高い悲鳴がシャワーの音とともに鼓膜を突き刺す。
「ふっざけんなよ!! お前ちょっと黙れ!!! まじで隣から警察呼ばれるだろうがっ!!」
僕は片耳を肩で塞ぎながら大声で叫び返した。
シャワーヘッドを片手に、もう片方の手で泡だらけのアニーを力任せに押さえつけている。
「いやぁぁああ!! 気持ちよく寝てたのに無理やり起こされて!! いきなり大嫌いな水ぶっかけられてぇぇ!!」
「ネットで検索したら急いで泥落とさなきゃ駄目って書いてあったんだよ!! ほら見ろよ!! 俺の服なんて速攻で洗ったからだいぶ綺麗になったんだぞ!?」
「いやぁぁあ!! あたしの綺麗な毛並みが……っ!! ふわふわの身体がぁあ!!」
「知ってるよ!!! 綺麗だから丁寧に洗ってんだろーが!!!」
「っ……!」
思わず口から飛び出た本音に、僕はハッとして自分の顔が熱くなるのを感じた。
泡まみれの腕の中で、アニーも一瞬ピクッと耳を跳ねさせて叫びを止める。
「あんた……あたしのこと、綺麗だって思って……っ。……でもいやぁああ!!! 水は大嫌い! 泡も大嫌い!! この匂いも大嫌いぃぃ!!!」
「うっせえええ!! 一人暮らしの安モンのボディーソープだから仕方ねえだろうが!! まじで頼むから黙ってくれ!!」
必死の形相でアニーを押さえつけ、泡を立ててゴシゴシと毛並みを洗う。
「ネットに書いてあったんだよ!! 『もみ洗い』って!!!」
「はぁっ!? それ服の洗い方でしょ!? 動物の洗い方で調べてないでしょバカ勇斗!!」
「え……あ、それは……」
「ふっざけるなー!!! あたしを服と一緒にするな!! ゴシゴシ揉むなあああ!!」
「ほら、最後すすぐぞ!!」
上も下も服を捲り上げて戦っていたが、容赦なくシャワーで温水をザバーッとアニーに浴びせかけた。
「ぷはっ! やっとシャワーが終わっ……」
お湯をしっかりと回しかけ、泡を洗い流した瞬間——思わず手をとめた。
「……お前、誰……?」
そこには、ふわふわだった毛並みがペッタリと身体に貼りつき、まるで別の生き物かと思うほど一回り……いや、二回りくらい細くなったショボショボの生き物が立っていた。
いつものボリュームが綺麗に消え去り、やけに大きな耳と、紫と緑のオッドアイだけがギョロリと際立っている。よくネットで見かける「お風呂に入って貧相になった犬や猫」そのものの姿だ。
『なによ……その「哀れなものを見る目」は……ッ!』
「いや……お前、毛のボリュームで大きく見えてただけで、本体めちゃくちゃ細かったんだな……」
『うるさい!! 早く拭きなさいよバカ勇斗!!』
屈辱に震えるアニーが身体を逆立てた次の瞬間——ブルブルブルッ!! と猛烈な勢いで全身を震わせた。
「ぶはっ!? ゲホッ……!!」
四方八方に飛び散る大量の水飛沫を正面から被り、僕は顔面から全身まで完全なびしょ濡れになった。
「……もういい!! 僕も入る!!」
ヤケクソになり、その場で濡れた服を脱ぎ捨てると、湯船の中にドボンと浸かった。
顔の水を拭いながらチラリと見ると、アニーの毛並みからはすっかり泥が落ち、自分の体の汚れが取れたか確かめるように丁寧にペロペロと舐めている。
(……あ、そういえば……)
僕は湯船から立ち上がり、濡れた身体のまま脱衣所の棚を漁り、「確かこの辺に……」と小さな小袋を取り出してきた。
洗面器に温かいお湯を張り、その小袋から小さく割った固形入浴剤のかけらをパチンと投げ入れる。お湯が一気にほのかに色づき、やわらかな香りが立ち上った。
「ほら、ここに入れよ。湯船だと深すぎて溺れるだろ?」
「は? なに!? 入らないからっ、そんな謎の水!!」
◇
数分後。
「……ふはぁぁ……っ」
アニーは洗面器の縁に小さな顎をちょこんと乗せ、お湯にどっぷりと浸かっていた。
極楽と言わんばかりに目を細め、浮いた尻尾が左右にゆら〜り、ゆら〜りとご機嫌に揺れている。
湯船からその様子を眺めながら、思わず口元を緩めてしまう。
「ふっ……また入ろうな。これ、日本の『文化』なんだよ」
「べ、別に入ってあげてもいいけど……『ブンカ』って、気持ちいいのねぇ……」
うっとりとトロンとした瞳で、アニーが語尾を伸ばす。
「いや、ブンカって名前じゃなくて、お風呂とか温泉って言うんだけど」
「ブンカでもオンセンでもどっちでもいいわよ……また『ブンセン』したいなぁ……」
完全にのぼせかけた寝ぼけ眼でぶつぶつと呟くアニーに、思わず噴き出してしまった。
アニーの身体を丁寧にタオルで包んで拭き、ドライヤーのスイッチを入れた。
「ブォォォンッ!!」
けたたましい駆動音と温風に、最初は『な、なにこれぇぇ!?』と怯えて逃げ出そうとしたアニーだったが、途中からは観念したようにぎゅっと目を瞑り、気持ちよさそうに暖かい風を全身に受けていた。その耐えている顔がなんとも可愛らしい。
全身の濡れた毛並みが全体的に乾き終わり、僕がドライヤーのスイッチをオフにした時だった。
(……あれ?)
アニーは、すっかり完全に夢の世界へ旅立っていた。
身体を少しゆらゆらと揺らしてみても起きる気配はなく、小さなお腹を上下させて『スースー……』と規則正しい寝息を立てている。
「……ふっ」
思わず口元がほころぶ。
僕は泥が綺麗に落ちたアニーをそっと優しく丁寧に抱きかかえ、自分のベッドの上へと乗せてやった。抱きかかえられても全く起きる気配はない。耳がぴくっと一度揺れたものの、大きな瞳が開くことはなかった。
ベッドの脇に腰を下ろし、アニーの背中を優しく撫でる。
泥で汚れる前と全く同じ、ふわふわで心地よい肌触り。手から伝わる温もりに、なんだか心の底からホッとして、いつまででもこうして撫でていたい気持ちになる。
ふと壁の時計に目をやると、針はすでに十八時を回っていた。
(起きたら、何か食べさせてやるか……)
……と思った瞬間、僕はハッと固まった。
(……あれ!? っていうか、キツネって一体何を食べるんだ……!? ネズミ!? 鳥の丸焼き!? 小動物……!?)
いやいやいや! そんなグロテスクなもの急に準備できるわけないし、仮に準備できたとして目の前で生の小動物を噛みちぎられているところなんて見ていられない!
(……キャットフードとかなら食えるのかな。あいつが起きたらすぐ食べさせてやりたいし、今のうちに近くのコンビニかドラッグストアで無難なキャットフードでも買ってくるか……)
そう思い立ち、ベッドから立ち上がったその時だった。
ピンポーン——……
静かな部屋に、突然インターホンの電子音が甲高く鳴り響いた。




