現実世界への帰還
『……もうたくさん働いて疲れちゃった……』
そう眠たそうに呟きながら、アニーは僕のパーカーの隙間からスルリと服の中に滑り込んできた。
「え! いや! 泥で汚れ——」
そこまで言いかけて、僕は服の胸元をそっと覗き込んだ。アニーは泥で汚れた顔のまま、僕の体温に包まれて安心したように小さな目を閉じようとしている。
(……そうだよな。こいつも頑張ってくれたもんな。僕も急に異世界に飛ばされて大変だったけど、こいつだって右も左も分からない僕に説明して、案内して、最後はあの小さな足で必死に土を掘ってくれたんだ……仕方ないか)
泥がつこうがなんだろうが、今回ばかりは怒る気になれなかった。
……だが、次の瞬間、僕はハッと我に返る。
(いやいや!! 待て待て待て!! ここで寝られたら、どうやって元の世界に戻ればいいんだよ……!?)
焦ってアニーを起こそうとした、その時だった。
——ズンッ!!
目を開けていられないほどの眩しい光が視界を埋め尽くした。同時に、あの異世界へ飛んだ時と同じ、胃がひっくり返るような激しい浮遊感が身体を襲う。
「……ッ……!?」
思わず目を瞑り、次に恐る恐る目を開けた時——僕は、見慣れたじーちゃんの蔵の中にいた。目の前には、あの古い金色の額縁に収まった白黒の絵が静かに佇んでいる。
「え……? 今までの、全部夢……?」
あまりのあっけなさに呆然としたが、服の胸元に確かな温もりと重みを感じて視線を落とした。服の中では、泥で汚れた小さな毛玉がすやすやと心地よさそうに寝息を立てている。さらに自分の右手を見ると、ずっしりと重いあの「黒い石」が握り締められていた。
「夢じゃない……確実に、さっきまであそこにいたんだ」
『勇斗ー! そろそろ帰るわよー!!』
1階から母さんの呑気な声が響いた。
ギシギシとはしごを登ってくる音が聞こえ、ひょっこりと母さんの顔が覗く。
「あんた、2時間もここにいて何してたの? 何も片付いてないじゃない。お母さんたち一回休憩して戻ってきたっていうのに」
「えっ……ああ、なんか色々昔のモノを見ててさ……」
(2時間も経ってたのか……!? ということは、絵の中の時間と現実の時間は同じスピードで進んでるってことか)
服の中のすやすや眠るアニーと右手の中の鉱石を必死に隠しながら、僕はぎこちなく顔だけを母さんの方へ向けた。すると、母さんが何かを怪しむように目を細める。
「……あんた、なんか汚れてない? 蔵の埃だけじゃなくて……なんか泥とか土っぽい臭いがする。それに、なんだか花の匂いまでしない?」
「え……ええ!? き、気のせいじゃない!? ほら、色んな古い骨董品があるからさ、色んな匂いが混ざってんだよきっと!」
「そうかしらねぇ……」
首を傾げながら、母さんはトントンとはしごを降りていく。その背中を追いかけるように、僕は慌ててはしごの隙間から顔を突き出した。
「母さん!!」
「なに? 急に大声出して」
「この絵……俺がもらっていい!? 俺のアパートに持っていきたいんだ!!」
帰りの車の中、僕は後部座席で大判の絵を隣に抱え、両親にバレないかヒヤヒヤしながらアニーを服の胸元で温めていた。
アニーはよほど疲れていたのか、自分のふわふわの尻尾をギュッと抱きかかえるようにして、小さな寝息を立ててすやすやと眠り続けている。
(……パーカーの内側、あちこちに泥がついちゃったな。アパートに帰ったらどうやってアニーと服の泥を落とそう……)
そんなことを考えていた時、フロントガラスの向こうを見つめていた母さんが、運転席の父さんに話しかけた。
「ねえ、あの手紙はどうしたの?」
「ああ、あれか……どこにあるか分かんないもんな。親父がどこかに隠してはいるんだろうけど……」
耳が跳ねる。思わず身を乗り出した。
「え!? 何それ、何の手紙!?」
何かこの絵や、じーちゃんの過去に関する手がかりになるんじゃないか。僕の勢いに、母さんは振り向いて苦笑いした。
「あんたには全然関係のないことよ」
「いや、気になるよ! 教えてよ!」
「ずいぶん前……あんたが生まれる前かしらね。おじいちゃんとおばあちゃんが大喧嘩……というか、おばあちゃんが一方的に大激怒してね。その理由が、ある『手紙』が出てきたことだったのよ」
「手紙……?」
「おばあちゃんの知らない女の人宛てでね。『あなたに会いたい』『どうやったらまた会えるだろうか』……みたいな、情熱的な内容が書かれた手紙を何十枚も隠してたの。でも、どれも切手すら貼ってなくてね。投函せずに、ただただ書いて溜め込んでいただけみたいなんだけど」
「相手は!? 相手は誰だったの!?」
「おじいちゃんも頑なに、相手が誰なのか教えてくれなくてね。『もう昔のことだからいいじゃないか』って誤魔化すんだけど……おばあちゃんが調べたら、その手紙、大喧嘩の数日前にも新しいのが書かれてたのよ。何年も何年も、ずーっとその人のことを想い続けてるなんて許せない! って、おばあちゃん、カンカンに怒っちゃってねぇ」
「そんなに好きな人が……じーちゃんにいたってこと……?」
「そうなのかもね。一生忘れられない人だったのかしら」
胸の奥がざわつく。息を呑んで尋ねた。
「な、名前……! 相手の名前とかは書いてなかったの!?」
「ああ、書いてあったわよ。確か……『エリさん』っておばあちゃんが言っていたような気がするわね」
「エリ……さん……」
頭の中で、じーちゃんの蔵にあったあの白黒の絵が浮かぶ。
中央に描かれていた、どこか切なげな表情の女性。だが……さっき絵の中で出会った少女『メアリー』とは明らかに違っていた。白黒の濃淡だけでも分かる。髪型も、雰囲気も、メアリーのそれとは別物だった。
(エリさん……あの絵の中に描かれていた女性のことだろうか? それとも、絵とは関係なく、本当にじーちゃんの現実にいた恋人……?)
服の中で静かに眠るアニーのぬくもりを感じながら、僕は流れていく車窓の風景をじっと見つめていた。




