青の染色
「ほんとうに、身体は大丈夫なのか……?」
僕はまだ心配でたまらず、アニーの顔を覗き込んだ。
「うん、なんともないわよ」
アニーはそう言うと、トンと軽やかに床へ降り立ち、自分の身体をクルリと回して毛並みや足元を確かめている。
「でも、ほんと助かったわ。あのままあっちの世界にいたら、私、魔力が完全にゼロに近かったから……数週間はこっちに帰って来られなかったはずよ」
「えっ! そうなのか……!? そんな危ない状況だったのか……」
冷や汗が背中を伝う。一歩間違えれば、アニーと僕はしばらく向こうの世界で身動きがとれなくなっていたかもしれなかったのだ。
「なんにせよ、あの不思議な女の子が助けてくれてよかったわね……」
「う、うん……。『私のために死んで』とか、なんか物騒なこと言ってたけど……」
思い出すだけで背筋がゾッとする。あの氷のような冷たい視線と不気味な笑み……。
(いや、今はもうあの女の子のことは考えないようにしよう。とにかくアニーが無事だったんだ、助かったんだから今はそれで良しとしよう……!)
僕は頭を振り、気持ちを切り替えるように声を張り上げた。
「それより! 今は、この『青の鉱石』を絵に塗らなくちゃ!! そしたら、アーシュたちのいるあの色のない氷の世界も、きっと状況が落ち着くはずだろ!?」
「そうね! 世界から色が失われて魔力の均衡が崩れたから、あんな異常な寒さやモンスターが現れてたんだもの。青を取り戻せば、きっと元に戻るわ!」
「よし……! ええと、今は……」
デスクの上のスマホを取り出して画面をタップすると、時計は18時を少し過ぎたところを指していた。
(今なら、まだひよりに来てもらえる時間だ……!)
急いでひよりにメッセージを送ると、すぐに「すぐ行くね!」と返信が返ってきた。
数分後、玄関のベルが鳴り、ドアを開けるなりひよりがぷくっと頬を膨らませて飛び込んできた。
「もーーーっ! 心配したんだからね!! 一日経ってもずっと待ってたのに全然帰ってこないんだもん!!」
「ご、ごめん……! ちょっと向こうでいろいろ大変なことがあって……」
申し訳なさそうに謝りながら部屋を見渡すと、散らかっていた本や小物がきれいに片付けられていた。僕を待ちながら、部屋を掃除してくれていたのだと気づき、胸がキュッと温かくなる。
「ひより、部屋をきれいにしてくれてありがとう」
「別にいいわよ……どうせ暇だったし…。それに無事に帰ってきてくれたから……」
照れながら下を向くひよりが可愛らしく思えた。こっちも釣られて照れそうになる。それを隠すように言葉を発す。
「じゃあ、……さっそく、絵の具の準備をしよう!」
「うん!」
僕たちは部屋の真ん中に置かれた大きな魔法の絵の前へと向かった。
まず、そっと表紙を開き、最初のページを見る。緑と赤が吹き込まれ、色鮮やかに蘇った子供の頃に見たあの懐かしい景色。
続いて、丁寧に2ページ目をめくる。前回、ゼインの城とその城下町に『赤』の色を取り戻した、命の熱気を感じさせるページだ。
そして、めくった先の3ページ目——今回僕たちが命がけで足を踏み入れ、駆け抜けてきた『海と氷の国』のページが開かれた。
画面全体がほとんどモノクロで描かれ、寒々しい灰色の雲と凍てつく氷原が広がる。
「ここに、この『青』を入れたらいいのね」
ひよりがパレットと筆を準備しながら、僕の手の中にある幻想的な青い輝きを見つめた。
「うん。頼むよ、ひより」
するとひよりは「あっ、待ってて!」と思い出したように声を上げると、パタパタとカバンの方へ走っていった。そして、以前アニーがひよりへあげた、あの虫眼鏡を、まるで宝物でも扱うかのように両手で大切そうに抱えて戻ってきた。
細かい境界線や模様に綺麗に絵の具を乗せられるよう、真剣な表情でルーペを覗き込むひより。
その様子を横でじっと見ていたアニーが、「ふふっ、相変わらず丁寧」と満足そうに目を細め、ホッとしたように小さな吐息を漏らした。
ひよりがナイフで削った青の鉱石の粉末を、特殊な絵の具に混ぜ合わせていく。パレットの上で、吸い込まれるような美しいコバルトブルーの絵の具が完成した。
「いくよ……」
ひよりがルーペで手元をしっかり確認しながら、繊細な筆先を絵本の『海と氷の国』のページへとそっと降ろした。
一筋の青い絵の具が紙に触れた瞬間——
シュワァァァ……ッ!!
絵全体が眩い青い光に包まれ、ページの中の凍てついた海や空、そして雲のすき間へと、波紋のように美しい青色がサーッと広がっていった。色彩が吹き込まれると同時に、暗く重苦しかった氷の世界に、まるで澄み切った冬の空のような透き通るような美しい輝きが宿っていく。
「できた……! すごいよ、ひより!」
「うん……! とってもきれいな青……!」
光が収まった絵本の中で、描かれたアーシュたちの背景には、見渡す限りの美しい青空と、宝石のように輝く青い氷海が広がっていたのだった。




