助け舟
ミシミシッ……!!
氷の階段に足を乗せるたび、足元が嫌な音を立てて砕け落ちていく。立ち止まればその瞬間に下へと真っ逆様だ。僕は滑り、つっかかりながらも、必死で次の段へと足を伸ばして駆け上がった。
腕の中で小さく丸まるアニーの呼吸が、刻一刻と弱くなっていくのが伝わってくる。
(アニー……頼むから耐えてくれ……!!)
自然と抱きしめる腕に力が入る。
最後の段を蹴り上げ、なんとか崖の上へと飛び込んだ瞬間、背後でバラバラと大きな音を立てて氷の階段が崩れ去っていった。まさに間一髪、命がけの登頂だった。
ハッハッと荒い息を吐きながら顔を上げると、そこではカイト、アーシュ、フランの三人があの氷翼の巨鳥と激しい応戦を繰り広げていた。
巨鳥が凶暴に羽ばたくたび、凄まじい強風とともに鋭利な氷の破片が刃物のように襲いかかる。カイトは黒い剣を構え、アーシュとフランも武器を手に、飛来する氷の刃を必死で弾き返していた。
「大丈夫か!? 勇斗!!」
剣を交えながら、ちらりと後ろを振り返ったアーシュが叫ぶ。
「う、うん。なんとか……っ! で も、アニーが……!」
呼びかけても、アニーは弱々しい呼吸を繰り返すだけだ。このままじゃアニーの命が危ない。だが、目の前の氷鳥の攻撃が激しすぎて、みんなもアニーの手当てどころか近づくことすらままならない。
このままじゃ、みんな……!
その時——。
吹き荒れる凍てつく風よりも、さらに底冷えするような凄まじい冷気が、背後からスッと立ち込めた。
同時に、あの鈴を転がすような声が耳元に届く。
「ふふっ。また、自分のことより他人の心配なのね」
声の方をパッと振り返ると、そこには——あの白銀の長い髪と着物風の服を纏った、小さな女の子が立っていた。
(いつの間に……!?)
氷鳥が巻き起こす猛烈な吹き荒れる氷の刃も、なぜかその少女の周りだけは避けるようにすり抜けていき、まったく効いていないようだった。
女の子は面白そうに、クククと小さな口元を緩めて笑い続けている。
「あなた、寒さで感覚が麻痺してるから分かってないみたいだけど……その腕、そのままにしてたら死ぬわよ?」
「え……?」
言われてハッとし、自分の右腕に目を落とす。
氷のつららで引き裂かれた右腕からは、今もダラダラと赤い血が流れ続けていた。その血は止まることなく、腕の中に抱くアニーの白い毛並みにもベッタリと痛々しくこびりついている。
寒さによる凍えるような激痛はずっと感じていた。でも、アニーを助けるのに必死すぎて、自分の体なんて完全に後回しになっていたのだ。
「その化け猫と同じくらい瀕死なのに……ふふっ、本当に面白い人」
少女はクスクスと嘲笑うように笑ったあと、冷酷で静かな、冷たい視線で僕を射抜いた。
「だが、こんなところで死ぬな。……私のために、その命を使いなさい」
それはお願いなどではない。抗うことを許さない、絶対的な「命令」の響きだった。
「何を言っ……!?」
僕が言い終わるより早く、少女が小さな手を僕の方へと静かに翳した。
直後、目も眩むような眩い光が放たれ、全身の重力が消え去ってズドンと深く沈み込むような浮遊感に襲われる。
視界が真っ白に染まる中、すぐ耳元で少女の声が低く響いた。
「一度だけ、チャンスをやろう。……それをどう使うかは、お前次第だ」
答える間も、言葉を返す隙すらなかった。
あの、現実世界へと引き戻される時の——空間が歪み、意識が急速に現実に浮上していく独特の感覚。
——ハッ……!?
ガバッと跳ね起きると、そこは見慣れた天井と、自分の部屋のベッドの上だった。だが、肌を刺すようなあの冷たさと、右腕の激痛は残ったままだった。
視線を落とすと、破れた服の袖からダラダラと床へ赤い血が流れ落ちている。そして、僕の胸の中には、毛並みを血で濡らしたまま息も絶え絶えのアニーが横たわっていた。
「とりあえず現実世界に戻っただけ……?
いや、違う……何かあるはずだ! あの女の子が言っていた「一度だけのチャンス」の意味が……! 僕とアニー、二人ともが助かる方法が絶対にあるはずだ!!」
乱れる息を整えようと、無理やり深呼吸を繰り返す。右腕からはドクドクと真っ赤な血が流れ続け、寒さと出血のせいで指先の感覚が急速に痺れ、鈍くなっていた。このまま手当てをしなければ、本当にあの女の子の言う通り死んでしまう。
パニックになりそうになる頭を必死で制する。
落ち着け……落ち着け!! あいつが僕をここへ送った意図はなんだ……? 僕の周りに何がある……!?
その時——床にポタポタと落ちる、自分の真っ赤な血を見てハッとした。
記憶の奥底から、ゼインの言葉が甦る。
——『赤は、血の色』
「これ……なのか……!?」
痛む右腕をかばいながら、僕は左腕だけでアニーを大切に抱き抱え、テーブルの上へと向かった。動かなくなった右腕の代わりに左手を使い、目の前で静かに横たわるアニーを、テーブルの上へそっと降ろす。
そして、厳重に保管してあったプラスチックケースの中へ左手を伸ばした。
中に収められているのは——以前手に入れた、怪しく輝く『赤の鉱石』。
緑の鉱石は、枯れ果てた葉を鮮やかに蘇らせた。
なら、生命力を象徴するこの『赤の鉱石』なら……!
確証なんてどこにもない。下手をすればもっと取り返しのつかないことになるかもしれない。だけど——ただ手をこまねいてアニーが冷たくなっていくのを待つより、賭けてみる価値は絶対にある!!
「頼む……!!」
僕はテーブルにアニーの小さな身体を横たえさせると、自分の血まみれの右腕をアニーの身体にそっと重ね合わせた。そして左手で掴んだ赤の鉱石を、僕の腕とアニーの身体、その両方に触れる位置へと力強く押し当てる。その時の右腕越しに伝わってくるアニーの心音は、あまりにも弱く、遅く、今にも途切れてしまいそうだった。
——パンッ!!!!
次の瞬間、弾けるような甲高い音とともに、赤の鉱石が粉々に砕け散った。
視界を燃えるような激しい赤い光が一面を照らし出し、思わず両目を強くつぶる。弾け飛んだ鉱石の小さな破片が肌にチクチクと当たる感触があったが、それらは触れた瞬間に温かな光となって身体の中へ吸い込まれ、消えていくのが分かった。
目をつぶったままでも、すぐに変化が訪れた。
(あ……っ!!)
アニーに触れている右手に、急激に強い体温が戻ってくる。
ドクッ……ドクッ……と、途切れかけていたアニーの呼吸が強く大きくなり、力強い心臓の鼓動が僕の手のひらを力強く押し返してきたのだ。それと同時に、感覚を失っていた僕の右腕からも痛みが引き、熱のような生命力が満ちあふれていく。
ゆっくりと目を開けると——そこには、血の汚れも怪我も綺麗に消え去り、いつものフワフワとした美しい毛並みを取り戻したアニーの姿があった。
アニーが、ゆっくりと大きな瞳を開ける。
「あ……ああ……っ、アニーーーーーッ!!!!」
耐えきれなくなった涙が目頭から溢れ出し、ポロポロと頬を伝ってこぼれ落ちた。僕はアニーの身体を両手で優しく、けれど壊れものを抱くように強く抱きしめた。
「死ぬかと……本当に死ぬかと思った……ッ!! アニーが死んじゃったらって思ったら……僕、もうどうしていいか分からなくって……!!」
子供のように声を上げて泣きじゃくる僕の顔に、アニーがそっと顔を近づけてきた。そして、僕の頬を伝う温かい涙を、小さな舌でペロペロと優しく舐めてくれた。
「……あたしは、そう簡単に死なないわよ」
鼻をすするアニーの声が、胸元で響く。
「……だって、あんた一人じゃ頼りないんだから。あたしがついててあげなきゃ……ダメでしょ」
強がるアニーの大きな瞳からも、一粒のきれいな涙がぽろりとこぼれ落ちていた。




